
今回は岩倉具視について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!何をした人なのか、朝廷と幕府を結ぶ縁組を進めて「裏切り者」とまで呼ばれた人が、なぜ武士の時代を終わらせる側に回ったのか、そして使節団の大使として何を持ち帰ったのかまで、順番に見ていこう。「五百円札のおじさん」「使節団のリーダー」というイメージしかない人にこそ読んでほしいな!
戊辰戦争の全体像はYouTubeでも解説しています◎
この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版社『詳説日本史』準拠
定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
岩倉具視といえば、「昔の五百円札の肖像の人」や「使節団を率いて欧米を回った人」というイメージが強いかもしれません。
しかし実は、幕末の岩倉は、朝廷と幕府を結ぶ縁組を進めたことで尊王攘夷派から「裏切り者」とにらまれ、京都の郊外に身を隠した公家でした。脅迫や暗殺のうわさまであったとされています。
そんな人物が数年後、武士の時代を終わらせたクーデターを仕掛ける側に回ります。この記事では、その「反転」を軸に、岩倉具視が何を考え、どう動いたのかを解説します。
岩倉具視とは?何をした人かを3行で整理
- 公家の家に生まれ、幕末から明治前期に活躍した政治家(1825〜1883年)。幕末に和宮の降嫁を進めて反発を受けたが、のちに王政復古のクーデターを主導した
- 明治政府では右大臣として中枢に入り、使節団の大使として欧米を回った。条約改正は進まなかったが、帰国後は国内の整備を優先する路線を選んだ
- 晩年は天皇が定める形の憲法という方針を示した。のちに五百円札の肖像にもなった
岩倉具視は、幕末から明治時代の前半にかけて活躍した公家出身の政治家です。公家とは、天皇に仕える貴族のこと。武士が政治を動かしていた江戸時代、公家の多くは政治の実権から遠い場所にいました。
その生涯は、大きく3つの段階に分けると見通しがよくなります。①朝廷の中で頭角を現し、和宮降嫁を進めた時期、②京都の郊外に身を隠し、そこから倒幕へ動いた時期、③明治新政府の中枢で国の進む方向を決めた時期、の3つです。
明治時代には、岩倉使節団の大使として欧米を回ったことでも知られます。使節団そのものの目的やメンバーは専用の記事にゆずり、この記事では「岩倉自身が何を考え、どう動いたか」に絞って見ていきます。
📝 この記事の年と日付の書き方:年は西暦で書いています。月日は当時の暦(旧暦)のまま書く場合があり、そのときは「旧暦」と明記します。年齢は数え年です(満年齢より1〜2歳多くなります)。

岩倉具視って、昔の五百円札の人だよね?名前は知ってるけど、結局なにをした人だったっけ?

一言でいうと「公家なのに、武士の時代を終わらせる筋書きを書いた人」だよ!肩書きの強さより、人脈と段取りで政治を動かす、今でいうプロデューサーみたいなタイプなんだ。まずは、そんな公家がどうやって政治の表に出てきたのかから見ていこう!
公家の家に生まれて〜孝明天皇に仕えた青年期
堀河家に生まれ、岩倉家の養子に
岩倉具視は1825年、京都で公家の堀河康親の子として生まれました。1838年には、同じ公家の岩倉具慶の養子となり、岩倉家を継ぐことになります。
岩倉家は、公家の中では家柄が高いほうではなかったとされます。家柄がものをいう朝廷の世界で、若い岩倉は出世が約束された立場ではありませんでした。
孝明天皇の侍従として朝廷に出入りする
転機は、朝廷の実力者だった関白・鷹司政通のもとで和歌を学ぶ門人になったことだとされます。この縁で朝廷の中枢に近づき、1854年には孝明天皇の侍従に任じられました。
侍従とは、天皇のそばに仕えて、身の回りの用事や取り次ぎをする役目です。天皇に直接ものを言える距離にいたことが、のちの岩倉にとって大きな意味を持つことになります。

