王政復古の大号令が簡単にわかる!わかりやすく徹底解説【大政奉還からの流れと内容はこれでOK】

王政復古の大号令
この記事の目次 15項目はじめに
  1. 王政復古の大号令とは?(読み方・意味)
  2. 幕末の時代背景——大政奉還までの道のり
  3. 大政奉還から王政復古の大号令までの流れ
  4. 王政復古の大号令の内容——三職の設置と幕府廃止
  5. 大政奉還と王政復古の大号令の違いをわかりやすく解説
  6. 王政復古の大号令と小御所会議——慶喜の運命が決まった夜
  7. 王政復古の大号令のその後——戊辰戦争へ
  8. 王政復古を動かした中心人物たち
    1. 岩倉具視(1825〜1883)——クーデターの頭脳
    2. 大久保利通(1830〜1878)——倒幕の実務担当
    3. 西郷隆盛(1828〜1877)——薩摩の象徴
  9. テストに出るポイント
  10. もっと深く知りたい人へ——おすすめの本
  11. よくある質問
  12. まとめ——王政復古の大号令で日本はどう変わったか

もぐたろう
もぐたろう

今回は王政復古の大号令おうせいふっこのだいごうれいについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!大政奉還との違い・誰が出したのか・内容・小御所会議まで全部まとめるね!

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【戊辰戦争】鳥羽・伏見から五稜郭まで|江戸開城・上野戦争・奥羽越列藩同盟・会津戦争・箱館戦争【高校日本史】YouTubeで見る

この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版『詳説日本史』準拠
定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 王政復古の大号令の読み方・意味(おうせいふっこのだいごうれい)
  • 誰がいつ出したのか(岩倉具視・薩摩・長州の連合クーデター)
  • 内容(幕府廃止・三職設置・小御所会議)
  • 大政奉還との違い(大政奉還→王政復古の大号令の流れ)
  • その後の影響(小御所会議→戊辰戦争へ)

※幕末の月日は原則として旧暦で、年はそれに対応する西暦で表します。重要な日付には新暦も併記します。1873年以降は新暦です。

大政奉還というと、徳川慶喜とくがわよしのぶが「素直に政権を朝廷へ返した」美談のように思われがちです。

しかし実は、大政奉還だけでは、新しい政治を誰が主導するかは決まっていませんでした。慶喜の参加を求める勢力と、徳川家の力を弱めようとする倒幕派が対立し、その争いのなかで王政復古の大号令が出されたのです。

この記事では、王政復古の大号令の読み方・内容・背景から、大政奉還との違い・小御所会議まで、流れに沿ってわかりやすく解説します。



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王政復古の大号令とは?(読み方・意味)

王政復古の大号令 3行でわかるまとめ

① 1867年旧暦12月9日、岩倉具視いわくらともみら倒幕派が天皇の名のもとで発した宣言
② 江戸幕府・摂政・関白の廃止、三職(総裁・議定・参与)の設置を宣言
③ 大政奉還後の政治の主導権争いのなかで、徳川慶喜を当初の三職に含めずに新政府を組織した政変

王政復古の大号令おうせいふっこのだいごうれいとは、1867年(慶応3年)の旧暦12月9日(新暦1868年1月3日)に発せられた、天皇を中心とする新政府樹立を宣言した命令のことです。「王政復古」とは「天皇による政治を取り戻す」という意味で、200年以上続いた江戸幕府の支配に終止符を打つ歴史的な宣言でした。

なお、検索でよく見られる「大政復古の大号令」という表記は誤りです。正しくは「王政復古おうせいふっこ」です。「大政奉還たいせいほうかん」という言葉との混同が起きやすいため注意が必要です。

ゆうき
ゆうき

「王政復古」って読み方が難しいんだけど、テストで「大政復古」って書いても正解になるの?

もぐたろう
もぐたろう

それは間違い!「王政復古」が正解で、「大政復古」は誤りだよ。テストで間違えやすいポイントだから要注意ね。「大政奉還(大政を奉る=返す)」と混同しないように気をつけて!



