今回は1871年にアメリカ・ヨーロッパに派遣された岩倉使節団についてわかりやすく解説します。
最初に、教科書風に岩倉使節団についてまとめておきます↓
この記事では、岩倉使節団について以下の点がわかるよう解説を進めていきます!
大隈重信「みんなで欧米諸国に行こうぜ!」
岩倉使節団が結成されたきっかけは、1869年前後に外交に携わっていた大隈重信が、フルベッキ(オランダ人)と言う人物から「西洋の文明を取り入れるなら、一度現地を見てきた方が良い」と助言を受けたことから始まります。
大隈重信は、この助言を受けて岩倉具視に相談します。
あのさ、みんなでアメリカとかヨーロッパ行かない?
西洋の文明を取り入れて富国強兵を目指すのなら、現地に足を運ぶことは絶対に必要だろうし。
それは良いかもしれないな。しかし、今は国内の問題で手一杯だ。
こうして使節団派遣の話は頓挫しますが、1871年に廃藩置県を断行したことで国内の政治改革はひと段落し、再び使節団派遣の話が浮上します。
しかも、1871年というのは欧米諸国に行くには絶好のタイミングでした。なぜなら、不平等な内容を盛り込んだ日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約の改正交渉が、1872年から認められることになっていたからです。
今のうちに、不平等条約の解消に向けて諸外国との交渉を進めておくべきだろう。廃藩置県を終えて余裕のできた今こそ、絶好の機会だろう。
こうして、欧米諸国への使節団の派遣が決定されます。使節団派遣の重要性は主要メンバー共通の認識だったので、反対も起こりませんでした。
・・・が、「誰を使節団にするか」では、色々と議論が起こります。
岩倉使節団のメンバー
岩倉使節団の代表者(大使)には右大臣の岩倉具視が選ばれます。そして、大使に続く副使には以下の4名が選ばれました。
【1871年当時の明治政府の役職いろいろ】
そして各省のさらに上には正院という組織がありました。太政大臣・左大臣・右大臣と参議で構成されていて、各省の重要政策は正院に認められなければ実行できませんでした。
そして大使・副使以下を合わせた総人数は約50名程度。ここに留学生も約60名が加わり、岩倉使節団は100人超の大規模使節団となりました。
さて、何かおかしいと思いませんか?そうです。提案者の大隈重信の名前がないんです。
なぜ大隈重信の名前がないかというと、簡単に言ってしまうと「大隈重信がみんなに嫌われていて、ハブられたから」です。
大隈重信が嫌われた理由は、国内の政治改革に対する考え方の違いでした。
大久保利通や木戸孝允などが、
あまりに性急な政治改革は民を疲弊させる。ここらで少しペースを落とした方が良い
と考えたのに対して大隈重信は
富国強兵は急がねばならない。断固として政治改革を進めなければならない
と考えました。
このような考え方の違いから大隈重信はメンバーから除外されてしまいました。(実際にはもっと複雑な人間関係があったものと思われます。)
岩倉使節団、アメリカへ
1871年12月23日、いよいよ岩倉使節団の出発です。
岩倉使節団が最初に目指したのはアメリカ。日米修好通商条約に規定されている不平等の是正(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)に向けた事前の外交交渉が主な目的です。(条約改正自体が目的ではありません!)