侍従は、今でいうと「天皇のそばにつく側近の秘書」みたいな役目だよ。当時は実際の政治を幕府が動かしていたから、公家にとっては天皇の近くにいられること自体が、発言力の大事な源だったんだ。
1858年、条約勅許問題で政治の表へ
1858年、幕府はアメリカとの日米修好通商条約を結ぶため、天皇の許可を求めてきました。この許可を勅許といいます。
孝明天皇は外国との交際を嫌ったことで知られ、朝廷では条約に反対する声が強まりました。このとき、反対派の公家88人が連れ立って朝廷に押しかけ、条約を認めないよう訴える出来事が起きます。これを廷臣八十八卿列参事件といい、岩倉はこの動きの中心人物の一人だったとされています。
結局、勅許は得られないまま、幕府は条約に調印しました。それでも、まだ一人の侍従にすぎなかった岩倉が朝廷を動かす側に立ったことで、その名は朝廷の内外で知られるようになったとされます。
では、朝廷の側に立った岩倉が、なぜ次に「幕府との縁組」を進めることになったのでしょうか。
和宮降嫁の旗振り役〜尊王攘夷派に「裏切り者」と呼ばれる
なぜ朝廷と幕府を結ぼうとしたのか
1860年、条約調印を進めた幕府の大老が江戸城の門の前で暗殺される桜田門外の変が起きます。この事件で、幕府の権威は大きく揺らぎました。
そこで幕府が打ち出したのが、朝廷と手を結んで権威を立て直す公武合体の政策です。その目玉が、孝明天皇の妹・和宮を14代将軍徳川家茂に嫁がせる縁組でした。皇族の女性が皇族以外に嫁ぐことを「降嫁」といい、この縁組は「和宮降嫁」と呼ばれます。
朝廷の中には反対の声もありましたが、岩倉は孝明天皇に意見書を出し、降嫁に賛成する立場をとったとされます。ただし、そこには条件がありました。
幕府に「外国との条約を取り消し、外国勢力を追い払う」と約束させ、その見返りとして降嫁を認める――。岩倉のねらいは、幕府を助けることそのものより、縁組を通じて朝廷の発言力を取り戻すことにあったと考えられています。

朝廷と幕府が手を結べば、国が二つに割れずに済む。そのうえで、政治の主導権を少しずつ朝廷の側へ引き寄せていけばよい。
1861年、和宮が江戸へ向かうと、岩倉もこれに付き従い、老中を問いただすよう孝明天皇から命じられた使いとして江戸へ下りました。このとき岩倉は、幕府に「天皇を退位させるつもりはない」という内容を将軍自筆の文書で約束させたとされています。
「四奸二嬪」と名指しされる
ところが、時代の風向きはすぐに変わります。1862年の初め、和宮降嫁を進めた老中の安藤信正が、水戸の浪士らに襲われる坂下門外の変が起きました。
同じ年、薩摩藩の島津久光が兵を率いて京都に入ります。これをきっかけに京都には各地から尊王攘夷派の志士が集まり、朝廷の空気も外国を打ち払う方向へ傾いていきました。
その中で、和宮降嫁を進めた公家と女官たちが「幕府にこびた裏切り者」として名指しで非難されます。これが「四奸二嬪」です。岩倉はその「四奸」の一人とされ、「二嬪」には岩倉の妹で孝明天皇に仕えていた堀河紀子も含まれていました。
尊攘派からの圧力は激しく、岩倉には脅迫や暗殺のうわさもあったとされています。1862年、岩倉は辞官(官職を辞めること)に追い込まれ、さらに出家して、京都の中心部を離れることになりました。
「奸」は悪だくみをする家臣、「嬪」は天皇に仕える女官のことです。つまり「四奸二嬪」とは、「幕府にこびて朝廷を裏切った4人の公家と2人の女官」という意味の非難の呼び名でした。
岩倉のほかに、公家の久我建通・千種有文・富小路敬直、女官の今城重子・堀河紀子が名指しされたとされています。
正式な処分の名前ではなく、尊攘派が掲げた攻撃のスローガンだった点に注意が必要です。それでも、名指しされた人々は朝廷にいられなくなるほど追い詰められていきました。

和宮って、ドラマでもよく描かれる政略結婚のお姫さまだよね。本人はこの結婚をどう思っていたの?岩倉とは直接かかわりがあったのかな?