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幕末の時代背景——大政奉還までの道のり

1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航したことで、250年以上続いた江戸幕府の「鎖国」体制は根底から揺らぎ始めました。

開国によって外国の安い商品が流入し、物価が急騰。庶民の生活は苦しくなり、「外国に屈した幕府」への不信感が全国に広がりました。尊王攘夷そんのうじょうい(天皇を敬い、外国人を追い払え)の声が高まり、幕府の権威は急速に失墜していきます。

📌 幕末の主なできごと(流れ)
1853年:ペリー来航→開国・鎖国終わる
1858年:安政の大獄あんせいのたいごく→開国派が反対派を弾圧
1860年:桜田門外の変さくらだもんがいのへん→大老・井伊直弼が暗殺される
1866年:薩長同盟さっちょうどうめいの成立→倒幕への連携強化
1866年12月:孝明天皇こうめいてんのう崩御→15歳の明治天皇が即位(倒幕派にとって追い風)
1867年旧暦10月14日:大政奉還→幕府が政権を朝廷へ返上
1867年旧暦12月9日:王政復古の大号令→新政府樹立を宣言

こうした混乱の中で力をつけたのが、薩摩藩さつまはん(現・鹿児島県)と長州藩ちょうしゅうはん(現・山口県)です。もともと犬猿の仲だった両藩は、坂本龍馬らの仲介により1866年に薩長同盟さっちょうどうめいを結び、倒幕に向けて動き出します。

あゆみ
あゆみ

そもそもなんで幕府は倒されることになったの?ペリーが来てから何がそんなに変わったの?

もぐたろう
もぐたろう

一番大きいのは「幕府が弱い」とバレてしまったことだね!開国で物価が上がって庶民は苦しくなる一方、幕府は何もできない。「今でいう政府が信頼を失った状態」で、それにつけ込んで倒幕運動が加速したんだよ。

1866年12月、この情勢をさらに大きく動かす出来事が起きます。強硬な攘夷派として倒幕派にとって「天皇の名義」を利用しにくかった孝明天皇が急逝(享年36)。跡を継いだのはまだ15歳の明治天皇めいじてんのう(睦仁親王)でした。岩倉具視ら倒幕派にとって、若い天皇の即位は絶好の機会となりました——政治経験の乏しい若い天皇の名義であれば、自分たちの政策を「天皇の御意思」として押し通すことが格段に容易になるからです。

1867年の旧暦10月14日(新暦11月9日)、将軍・徳川慶喜は「大政奉還たいせいほうかん」を行い、統治権を朝廷へ返上します。ただし、新しい政治体制や徳川家の位置づけが、これだけですべて決まったわけではありませんでした。

大政奉還の絵画
大政奉還(1867年10月14日)。二条城で行われた歴史的な場面(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)



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大政奉還から王政復古の大号令までの流れ

1867年旧暦10月14日の大政奉還から、王政復古の大号令(旧暦12月9日)まで、わずか約2ヶ月のできごとです。この短期間に、倒幕派はどのような手を打ったのでしょうか。

政権の返上と将軍職の辞任は別の手続きです。大政奉還の時点で、将軍職や幕府の仕組みがそのまますべてなくなったわけではありません。徳川慶喜は、新しい政治のなかで主導権を保とうとしたと考えられます。倒幕派はその影響力を警戒していました。

問題①:大政奉還だけでは慶喜の影響力が残る

薩長・岩倉具視らにとって、これは問題でした。慶喜が新政府に入れば、事実上の幕府政治が続くことになりかねません。幕府打倒を目指して戦ってきた彼らにとって、それは受け入れられない未来でした。そこで彼らは、大政奉還からわずか2ヶ月も経たないうちに、さらなる一手を打ちます。

展開②:王政復古の大号令で新政府を組織

1867年旧暦12月9日の早朝、薩摩などの藩兵が御所の門を固め、岩倉具視らが明治天皇めいじてんのう(当時15歳)の名のもとに宣言を発しました。それが「王政復古の大号令」です。

宣言では、江戸幕府と摂政・関白の廃止、新政府の三職の設置が示されました。当初の三職に慶喜は含まれませんでしたが、その処遇については同日夜の小御所会議で意見が対立します。慶喜への内大臣辞退と領地返上の要求は、この会議の議論として区別しましょう。

岩倉具視の肖像
岩倉具視。王政復古の大号令を仕掛けた倒幕派の頭脳(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)
岩倉具視
岩倉具視

新政府を作るなら、徳川家が以前と同じように主導権を握る形にはしたくない。そのためにも、天皇の名で幕府の廃止と新たな役職の設置を宣言する——それが我々の進める道だ。

