今回は、1914年に起きた第一次世界大戦について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
第一次世界大戦とは
第一次世界大戦とは1914年、オーストリアVSセルビアの争いをきっかけに始まった戦争のことを言います。
当初は2国間(オーストリアVSセルビア)の争いだったものが、ヨーロッパ→アフリカ・東アジアへと拡大し、4年にわたる世界大戦へと発展していきました。
第一次世界大戦が起きた時代背景
第一次世界大戦が起きた背景には、1900年代に入って激しさを増していたバルカン半島をめぐるロシアとドイツの対立がありました。
バルカン半島っていうのは、ヨーロッパの東側のギリシャやルーマニアがある地域のことです。
ドイツの事情
当時のドイツは、東に支配地域を拡大するため、ベルリンービザンティウムーバクダットを鉄道で結ぶ政策(3B政策)を目論んでいる真っ最中でした。
ベルリンービザンティウム間に鉄道を敷くには、バルカン半島を縦断しなければならず、バルカン半島をドイツの支配下に置く必要がありました。
ロシアの事情
ロシアは冬でも凍らない港(不凍港)を求めて、南方への領土拡大を目論んでいました。(南下政策)
ロシアが狙っていた場所は2つ。
黒海や地中海に面したバルカン半島
日本海に面した朝鮮や中国北部
でした。
1900年代当初、ロシアは日本海側へ進出を狙いましたが、これに反発した日本と日露戦争(1904年)が勃発。
そして日露戦争に敗北したロシアは、方針を転換してバルカン半島を狙うようになって、同じくバルカン半島を狙うドイツと対立するようになりました。
三国協商と三国同盟
さらにロシアVSドイツの対立は、単なる2国間の対立にとどまらず、
ドイツを中心に結成されたドイツ・オーストリア・イタリアによる三国同盟
VS
ドイツに対抗するため協力関係を結んだイギリス・フランス・ロシアによる三国協商
の対立へと発展していきました。
第一次世界大戦が起きたきっかけ【サライェヴォ事件】
三国同盟と三国協商の対立がすぐ戦争に発展することはありませんでした。
しかし、1914年6月、オーストリアの皇太子が暗殺される大事件(サライェヴォ事件)が起きたことで事態が急変します。
皇太子を殺した犯人は、セルビア出身の青年。オーストリアが1908年にボスニア=ヘルツェゴビナを併合したことへの不満から犯行に及んだのです。
第一次世界大戦、開戦
1914年7月28日、サライェヴォ事件をきっかけに、オーストリアがセルビアへ宣戦布告します。
その後、ロシアがセルビアへの支援を決定すると、8月1日、ドイツはオーストリアを助けるためロシアへ宣戦布告。
ロシア人はセルビア人と同じスラブ系民族だったのもあり、当時、両国は親密な関係にありました。
さらに8月3日、ドイツはロシアと三国協商を結んでいたフランスに対しても宣戦布告。
8月4日、ドイツがフランスに攻め込むために、中立を保っていたベルギーへ侵攻すると、次はイギリスがドイツに宣戦布告。
こうして、オーストリアVSセルビアの争いが、三国同盟VS三国協商の争いへと発展し、第一次世界大戦が始まりました。
この記事では、
三国同盟に味方した国々のことを「同盟国」
三国協商に味方した国々のことを「連合国」
と呼んでいくね!