和宮には、もともと有栖川宮熾仁親王という婚約者がいて、江戸へ行くのをとても嫌がったと伝えられているよ。岩倉はその縁組を進める側で、江戸への旅にも付き従ったんだ。岩倉にとっては「国を割らないため」の縁組だったけれど、尊攘派から見れば「天皇の妹を幕府に差し出した張本人」。だから一気に憎まれ役になってしまったんだね。
では、京都の中心部を追われた岩倉は、その後どうなったのでしょうか。
岩倉村の幽居〜公家が倒幕の側に回るまで
蟄居という処分
京都の中心部を追われた岩倉は、洛外(京都の町の外)を転々としたのち、京都の北の郊外にある岩倉村に落ち着きました。朝廷からはすでに蟄居を命じられており、政治の場から締め出された状態でした。
蟄居とは、自宅などに閉じこもって謹慎し、外出や人との行き来を制限される処分のことです。京都の中心部を追われた1862年から、京都に戻ることを許される1867年まで、およそ5年間、岩倉は表舞台から姿を消すことになりました。
現在も京都市左京区には、この時期の住まいとして知られる「岩倉具視幽棲旧宅」が残されています。

蟄居は、今でいうと「自宅謹慎」に近いかな。ただ、京都の中心から離れていても、岩倉のもとには情報を届けたり、訪ねてきたりする人がいたようなんだ。
なぜ「佐幕」から「倒幕」へ変わったのか
岩倉が身を隠している間に、京都の政治は大きく揺れ動きました。1863年の八月十八日の政変で尊攘派の長州藩が京都から追い出され、翌1864年には長州藩が京都に攻め上った禁門の変が起きます。
その後、幕府による長州藩の討伐は思うように進まず、薩摩藩と長州藩は1866年に薩長同盟を結び、幕府に対抗する姿勢を強めていきます。幕府の力が弱まっていることは、だれの目にも明らかになっていきました。
そうした中で、岩倉のもとには薩摩藩の大久保利通らが出入りし、連絡を取り合うようになったとされます。岩倉は、朝廷を中心とした新しい政治のあり方を説く意見書を書き、同志の公家たちに示したとも伝えられています。
ここで思い出したいのは、岩倉がもともと「幕府の味方」だったわけではない点です。和宮降嫁を進めたときも、ねらいは朝廷の発言力を取り戻すことでした。幕府と組むことがその近道ではなくなった今、岩倉は幕府を倒して朝廷中心の政治をつくる道へと、手段を切り替えたと考えられます。
📝 孝明天皇の急死をめぐるうわさ:1866年12月(旧暦)、公武合体を望んでいた孝明天皇が急死しました。この死には岩倉らが関わったとする毒殺説が昔から語られてきましたが、確かな証拠はなく、天然痘による病死とする見方が有力です。
孝明天皇のあとを明治天皇が継ぎ、1867年に入ると、岩倉への処分は少しずつゆるめられていきます。
1867年10月(旧暦)には、薩摩藩と長州藩に幕府を討つよう命じる「討幕の密勅」が出されました。岩倉がこの密勅の作成に関わったとする説明が多い一方で、天皇の正式な手続きを経た文書かどうかには疑問も出されており、評価が分かれています。
そして同じ年の旧暦11月、岩倉はついに京都へ戻ることを許されます。表舞台に帰ってきた岩倉が仕掛けたのが、武士の時代を終わらせるクーデターでした。
王政復古のクーデター〜小御所会議の夜に何が起きたか
大政奉還から王政復古へ
1867年10月(旧暦)、15代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に返す大政奉還を行いました。討幕の口実を先回りして消してしまう、慶喜の思い切った一手です。
しかし、朝廷には政治を動かす仕組みも人材もまだありません。このままでは新しい政治でも慶喜が中心に座り、実権が徳川家に残る可能性がありました。
そこで岩倉は、大久保利通や西郷隆盛ら薩摩藩の指導者と手を組み、徳川家を新しい政府から外すための計画を練ります。
1867年12月9日(旧暦。西暦では年が明けた1868年1月3日)、薩摩藩などの兵が御所の門を固める中で、王政復古の大号令が出されました。幕府や摂政・関白を廃止し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を置く新しい政府の発足を宣言したのです。
小御所会議の夜
その日の夜、御所の中の小御所という建物で、新政府の最初の会議が開かれました。これが小御所会議です。議題は、徳川慶喜の扱いでした。
岩倉や薩摩藩は、慶喜に辞官納地を求めるべきだと主張します。これに対して、土佐藩の山内容堂や越前藩の松平春嶽は、政権を返した慶喜をこの場に呼ばないのは不公平だと強く反発しました。
議論はもつれ、会議は一時休憩に入ります。このとき西郷隆盛が「短刀一本あれば片がつく」と語り、それを伝え聞いた岩倉が、いざとなれば非常手段も辞さない覚悟で議論を押し切ったという話が広く知られています。ただし、西郷はこの会議の場にいなかったとする証言もあり、この逸話をどこまで事実とみるかには慎重な見方もあります。休憩のあと容堂らは妥協に転じ、最終的に、慶喜に辞官納地を求めることが決まりました。
辞官納地とは、慶喜に内大臣の官職を辞めさせ(辞官)、徳川家の領地を朝廷に差し出させる(納地)という要求のことです。
将軍をやめたあとも、慶喜は内大臣という高い官職と、全国でもっとも広い領地を持っていました。その両方を取り上げることで、徳川家が新しい政府で力を持てないようにするのがねらいでした。
ただし、その後の調整で納地の中身は弱められたとされます。こうした駆け引きの末に、新政府と旧幕府側の対立は武力衝突へと向かっていきました。