このクーデターの巧妙さは、「天皇の権威」を使った点にありました。天皇の名で出された命令に反対すれば「朝敵(天皇の敵)」になってしまう——慶喜はその論理に縛られ、すぐに軍事行動に出ることができませんでした。



王政復古の大号令の内容——三職の設置と幕府廃止

王政復古の大号令の内容は、大きく「廃止するもの」と「新設するもの」の2点に整理できます。

廃止①:江戸幕府(将軍職)の廃止

廃止②:摂政・関白の廃止

新設③:三職(総裁・議定・参与)の設置

将軍職の廃止は当然として、注目すべきは摂政せっしょう・関白かんぱくまで廃止した点です。摂政・関白とは、古くは藤原氏が1000年以上独占してきた朝廷の最高職。これらをすべて廃止し、すっきりした状態で新政府を作ろうとしたのです。「神武天皇の時代に戻る」という名目で、過去の既成権力を全部クリアしたともいえます。

王政復古の大号令 原文エッセンスと現代語訳

【原文(抜粋)】「幕府廃絶、摂関廃止ノコト。諸事神武創業ノ始ニ原キ……三職ヲ置カレ……」

【現代語訳】「幕府と摂政・関白の制度を廃止する。すべての事柄は神武天皇が国を建てた頃のあり方にさかのぼって……(新政府に)三職を置く……」

📌 三職の構成(今でいう「内閣の前身」のようなもの)
総裁そうさい:有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう(皇族・最高責任者)
議定ぎじょう:有力な大名・公家(政策立案グループ)
参与さんよ:薩摩・長州・土佐など倒幕藩の藩士たち(実務担当)

三職の「参与」に薩摩・長州など倒幕側の藩士が多数入ったことがポイントです。形の上では天皇が中心ですが、実際の権力は薩摩・長州が握る——これが新政府の実態でした。この三職を中心とする体制は、後に太政官制度へと発展していきます。

一方で、同日夜の小御所会議では、慶喜への内大臣辞退と領地返上の要求が議論されました。新政府の組織を決める宣言と、徳川家の政治的・経済的な基盤をどう扱うかという交渉は、別の段階です。

ゆうき
ゆうき

テストに「三職」って出るの?「総裁・議定・参与」ってセットで覚えなきゃいけない?

もぐたろう
もぐたろう

三職の「設置」そのものは頻出だよ!名称を全部覚えるより「幕府廃止のかわりに置かれた新政府の役職が三職」という意味を理解するのが大事。入試で「三職を何という」と聞かれたら「総裁・議定・参与」とセットで書けると完璧!



大政奉還と王政復古の大号令の違いをわかりやすく解説

「大政奉還」と「王政復古の大号令」はどちらも旧暦では1867年にあたる慶応3年のできごとで、混同されやすいです。しかし、主体・内容・目的がまったく異なります。

比較項目大政奉還王政復古の大号令
実施日1867年旧暦10月14日1867年旧暦12月9日
主体徳川慶喜(将軍側)岩倉具視・薩摩・長州(倒幕側)
何をしたか統治権を朝廷へ返上幕府廃止・三職設置を宣言
目的朝廷への政権返上と、新たな政治体制への転換幕府などの旧制度を廃止し、新政府を組織する
性格幕府側の政治的判断倒幕派によるクーデター

ポイントは「大政奉還は徳川側が出した」のに対し、「王政復古の大号令は倒幕側が出した」という点です。慶喜は大政奉還で「政権を返した上で新政府に参加しよう」と考えていましたが、岩倉具視はその翌々月、「そもそも徳川を入れない新政府」を作る宣言を出したのです。

大政奉還は政権の返上、王政復古の大号令は幕府などの旧制度の廃止と新政府の組織という別の段階です。「大政奉還→王政復古の大号令→小御所会議」という流れを押さえることが、幕末理解の鍵です。

あゆみ
あゆみ

これって実質クーデターだったってこと?天皇の名前を使って無理やり幕府を廃止したってイメージなんだけど。

もぐたろう
もぐたろう

クーデターと説明される政変だね。天皇の名で幕府などの制度を廃止し、新政府を組織したんだ。ただし、慶喜の参加を求める人々もいて、その処遇をめぐる議論はこの後も続くよ。

大政奉還後も、慶喜が新しい政治に参加できるかどうかは重要な争点でした。倒幕派だけでなく、慶喜の参加を求める諸侯の動きにも目を向けると、その後の議論が理解しやすくなります。



