江華島事件を簡単にわかりやすく徹底解説するよ【起こった理由から日朝修好条規までこれでOK!】

今回は、1875年に起こった江華島事件こうかとうじけんについてわかりやすく紹介します。

最初に江華島事件の概要を簡単にまとめておきます。

江華島事件とは・・・

日本の軍艦「雲揚うんよう」が朝鮮の首都「漢城かんじょう」近くの江華島で朝鮮を挑発して戦闘に発展した事件。

江華島事件は1875年に起こり、翌1876年には日朝修好条規にっちょうしゅうこうじょうきを結び、朝鮮を開国させた。

日朝修好条規によって日本は朝鮮に対して釜山プサンほか2港(仁川インチョン元山ウォンサン)を開かせ、日本の領事裁判権や関税免除を認めさせるなどの不平等条約であった。

この記事では、江華島事件について以下の点を中心に解説を進めていきます。

  • なぜ江華島事件は起きたのか
  • 江華島事件の経過は?
  • 江華島事件の後に結ばれた日朝修好条規って何?
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日本と朝鮮の外交史

最初に、当時の日本と朝鮮の関係を簡単を紹介しておきます。

1868年、江戸幕府が滅び明治政府が誕生すると、日本は「列強国と対抗するためにも、隣国と正式に国交を持った方が良いだろう」ということで、朝鮮に対して国交を開くことを求めました。

・・・ところが、朝鮮はこれを拒否。日本が上から目線だったのと、日本に朝鮮侵略の意図を感じたためです。

日本はこれに怒ります。「武力で無理やり国交を開かせてやる!」という征韓論も浮上しますが、朝鮮のバックには清国がついているので、むやみに攻めれば清国との戦争に発展してしまいます。

そこで日本は1871年、清国との条約締結(日清修好条規)に向けて交渉を進めました。

さらに1872年、日本は対馬藩の廃藩(廃藩置県)を報告するため朝鮮へ向かいます。朝鮮へ向かう際、日本は朝鮮を威嚇するためあえて蒸気船で朝鮮へ向かいます。昔に日本がペリーにされたのと同じことを朝鮮に対して行ったのです。

江戸時代、朝鮮との貿易や外交は全て対馬藩を通じて行われました。なので、対馬藩を廃止したことを朝鮮にしっかりと知らせる必要がありました。

しかし、朝鮮は日本の使者を高官に合わせることすらせず、これを追い払ってしまいます。

日本は怒ります。「そうくるなら、こっちだって負けねーよ・・・!」

日本は再び軍艦を朝鮮に派遣し、日本人の在住が認められていた草梁チョリャンという地域で朝鮮のルールを無視して勝手に貿易をしたり、建築物を建て始めます。

もちろん、朝鮮は猛抗議してきますがこれも当然無視です。

日本「不測の事態が起こっても日本から追加で軍艦を送って脅せばOK。むしろ、問題が起こって戦争になった方が国交を求めやすくなるし好都合だ。」

こう考えたわけです。

ここまでが江華島事件の時代背景。すっごく簡単に言うと

日本と朝鮮はめちゃくちゃ仲が悪かった。(日本が様々な理由から、朝鮮に対して強引に国交を求めていて、朝鮮も日本の悪巧みを疑ってそれを頑なに拒んでいた)

というわけです。

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江華島事件はなぜ起こったのか

次に、江華島事件が起こるまでの経過を時系列で簡単に整理しておきます。

江華島事件までの流れ

経過が若干複雑なので、補足説明しておきます。

偶然か必然か、1873年、日本が明治六年の政変で征韓論を中止すると、それとほとんど同時に朝鮮では日本に対する態度を軟化しました。

さらに、1874年に起こった日本の台湾出兵が朝鮮を再び刺激。日本との戦争を避けたい朝鮮が交渉を持ちかけてくると、日本は朝鮮を威嚇して交渉を有利に進めた・・・というわけです。

日本は1875年5月・6月と二回にわたって威嚇行動を繰り返し、その後9月の威嚇の際に江華島から砲撃を食らうことになります。

江華島事件の謎

江華島はなぜ日本の軍艦を砲撃したのか?その真実は実はわかっていません。

日本はその理由を「軍艦を運航していたら偶然に攻撃された!」としています。

しかし、一方の朝鮮側は、「日本軍艦が計画的に朝鮮が砲撃するよう仕向けたのではないか?」と疑います。(例えば、日本の船だとわからないよう旗を隠したりして朝鮮が間違って砲撃しやすいようにしておく・・・とかね。)

