今回は、1867年12月に起こった王政復古の大号令についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に王政復古の大号令の概要を紹介しておきます。
この記事では王政復古の大号令について以下の点を中心に解説を進めていきます。
そもそも「王政復古」とは?
本題に入る前に、「王政復古」の言葉の意味を確認しておきます。
「王政」は王による政治。日本の場合は天皇が王なので、
「王政」=「天皇による政治」
これが復古(古来のものが復元される)するので、合わせると
天皇による政治(天皇親政)が復活する!
という意味になります。
王政復古の大号令までの流れ
次に王政復古の大号令までの時代の流れをチェックしておきます。
- 1866年
- 1867年10月幕府、大政奉還の上表を提出
幕府は徳川家の力を維持することを条件に、朝廷に政治の大権を返上する旨を伝える。
新政府から幕府の影響を排除したい長州藩・薩摩藩、そして岩倉具視らの公卿はこれに猛反対。
- 1867年12月王政復古の大号令←この記事はココ
幕府関係者を御所から追い出した上で、王政復古の声明発表。最初の会議で、徳川家の地位と所領を剥奪することを強行決定(クーデター決行!)。
- 1868年1月鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の初戦)
勝手な決定に怒った徳川慶喜が挙兵。
クーデターの計画
王政復古の大号令は、江戸幕府が朝廷に対して大政奉還の上表を提出したことにより始まります。
15代将軍の徳川慶喜は土佐藩の山内容堂の勧めにより、以下のような条件で幕府が持っている全権を朝廷に返上することを提案します。
幕府の全権を朝廷に返上(大政奉還)しても良い。ただし、新しい政治体制ができた際には、徳川家に今と同程度の地位を保証せよ。
1862年から朝廷と幕府は公武合体を目指していましたが、相反する意見を持つ両者が歩み寄ることはありませんでしたが、遂に幕府側から公武合体について提案が出されたのです。
公卿たちの多くはこれに喜びました。
遂にあの幕府が、朝廷に譲歩してきた!!
鎌倉時代以降、ほとんど政治の実権を持たなかった朝廷がいよいよ政治を担うことができるのだ!
・・・が、これに強い不満を持つ者もいました。それが
○倒幕を目指す長州・薩摩
○徳川慶喜の意図を見抜いていた岩倉具視ら一部の公卿たち
でした。
徳川家が力を持ち続ける限り、大政奉還は形だけになる。徳川慶喜の案は、一見朝廷に譲歩しているようだが、その実は朝廷を呑み込んでしまうと言う魂胆だろう。
名実ともに大政奉還を成し遂げるには、徳川の力を排除しなければならぬ。
この岩倉具視の考え方に賛同した長州藩・薩摩藩は、徳川慶喜の力を温存したままでの大政奉還を阻止するべく、政治クーデターを計画することになります。
王政復古の大号令
クーデターの決行日は1867年12月9日。
一部の関係者にのみ御所への召集命令が行われ、部外者は御所に入れぬよう長州藩などの兵が御所を囲みました。
この「部外者」とは、主に幕府関係者のことを指します。
そして、幕府関係者のいない御所において遂に王政復古の大号令が宣言されました。
王政復古の大号令は、主に以下のような内容でした。
王政復古とは天皇親政を目指す政治なので、幕府と同時に摂政や関白という旧来の制度も廃止されました。
王政復古の大号令には書かれていませんが、院政も当然ダメです。天皇は終身制となり院政への道も封じられました。天皇終身制は、1889年に制定される大日本帝国憲法により定められることになります。
「参与」の役職には薩摩藩を筆頭とする有力諸藩の人物が採用されることとなり、これによって長州・薩摩藩らが目指した雄藩連合が遂に実現することになりました。
王政復古の大号令に合わせて総裁・議定・参与が次々と決められましたが、本来なら選ばれるべき、ある人物の名前がありませんでした。それが15代将軍の徳川慶喜です。
徳川慶喜は「将軍に今と同程度の地位を保証する」という条件で大政奉還を受け入れましたが、岩倉具視らの強硬な決定でこの約束は反故となりました。
小御所会議
ただし、一方的に慶喜を除外するわけではありません。岩倉具視らは、以下の条件を飲むのなら、慶喜を新政府に加えても良いと考えていました。
王政復古の大号令の後(12月9日の夜)、この条件について議論をするため小御所という場所で新政府初の会議が開かれます。
この会議はかなり紛糾しました。というのも、こんな条件を徳川慶喜が受け入れるはずがないからです。それに、自ら大政奉還を申し出た幕府に対してあまりにも過酷な処分です。
しかし、この過酷な条件こそが岩倉具視と長州藩・薩摩藩の計画でした。なぜなら、徳川慶喜が条件を飲んでも飲まなくても、旧幕府勢力を一掃できるからです。
最初から旧幕府軍と戦争をするつもりだった長州・薩摩としては、むしろ条件を拒否してくれた方が良い・・・とすら思っていたかもしれません。
激論が交わされた結果、岩倉具視らの案は受け入れられ、これを知った徳川慶喜は大激怒。一ヶ月ほどは静観しますが、1868年1月に新政府側の挑発行為に耐えきれず遂に挙兵。新政府のある京へ進攻することになります。
これも岩倉具視らの計画通りです。戦う理由をわざわざ旧幕府側から与えてくれたわけですからね。こうして、京都南部の鳥羽・伏見で新政府軍VS旧幕府軍の戦いが開戦。戊辰戦争が始まります。
王政復古の大号令から始まる岩倉具視らのクーデターは見事に成功し、旧幕府勢力を戊辰戦争へと誘導することに成功したのです。
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