日米修好通商条約の内容や影響を簡単にわかりやすく解説するよ!【ハリスVS堀田正睦・井伊直弼】

今回は、1858年に結ばれた日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)について解説していきます。

色々書くと長くなってしまうので、この記事では日米修好通商条約の内容と日本に与えた影響を中心にお話を進めていきます。

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日米修好通商条約が結ばれるまでの流れ

内容と影響を中心にと言いつつも時代の流れがわからないと微妙なので、サラッと流れを確認しておきましょう。

日米修好通商条約までの流れ
  • 1853年
    ペリー来航。日本に開国求める

  • 1854年
    アメリカと日米和親条約を結ぶ

    この時、貿易の話だけ保留となる。

  • 1856年
    再度の貿易交渉のため、ハリスが日本にやってくる
  • 1858年
    日米修好通商条約を結ぶ

ハリスの日本との交渉は2年にも及ぶ長期戦となりました。これは、日本が意図的に交渉を遅らせたからです。将軍の体調不良を理由にしたり、ハリスにハニートラップを仕掛けたり、あの手この手で交渉を遅らせました。

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日米修好通商条約の内容

2年に及ぶ交渉の末、結ばれた日米修好通商条約。その内容はざっくりと以下のようなものでした。

日米修好通商条約の内容まとめ
  •  神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港する
  • 2 江戸・大阪での貿易取引を認める
  • 3 開港地では外国人が滞在できる場所を制限する
  • 4 日本で罪を犯した外国人は、日本ではなく外国のルールで裁く。これを治外法権(ちがいほうけん)と呼びます。
  • 5 輸入品・輸出品の関税はアメリカが一方的に決めることができる。これを税自主権(かんぜいじしゅけん)の欠如を言います。

日米修好通商条約は、「アメリカに有利な不平等条約」と呼ばれていますが、その最大の原因は4番と5番の「日本が治外法権を認めたこと」「日本の関税自主権が欠如していること」にあります。

日本で起こった犯罪なのに、日本に外国人を裁く権利がない。逆に日本人がアメリカで犯罪を起こしても、アメリカのルールで裁かれる。

「たくさん輸出したい物は輸出関税を下げる」「あまり日本に入ってほしくない物は輸入関税を上げる」と言ったコントロールを日本はすることができない。でも、アメリカは自国に有利になるようにコントロールできる。

どう考えても不平等です。

しかし、実はこの2つの不平等な内容はあっさりと決まってしまいます。なぜなら、江戸幕府はその部分についてはあまり関心がなかったからです。

治外法権に関しては、そもそも日本人にはまだ外国人を裁く方法を知らなかったから、むしろ「めんどくせーから外国でやってくれや」的な感じでした。関税自主権に関しても、日本は貿易ルールに無知であり、これが不平等であることすら実感していなかった可能性もあります。

実際にこれらがすぐ問題になることもありませんでした。(問題になるのはもっと後)

当時問題だったのはそれよりもむしろ1〜3番の方でした。

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江戸幕府は外国人が大嫌い

当時の幕府の最大の関心ごとは「外国人を日本に滞在させたくない!」という一言に尽きます。

幕府は、昔から外国人が民衆と接触することを極度に嫌いました。これは江戸時代初期に、キリスト教が広まって島原の乱を始めとした反乱が起こったことから始まります。

日米修好通商条約は貿易のための条約です。そして、貿易をするということは外国人が日本に長い間滞在することになります。これが大問題になったわけです。

なので、幕府は「外国人が住む場所」をメチャクチャ気にしました。これまで外国人の住む場所は主に長崎の出島だけでした。しかし、これからは開港場所の各地で外国人がウヨウヨするかもしれないわけです。これを気にせずにはいられません。

実際に、

3 開港地では外国人が滞在できる場所を制限する

の部分は、地味に江戸幕府が執拗に交渉して勝ち取った結果だったりします。

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堀田正睦「ヤバい案件だから、天皇の許可を得よう・・・」

と言うわけで、「外国人が日本に定着してしまうかもしれない」という点で日米修好通商条約は日米和親条約と比べても非常に重いものでした。

ハリスと交渉に当たっていたのは江戸幕府の老中だった堀田正睦(ほったまさよし)

