今回は、1867年に王政復古の大号令と共に行われた小御所会議についてわかりやすく解説します。
小御所会議の概要を先にまとめておきます↓
この記事では、小御所会議について以下の点を中心に解説を進めていきます。
小御所会議が開かれるまで
最初に小御所会議が開かれるまでの流れをチェックします。
小御所会議の主要メンバー
王政復古の大号令によって新政府の要職である総裁・議定・参与の三職が決まると、その日(1867年12月9日)の夜、さっそく新政府最初の会議が小御所という場所で開かれます。
小御所会議の主要メンバーが以下のとおりです。(この記事で登場する人物のみ掲載。実際はもっといます)
小御所会議、始まる
小御所会議の司会は、中山忠能でした。
江戸幕府が大政奉還を申し出たのを認め、これからの王政の基礎を固めるため、この会議は開かれた。
趣旨に沿って、各議論を尽くしてもらいたい。
王政の基礎を固めるのなら、江戸幕府の関係者がいないのはなぜか。これでは不公平であるから、早くこの場に呼ぶべきだ。
幕府の大政奉還は信用できない。会議に参加するというのなら、幕府は忠誠の実証を示すべきである。
これを聞いた山内容堂はブチギレます。
山内容堂は、幕府に大政奉還を進めた張本人。
本来なら、徳川家は新政府の中でもそれなりの地位が保証される約束だったのに、旧幕府関係者がいない間に王政復古の大号令を発したことで、その約束が反故にされてしまった。
だから、山内容堂は嘘をついた岩倉具視らに激怒した。
なんと陰険か。王政の初めであるというのに、御所を兵で固めるとは、乱でも起こそうというのか。
江戸幕府は260年に渡り、日本を統治してきたものであるぞ。その大功あるものを除け者にするというのは、公議の精神を失っている。
徳川慶喜は、自らの将軍職を投げ打ってまで大政奉還を受け入れたのだぞ。それこそが、忠誠の実証そのものではないか。
後醍醐天皇の建武の新政の例だけ見ても、公家だけで政治を執り行うのは不可能である。それなのに、今ここにいる公家たちは、徳川慶喜抜きにして一体この会議で何を決めようというのか。
そもそも、数人の公卿らが、天子(天皇)が幼いのを良いことに権力を欲しいがままに・・・
ここで、岩倉具視が天皇に言及した山内容堂を叱責します。
天皇の御前である。言葉を慎め。そもそも、この会議はその幼き天子の自らの意思により召されたもの。そなたの発言はあまりにも無礼であるぞ。
怒りに我を失っていた山内容堂はハッと我に返り、発言を撤回。そして、これをフォローするように松平春嶽が発言します。
王政の始めであるというのに、幕府に『忠誠の実証』を示せなどと罪人のようにいうのは良くない。
幕府に至らぬ点があっとしても、やはり200年以上この国を守ってきた功績は評価されるべきではないでしょうか。
ここは山内容堂の言うとおり、徳川慶喜をこの場に呼び、改めて会議をするべきではなかろうか。
「徳川慶喜に官位の辞退(辞官)と土地を朝廷へ納めること(納地)を求める」という辞官納地こそが、岩倉具視らが小御所会議で決めたかった最重要事項でした。
この発言で、小御所会議の真の目的が明らかとなり、山内容堂らもそれを察しました。
岩倉具視め、遂に本性を現したな・・・。
その後、大久保利通が岩倉具視と同じ趣旨の発言を続け、これに対して山内容堂と同じ土佐藩の後藤象二郎が反論します。
その後、議論は平行線のまま。夜6時に始まった小御所会議は夜12時を回ろうとしたところで、休憩に入りました。
西郷隆盛「短剣1つあれば、すぐ決まることだ」
徳川慶喜を守りたい山内容堂らの巧みな弁論により、計画がスムーズに進まずクーデターの首謀者(岩倉具視、薩摩藩士ら)は焦ります。
クーデターで奇襲的に得たこの機会を逃せば、徳川慶喜を新政府から排除するのは難しくなるだろう・・・。
会議に参加していた岩下佐次右衛門は、外で御所の護衛にあたっていた薩摩藩士の西郷隆盛にその様子を報告します。
そして、議論が煮詰まっていることを知った西郷隆盛はこう言ったと言われています。
なに、短刀一本あればすむことではないか。西郷がそう言っていたと岩倉具視や大久保に伝えて欲しい。
岩下佐次右衛門は、西郷の発言を岩倉具視らに伝えます。
話がまとまらなければ、反対派を血に染めるということか。
それほどの覚悟を持てば、このクーデターは簡単だと言いたいのだな。
こうして岩倉具視は短刀を懐に忍ばせ、小御所会議に戻りました。
岩下佐次右衛門の伝言は、他の会議メンバーにも伝わり、岩倉具視に反対だった山内容堂・後藤象二郎・松平春嶽らも「敵が武力行使を覚悟している以上は、さらなる口論は意味がない」と論を交わすことを断念。
休憩後の会議では前半戦のような激論は行われず、岩倉具視の案が採用されることとなりました。クーデターの成功です。西郷隆盛の一言と岩倉具視の覚悟がクーデターを成功へと導きました。
苦悩する徳川慶喜
慶喜に無断で行われた王政復古の大号令、そして小御所会議にて決定された辞官納地に徳川慶喜は悩みます。
特に慶喜を悩ませたのは所領の返上でした。
薩長との戦争は回避したい。しかし、歴代徳川家が築き上げた所領が奪われるというのは流石に納得できない。
もし私がこれを受け入れたとしても、私に従う会津藩たちは納得せず暴走するかもしれない。そうすれば、結局は戦争となるか・・・。
京にいた徳川慶喜は一度大阪城に引き、後を山内容堂に託すことにします。
小御所会議で岩倉具視らに敗れた山内容堂は、その後、朝廷や諸藩への工作活動で巻き返しを図ります。
一方では、西郷隆盛が江戸の街へ暴徒を放ち、江戸の町の治安を悪化させ、旧幕府側が薩摩藩を攻撃するように挑発します。この挑発に乗った旧幕府側は薩摩藩邸を攻撃。こうして、西郷隆盛は旧幕府を攻める口実を手に入れます。
大阪で事態を知った慶喜はもはや戦争は避けられないと判断。京へ進攻し新政府と戦うことを決断します。(これに合わせて山内容堂の朝廷工作も失敗に終わる)
小御所会議から約一ヶ月後の1868年1月になると鳥羽・伏見の戦いが始まり、新政府VS旧幕府の戊辰戦争が勃発することになります。
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