王政復古の大号令と小御所会議——慶喜の運命が決まった夜

王政復古の大号令が発せられた1867年旧暦12月9日の夜、京都御所の小御所こごしょ(天皇の居室に近い御所の一室)で、重大な会議が開かれました。これが小御所会議です。

会議では、新政府への参加をめぐって激しい議論が起きました。山内容堂やまのうちようどう(土佐藩主)や松平春嶽まつだいらしゅんがく(越前藩主)らは「慶喜公を会議に呼ぶべきだ」と主張。しかし岩倉具視らはこれを断固として拒否します。

「勅命ちょくめい(天皇の命令)にすでに基づいている。今さら慶喜を呼ぶ必要はない」——岩倉はそう言い切りました。天皇の名義を使って先に既成事実を作ってしまった倒幕派の戦略が、ここでも発揮されたのです。

容堂にはこんな逸話が伝わっています。「鯨海酔侯げいかいすいこう」とあだ名されたほどの大酒飲みだった容堂は、この夜も会議前に深酒をして乗り込んできたとされています。「一橋(慶喜)は英雄豪傑。岩倉のような廷臣に武家の事情の何がわかるか!」と怒鳴りつけた容堂に対し、岩倉具視は冷静に一言切り返しました。「これはすべて天皇の御意思にございます」——という逸話もあります。ただし、会議では慶喜の処遇をめぐる意見の対立があり、異論がなくなったわけではありません。

📌 辞官納地じかんのうちとは?
小御所会議で倒幕派が慶喜に突きつけた要求のこと。
「辞官」=内大臣の官職を返上すること
「納地」=徳川家の領地を朝廷に返上すること
→ 慶喜の政治的・経済的基盤に関わる要求

官位と領地は、慶喜の政治的・経済的な基盤でした。辞官納地は、その基盤に関わる重い要求であり、慶喜の新政府への参加をめぐる対立の中心となります。

山内容堂らは慶喜の参加を求め、倒幕派と対立しました。会議で決まった要求だけでなく、それに異論を唱えた勢力があったことも押さえておきましょう。

小御所会議では慶喜に内大臣の官位辞退と領地返上を求める方針が決まります。ただし、その後も徳川慶勝とくがわよしかつや松平春嶽らによる調整が続いており、この夜に慶喜の政治的復帰の可能性が完全に失われたわけではありません。

小御所会議の後、慶喜は大坂城(現・大阪城)へ退きます。その後も処遇をめぐる調整が続く一方、薩摩藩と旧幕府側の対立は深まり、1868年旧暦1月、鳥羽・伏見の戦いとば・ふしみのたたかいが勃発。これが戊辰戦争へとつながっていきます。

徳川慶喜の肖像
徳川慶喜。大政奉還後、王政復古の大号令で政治から排除された(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

王政復古の大号令は新政府の組織を宣言し、小御所会議は慶喜の処遇を議論した場でした。新政府が成立した一方、徳川家をどう位置づけるかという問題は、その後の調整や対立へと続きます。



王政復古の大号令のその後——戊辰戦争へ

小御所会議の後、徳川慶喜は京都から大坂城(現・大阪城)へ移ります。慶喜の処遇をめぐる調整が続く一方、江戸での薩摩側の活動と薩摩藩邸焼き討ちなどによって双方の緊張が高まり、鳥羽・伏見の戦いへとつながりました。

王政復古の大号令から約3週間後の1868年(慶応4年)旧暦1月3〜6日(新暦1月27〜30日)、旧幕府軍と新政府軍が京都南部の鳥羽とば・伏見ふしみで衝突します。これが鳥羽・伏見の戦いとば・ふしみのたたかいです。

📌 戊辰戦争(1868〜1869年)の流れ
① 鳥羽・伏見の戦い(1868年旧暦1月)→旧幕府軍が薩長軍に敗北
② 慶喜が大坂から江戸へ脱出→幕府の軍事的抵抗力が急落
③ 勝海舟と西郷隆盛の交渉→江戸城無血開城えどじょうむけつかいじょう(旧暦1868年4月11日・新暦5月3日)
④ 東北・北越の抵抗続く(奥羽越列藩同盟)
⑤ 函館戦争はこだてせんそう(1869年旧暦5月)終結→戊辰戦争終わる

