租・調・庸・雑傜・出挙、すべて簡単にわかりやすく徹底解説!【奈良時代の税制度をマスターしよう】

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今回は、飛鳥時代末期〜奈良時代の税制度で登場する調ちょうよう雑傜ぞうよう出挙すいこの5つについてわかりやすく丁寧に解説していきます。

最初に、教科書的な概要を載せておきます↓

奈良時代の税制度

は、口分田などの収穫から3%程度をおさめるもので、主に諸国において貯蔵された。

調・庸は、絹・布・糸や各地の特産品を中央政府におさめるもので、主に正丁(成人男性)に課せられ、それらを都に運ぶ運脚の義務があった。

雑傜は、国司の命令によって水利工事や国府の雑用に年間60日を限度に奉仕する労役であった。

この他、国家が春に稲を貸し付けて、秋の収穫時に高い利息とともに徴収する出挙公出挙くすいこ)もあった。

これらの税制度は、701年に作られた法律集「大宝律令」に盛り込まれることで、完成しました。

この記事を最後まで読めば、奈良時代の税の仕組みがバッチリ理解できるはずです!

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租(そ)

班田収授によって国から与えられた口分田を耕して得た収穫物(米)の3%をおさめる税金が租です。

租は、非常に不安定で扱いにくい税金でした。不作の年になるとガクッと租の量が減ってしまうからです。

税収が不安定な租は使いにくいので、使わずに凶作時の非常米として各地の倉庫に貯蔵されることになります。

税金って普通は使うために徴収するのに、租は「使わずに貯蔵する」ための税金なので少し不思議な感じがします。

租は、「非常米をみんなで自主的に倉庫に確保しておく」という昔からあった人々の風習を利用した税だという説があります。

役人がいきなり税金よこせ!って言うと反発が大きいから、元々ある仕組みを利用して、人々の反発を避けることが狙いだったのかもしれませんね。

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出挙(すいこ)

租は不安定で貯蔵するために使われるため、役人は租とは違った安定した税金を探すことになりますが、それが出挙と呼ばれる仕組みでした。

お米を育てるには土地を耕すことも大切ですが、最も大切なのは稲の種子です。種がないと、いくら豊かな土があっても稲を育てることはできません。

そこで、政府は農民たちがちゃんと田植えを始められるよう、田植えの始まる春に種を農民に貸し付けることにしました。

そして、収穫の秋がやってくると、貸した種に利子を加えた分を農民から返してもらうわけです。すると、この利子分が国の収入になります。

このように、稲の種を貸し付けて、利子を上乗せして返してもらう仕組みのことを出挙と言います。

出挙は、貸した種の利子分が安定して収入になるので、国にとってはとても魅力的な税金でした。(収穫量によって増減がしにくい)

もともと、各地には昔から「種が無くて困っている人に種を貸し出して、利子付きで返してもらう」という風習があったのだろうと言われています。

それを、困っている人だけではなく、農民全員に強制貸付をすることによって出挙という新しい税金の仕組みに変えてしまった・・・というのが出挙の起源だという説があります。(はっきりしたことはわかっていませんが)

出挙で問題になったのは利率です。出挙の利率は50%というトンデモナイ利率であり、これが農民たちを苦しめました。(ちなみに、今の日本でお金を利率50%で貸し出すと、完全に違法行為です)

出挙は政府から見ればとても魅力的な税金だったので、平安時代へと時代が変わっても政府の需要な財源の1つとなっていきます。

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調(ちょう)

絹・布・糸や各地の特産品を都におさめるのが調です。

調は、古墳〜飛鳥時代にあったヤマト政権時代の名残だと言われています。

各地の豪族たちは、ヤマト政権のトップである大王へ貢物をすることでその忠誠を示しました。この貢物が、税金の調へと変化していったと考えられています。

豪族たちは、各地で収穫できる様々なものを貢物として献上していたため、調になっても絹・布・糸を中心としつつも、地域ごとにいろんな特産品がおさめられることになります。

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庸(よう)

庸は、主に布を都におさめる税金です。

元々は、都に行って労役することを庸と言いましたが、次第に「布とか納めれば、労役は免除なっ!」って仕組みに変わりました。

ヤマト政権の時代、大王への忠誠を示すため、豪族たちは人を都へ送って大王に仕えさせ、雑用などをさせていました。

これが、庸へと変化したのだろうと言われています。だから、最初は都での労役がメインだったんですね。(諸説あります)

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運脚(うんきゃく)

租は地元で貯蔵するから別として、調・庸はものを用意するだけではなく、都へ運ぶまところまで含めて義務でした。

調・庸などの税を都へ運ぶ行為のことを運脚うんきゃくと言います。

今みたいに車とか電車のない時代、運脚は結構大きな負担になっていたんじゃないかと思います。

運脚が必要になると、その運脚が通るための道の整備も必要になります。朝廷は、主要な道路として7つの主要道路(七道)を整備しました。

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雑傜(ぞうよう)

年間60日間を限度に、都で労役をする税です。

これは、めちゃくちゃ過酷でした。多分、ここで紹介した税のなかで一番キツイです。

建築工事などの危険でキツイ作業をタダ働きで行います。食料もまともに与えられず餓死する人が多くいたと言われています。ちなみに、聖武天皇が命じた大仏造立の時も、多くの人々が雑傜として働かされています。

雑傜を任されるのは働き盛りの男が多かったので、現地に残された家族は困ることが多かったようです。というのも、田んぼを耕したり、運脚したり力作業をする人がいなくなってしまうからです。

これらに加えて、農民たちには兵役の義務も課せられていました。

緊急時はもちろん、平和な時でも宮中の警備をする衛士えじや、外敵から太宰府を守る防人の任務が定期的にあり、これらもメチャクチャきつい負担の1つでした。

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浮浪と逃亡

租・調・庸・雑傜・出挙の5つ(運脚と兵役も含めれば7つ)の税は多くの農民にとって非常にキツイものでした。

田んぼを耕して、絹・布・糸や各地の特産品も用意します。収穫した米の3%を租として納めますが、それとは別に春に強制的に与えられた種に50%の利子をつけた(1.5倍にした)米を国に納めないといけません。

さらに、雑傜の要請があれば働き盛りの男を都へ送ります。そして兵役も定期的に課せられています。

人が減っても租・調・庸は減りません。おまけに、雑傜や兵役は命を落とす者も多かったため、都や太宰府に行った者が2度と帰ってこないということも頻繁にあったはずです。

雑傜や兵役は重労働というだけでなく、命を落とすリスクもあるので他の税とは過酷のレベルが違います。

奈良時代中期頃になると、これらの税に耐えられず逃げ出す人が増えてしまい、国の税制度は少しずつ変化・崩壊していくことになります。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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