面白いほどわかる薩長同盟!簡単にわかりやすく解説【立役者は坂本龍馬らとイギリスです】

今回は、1866年1月に結ばれた薩長同盟さっちょうどうめいについてわかりやすく解説します。

最初に、薩長同盟を教科書風にまとめておきます。

薩長同盟とは・・・

1865年に幕府は2回目の長州征討を宣言したが、薩摩藩は密かに長州藩を支持する態度をとった。1866年には、土佐藩出身の坂本龍馬さかもとりょうま中岡慎太郎なかおかしんたろうらの仲介で薩摩藩は長州藩と軍事同盟の密約(薩長連合、または薩長同盟)を結び、反幕府の態度を固めた。

このk爺では、薩長同盟について以下の点を中心に丁寧に解説します。

  • なぜ長州藩と薩摩藩はタッグを組んだのか?
  • 薩長同盟の内容は?
  • 坂本龍馬と中岡慎太郎って何をしたの?
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仲の悪かった薩摩藩と長州藩

元々、薩摩藩と長州藩の関係はあまり良いものではありませんでした。両者の関係を時系列で整理します。

薩摩藩と長州藩のトラブルまとめ

こんな感じで長州藩と薩摩藩はあまり仲が良くありませんでしたが、一方で2つの共通点を持っていました。

共通点その1

薩摩藩は薩英戦争、長州藩は四国艦隊下関砲撃事件で欧米諸国と戦争をした経験があって、その強さを十分理解している。

そして、両藩共に戦争後、欧米諸国と接近して富国強兵を目指していた。

共通点その

薩摩藩も長州藩も、考えている方法は異なっていたけど攘夷思想を持っていた。

長州藩の考える攘夷

幕府を倒して天皇の下に諸藩が協力して攘夷を目指す。

薩摩藩の考える攘夷

幕府は独断で政治を行わず、天皇の下で諸藩と協力して攘夷を目指す。

両者の攘夷の決定的な違いは「江戸幕府を滅ぼすか、それとも存続させるか」という点。

攘夷の方法論こそ違えど、この2つの共通点が薩摩藩と長州藩を結びつけることになります。

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長州藩の武器密輸ルート

1865年5月、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの間で日本への密輸禁止が決定されます。幕府と長州との戦争に中立の立場を保つためです。(諸外国が幕府や長州に加担すると、国際戦争に発展する可能性がある)

幕府を倒すために下関で諸外国から大量の武器を密輸していた長州藩は困りました。

当時、ちゃんとした貿易場所として認められていたのは以下の3つの港でした。いずれも幕府が認めた貿易場所であり、幕府と敵対する長州藩がこれらの港を利用するのは不可能でした。

貿易を認められていた3つの開港地
  • 横浜
  • 長崎
  • 函館

そこで長州藩は、長崎を経由で密輸できる裏技を使うことにしました。その方法がこちら↓

長州藩が使った裏技
  • STEP1
    長崎で薩摩藩が長州藩の代わりにイギリスから武器を買う。

    長崎での貿易は密輸じゃないので四国の決定に違反しない。さらに、薩摩藩なら長崎を比較的自由に動ける。

  • STEP2
    薩摩藩は購入した武器を下関へ運ぶ

    薩摩→長州は、国内問題なので4国の規定の対象外。

  • STEP3
    長州藩、武器ゲット!

ルールの抜け道を作るために薩摩藩に貿易を代行してもらったわけです。

しかし、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったはず。薩摩藩がなぜこれに協力したかというと、薩摩藩側として実際に貿易を代行していたのが坂本龍馬だったからです。

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卓越した航海スキルを持つ男、坂本龍馬

薩長を結びつけた坂本龍馬

坂本龍馬は土佐藩出身の男。

元々は幕府海軍を率いる勝海舟かつかいしゅうのもとで航海術などを学んでいました。勝海舟は幕府の人間でありながら非常に開明的な考え方を持っており、それが幕府に危険視され1864年に幕府の要職をクビに。

坂本龍馬に航海術を教えた勝海舟

そして、勝海舟のもとで働いていた坂本龍馬も同時に居場所を失い路頭に迷うことになります。坂本龍馬は土佐藩の許可がないまま藩を抜け出した脱藩浪士だったので、土佐藩に戻ることも不可能でした。(戻ったら命がないかもしれない・・・)