鳥羽・伏見の戦い(錦絵)
鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)。旧幕府軍vs新政府軍の激突(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍が官軍を示す「錦旗きんき」(天皇軍の旗印)を掲げました。旧幕府側は朝敵とされ、諸藩の動きにも影響しました。王政復古の大号令で種を蒔いた「天皇の権威による合法化」という戦略が、戦場でも効果を発揮したのです。

慶喜は江戸に戻り、恭順(従うこと)の姿勢を示します。勝海舟と西郷隆盛の交渉により、江戸城は旧暦1868年4月11日(新暦5月3日)に無血で開城されました。その後、東北・北越での抵抗が続きましたが、1869年旧暦5月の函館戦争終結をもって、戊辰戦争は終わります。

こうして、王政復古の大号令から始まった「新政府樹立」という既成事実が、戦争による実力行使で確定していったのです。約1年半にわたる戦いの末、日本は明治政府による統一国家への道を歩み始めました。

もぐたろう
もぐたろう

王政復古の大号令→小御所会議→鳥羽・伏見→江戸城無血開城→函館戦争終結という出来事がつながり、新しい政治体制へ移っていったんだ。岩倉具視が仕掛けたクーデターは、結果的に日本を明治維新へと導く核心的なターニングポイントだったんだよ!



王政復古を動かした中心人物たち

王政復古の大号令を実現させた背後には、3人の中心人物がいました。公家側の司令塔・岩倉具視、薩摩藩の実力者・大久保利通、そして薩摩の軍事的象徴・西郷隆盛の3人です。

岩倉具視(1825〜1883)——クーデターの頭脳

岩倉具視いわくらともみは、朝廷の公家出身の政治家です。もともとは和宮降嫁(皇族の婚姻で幕府との融和を図る政策)を推進したことで「幕府寄りの人物」とみなされ、一時は京都から追放されていました。しかし幕末の政局が激変する中で倒幕派に転じ、薩長と手を結んで王政復古の大号令を主導しました。

この「追放」期間は、実に約3年半におよびます。1863年の政変から1867年の赦免まで、岩倉は京都北郊の岩倉村いわくらむら(現・京都市左京区)の農家に身を潜め、表舞台から完全に姿を消していました。身分を奪われ農家に蟄居しながらも、岩倉は「天皇の権威を使って倒幕を実現する」という構想を練り続けたのです。やがて政局が変わり赦免されると、岩倉は蟄居中に磨き上げた戦略を一気に実行に移します——それが王政復古の大号令でした。雌伏3年半が、岩倉をより緻密な戦略家へと育てたといえるでしょう。

岩倉の最大の強みは「朝廷の権威を使いこなす能力」でした。武力を持たない公家でありながら、薩長という軍事力を背景に、天皇の名義で政治的事実を次々と作り出す——この戦略が王政復古の大号令を成功させた最大の要因です。

あゆみ
あゆみ

岩倉具視ってどんな人なの?公家なのに政治的にそんなに強かったの?

もぐたろう
もぐたろう

岩倉具視は朝廷内のパワープレーが得意な政治家だよ!自分では軍隊を持てない公家だからこそ、「天皇の名義」という最大の武器を使いこなした。薩長という軍事力と組み合わせることで、新政府を組織する政変を進めたんだ。ただし、慶喜の参加を求める異論もあり、その処遇の調整は続いたよ。

大久保利通(1830〜1878)——倒幕の実務担当

大久保利通
大久保利通。王政復古クーデターで薩摩藩の実務を取り仕切り、御所の包囲を実現させた(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

大久保利通おおくぼとしみちは、薩摩藩出身の政治家で、岩倉具視の最大の協力者です。王政復古の大号令では、薩摩藩の軍を御所の警備に配置するという実務を担いました。御所の警備を固めることは、政変を進めるうえで重要な役割を果たしました。

大久保は西郷隆盛の旧友でもありましたが、後に政治路線で対立。西郷が西南戦争で敗れると、大久保は内務卿(今でいう内相)として明治政府の基礎を築きますが、1878年に暗殺されます。「維新の三傑」の一人として、西郷隆盛・木戸孝允とともに明治維新の中心人物として知られています。

西郷隆盛(1828〜1877)——薩摩の象徴

西郷隆盛
西郷隆盛。薩摩藩兵を率いて御所の門を固め、王政復古の実行部隊となった(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

西郷隆盛さいごうたかもりは、薩摩藩の軍人・政治家です。王政復古の大号令の計画段階では岩倉・大久保と密接に連携し、実行時には薩摩藩兵を率いて御所の警備を担いました。鳥羽・伏見の戦いとば・ふしみのたたかいでも活躍し、戊辰戦争の勝利に貢献します。

その後、西郷は征韓論をめぐって大久保らと対立し政府を去ります。1877年、鹿児島の士族たちを率いて起こした西南戦争せいなんせんそうに敗れ、城山しろやまで自刃。「維新の英雄」として現代でも多くの人々に親しまれています。

ゆうき
ゆうき

岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛の3人の役割ってテストで出る?どう覚えればいい?