マルヌの戦い・タンネンベルクの戦い
第一次世界大戦で特に激戦地になったのは、
ドイツ&オーストリアの西部(フランスとの国境付近)【西部戦線】
ドイツ&オーストリアの東部(ロシアとの国境付近)【東部戦線】
の2方面でした。
西部戦線
ドイツは、中立国のベルギーに攻め込んだ後、そのままフランスへの侵攻を開始。
しかし、マルヌ川付近でフランスの激しい抵抗を受けてドイツの侵攻は止まり(マルヌの戦い)、西部戦線は一進一退の膠着状態に陥ります。
東部戦線
一方の東部戦線は、ドイツが侵攻してくるロシアを迎え撃つ形となり、ドイツはタンネンベルクでロシア軍を撃破。(タンネンベルクの戦い)
ドイツは反撃に転じてロシアに攻め込みますが、ロシアの広大な領土や厳しい気候に阻まれて、東部戦線もまた、膠着状態となりました。
バルカン半島の戦況
バルカン半島は、同盟国有利の展開が続きます。
1914年にはオスマン帝国、1915年にはブルガリアが同盟国側として参戦し、セルビアやモンテネグロなどの連合国を苦しめました。
・・・しかし、西部・東部戦線と同じように連合国を降伏に追い込むまでには至らず、やはり戦いはこう着状態となりました。
日本、第一次世界大戦に参戦
第一次世界大戦には、日本も参戦しました。
日本は、イギリスと日英同盟を結んでいたため、イギリスの属する連合国としてドイツに宣戦布告したのです。
1914年、日本は、ドイツが中国から租借して支配下に置いていた青島を制圧。
さらに、ドイツの植民地だった南洋諸島(サイパン・パラオ周辺)も制圧し、東アジア・太平洋からドイツ勢力を一掃しました。
塹壕戦
第一次世界大戦は、近代化された最新兵器が大量投入された戦いとなり、戦場の様子もそれまでの戦争とは全く異なるものでした。
というのも、高速射撃が可能なマシンガン(機関銃)や、遠距離への正確な狙撃が可能なスナイパーライフル(狙撃銃)が大量投入され、敵陣地に近づくことが極めて困難になったからです。
敵の射程圏内に安易に踏み込めばマシンガンとスナイパーライフルの餌食となり、あっという間に味方部隊は全滅してしまいます。
そこで第一次世界大戦では、地面に穴を掘ってその穴に隠れながら敵を攻撃する塹壕戦が繰り広げられることとなりました。
敵と味方の塹壕の間には大量の銃弾が飛び交い、塹壕から飛び出ることはそのまま死を意味しました。
そのため塹壕は、安全に兵士たちが移動する地下通路としての役割も求められ、長距離にわたって塹壕が掘られることになりました。
さらに、単なる銃撃戦では塹壕にこもる敵を攻撃できなかったので、塹壕内の敵兵を倒すため戦車や毒ガスなどの新兵器も導入されました。
総力戦
互いに塹壕にこもっての銃撃戦は、すぐに勝敗が決することはなく、持久戦となりました。
多くの戦線でこう着状態が続いたのも、塹壕戦によって戦いが長期化したためでした
そのため戦争を継続するには、「大量の弾薬や戦車・毒ガスなどの最新兵器を次々と生産して、戦場に送り続けること」が求められるようになり、参戦した国々では総力を挙げる必要がでてきます。
働き盛りの男性が兵士として戦場に駆り出されると、軍需工場では人手が不足し、若者や女性たちが動員されるようになりました。
さらに、食料も戦場に優先的に届けるため配給制が導入されるなど、第一次世界大戦は、直接戦場に立っていない人々にも重い負担を強いることとなりました。
秘密条約
戦いの裏では、味方を増やそうとする同盟国VS連合国の激しい外交戦も繰り広げられました。
この外交戦で特に用いられたのは秘密条約・協定でした。
あのさ、俺に味方してくれねーかな?
もし味方になってくれたら、勝った後、君が欲しがっていた◯◯地域をゲットできるよう配慮してあげるよ!
ちなみに、この話は◯◯地域の人たちに知れたら大変なことになるから、俺とお前だけのトップシークレットな!
って感じで、秘密裏の協定や条約が多く交わされたのです。
ここでは教科書に載っている重要な秘密条約を取り上げておきます。
ロンドン秘密条約
イタリアが連合軍と結んだ秘密条約。
同盟国だったイタリアは、もともとオーストリアとの間で領土問題(未回収のイタリア問題)を抱えていました。
そこで連合国は、この領土問題を利用してイタリアを同盟国から離反させようと、秘密条約を結んだのです。
イタリアさんよ、お前は同盟国側だけど、本当はオーストリアと領土問題で揉めてるんだろ?
俺ら(連合軍)に協力してオーストリアを倒したら、イタリアの好きなように領土問題を解決していいから、仲間にならないか?
了解した。その条件なら良いだろう。
俺は同盟国を抜けて連合国に加勢する!