この坂本龍馬を受け入れたのが薩摩藩です。薩摩藩は薩英戦争以降、軍事力の強化を推し進めており、坂本龍馬の持つ最新の航海技術が欲しかったのです。

1865年1月、坂本龍馬は薩摩藩の支援の下、長崎の亀山という場所に海運業などを営む会社を設立しました。これを亀山社中かめやましゃちゅうと言います。亀山社中では、海運業を通じて得た資金を使って海軍の育成が行われていました。

亀山社中があった場所は、今では長崎市の観光名所の1つになっています。

参考長崎市公式観光サイト「長崎市亀山社中記念館」

この亀山社中が長州藩への武器輸送に名乗りをあげた・・・というわけです。

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死の商人、グラバー

この裏技を実現するには、武器を長崎に持ち込んでくれるイギリスの存在も不可欠でした。

この時に活躍したのがイギリス人のグラバーという商人でした。グラバーは、長州藩との貿易を強く望んでいました。なぜなら、めちゃくちゃ儲かるからです。グラバーは、亀山社中がこれに協力してくれることを大変喜んだと言われています。

グラバーとその家族

こうして、亀山社中(薩摩藩)によって長州藩とイギリスの貿易が実現し、長州藩には大量の武器や戦艦が流れ込みました。幕末から明治維新にかけて、グラバーが持ち込んだ多くの武器が戦争で使われたことから、グラバーは死の商人という異名を持ちます。

イギリスは薩摩藩とも長州藩とも友好関係があったので、薩摩・長州・イギリスが混じり合うことで、薩摩藩と長州藩の関係は少しずつ改善されていきました。

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薩長同盟、成立

1866年1月、坂本龍馬とその盟友だった中岡慎太郎は、この貿易上の協力関係を軍事同盟にまで発展させました。これが薩長同盟です。

坂本龍馬の盟友、中岡慎太郎

坂本龍馬らは薩長の藩士たちを説得し、京都の薩摩藩邸にて以下の内容で同盟を結びました。

薩長同盟の6つの項目
  • 1 長州藩が幕府と戦ったら薩摩藩も援軍を送る。
  • 2 長州藩が勝ったら、薩摩藩は朝廷が攘夷を認めるよう全力で交渉する。
  • 3 長州藩が負けたら、すぐに潰滅はしないだろうから、復活するまでの間、薩摩藩は全力で頑張る。
  • 4 幕府軍が何もせず引き下がったら、薩摩藩は朝廷にこれ以上長州攻めをしないよう全力で説得する。
  • 5 京に進軍することになっても幕府が抵抗するようなら、徹底抗戦する
  • 6 薩摩と長州は、天皇の下で国を1つにするため尽力する。

ざっくりと噛み砕いた内容です。詳細が気になる方はwikipedia「薩長同盟」がオススメです。

内容を見てみると、薩長同盟は対幕府戦争のための同盟であることがわかります。1866年1月当時、幕府は2回目の長州征討を計画しており、これに対抗するための軍事同盟でした。

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薩長同盟のその後

1866年6月、幕府は長州藩を攻撃しますが、薩摩藩の支援と大量の最新鋭武器を手に入れた長州藩に敗北。

その後、坂本龍馬・中岡慎太郎は土佐藩に戻ることを許され帰藩。坂本龍馬らは土佐藩主の山内容堂やまうちようどうに幕府に大政奉還たいせいほうかんを勧めるよう意見し、山内容堂はこれを受け入れました。

大政奉還を目指した山内容堂
大政奉還とは

江戸幕府による政権を朝廷に返して(江戸幕府を廃止して)、朝廷のもとに徳川を中心に諸藩が集まる協力する体制を目指すこと。

1863年に起こった公武合体を、朝廷の有利な条件で進化させたものです。

こうして、土佐藩・長州藩・薩摩藩の方針は以下の3つに分かれました。

土佐藩の方針

大政奉還を目指す!

長州藩の方針

倒幕を目指す!

薩摩藩の方針

本来は大政奉還寄りだったけど、薩長同盟の後は討幕派へ。ただし、大政奉還派の意見も根強い・・・。方針がはっきりと定まらず。

結局、「幕府よりも朝廷中心の政治を・・・」という目標で一致して薩長同盟で軍事同盟までは結んだものの、「幕府そのものをどうするか・・・」という点では長州藩、薩摩藩、さらには土佐藩の意見は完全に一致することはありませんでした。

薩摩、土佐、長州は微妙な駆け引きを続け、そこに朝廷の思惑も加わり、幕末の情勢は複雑化。そしていよいよ、江戸時代はクライマックスを迎え、明治時代がやってくるのです。



江戸時代
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