王政復古の大号令と小御所会議って、どっちが先なの?同じ日だった気もするし、ごちゃごちゃになる…

どっちも1867年12月9日(旧暦)、同じ日の出来事だよ!先に大号令で「新しい政府をつくる」と宣言して、その夜の小御所会議で「じゃあ慶喜をどうする?」を決めた、という順番で覚えるとスッキリするよ。

ここで押し切らなければ、政治の主導権は再び徳川家に戻ってしまう。都を追われて耐えた日々を、無駄にするわけにはいかぬ。
戦いの始まり
辞官納地の決定に旧幕府側の不満は高まり、慶喜は京都を離れて大坂城に移ります。そして1868年1月(旧暦)、京都の南の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍が衝突しました。これが鳥羽・伏見の戦いです。
この戦いを皮切りに、新政府と旧幕府勢力の内戦である戊辰戦争が始まります。岩倉が書いた筋書きは、ついに武力による決着へと進んでいきました。
勝利を重ねる新政府の中で、岩倉は国の仕組みそのものを組み替える、次の改革へと踏み出していきます。
新政府の中枢へ〜戊辰戦争から廃藩置県、右大臣へ
新政府のかじ取り役
新しい政府で、岩倉は副総裁などの要職を務めました。同じく公家出身の三条実美と並び、公家を代表して政府の頂点に立ったのです。
とはいえ、実際に軍を動かし、政策を練ったのは薩摩・長州などの藩出身の武士たちでした。岩倉の役割は、大久保利通や長州藩の木戸孝允らと朝廷の間に立ち、武士たちの改革に天皇の権威という裏づけを与えることだったと言えます。
戊辰戦争では、1868年に江戸城無血開城が実現し、翌1869年には箱館戦争で抵抗を続けていた旧幕府軍も降伏します。こうして新政府による国内の統一が進んでいきました。
廃藩置県と右大臣就任
1869年の版籍奉還で、大名は領地と領民を天皇に返しました。しかし実際には、もとの大名がそのまま知藩事として地元を治めていました。
そこで1871年、新政府は藩をすべて廃止し、全国に府と県を置く廃藩置県を断行します。計画は薩摩・長州出身の指導者たちを中心にひそかに進められ、岩倉は政府の首脳としてこれを受け入れ、新しい体制づくりを支えたとされます。
同じ1871年、岩倉は右大臣に任じられます。右大臣は、太政大臣・左大臣と並ぶ政府の最高職の一つで、岩倉は名実ともに新政府の最高幹部の一人となりました。

