
今回は箱館戦争(五稜郭の戦い)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!戊辰戦争の最終局面で、榎本武揚・土方歳三ら旧幕府軍がどう戦い、なぜ敗れたのか——意外なドラマが詰まってるんだ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応
「旧幕府軍は、最初から勝ち目のない戦いに挑んだ」——そんなイメージを持っている人は多いかもしれません。
でも、実はそうではありません。蝦夷地へ向かった当初、旧幕府軍の海軍力はむしろ新政府軍を上回っていたとされます。最新鋭の軍艦をそろえ、西洋式の要塞・五稜郭を押さえ、選挙で選ばれた政権まで樹立していたのです。
そんな彼らが、なぜわずか半年あまりで降伏することになったのか。今回はその逆転劇に迫っていきます。
箱館戦争(五稜郭の戦い)とは?
① 箱館戦争は1868〜1869年に北海道(蝦夷地)で戦われた、戊辰戦争最後の戦いです。
② 旧幕府軍(榎本武揚・土方歳三ら)が五稜郭を拠点に新政府軍と戦い、1869年(明治2年)5月に降伏しました。
③ この戦いをもって戊辰戦争は終結し、明治政府による全国統一が完成しました。
箱館戦争とは、1868年(慶応4年/明治元年)から1869年(明治2年)にかけて、蝦夷地(現在の北海道)で行われた戦いです。新政府に従わなかった旧幕府軍が、最後まで抵抗した戦いでした。

この戦いは、戊辰戦争という大きな内戦の、いちばん最後の局面にあたります。鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、東北・北越をへて、ついに北の果てまで戦場を移していったのです。
主戦場となったのが、当時の蝦夷地に築かれていた西洋式の要塞五稜郭でした。旧幕府軍がここを拠点に立てこもったため、この戦いは「五稜郭の戦い」とも呼ばれています。

「五稜郭の戦い」と「箱館戦争」って同じこと?テストでどっちで書けばいい?

どっちも同じ出来事を指してるよ!五稜郭が主な舞台だったから「五稜郭の戦い」とも呼ばれるんだ。ただ、教科書やテストでは「箱館戦争」が正式名称として出やすいから、迷ったらこっちで書くのがオススメだよ◎
では、そもそもなぜ旧幕府軍は、はるばる北の蝦夷地まで向かったのでしょうか。次の章では、その背景にある戊辰戦争の流れを追っていきます。
なぜ榎本武揚は蝦夷地へ向かったのか——戊辰戦争の最終局面

戊辰戦争は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いから始まりました。徳川慶喜が大坂から江戸へ退いたあと、新政府軍は東へと進軍していきます。
同年4月には勝海舟と西郷隆盛の交渉によって江戸城が無血開城され、旧幕府はほぼ降伏の形をとりました。しかし、これに納得しない人々もいました。
その一人が、旧幕府海軍の指揮官だった榎本武揚です。彼はオランダに留学して海軍や国際法を学んだ、当時最高レベルの知識人でした。
榎本は「江戸城は明け渡しても、旧幕臣たちの行き場がない」と考えていました。そこで1868年8月、彼は旧幕府海軍の艦隊を率いて品川を脱出し、北の蝦夷地を目指したのです。途中で会津など東北諸藩の敗残兵や、土方歳三ら旧新選組の隊士も合流していきました。

私は、ただ新政府に逆らいたいわけではない。職を失った旧幕臣たちが、北の地で新しく生きていける場所をつくりたいのだ。蝦夷地を開拓し、ロシアの南下にも備える——これは日本のためでもある。
つまり榎本にとって蝦夷地行きは、単なる「最後のあがき」ではありませんでした。旧幕臣たちの生活の場を確保し、ロシアの脅威に備えるという、明確な目的を持った行動だったのです。
蝦夷地にたどり着いた旧幕府軍は、やがて独自の政権を立ち上げます。次の章では、その「蝦夷共和国」と、日本初ともいわれる選挙について見ていきましょう。
蝦夷共和国の樹立——日本初の選挙とは?