1872年2月末、岩倉使節団はアメリカに到着します。アメリカ西海岸のサンフランシスコに着港し、そこからアメリカ大陸を東へ横断してワシントンを目指します。
岩倉使節団は大歓迎ムードで迎えられますが、条約改正に向けた交渉となるとアメリカの態度は一変し、強硬な姿勢を崩しません。
アメリカは、日本が要望する治外法権の廃止などの不平等解消を全て否定し、それどころか不平等を拡大する案を日本に提示します。日本は完全に舐められていたんです。
しかも、岩倉具視はあろうことにこアメリカの提案を受け入れようと考えます。アメリカの歓迎ムードに流されてしまったのと、西洋通の伊藤博文らがこれを勧めたのがその理由です。
こんなに歓迎されて仲良くなったのに、アメリカが日本に酷い改正内容を提示するだろうか。アメリカ人が日本で行動しやすくなれば、日本の文明開化もさらに加速するだろう。
・・・が、その後様々な出来事(長くなるので省略)が重なり結局、条約改正の話は白紙に。ここでもしアメリカと条約改正していたら、日本の歴史はおそらく悪い方に大きく変わっていたかもしれません。
こうしてアメリカとの交渉は失敗に終わりました。
大久保利通「ドイツのビスマルク凄すぎww」
岩倉使節団はアメリカに8ヶ月ほど滞在し、1872年にはヨーロッパへと向かいます。イギリス・フランス・オランダ・ロシアという不平等条約を結んでいる国々へ条約改正の打診を行い、そのほかにもドイツやイタリア、オーストリアなどさ様々な国の政治や文化、技術を視察します。
結論から言うと、条約改正の打診は失敗に終わりました。ヨーロッパ諸国は日本に対して、「不平等条約を解消したいのなら、自国(日本)の法律を国際法に沿った内容にしてからにしろ」とこれをつっぱねました。
一方で、視察の方は一定の成果を得ることができました。
視察の中で岩倉使節団に特に強い印象を与えたのがドイツ帝国でした。ドイツ帝国は1871年に建国された、複数の国で構成される連邦国。新興国でありながら、近隣のフランス・イギリス・ロシアという強国と対等にやりあっている姿が、日本の目指すべき理想像に映ったのです。
それに加えて、日本とドイツ帝国の国体も似ていました。
ドイツ帝国では、国のトップに皇帝ヴェルヘルム一世が君臨しますが、政治の全権は皇帝から任じられてた宰相(当時はビスマルク)が担う・・・という仕組みでした。
1873年3月、岩倉使節団はビスマルクに夕食会に招かれ、会話をする機会を得ます。岩倉使節団はこの時のビスマルクの話に心底感動したと言われています。
参考までに、ビスマルクの話の内容を掲載しておきます。
「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう。」
wikipedia「ビスマルク」
「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。」
wikipedia「ビスマルク」
諸外国に「国際法(万国公法)に対応していない国と不平等を解消するつもりはない」と一蹴された使節団にとって、「国際法(万国公法)のことなど考えなくてOK!」と豪語するビスマルクは非常に魅力的な人物に見えたことでしょう。
この時、特にビスマルクに感銘を受けたのは大久保利通と伊藤博文でした。大久保利通は帰国後、実際に内務卿と参議を兼任し政府の主導者となり、自らをビスマルクと重ねます。
伊藤博文はビスマルクを真似て葉巻をよく吸うようになり、周りから「日本のビスマルク」と呼ばれるほど、ビスマルクを強く意識していたと言われています。また、伊藤博文が中心となって制定した大日本帝国憲法(1889年制定)も、ドイツ帝国の憲法を参考に制定されています。
岩倉使節団はドイツだけを見ていたわけではなく、イギリス・フランス・アメリカといった列強国で巨大な工場がたくさん稼働しているのを見て、日本の殖産興業のさらなる推進が必要であることを確信します。
アメリカ・ヨーロッパを視察した岩倉使節団は、東南アジアを経由して1873年に帰国することになります。
岩倉使節団の年表まとめ
本当に簡単にですが、岩倉使節団の行程を時系列でまとめておきます。
- 1871年12月23日岩倉使節団、出国
- 1872年2月15日アメリカのサンフランシスコに到着
- 1872年3月11日ワシントンでアメリカと条約改正交渉開始!
日本の提案する不平等解消は退けられ、逆に不平等を拡大する案を提案される。
- 1872年7月22日アメリカとの交渉打ち切り!
- 1872年8月17日ロンドンに到着
イギリス、フランス、オランダ、ベルギーを経てさらにドイツへ。
- 1873年3月9日ベルリンに到着
- 1873年3月15日ビスマルクと食事
- 1873年9月6日帰国(長崎着)
ドイツの後、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリアを経て帰国。
帰国途中に東南アジアの植民地にも寄る。
もっと詳しい行程は以下のサイトがわかりやすいです
岩倉使節団の帰国後
約2年の渡航の間、明治政府では征韓論をめぐって対立が起こっていました。
【征韓論】
武力によって朝鮮半島との国交を開こうという主張のこと。
廃藩置県を始めとする政治改革で没落した士族を動員することで、士族の不満を国外に向けさせるとともに、士族救済を目指すことが主な目的だった。
そして、岩倉使節団のメンバーも反対派の立場をとります。岩倉使節団の大使・副使らは、帰国後すぐにこの征韓論問題に追われることとなり、1873年10月、賛成派を政府内から一掃する(明治六年の政変)ことで、ようやく明治政府は落ち着きを取り戻すことになります。
明治六年の政変の後、大久保利通が明治政府内で絶大な権力を持つようになり、自らをビスマルクに重ね、岩倉使節団で見聞したことを大いに生かしながら、日本の政治を主導していくことになります。
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