廃藩置県は、ざっくり言うと「全国にたくさんあった藩という会社を全部たたんで、国の支店に組み替える」くらいの大改革だよ。藩を失う側の反発も心配されたけれど、大きな反乱は起きずに実現したんだ。
国内の仕組みを大きく組み替えたその年、岩倉は自ら海を渡る決断をします。
大使として欧米へ〜条約改正は失敗、でも持ち帰ったもの
右大臣が大使になった理由
1871年11月(旧暦)、岩倉は特命全権大使として、欧米へ向けて横浜を出発しました。特命全権大使とは、国を代表して外国と交渉する全権を与えられた使節のことです。
副使には木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らが選ばれました。政府の中心人物が、そろって長いあいだ日本を離れるという異例の顔ぶれです。
目的は大きく分けて、条約を結んでいる国々へのあいさつ、江戸時代に結んだ不平等な条約を改正するための下交渉、そして欧米の制度や産業の視察でした。使節団の行程やメンバーのくわしい話は、岩倉使節団の記事で紹介しています。
なぜ右大臣という最高幹部が、自ら海を渡ったのでしょうか。新しい国づくりの手本を自分の目で確かめたいという思いに加え、天皇の信任が厚い岩倉が大使になれば、日本の本気度を相手国に示せるという計算もあったと考えられます。
条約改正は進まず、それでも得たもの
最初に訪れたアメリカで、使節団は条約改正の交渉に入ろうとしました。しかし、交渉に必要な全権委任状を持っていなかったなど準備が十分でなかったこともあって話はまとまらず、改正交渉は早い段階であきらめることになります。
その一方で、使節団は1871年の暮れに出発してから1873年に帰国するまで、2年近くにわたって欧米の国々を回り、工場や議会、学校、軍隊などを見て歩きました。
進んだ工業や制度を目の当たりにした岩倉たちは、「今の日本は、まず国内の力を育てることが先だ」と痛感したとされます。この実感が、帰国後の殖産興業などの国づくりや、岩倉自身の判断に大きく影響していきます。
岩倉個人についても、印象的な話が残っています。使節団の記念写真では、洋服姿のメンバーの中で岩倉だけが和服に髷の姿です。その岩倉も、アメリカ滞在中に、留学していた息子に説得されて髷を切ったと伝えられています。

使節団を「成功か失敗か」の二択で見ると、もったいないんだ。条約改正という目的は果たせなかったけれど、「欧米を見て、日本が何から手をつけるべきかを決めた」という意味では大きな収穫があった。目的ごとに分けて見るのがコツだよ!
1873年9月、使節団は日本に帰国しました。岩倉を待っていたのは、留守を預かっていた政府の中で持ち上がっていた、朝鮮への使節派遣をめぐる論争でした。次の章では、岩倉がこの論争にどう向き合ったのかを見ていきます。
征韓論に反対した理由〜明治六年の政変で選んだ内治優先
留守政府との約束と食い違い
使節団が日本を離れている間、国内の政治は三条実美や西郷隆盛らが預かっていました。これを「留守政府」と呼びます。出発の前には、「使節団が帰るまで、大きな改革はなるべく行わない」という約束が交わされていたとされます。
ところが留守政府は、その間にも新しい政策を次々と進め、さらに朝鮮との関係をめぐって大きな決断に踏み込もうとしていました。当時、朝鮮は明治政府の国書を受け取らず、両国の関係はこじれていたのです。
そこで西郷隆盛が、自ら使節として朝鮮へ渡ると申し出ます。武力を背景にしてでも朝鮮に国交を迫るべきだとするこの主張を征韓論といいます。もっとも、西郷本人のねらいが戦争だったのか話し合いだったのかについては、見方が分かれています。
留守政府は西郷の派遣をいったん内定しましたが、正式な決定は岩倉の帰国を待ってからとされました。そして1873年9月に帰国した岩倉は、この方針にはっきりと反対します。大久保利通や木戸孝允も、同じ立場に立ちました。

欧米の国々の力を、この目で見てきた。今の日本に、外国と争っている余裕などない。まずは国の足元を固めることが先だ。
政変を収めた手腕
1873年10月、政府の最高会議では議論の末、西郷の派遣がいったん決まります。賛成派と反対派の板挟みになった太政大臣の三条実美は、心労から倒れてしまいました。
ここで三条に代わって太政大臣の代理を務めたのが岩倉です。岩倉は会議の決定とあわせて、派遣に反対する自分の意見を明治天皇に伝えました。天皇は岩倉の意見を採り、西郷の派遣は取りやめとなります。
敗れた西郷や板垣退助ら、派遣に賛成した参議(政府の中心となる役職)は、そろって政府を去りました。これが明治六年の政変です。「外より、まず内を整える」という岩倉らの考え方は内治優先と呼ばれ、ここから大久保利通を中心とする政府が国内の整備を進めていきます。
ただし、この決着は大きな恨みも残しました。1874年1月、岩倉は東京・赤坂の喰違というところで、征韓派に共感する高知県の士族らに襲われ、けがを負います。これを喰違の変といいます。命は助かったものの、岩倉の決断がどれほど激しい反発を招いたかがわかる事件です。