もぐたろう
もぐたろう

この章の3人は、岩倉=朝廷側の政治工作、大久保=薩摩側の実務、西郷=軍事という役割で整理すると覚えやすいよ。ただし、維新の三傑いしんのさんけつは西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允を指すから、岩倉を含むこの3人とは区別しよう。「大久保利通が行ったことはどれか」といった人物と出来事を結びつける問題にも役立つよ!



テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 王政復古の大号令(1867年旧暦12月9日):岩倉具視ら倒幕派が天皇の名で発した宣言。江戸幕府・摂政・関白を廃止し、三職(総裁・議定・参与)を設置した
  • 三職の設置:総裁(有栖川宮熾仁親王)・議定(有力大名・公家)・参与(薩摩・長州など倒幕藩士)の3役職。太政官制度の前身
  • 大政奉還(旧暦10月14日)との順番と違い:大政奉還は徳川慶喜が政権を返上した行為(幕府側)、王政復古は倒幕派が新政府設立を宣言したクーデター(倒幕側)
  • 小御所会議と辞官納地:同日夜に開かれた会議で、慶喜に内大臣辞職・領地返上(辞官納地)を要求。慶喜の処遇をめぐる対立が続いた
  • 岩倉具視・倒幕の主体:公家出身の岩倉具視が司令塔。薩摩(大久保利通・西郷隆盛)・長州(木戸孝允)が実行部隊
  • 鳥羽・伏見の戦い→戊辰戦争:王政復古の大号令から約3週間後(1868年旧暦1月)。旧幕府軍vs新政府軍の内戦へと発展し、1869年旧暦5月に新政府が勝利

📌 暗記のコツ:「大政奉還→王政復古→小御所会議→鳥羽・伏見」の4ステップを流れで覚えると確実!王政復古の大号令は大政奉還(旧暦10月)の約2か月後(旧暦12月)という点もよく問われる。「大政奉還で幕府が終わった」は不正確で、政権返上・制度廃止・城明け渡しを段階として区別しよう。

比較問題でよく出るポイント大政奉還王政復古の大号令
時期1867年旧暦10月14日1867年旧暦12月9日
主体・誰が?徳川慶喜(幕府側)岩倉具視・薩長(倒幕側)
行為の種類政権返上(自分から)新政府樹立宣言(クーデター)
廃止されたもの将軍の統治権幕府・摂政・関白の制度
設置されたものなし三職(総裁・議定・参与)
慶喜の立場自ら手放した当初の三職に含まれなかった

ゆうき
ゆうき

「三職」って全部の名前を書けないといけないの?共通テストでどう出る?

もぐたろう
もぐたろう

共通テストは基本的に選択問題だから「総裁・議定・参与」の名前を全部書く必要はないよ!「三職とは何か」「誰が参与になったか」という理解問題が多い。記述式の大学では「三職の名称と各役職の担当者」を書けると完璧。まず「三職=新政府の3つの役職」という意味をしっかり押さえよう!



もっと深く知りたい人へ——おすすめの本

もぐたろう
もぐたろう

王政復古の大号令についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①〔幕末・明治維新の全体像を学びたい人〕なら|王政復古の大号令を専門的に掘り下げた決定版

王政復古 天皇と将軍の明治維新

久住真也 著|講談社現代新書



よくある質問

「王政復古」とは「天皇による政治(王政)を取り戻す(復古)」という意味で、「大号令」は「天皇の名で出された大きな命令」のことです。つまり「天皇中心の政治に戻すという大きな宣言」を意味します。1867年旧暦12月9日に岩倉具視ら倒幕派が明治天皇の名のもとに発し、江戸幕府・摂政・関白の廃止と三職(総裁・議定・参与)の設置を宣言しました。