1868年10月、旧幕府軍は蝦夷地に上陸し、五稜郭をはじめとする要地を次々と押さえていきました。そして同年12月、彼らは独自の政権を樹立します。これがのちに「蝦夷共和国」とも呼ばれる箱館政権です。
この政権で注目されるのが、指導者の選び方でした。なんと、士官(幹部級の兵士)たちの投票によって、最高責任者である総裁を選んだのです。その結果、最高得票で榎本武揚が総裁に選ばれました。
実はこの投票、第一回の結果では松平太郎が最高得票で、榎本武揚は次点だったという記録もあります。しかし榎本本人が辞退し、最終的に投票で選ばれる形をとったと伝えられています。「民主的な手続きを尽くした」というこだわりには、オランダ留学で西洋の政治制度を間近で見てきた榎本らしさが滲み出ています。
身分や家柄ではなく、投票で指導者を決める——これは江戸時代の常識からすると、きわめて異例なことでした。そのため、この出来事は「日本初の選挙」とも語られることがあります。

選挙で総裁を選んだって、江戸時代の日本にそんな仕組みがあったの?すごくない?

これは榎本がオランダ留学で西洋の政治を学んでいたからこそできたことなんだ。ただし、投票したのは士官だけで、住民全員が選べたわけじゃないんだよ。だから「本当に日本初の選挙といえるか」は諸説あり。それでも、当時としては画期的な試みだったのは間違いないよ!
- 総裁:榎本武揚
- 副総裁:松平太郎
- 陸軍奉行:大鳥圭介
- 陸軍奉行並(副官):土方歳三
- 海軍奉行:荒井郁之助
こうして体制を整えた蝦夷政権でしたが、平穏な時間は長く続きませんでした。次の章では、上陸から降伏までの戦いの流れを、時系列で追っていきます。
箱館戦争の経緯・時系列
ここからは、1868年10月の蝦夷地上陸から、1869年5月の降伏までの約半年間の流れを、4つの段階に分けて追っていきます。
■旧幕府軍の蝦夷地平定(1868年10月〜)
1868年10月、旧幕府軍は蝦夷地の鷲ノ木に上陸しました。当時の蝦夷地を治めていた箱館府の兵力は乏しく、旧幕府軍は大きな抵抗を受けずに箱館を占領します。
その後、土方歳三らが松前城を攻め落とし、蝦夷地の主要な拠点をほぼ手中に収めました。そして同年12月、五稜郭を本拠地として蝦夷政権を発足させたのです。

松前城は俺が落とす。ここまで来た以上、もう後ろには引けん。新選組の意地、この北の地で示してみせる。
ただし、11月には大きな痛手も受けていました。旗艦の開陽丸が江差沖で座礁・沈没してしまったのです。旧幕府海軍の主力艦を失ったこの出来事は、のちの戦いに暗い影を落とすことになります。

■宮古湾海戦(1869年3月)——転換点
年が明けた1869年、戦況の転機となる海戦が起きます。新政府軍が手に入れた最新鋭の装甲艦「甲鉄」を、旧幕府軍が奪い取ろうとしたのです。
3月、旧幕府軍は回天・高雄・蟠龍の3艦を率いて、甲鉄が停泊する岩手県の宮古湾に奇襲をかけました。これが宮古湾海戦です。

しかし作戦は失敗に終わります。悪天候で参加できたのは回天1隻のみ。決死の斬り込みも実を結ばず、甲鉄の奪取はかないませんでした。開陽丸の喪失とこの失敗が重なり、旧幕府軍は海の主導権を完全に失っていきます。
この宮古湾海戦では、土方歳三や荒井郁之助らが船から甲鉄の甲板に直接飛び移る「斬り込み」を決行しています。甲鉄が装備していた装甲と機関銃の前に、勇猛な斬り込みも通じませんでした。この失敗の後、旧幕府軍が制海権を取り戻す機会は二度と来ませんでした。

「宮古湾海戦」ってあまり教科書で見ないけど、そんなに大事な戦いだったの?