えっ、王政復古の人と、使節団の大使と、征韓論に反対した人って、全部同じ岩倉なの?頭がこんがらがってきた…

そう、全部同じ岩倉だよ!1867年に王政復古で新しい政府をつくり、1871〜1873年の使節団で欧米を見て、帰国した1873年に「まずは国内を固める」と征韓論を退けた。こう並べると、一本の線でつながるよね。
では、国内を固める道を選んだ岩倉は、最後にどんな国の形を描いたのでしょうか。
憲法の方針と晩年〜欽定憲法路線と死去
立憲政体への消極姿勢
明治六年の政変で政府を去った板垣退助らは、選挙で選ばれた議員による議会を開くよう求め始めます。この動きは全国に広がり、自由民権運動と呼ばれるようになりました。
岩倉は、国民の代表が政治に加わる仕組みを急いでつくることには慎重だったとされます。議会を早く開きすぎれば、天皇を中心とする政府の力が弱まると考えていたとみられます。
1881年、政府の中で大隈重信が、早く国会を開いてイギリスのような政党中心の政治を目指すべきだという意見を出します。これに危機感を抱いた岩倉は、官僚の井上毅に憲法の基本方針をまとめさせました。これが「大綱領」です。
大綱領は、天皇が定めて国民に与える欽定憲法とすること、天皇に強い権限を残すことなどを柱とし、ドイツのプロイセンの憲法を手本にする考え方だったとされます。同じ年の明治十四年の政変で大隈が政府を去ると、政府は1890年に国会を開くことを約束しました。

欽定憲法は、ざっくり言うと「天皇が決めて、国民に与える憲法」のことだよ。反対に、国民の代表が話し合って決める憲法は「民定憲法」と呼ぶんだ。今の日本国憲法は、こちらの民定憲法にあたるよ。
岩倉は憲法の完成を見ることなく、1883年に亡くなります。それから6年後の1889年、大日本帝国憲法が欽定憲法として発布されました。岩倉が示した方向は、伊藤博文らに受け継がれていったのです。
晩年と死去
1883年、岩倉はのどのがんを患い、病の床につきました(病名は咽頭がん・喉頭がんなど、資料によって表記が分かれます)。明治天皇の命で岩倉を診察したドイツ人医師のベルツは、岩倉を「全身ただこれ鉄の意志」と評したと伝えられています。
1883年7月20日、岩倉は59歳で亡くなりました。死後には太政大臣の官職が贈られ、葬儀は国葬として営まれています。これは日本で最初の国葬とされています。
📝 享年の表記について:岩倉は1825年生まれ、1883年7月20日没です。数え年では59歳ですが、誕生日(西暦では10月26日)を迎える前に亡くなったため、満年齢では57歳となります。そのため、資料によって享年の表記が異なります。
では、こうした生涯を送った岩倉は、後の時代にどう評価されてきたのでしょうか。
岩倉具視の人物像と評価〜五百円札になった理由
策略家と呼ばれた理由
和宮降嫁、王政復古のクーデター、そして明治六年の政変。岩倉は歴史の分かれ目となる場面で、いつも筋書きを書く側にいました。
こうした姿から、岩倉は策略家と見られることがあります。百科事典の中にも、幕末以来クーデターや政変を推し進めた「権謀術数の政治家」と評するものがあります。
一方で、高い評価も残っています。幕臣の勝海舟は、岩倉を度量が大きく、公家の中では珍しい人物だと評したと伝えられます。
岩倉の強みは、公家という身分がもつ天皇への近さと、薩摩・長州の武士たちとの人脈を結びつけたことにありました。武士だけでも公家だけでも動かせなかった政治を、両者の間に立つことで動かしたのです。
五百円札の肖像になった理由
岩倉の肖像は、1951年に発行が始まった五百円札に使われ、1969年に発行が始まった新しい五百円札にも引き継がれました。このお札は1994年に発行が止まりましたが、今でもお金として使うことができます。
お札の肖像の人物は、財務省・日本銀行・国立印刷局が話し合い、最終的に財務大臣が決めます。財務省は近年の改刷について、偽造を防ぐためになるべく精密な写真が手に入ること、国民に広く知られ業績が認められていることなどの観点から、明治以降の人物を選んでいると説明しています。
岩倉の場合も、明治国家の土台づくりにかかわった功績が広く知られていたことが背景にあったと考えられます。

五百円札になるくらいだから、やっぱりすごい人だったんだね。そういえば、子孫に有名な芸能人がいるって聞いたことがあるけど、本当?

