

今回は、幕末に近代日本の礎を作った天才幕臣・小栗忠順(小栗上野介)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!教科書ではほとんど見かけないけど、実はものすごく重要な人物なんだ。ぜひ最後まで読んでみてね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
小栗忠順(小栗上野介)とは?
幕末の英雄といえば坂本龍馬や西郷隆盛——。しかし実は、近代日本の礎を作ったのは、歴史の表舞台から消された一人の幕臣でした。
「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」——これは明治の元勲・大隈重信の言葉です。さらに日露戦争の英雄・東郷平八郎も「日本海海戦の勝利は、小栗が作った造船所のおかげだ」と語ったとされています。
教科書ではほとんど取り上げられない「知られざる天才幕臣」。それが小栗忠順です。
- 幕末の幕臣。目付として遣米使節に参加し、のちに勘定奉行(幕府の財政責任者)に就任。近代文明を目の当たりにした
- 横須賀製鉄所建設・株式会社設立・軍制改革など、近代日本の礎を作った
- 明治政府に処刑された後、明治の元勲たちから「近代化の手本」と絶賛された
小栗忠順は、別名を小栗上野介ともいいます。「上野介」は朝廷から与えられた官位で、いわば公式の肩書きのようなものです。
小栗は文政10年(1827年)、旗本の家に生まれました。旗本とは、将軍に直接仕える格式の高い武士のことです。

小栗忠順って、教科書でほとんど見かけないけど…なんで有名じゃないの?

それがこの記事の核心なんだよ!簡単にいうと「明治政府にとって都合が悪かったから」なんだ。幕府側の人物だったから、歴史の勝者に消されてしまったんだね。その理由を詳しく解説していくよ!
幕末のエリート幕臣が歩んだ道

小栗忠順は文政10年(1827年)、江戸の旗本・小栗忠高の子として生まれました。小栗家は代々幕府に仕える名門で、忠順もまた幼少期から文武両道に励んだとされています。
やがて頭角を現した忠順は、幕府の要職を次々と歴任していきます。目付(今でいう監査役のような役職)を経て、ついには勘定奉行にまで昇進しました。

勘定奉行っていうのは、今でいう「財務大臣」のような役職だよ。幕府のお金の管理をする超重要ポストなんだ!
小栗が活躍した幕末は、まさに激動の時代でした。ペリーの黒船来航(1853年)をきっかけに日本は開国を迫られ、幕府は安政の改革など外国との交渉に追われていたのです。
そんな中、幕府はある重大な使命を帯びた使節団をアメリカに送ることを決めます。万延元年遣米使節——小栗忠順の人生を大きく変えることになるこの使節団に、彼は目付として参加することになりました。
アメリカで掴んだ「日本の未来」

1860年(万延元年)、小栗忠順は日米修好通商条約の批准書交換のため、使節団の一員としてアメリカへ渡りました。

批准書交換って何かしら?

条約を結んだあと、「お互いの国のトップが正式に認めましたよ」という文書を交換する手続きのことだよ。今でいう契約書のサイン交換みたいなものだね!
使節団はアメリカ海軍の軍艦ポーハタン号でアメリカへ向かいました。なお、同行した護衛艦咸臨丸には、のちに小栗と運命を分かつことになる勝海舟が艦長として乗船していました。

アメリカに到着した小栗は、そこで見た光景に衝撃を受けます。蒸気機関で動く巨大な工場、整然と並ぶ軍艦、精密に作られた機械——日本とはまるで別世界でした。
なかでも小栗の心を最も揺さぶったのは、ワシントン海軍工廠(造船所)で見た「ネジ」でした。
📌 ネジのエピソード:小栗はアメリカの工場で規格統一されたネジの量産に衝撃を受けました。当時の日本では、ネジのような精密部品は職人が一つ一つ手作りしていたのに対し、アメリカでは機械で大量に同じ規格のネジを作っていたのです。小栗はこのネジを日本に持ち帰り、「近代化の象徴」として終生大切にしたと伝えられています。
小栗はアメリカで見たものを通じて、「日本が西洋列強に対抗するには、工業力と軍事力の近代化が不可欠だ」という確信を得ました。