教科書では戊辰戦争のひとことで片づけられがちだけど、実はここが勝敗の分かれ目なんだ。海を制せなくなった旧幕府軍は、本州からの新政府軍の上陸を止められなくなる。だから「転換点」としてはすごく大事な戦いなんだよ!
■新政府軍の上陸と各地の戦い(1869年4月〜)
海の主導権を握った新政府軍は、いよいよ蝦夷地への上陸を開始します。1869年4月、黒田清隆らが率いる新政府軍が、蝦夷地南西部の乙部に上陸しました。
新政府軍は木古内・松前など各方面へ進軍し、旧幕府軍を追い詰めていきます。そのなかで激戦となったのが、二股口の戦いでした。

ここで指揮を執ったのが土方歳三です。土方は険しい地形を巧みに利用した防衛戦で、数で勝る新政府軍を一時押し返しました。彼の最後の輝きともいえる、見事な奮戦だったとされています。

■土方歳三の最期と箱館総攻撃(1869年5月)

1869年5月、新政府軍はついに箱館への総攻撃を開始します。各地で旧幕府軍は追い詰められ、五稜郭への包囲が狭まっていきました。
そんな5月11日、味方の弁天台場を救援するために出撃した土方歳三は、一本木関門のあたりで敵の銃弾に倒れ、戦死しました。享年34(数え年35)。最後まで戦い続けた、壮絶な最期でした。
土方が戦死した場所に関して、目撃者の証言は「一本木関門付近での銃弾」で一致しています。しかし、最期の瞬間にどのような行動をとっていたかについては諸説あり、「馬上で指揮を執っていた」「馬から降りて徒歩で前進した」など記録がわずかに食い違います。いずれにせよ、最後まで前線に立ち、退かなかったことだけは確かです。旧知の仲間たちは「鬼の副長」と呼ばれ恐れられたかつての姿を、この地で見届けました。

味方が危ない、ここで退くわけにはいかん。たとえ勝ち目が薄くとも、最後まで戦い抜く——それが武士というものだ。
土方の死後も五稜郭は持ちこたえましたが、もはや勝機はありませんでした。そして1869年5月18日、榎本武揚が降伏し、箱館戦争は終結します。これによって戊辰戦争も完全に幕を閉じたのです。
それにしても、最新鋭の艦隊と西洋式の要塞をそろえていた旧幕府軍が、なぜ敗れたのでしょうか。次の章では、その敗因を5つに整理して見ていきます。
旧幕府軍はなぜ敗れたのか——5つの敗因
装備の面では決して劣っていなかった旧幕府軍。それでも敗れた理由は、大きく5つにまとめられます。
敗因①:兵力の絶対的な差(新政府軍が大きく上回る)
敗因②:制海権の喪失——開陽丸の沈没と宮古湾海戦の失敗
敗因③:補給の壁——本州と分断され物資が枯渇
敗因④:列強の中立——フランス・イギリスが軍事支援を引き上げ
敗因⑤:民衆の支持が得られず——蝦夷地住民は静観
①陸上兵力差。そもそも、戦える陸軍の人数が大きく違いました。海軍力では当初優位に立っていた旧幕府軍も、陸上では新政府がすでに全国の大名を従えており、続々と兵を北へ送り込んできます。孤立した旧幕府軍が、これに数で対抗するのは困難でした。
②制海権の喪失。旧幕府軍の最大の強みは海軍力でした。しかし開陽丸の沈没と宮古湾海戦の失敗で、その優位はあっという間に崩れます。海を押さえられたことで、新政府軍の上陸を防げなくなりました。
③補給の途絶。蝦夷地は本州から海で隔てられています。海の主導権を失うと、武器も弾薬も食料も送ってもらえません。持久戦になるほど不利になる構造でした。
④列強の中立。当初フランスなどは旧幕府寄りでしたが、新政府を正式な政府として認めると、各国は中立を宣言します。これにより、旧幕府軍は外国からの軍事支援を期待できなくなりました。
⑤民衆の支持不足。旧幕府軍は「新天地の開拓」を掲げましたが、蝦夷地の住民を味方に引き込むまでには至りませんでした。地元の支えがないまま、孤立を深めていったのです。