堀田正睦も事態の重さは十分理解しており、そこで天皇に許可をもらうことにしました。日米修好通商条約の締結については、幕府内でも激しい言い争いが続いていたので、堀田正睦は天皇の許可を貰うことで、人々が「天皇が許可するなら仕方あるまい」と納得してくれることを期待しました。

しかし、当時天皇だった孝明天皇は、攘夷(じょうい。外国を倒すこと)の考えを持っていて、日米修好通商条約には反対です。そこで、堀田正睦は朝廷の公家たちに賄賂を送り、公家を通じて天皇を説得しようとしました。

江戸時代も終わりになると天皇は幕府の言いなり人形になっていたので、堀田正睦も金で解決できるだろうと考えていました。

ところが、孝明天皇は強い意志を持った人物であり、公家たちが賄賂で懐柔されても孝明天皇は決して自分の考え(日米修好通商条約反対!)を変えませんでした。

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【悲報】堀田正睦クビ、そして孝明天皇はブチギレへ

一度「天皇の許可を取ろう」と言った以上、「天皇が反対するなら、やっぱり許可もらうのやーめたw」とできるはずもなく詰みました。

これによって日米修好通商条約の交渉は頓挫。責任を取って老中の堀田正睦はクビ。次は老中より格上の大老の井伊直弼(いいなおすけ)が交渉を続けます。

堀田正睦からバトンタッチした井伊直弼

しかし、相手が堀田正睦から井伊直弼に変わったところで孝明天皇の意見は変わりません。一方、天皇との交渉が難航する中、ハリスがブチギレます。

ハリス
ハリス

私は日本のためを思って交渉をしているのだ。どうせ私との交渉を断っても、すぐにイギリスなどの国がアメリカよりもっと厳しい条件で迫ってくるだけだ。今すぐアメリカと条約を結べば、他国がアメリカより厳しい条件を迫ってくることはあるまい。

もし断るのなら、アメリカとしては対話ではなく、武力で日本に迫らなければならない。これ以上、交渉を遅らせれば、砲弾が飛び交うことになるだろう。(激怒)

こうして進退窮まった井伊直弼は、孝明天皇の許可を得ずに無断でハリスと交渉を進め、1858年、日米修好通商条約を結ぶことになります。

一方、孝明天皇は無許可の条約締結にブチギレ。そして、条約締結に反対していた幕府の人々も天皇寄りとなり、日米修好通商条約をきっかけに久しぶりに天皇が政治の表舞台へと登場することになります。

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日米修好通商条約が日本に与えた影響

日米修好通商条約は、日本に計り知れない影響を与えました。

まず貿易が本格化すると、日本の生糸が高値で売れることがわかり、生糸で生計を立てる人が増えました。そして、生糸輸出などを通じて多額のお金が出回るようになると、インフレーションが起こって物の値段が上昇。時代の流れについていけない人たちは、物価上昇により生活が苦しくなりました。

また、裏技を使えば日本では外国よりも金貨を安く買えることがわかってくると、大事な資源である金が日本から流出し始めました。

一方、1860年にはアメリカへの使節派遣が決まり、欧米諸国を直接見聞するきっかけともなります。「学問のすすめ」で有名な福沢諭吉もこの時にアメリカへ向かっています。

さらに、日米修好通商条約の交渉を通じて、幕府が「攘夷派」と「穏便派」に分かれてしまい、激しく対立することになりました。さらに、攘夷の考えを持つ孝明天皇が幕府の攘夷派と結び付くと、「尊王攘夷」運動が始まり、江戸幕府滅亡の大きな原動力となりました。

・・・と言った感じで、民衆の生活から外交・経済・政治まで、ありとあらゆる分野に日米修好通商条約の影響は及びました。

なんというか、何もかもが変わりすぎて治外法権とか関税自主権のことなんか考えている場合じゃないってのはわかりますね。

ちなみに治外法権と関税自主権の話は、明治時代になるとようやく「あれ?この条約、メチャクチャ理不尽なんだが」と大きな話題となり、条約解消に向けての動きが始まります。

教科書だけ読むとわかりませんが、当時の人々にとってはシンプルに「外国人が日本にたくさんいて怖い」「外国との商売難しすぎだろ・・・」「生糸メチャクチャ儲かるんだがww」とかそっちの方がインパクト大だったのです。



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