あのネジを見た瞬間、日本が何十年も遅れていることを思い知った。帰ったら日本を変えなければ。

実はこの渡米、小栗にとって「初体験」の連続だったんだよ。ブキャナン大統領と直接握手して対面会見したり、サンフランシスコのボーリング場で初めてボウリングを投げたり——明治になってから日本に広まったあれこれを、小栗たちは幕末にすでに体験していたんだ!
帰国後、小栗は幕府の中で次々と近代化政策を推し進めていくことになります。アメリカで掴んだ「日本の未来像」——それを実現するための闘いが、ここから始まりました。
近代日本を変えた3つの功績
アメリカから帰国した小栗忠順は、勘定奉行として幕府の中枢に立ち、矢継ぎ早に近代化政策を打ち出しました。その功績は大きく3つに分けることができます。
■横須賀製鉄所(造船所)の建設

小栗の最大の功績が、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設です。
アメリカの工場を目の当たりにした小栗は、「日本にも西洋に匹敵する造船所が必要だ」と確信します。そこでフランスの技術者レオンス・ヴェルニーを招き、1865年に横須賀の地で造船所の建設に着手しました。
この造船所は、製鉄・造船・機械製造を一手に担う日本初の本格的な近代工場でした。建設費は約240万ドルという巨額で、当時の幕府にとって大きな負担でしたが、小栗は「これは日本全体の財産になる」と押し通しました。
実際、横須賀製鉄所は幕府が滅んだ後も明治政府に引き継がれ、日本海軍の中核施設として発展しました。日露戦争(1904〜1905年)で日本海海戦に勝利したとき、連合艦隊司令長官の東郷平八郎はこう語ったと伝えられています。
「日本海海戦の勝利は、小栗上野介が作った横須賀造船所のおかげである」——東郷平八郎
小栗が幕末に蒔いた種は、40年後に実を結んだのです。
■株式会社・兵庫商社の設立
小栗の功績は工場建設だけにとどまりません。彼は日本の経済制度そのものを変えようとしました。
1867年、小栗は兵庫商社の設立を推進します。これは外国との貿易を仲介するための商社で、複数の出資者がお金を出し合い、利益を分配するという仕組みでした。

それって…株式会社のこと?

そのとおり!兵庫商社は「日本初の株式会社」とも言われているんだ。ただし「日本初かどうか」には諸説あるよ!
小栗はアメリカで見た近代的な経営の仕組みを、日本にも導入しようとしたのです。出資者を募って資金を集め、利益を配分する——今では当たり前の「会社」の仕組みですが、江戸時代の日本にはまだ存在しなかった画期的なアイデアでした。
■軍制改革とフランス軍事顧問の招聘
3つ目の功績が、軍制改革です。
小栗はアメリカの強大な軍事力を見て、「日本の武士が刀と槍で戦う時代は終わった」と痛感していました。そこでフランスから軍事顧問団を招き、幕府の軍隊を西洋式に改革することを進めます。
さらに小栗は、軍隊だけでなく行政機構の近代化にも着手しました。フランスをモデルにした官僚制度の導入や、日本初の近代的な給与体系の整備など、幕府の仕組みそのものを変えようとしたのです。
のちに明治政府の中心人物となった大隈重信は、こう述べたとされています。
「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」——大隈重信
つまり、明治政府がやったことの多くは、すでに小栗が幕末の時点で構想し、着手していたということです。まさに「時代を先取りしすぎた男」と言えるでしょう。

大河ドラマになるくらいの人物なのに、なんで今まで知らなかったんだろう…。

明治政府が「勝者の歴史」を書いたからこそ、敵だった小栗の功績は長い間埋もれてしまったんだ。でも近年は再評価が進んでいて、ついに2027年の大河ドラマで主人公になるんだよ!
勝海舟との運命の分岐点
薩長同盟が成立し、倒幕の機運が高まるなか、小栗忠順の運命を決定づけたのは、もう一人の幕臣・勝海舟との意見対立でした。
1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は新政府軍に大敗を喫します。大政奉還で政権を返上した将軍・徳川慶喜は大阪から江戸へ逃げ帰り、幕府は存亡の危機に立たされました。
このとき、幕府の中で2つの意見が激しく対立しました。
小栗忠順の主張:抗戦論 「箱根に兵を配置して新政府軍を迎え撃ち、海軍で駿河湾から挟撃する」
勝海舟の主張:恭順論 「江戸の民を守るため、戦わずに新政府と和解する」
小栗は軍事的な観点から、「新政府軍は兵站が伸びきっており、箱根で迎撃すれば十分勝てる」と主張しました。実際、のちに新政府軍の軍事指導者・大村益次郎は「小栗の策が実行されていたら、我々の首はなかった」と恐れたとされています。
一方、勝海舟は「戦えば江戸の町が焼け野原になる。100万の民を犠牲にはできない」と、無血開城による和平を訴えました。

戦わずして負けることが、本当の負けではないか!
しかし、将軍・徳川慶喜は勝海舟の恭順論を採用します。小栗は「徹底抗戦」を訴えたために職を解かれ、上野国(現在の群馬県)の権田村に引退することになりました。

テストでは勝海舟と江戸無血開城が出るけど、小栗の抗戦論も出るの?