結局、装備で勝っていても補給と兵力で負けたってこと?なんだか現代の戦争にも通じる教訓ね。

まさにそのとおり!戦いって、最後は補給(ロジスティクス)が勝負を決めることが多いんだ。海の向こうに孤立した蝦夷地では、どんなに強い艦や武器を持っていても、それを支え続けることができなかった——ここが最大のポイントだね。
敗れた旧幕府軍のリーダー・榎本武揚。実は彼は、降伏後に処刑されるどころか、明治政府で重要な役職に就いていきます。次の章では、その意外なその後を見ていきましょう。
榎本武揚はなぜ処刑されなかったのか——赦免の経緯
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚は五稜郭を明け渡し、新政府軍に降伏しました。賊軍を率いた首謀者として、当時の常識ではまず死罪を免れない立場です。
実際、降伏後の榎本は東京へ送られ、約2年半にわたって投獄されます。新政府の内部にも「賊軍の頭目は厳罰に処すべきだ」という強硬な声がありました。普通なら、ここで処刑されていてもおかしくなかったのです。
ところが、彼の助命に動いた人物がいました。箱館で旧幕府軍を攻めた新政府軍の参謀・黒田清隆です。黒田は榎本の知識と人柄に強く感心し、「この人材を死なせるのは国家の損失だ」として、頭を丸めてまで助命を嘆願したと伝えられています。

西郷隆盛ら他の有力者も榎本の才能を惜しみ、最終的に1872年(明治5年)、榎本は特赦により釈放されました。そして釈放後はオランダ留学で培った国際法・海軍・工学の知識を買われ、逓信大臣・海軍卿・文部大臣・外務大臣・農商務大臣など、明治政府の要職を次々に歴任していきます。


かつて刃を交えた相手に仕えるのは、正直、心が痛む。だが、私が学んできた知識を新しい日本のために役立てられるなら、それこそが本当の務めだ。過去に背を向けるのではなく、未来をつくることに使おうと決めたのだ。

つい最近まで敵だった人を処刑しないどころか、大臣にまでするなんて不思議ね。どうしてそんなことが許されたの?

理由は大きく2つあるよ。1つは、当時の日本は近代化を急いでいて、榎本のような国際法や工学の専門家が喉から手が出るほど欲しかったこと。もう1つは、黒田清隆が「敵ながら天晴れ」と惚れ込んで本気で助命に動いたこと。実力と人柄が彼の命を救ったんだね。
榎本武揚はオランダ留学で、当時の最先端だった国際法(万国公法)を学んでいました。彼はこの知識を自分の身を守るためではなく、降伏の場面で活かします。
降伏に際して榎本は、自らが大切にしていたオランダ語の海律全書(海上国際法の専門書)を新政府軍の黒田清隆に贈りました。「この貴重な書物を戦火で失うのは惜しい。新しい日本のために役立ててほしい」という思いからです。
この行動は黒田を強く感動させ、助命嘆願の大きなきっかけになったと伝えられています。武力ではなく知性で相手の心を動かした——榎本らしい近代的なエピソードとして知られています。
🤔 歴史のif:もし榎本武揚が処刑されていたら?
榎本はこの後、日本初の本格的な国際条約交渉に関わり、ロシアとの樺太・千島交換条約をまとめる立役者となります。また北海道の開拓事業にも深く関わりました。もし彼が処刑されていたら、明治日本の対外外交や北海道開拓は、まったく違う道を歩んでいたかもしれません。一人の人材を生かすかどうかが、国の未来を左右することもあるのです。
テストに出るポイント
ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「箱館戦争=戊辰戦争の最後」とセットで覚えるのが鉄則。榎本武揚は「降伏→赦免→明治の大臣」の流れで記憶。土方歳三は「新選組副長→箱館で戦死」で人物伝とセット暗記。制海権を失った原因は「開陽丸の沈没(1868年11月)」と「宮古湾海戦(1869年3月)」の2つで押さえましょう。