本当だよ。歌手で俳優の加山雄三さんは、お母さんで女優の小桜葉子さんが岩倉具視のひ孫にあたるから、岩倉から見ると玄孫(孫の孫)になるんだ。「策略家」とも「豪傑」とも言われる岩倉だけど、公家の身で武士の時代を終わらせ、近代国家の進む方向まで決めたという点で、幕末・明治を語るうえで欠かせない人なんだよ。
ここまでの流れを、試験用に整理しておきましょう。
岩倉具視のテストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「1867年 王政復古 → 1871〜1873年 使節団 → 1873年 明治六年の政変 → 1881年 大綱領」を年代順のセットで覚えましょう。混同注意:王政復古を主導した人物と使節団の大使は、どちらも岩倉具視です。征韓論に賛成したのが西郷・板垣ら、反対したのが岩倉・大久保ら、という対立の組み合わせも押さえておきましょう。

ポイントが多いな…。結局、テストで一番大事なのはどこ?

一番大事なのは、「王政復古」「使節団の大使」「征韓論への反対」の3つを、同じ岩倉具視の行動として結びつけることだよ!特に、使節団のメンバーと、征韓論の賛成派・反対派の顔ぶれは選択肢で混ざりやすいから、ここは確実に押さえておこう。
岩倉具視についてもっと詳しく知りたい人へ