テストでは勝海舟の方が出やすいけど、「幕府内で抗戦論と恭順論が対立した」という流れは大学受験で問われることがあるよ。小栗の名前を覚えておくと差がつくね!
理不尽な最期——「罪なき斬首」の真実

権田村に引退した小栗は、村の開発に取り組みながら静かに暮らしていました。しかし、新政府軍は小栗を見逃しませんでした。
1868年(慶応4年)閏4月、東山道軍(新政府軍の一部隊)は小栗の元を訪れ、「武器を集めて反乱を企てている」という理由で連行します。
このとき小栗は、村の畑で鍬を手に農作業をしているところを捕らえられたと伝えられています。幕府の予算数百万ドルを動かし、国家の近代化を指揮した男が、最後は土にまみれて田畑を耕していた——その落差が、後世の人々の心を強く打ちます。
連行された小栗は、罪状を問われてもまったく動じなかったと言われています。

私は朝廷に反いたわけではない。幕府のために誠実を尽くしただけだ。
小栗は弁明の機会すら与えられませんでした。正式な裁判もないまま、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)、烏川のほとりで斬首されたのです。享年42歳(数え年)でした。
なぜ新政府軍はこれほど急いで小栗を処刑したのでしょうか。
一つには、小栗の軍事的才能を恐れたことがあります。先述のとおり、大村益次郎でさえ小栗の抗戦策を恐れていました。新政府にとって、小栗は「生かしておくには危険すぎる男」だったのです。
もう一つの理由として、「徳川埋蔵金」の噂があります。
📌 徳川埋蔵金伝説と小栗忠順:勘定奉行だった小栗が幕府の財産を権田村に隠したという噂がありました。実際に明治以降も何度も「埋蔵金探し」が行われましたが、いまだに見つかっていません。多くの歴史家は「埋蔵金は存在しない」と考えていますが、この伝説が小栗の処刑を急がせた一因とも言われています。
いずれにせよ、裁判なしの処刑は当時の基準からしても異例のことでした。小栗の家臣たちも同時に斬首され、その理不尽さは「罪なくして斬る」と後世に語り継がれることになります。

裁判もなく処刑されるなんて…。近代化のために尽くした人がこんな最期を迎えるなんて、あまりに理不尽ですね。
処刑の後、官軍の兵士は小栗の首を持ち去ろうとしました。そこに立ちはだかったのが、権田村の東善寺の住職・英岩和尚でした。
英岩和尚は必死に兵士たちを説得し、「せめて遺骸はここに葬らせてほしい」と訴えます。兵士たちはしぶしぶ引き下がり、小栗の遺骸は東善寺に手厚く葬られました。その後も東善寺の住職たちは代々にわたって小栗の名誉回復のために活動し続け、現在も境内には小栗の墓と胸像が残されています。

「逆賊」として消されようとした小栗を、地元の住職が命がけで守ったんだよ。群馬県高崎市の東善寺は今でも「小栗上野介顕彰の寺」として知られていて、小栗ゆかりの資料が数多く残されているんだ。
小栗忠順についてもっと詳しく知りたい人へ

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なぜ小栗忠順は教科書から消えたのか?
ここまで読んでいただいた方なら、こう思ったのではないでしょうか。「なぜこれほどの功績を持つ人物が、教科書にほとんど出てこないのか?」と。
その答えは、「歴史は勝者が書く」という一言に集約されます。
明治政府は、自分たちこそが日本を近代化させた「正義の側」であると主張しました。そのためには、旧幕府側の人間が先に同じことをやっていたという事実は、非常に都合が悪かったのです。
小栗忠順が横須賀製鉄所を作り、軍制改革を進め、株式会社の仕組みまで導入しようとしていた——これらの事実が広く知られれば、「明治政府がゼロから日本を作り変えた」という物語が崩れてしまいます。
📌 歴史教科書と「勝者の歴史」:明治政府は自らの正統性を示すために「薩長史観」と呼ばれる歴史観を広めました。この歴史観では、幕府は「時代遅れの旧体制」、薩摩・長州は「日本を救った英雄」として描かれます。小栗のように幕府側で近代化を推進した人物は、この物語に収まらないため、教科書や正史から事実上排除されてきました。
さらに、小栗は「逆賊」として処刑された人物です。明治政府にとって、自分たちが処刑した相手を「近代化の功労者」と認めるわけにはいかなかったのです。
しかし20世紀後半から、歴史学の世界では小栗の再評価が進み始めました。作家・司馬遼太郎は小説『峠』で同時代の幕臣・河井継之助を描く中で小栗にも触れ、幕末の幕臣たちの先見性に光を当てました。
そして何より、大隈重信や東郷平八郎という明治政府の中心人物自身が、小栗の功績を認める証言を残していたことが、再評価の大きな根拠となっています。