テストで「箱館戦争と戊辰戦争の関係」を聞かれたら、どう答えればいいの?

こう書けば満点だよ。「箱館戦争は戊辰戦争の最終局面で、北海道(蝦夷地)で行われた戦いです。1869年5月の旧幕府軍降伏によって戊辰戦争は終結し、明治政府による全国統一が完成しました」——この一文を丸ごと覚えておけば、記述問題はバッチリ!
よくある質問(FAQ)
1868年(慶応4年/明治元年)10月、旧幕府軍が蝦夷地の鷲ノ木に上陸したところから始まり、1869年(明治2年)5月18日の榎本武揚の降伏で終わりました。約7か月にわたる戦いです。なお戦闘の山場となった箱館総攻撃は1869年5月11日でした。
五稜郭はもともと、江戸幕府が箱館の防衛と蝦夷地統治のために築いた西洋式の城郭(1864年完成)でした。星形の堅固な要塞であり、箱館を治めるための役所機能も備えていたため、蝦夷地を制圧した旧幕府軍が自然と本拠地として利用したのです。
新選組副長だった土方歳三は、鳥羽伏見の戦いから各地を転戦しながら北へ敗走し、最終的に榎本武揚の艦隊に合流しました。すでに大勢は決していましたが、「最後まで武士として戦い抜く」という意地と覚悟が、彼を箱館での戦いへと向かわせたのです。
賊軍の首謀者として投獄されましたが、黒田清隆や西郷隆盛らが「これほどの人材を死なせるのは国家の損失だ」と助命を嘆願しました。1872年に赦免され、オランダ留学で得た国際法・海軍・工学の知識を買われて、近代化を急ぐ明治政府の要職に次々と就くことになりました。
戊辰戦争は1868〜1869年に新政府軍と旧幕府軍の間で戦われた内戦全体を指す言葉です。箱館戦争は、その戊辰戦争の最終局面として北海道(蝦夷地)で戦われた戦いの名前です。つまり「箱館戦争は戊辰戦争の一部(最後の章)」という関係になります。
まとめ

以上、箱館戦争のまとめでした!土方歳三の壮絶な最期や、榎本武揚の意外なその後など、ドラマチックな場面が詰まった幕末の締めくくりだったね。下の記事で戊辰戦争全体の流れや、五稜郭・土方歳三の詳細もあわせて読んでみてください!
- 1868年10月旧幕府軍、蝦夷地・鷲ノ木に上陸
- 1868年11月開陽丸が江差沖で座礁・沈没
- 1868年12月蝦夷共和国(箱館政権)樹立
- 1869年3月宮古湾海戦
- 1869年4月新政府軍、乙部に上陸
- 1869年5月11日箱館総攻撃・土方歳三戦死
- 1869年5月18日榎本武揚が降伏・箱館戦争終結
- 1872年榎本武揚が赦免される
箱館戦争をもっと詳しく知りたい人へ——おすすめの本

箱館戦争・土方歳三・榎本武揚についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!小説・歴史書・通史の3冊で、それぞれ違う切り口から楽しめるよ!
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「箱館戦争」「榎本武揚」「土方歳三」「蝦夷共和国」(2026年6月確認)
コトバンク「箱館戦争」「榎本武揚」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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