いずれにせよ、日本が朝鮮から見れば威嚇とも思える行動をしていたは事実のようです。

日本としては、「偶発的な砲撃である」ことにして朝鮮を責めたい。

朝鮮としては、「日本が意図的に誘った」ことにして日本を責めたい。

江華島事件の後、この責任の所在について交渉が行われることになります。(その結果が日朝修好条規となります。)

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江華島事件から日朝修好条規へ

事件の後、日本は朝鮮との交渉に臨みます。交渉の目的は朝鮮に鎖国をやめさせて、自由貿易を要求することです。

朝鮮・日本ともに、国内で「戦争をすべきだ!」と言う意見もありました。しかし、朝鮮では1873年の政変以降、日本への態度を軟化していたし、日本も台湾出兵や佐賀の乱の後だったので「戦争は避けたい・・・」というのが主流の意見でした。

しかも、朝鮮の開国は日本のみならず、イギリスやアメリカも望んでいたこと。日本が朝鮮に開国を要求するとなれば、欧米列強国の協力も得られます。そんな打算もあって、日本は交渉を有利に進められると考え強硬な姿勢で交渉に臨むことになります。

交渉を任されたのは、後に2代目の内閣総理大臣となる黒田清隆くろだきよたか

黒田清隆(酒乱で有名)

1876年2月10日、黒田清隆は軍艦を率いて交渉の地である江華島に上陸。あえて軍艦でやってきたのは、朝鮮を軍事的に威圧するためです。これも昔日本がペリーにされたのと同じことをやっています。

交渉は難航しますが、結局、日本の意見が比較的スムーズに採用されました。ペリー戦法の効き目がバツグンだったわけです。

交渉は一ヶ月も立たないうちに成立。1876年2月27日、その成果として日朝修好条規が結ばれました。このあっさりとした交渉の背景には、日本による軍事的威嚇の他にも以下のような国際情勢がありました。

  • 朝鮮のバックにいる清国が朝鮮と日本との争いを望まず、朝鮮に日本の要求を受け入れるよう助言した。(日朝が戦争をして朝鮮が敗北すれば、朝鮮を日本に奪われるかもしれない)
  • イギリスら列強国も日本と同じように朝鮮の開国を望んでいたので、邪魔が入らなかった。
  • 朝鮮内では戦争を望む声もあったが、1873年の政変により少数派だった。

この圧倒的有利な状況の中、日本は朝鮮に対して開国のみならず、日本に有利な不平等な内容まで勝ち取っています。不平等のキーワードは「領事裁判権」「関税自主権」。この2点について簡単に紹介しておきます。

領事裁判権とは・・・

自国で外国人が犯罪を犯しても、外国のルールで裁くことのできる権利のこと。別名「治外法権」。

朝鮮は日朝修好条規によって、日本の領事裁判権(治外法権)を認めました。

つまり、「朝鮮で日本人が犯罪を犯しても、朝鮮のルールではなく日本のルールで裁ける」ということ。逆は認めなかったので不平等・・・というわけです

関税自主権とは・・・

自国の関税を決める権利。

日本は朝鮮に関税自主権を与えず、日本が一方的に関税を決めました(朝鮮の関税自主権の欠如)。

その結果、輸出・輸入ともに「関税はなし!」ということになります。

日本はペリーの外交手法を真似ただけでなく、朝鮮に突き付けた条約内容でもペリーを模倣したことになります。日本が朝鮮に突き付けた不平等の内容は、昔にアメリカが日本に要求した不平等条約「日米修好通商条約」を参考としたものだったからです。

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日清戦争へ・・・

日朝修好条規を締結して以降、朝鮮は清国と日本に挟まれ政治情勢が不安定になっていきます。そして、日本はその隙をついて朝鮮の政治に頻繁に介入しました。

一方の清国も「朝鮮が日本に奪われるのでは?」と警戒心を強めます。1894年、朝鮮で甲午農民戦争(別名:東学党の乱)と呼ばれる内乱が起こると、日本と清国はこれを機に朝鮮を実効支配しようとこの内乱に介入。(もちろん日本と清国は敵同士!)

こうして、朝鮮の内乱を通じて日本と清国の戦争が起こり、これが日清戦争となりました。江華島事件と日清戦争では約30年の時差があるものの、江華島事件は日清戦争が起こるきっかけを作ってしまった事件・・・とも言えるかもしれませんね。



明治時代
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