「勝者が歴史を書く」って、まさにこういうことなんですね…。処刑した本人の功績を認めるわけにはいかないって、なんだか複雑な気持ちになります。

歴史を学ぶときに大切なのは、「教科書に書いてあることだけが全てじゃない」って視点を持つことなんだ。小栗忠順は、まさにその象徴的な人物だね。
大河ドラマ「逆賊の幕臣」で注目!
2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」は、まさに小栗忠順を主人公とした物語です。主演は松坂桃李さん、脚本は安達奈緒子さんが担当します。
大河ドラマのタイトルにある「逆賊」とは、朝廷や政府に反逆した者を指す言葉です。小栗は明治政府によって「逆賊」として処刑されましたが、実際には誰よりも日本の未来を見据えた改革者でした。このタイトルには、そうした歴史の皮肉が込められています。
📺 大河ドラマ「逆賊の幕臣」基本情報
放送予定:2027年(NHK)
主演:松坂桃李(小栗忠順 役)
脚本:安達奈緒子
※ 史実との違いについては放送開始後に追記予定です。
よくある質問(FAQ)
A. はい、同じ人物です。「忠順(ただまさ)」が実名(諱)で、「上野介(こうずけのすけ)」は朝廷から与えられた官位名です。歴史書では「小栗上野介」、教科書や学術書では「小栗忠順」と表記されることが多いです。
A. 横須賀製鉄所は1865年(慶応元年)に建設が始まり、本格的な操業は明治政府に引き継がれた後の1871年(明治4年)頃とされています。小栗が建設を決定し着工まで漕ぎつけましたが、完成を見届けることなく1868年に処刑されました。
A. 公式には「武器を集めて反乱を企てている」という嫌疑をかけられました。しかし正式な裁判は行われず、弁明の機会も与えられないまま斬首されました。実際には、小栗の軍事的才能を恐れた新政府が、危険人物として排除したとする見方が有力です。
A. 勘定奉行だった小栗が、幕府の軍資金を群馬県の赤城山付近に隠したという伝説があります。明治以降、何度も「埋蔵金探し」が行われましたが、いまだに発見されていません。多くの歴史家は「埋蔵金は存在しない」と考えており、この噂が小栗の処刑を急がせた一因とも言われています。
A. どちらが「正しい」かは、目的によって評価が分かれます。勝海舟の恭順論は江戸の町と100万人の市民を守りました。一方、大村益次郎が「小栗の策が実行されれば我々の首はなかった」と恐れたように、軍事的には小栗の抗戦論にも合理性がありました。「民を守る」か「幕府を守る」か——立場によって答えが変わる、歴史上の難問です。
A. 群馬県高崎市倉渕町の東善寺にあります。小栗の遺体は家臣たちの手で密かに埋葬されました。東善寺には小栗の墓と胸像があり、地元の人々に今も大切に守られています。
まとめ

以上、小栗忠順のまとめでした!「教科書に出てこない近代日本の設計者」として、ぜひ名前を覚えておいてね。下の記事で幕末・明治の関連人物もあわせて読んでみてください!
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1827年江戸に生まれる(旗本・小栗家の嫡男)
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1860年目付として遣米使節団に参加・ポーハタン号で渡米(日米修好通商条約の批准書交換)
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1865年横須賀製鉄所(造船所)の建設を決定・着工
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1867年兵庫商社の設立を推進(日本初の株式会社とも)
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1867年フランス軍事顧問団を招聘し、軍制改革を推進
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1868年1月鳥羽・伏見の戦い後、抗戦論を主張するも将軍・慶喜に退けられる
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1868年3月勘定奉行を罷免。上野国・権田村(群馬県)に蟄居
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1868年5月27日新政府軍(東山道軍)に捕縛・斬首(享年42歳・数え年)
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1905年日本海海戦でロシア艦隊に勝利。東郷平八郎が「小栗の造船所のおかげ」と称賛
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📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「小栗忠順」(2026年4月確認)
コトバンク「小栗忠順」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
安藤優一郎『小栗上野介 忠順と幕末維新』(日本経済新聞出版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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