岩倉具視をもっと深く知りたい人に、読みやすさの違う3冊を紹介するよ!最初の1冊に迷ったら、人物像をぐいっとつかめる①からどうぞ。
永井路子さんの『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら』は、下級公家に生まれた岩倉が、何度も失脚しながら権力の中枢へ上りつめていく過程を描いた評伝です。「尊王攘夷」「佐幕」といった既成の言葉の意味を問い直しながら岩倉像を組み立てており、第50回毎日芸術賞を受賞した作品として知られています。文庫版は271ページです。
和宮降嫁から蟄居、王政復古へと続く「反転」の物語を、読み物として味わいたい人。この記事で人物の流れをつかんだあと、岩倉の人間くささをもっと知りたい人。
年号や用語を表で整理して暗記したい人。評伝としての読み応えが中心なので、テスト対策の一問一答には向きません。
佐々木克さんの『岩倉具視』は、下級公家の出身から王政復古の実現、そして立憲政体をめざす途上で亡くなるまでを追った一冊です。「策謀政治家」という従来のイメージを見直し、新しい人物像を示すことをねらっています。2025年に吉川弘文館の「読みなおす日本史」の1冊として復刊されました(216ページ)。
岩倉の評価が「策士」の一言では片づかない理由を、研究者の視点で確かめたい人。大学入試の論述や小論文で、人物評価を自分の言葉で書けるようになりたい人。
短時間で全体像だけをつかみたい人。一冊まるごと読む前提の評伝なので、まずはこの記事や教科書で流れを押さえてからがおすすめです。
田中彰さんの『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか』は、使節団の公式報告書『米欧回覧実記』を読み解き、近代日本が西洋から何を取り入れ、何を退けたのかを論じた岩波新書です(213ページ)。岩倉具視その人の評伝ではなく、大使として率いた使節団の中身を知るための本です。
使節団が欧米で何を見て、帰国後の政策にどうつながったのかを知りたい人。使節団の分野を、教科書より一歩深く理解したい人。
岩倉具視の生涯を一冊で通して知りたい人。使節団が中心のため、幕末の蟄居や王政復古は主題ではありません。そちらは①か②が向いています。
よくある質問(FAQ)
幕末から明治時代前期に活躍した、公家出身の政治家です。幕末に和宮降嫁を進めたのち、1867年に王政復古のクーデターを主導しました。明治政府では右大臣として使節団の大使を務め、帰国後は征韓論に反対して国内の整備を優先し、晩年には欽定憲法の方針を示しました。
朝廷と幕府が手を結べば、国が二つに割れずに済むと考えたためとされます。ただし岩倉のねらいは幕府を助けることそのものより、幕府に条約の取り消しと外国勢力の打ち払いを約束させ、縁組を通じて朝廷の発言力を取り戻すことにあったと考えられています。
京都の郊外で身を隠している間に幕府の力が弱まり、幕府と組むことが朝廷の発言力を取り戻す近道ではなくなったためと考えられます。岩倉は大久保利通ら薩摩藩の指導者と連絡を取り合い、朝廷中心の新しい政治を目指す道へと手段を切り替えました。なお、1867年の討幕の密勅に岩倉がどこまで関わったかについては、評価が分かれています。
条約を結んでいる国々へのあいさつ、不平等条約の改正に向けた下交渉、欧米の制度や産業の視察の3つです。条約改正の交渉は実を結びませんでしたが、視察で得た見聞は帰国後の国づくりに生かされました。
2年近く欧米を見て回り、日本の国力が欧米に大きく後れていると実感したためとされます。外国と争う前に、まず国内の産業や制度を整えるべきだという内治優先の考えから、西郷隆盛の朝鮮派遣に反対しました。
財務省は近年の改刷について、偽造を防ぐためになるべく精密な写真が手に入ること、国民に広く知られ業績が認められていることなどの観点から、明治以降の人物を選んでいると説明しています。岩倉の肖像は1951年に発行が始まった五百円札に採用され、1969年に発行が始まった五百円札にも引き継がれました。
岩倉は1883年7月20日、のどのがんのため59歳(数え年)で亡くなり、国葬で送られました。病名は咽頭がん・喉頭がんなど、資料によって表記が分かれます。子孫には歌手・俳優の加山雄三さんがいて、岩倉の玄孫(孫の孫)にあたるとされます。
まとめ
岩倉具視は、公家の出身でありながら、和宮降嫁で「裏切り者」と呼ばれ、京都の郊外に身を隠す日々を経て、王政復古のクーデターで武士の時代を終わらせた人物です。
明治に入ってからは使節団の大使として欧米を見て回り、帰国後は内治優先の道を選び、晩年には欽定憲法という国の形の方向まで示しました。五百円札の穏やかな肖像の裏には、何度も政治の筋書きを書き換えた、したたかな政治家の顔があったのです。
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1825年京都で公家の堀河康親の子として生まれる
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1838年岩倉具慶の養子となり、岩倉家を継ぐ
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1854年孝明天皇の侍従となる
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1858年条約の勅許をめぐる廷臣八十八卿列参事件で中心人物の一人となる
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1861年和宮降嫁を進め、和宮の江戸行きに従う
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1862年四奸二嬪の一人として非難され、辞官・出家して京都の中心部を離れる
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1867年京都に戻ることを許され、王政復古の大号令・小御所会議を主導(旧暦12月9日)
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1871年右大臣となり、特命全権大使として欧米へ出発(旧暦11月)
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1873年9月に帰国し、征韓論に反対。明治六年の政変で西郷隆盛らが政府を去る
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1874年東京・赤坂で襲撃を受けて負傷する(喰違の変)
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1881年井上毅に大綱領をまとめさせ、欽定憲法の方針を示す
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1883年7月20日、59歳(数え年)で死去。国葬が営まれる

以上、岩倉具視のまとめでした。下の記事で、岩倉使節団や小御所会議、征韓論、そして同志の大久保利通についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:Historist(山川 日本史小辞典)、コトバンク、日本銀行・財務省の公式資料
コトバンク「岩倉具視」(日本大百科全書・日本人名大辞典+Plus・世界大百科事典ほか)(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「岩倉具視」(2026年10月確認)
Historist(山川出版社)「岩倉具視」「岩倉遣外使節」「小御所会議」「赤坂喰違の変」(山川 日本史小辞典 改訂新版)(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「小御所会議」「明治六年政変」「喰違の変」「五百円紙幣」「小桜葉子」「堀河紀子」(2026年10月確認)
日本銀行「五百円券」(その他有効な銀行券)(2026年10月確認)
財務省「紙幣に描かれている肖像画には基準があるのですか」(よくあるご質問)(2026年10月確認)
家近良樹「小御所会議の途中で突然口を閉ざした容堂――何が彼を沈黙させたか?」(講談社 現代新書/現代ビジネス)(2026年10月確認)
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