大政奉還(旧暦1867年10月14日。新暦11月9日)は、徳川慶喜が政権を朝廷へ返上した行為です。王政復古の大号令(旧暦1867年12月9日。新暦1868年1月3日)は、岩倉具視らが天皇の名で幕府などの旧制度の廃止と新政府の設置を宣言した政変です。政権を返すことと、新しい政府を組織することを区別しましょう。

1867年(慶応3年)の旧暦12月9日、新暦では1868年1月3日に出されました。大政奉還(旧暦10月14日。新暦11月9日)の約2か月後です。早朝、薩摩などの藩兵が御所を固め、岩倉具視らが天皇の名で発しました。同日夜の小御所会議では、慶喜への辞官納地要求をめぐって議論が起きます。

小御所会議とは、王政復古の大号令が発せられた旧暦1867年12月9日(新暦1868年1月3日)の夜に、京都御所の小御所で開かれた新政府の会議です。慶喜に内大臣辞退と領地返上を求める方針が決まりましたが、山内容堂らは慶喜の参加を求めて対立しました。その後も徳川慶勝や松平春嶽らによる調整が続き、この会議だけで政治復帰が不可能になったわけではありません。

「大政奉還(旧暦10月)→王政復古の大号令(旧暦12月)→小御所会議(同日夜)→鳥羽・伏見(翌年旧暦1月)」という流れをストーリーで理解しましょう。大政奉還から王政復古までは約2か月、王政復古から鳥羽・伏見の開戦までは約3週間です。順序と間隔を結びつけると、年表の混同を防げます。

「おうせいふっこのだいごうれい」と読みます。検索でよく見られる「大政復古の大号令たいせいふっこのだいごうれい」は誤りです。「大政奉還たいせいほうかん」という言葉と混同しやすいですが、「王政おうせい=天皇の政治」であり「大政たいせい=幕府の政権」とは異なる言葉なので注意が必要です。



まとめ——王政復古の大号令で日本はどう変わったか

王政復古の大号令 ポイントまとめ
  • 1867年旧暦12月9日:岩倉具視らが天皇の名のもとで大号令を発し、新政府を組織した
  • 廃止:江戸幕府・摂政・関白。旧来の制度を廃止した
  • 新設:三職(総裁・議定・参与)。後の太政官制度・明治政府の前身
  • 大政奉還(旧暦10月)の約2か月後:新政府を組織したが、慶喜の処遇をめぐる調整と対立は続いた
  • 小御所会議→辞官納地要求→戊辰戦争→明治政府成立:その後の調整と対立を経て、新たな政治体制へ移行

もぐたろう
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以上、王政復古の大号令のまとめでした!大政奉還・小御所会議・戊辰戦争とセットで流れを覚えると、幕末のドラマがグッとリアルに感じられるようになるよ。下の記事もぜひあわせて読んでみてね!

王政復古の大号令 関連年表
  • 1853年
    ペリー来航・鎖国終わり幕府の権威失墜始まる
  • 1858年
    安政の大獄・開国派が反対派を弾圧
  • 1860年
    桜田門外の変・大老・井伊直弼が暗殺される
  • 1866年
    薩長同盟の成立・倒幕への連携強化
  • 1867年旧暦10月14日
    大政奉還・徳川慶喜が政権を朝廷へ返上
  • 1867年旧暦12月9日
    王政復古の大号令・幕府廃止・三職設置
  • 1867年旧暦12月9日夜
    小御所会議・辞官納地を求める方針。後も調整が続く
  • 1868年旧暦1月
    鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争始まる
  • 1868年旧暦4月11日
    江戸城無血開城・新政府が江戸を制圧(新暦5月3日)
  • 1869年旧暦5月
    函館戦争終結・明治政府の全国統一完成

📅 部分確認:2026年10月(日付・政治過程・維新の三傑) / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「王政復古 (日本)」(2026年5月確認)
コトバンク「王政復古の大号令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「小御所会議」(ブリタニカ国際大百科事典)
山川出版社『詳説日本史』

Historist(山川出版社)「大政奉還」「王政復古の大号令」「小御所会議」「降官納地問題」、国立公文書館アジア歴史資料センター「両暦年表」、国立国会図書館憲政資料室「1860年代以前の日記より」、国立国会図書館『あの人の直筆』第2部第1章第3節、那須町「木戸孝允(1833~77)とその書」(2026年10月の部分確認:暦・政治過程・維新の三傑)

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