「サイクス・ピコ協定」と「フセイン・マクマホン協定」
もう1つ有名なのはオスマン帝国の領地をめぐる秘密協定です。
オスマン帝国の領地をめぐっては、2つの秘密協定が交わされました。
サイクス・ピコ協定
連合国が勝利した後、オスマン帝国の領地をイギリス・フランス・ロシアで3分割することを取り決めた協定
フセイン・マクマホン協定
オスマン帝国に住むアラブ人たちを味方に引き入れるため、アラブ人の独立を認めた協定
さらに、連合国はユダヤ人を味方に引き入れるため、ユダヤ人によるパレスチナでの国家建設を支援することを宣言(バルフォア宣言)します。
この3つの協定・宣言は、互いに矛盾を孕んでいましたが、連合国が味方を増やすために強引に成立させたものでした。
第一次世界大戦が終わると、「パレスチナの統治者はイギリス・アラブ人・ユダヤ人の誰なのか?」が大問題となり、イギリスが手を引いた後、アラブ人VSユダヤ人の争いが続きました。
この争いは、現代まで続く根の深い争いとなっています。(パレスチナ問題)
ロシア革命とアメリカ参戦【1917年】
第一次世界大戦は始まってから3年後の1917年、戦況を大きく動かした出来事が2つ起こります。
・・・その出来事とは、ロシア革命とアメリカ参戦です。
ロシア革命
兵器の大量生産が必要だった第一次世界大戦では、国の工業力がそのまま戦いの勝敗に直結しました。
・・・しかし、当時のロシアは、それほど工業が発展していませんでした。そこでロシアは、足りない分を人力でカバーするため、国民に重い負担を課しました。
すると1917年、ロシアで大規模なストライキや反政府運動が勃発。
この反政府運動の結果、皇帝のニコライ2世が退位に追い込まれ、そのままロシア帝国は滅亡。その代わりに社会主義国家を目指すソヴィエト政権が樹立しました。(ロシア革命)
ソヴィエト政権は、「社会主義を世界に広めるには、世界中の労働者や兵士が一致団結する必要がある!だから、労働者・兵士たちが戦争で争い合っている場合じゃない!」という思想を持っていたため、1918年3月、ドイツと和平条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで、第一次世界大戦から離脱しました。
アメリカの参戦
ドイツとイギリスは、北海周辺の制海権をめぐって海上戦を繰り広げていました。
・・・ところが1915年、ドイツの潜水艦が、誤ってアメリカ人が乗っていた民間船(ルシタニア号)を沈没させた事件が起こります。
アメリカとの関係悪化を恐れたドイツは、それ以降、船を攻撃する前には事前警告をし、民間船かどうかちゃんと確かめてから攻撃するようにしていました。
しかし1917年2月、劣勢に立たされたドイツは余裕を失い、再び事前警告なしで敵っぽい船をバンバン攻撃する方針を決定しました。(無制限潜水艦攻撃作戦)
アメリカは、ドイツの方針転換に激怒し、1917年4月、アメリカがドイツに宣戦布告。
ロシア革命によって東部戦線に終戦の兆しが見えると、ドイツは西部戦線に戦力を集中投入します。
一方の連合軍もアメリカの参戦によって勢いを増し、1918年、第一次世界大戦はいよいよ最終局面を迎えます。
第一次世界大戦、終戦
アメリカ参戦で勢い付いた連合国は、1918年8月、いよいよ攻勢に転じます。
西部戦線の均衡はついに破られ、連合国が同盟国を圧倒していきます。
均衡が破れると、同盟国の結束は一気に瓦解します。
1918年9月にはブルガリアが降伏、10月にはオスマン帝国、11月3日にはオーストリアが降伏。
さらにドイツでは、勝ち目のない戦いに送り出されたキール軍港の海軍兵たちが和平を求める蜂起が起こります。
キール軍港の蜂起は、戦争の重い負担に苦しんでいた民衆たちにも一気に波及します。
不満を爆発させた民衆の矛先は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に向き、11月9日、ヴィルヘルム2世は皇帝を退位。
その後、新たに皇帝位に就く者はなく、ドイツ帝国は滅びました。(ドイツ革命)
ドイツ帝国滅亡後、ドイツでは皇帝を置かない政治体制(共和制)が敷かれ、11月11日、新たな政権の下で、ドイツは連合国に対して停戦を申し入れ、第一次世界大戦は終戦することになりました。
第一次世界大戦の戦後処理
同盟国の主要国だったドイツ・オーストリア・ハンガリー・オスマン帝国・ブルガリアは、1919年〜1920年にかけて、それぞれが連合国と和平条約を結び、戦後処理が行われました。
和平条約 | 対象の同盟国 |
---|---|
ヴェルサイユ条約 | ドイツ |
サン=ジェルマン条約 | オーストリア |
トリアノン条約 | ハンガリー |
ヌイイ条約 | ブルガリア |
セーヴル条約 | オスマン帝国 |
この中で、世界への影響が特に大きかったのが、ドイツが連合国と結んだヴェルサイユ条約でした。
ドイツはヴェルサイユ条約によって・・・
過酷な制裁を受け、ドイツの国力は大きく失われました。
1929年に世界恐慌が起きると、国力を失ったドイツは、経済を立て直すことができず、ヒトラー主導の下、武力による領土拡大でドイツ再興を図るようになります。
そして1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が起こり、歴史が繰り返されることになるのです・・・。
コメント
フセイン・マクマホン協定
オスマン帝国に住むスラブ人たちを味方に引き入れるため、スラブ人の独立を認めた協定
→これはアラブ人だと思います。
ご指摘ありがとうございます。
読者に誤解を招きかねない誤りですね・・・。大変申し訳ございません。直ちに修正させていただきます。