今回は、1866年1月に結ばれた薩長同盟についてわかりやすく解説します。
最初に、薩長同盟を教科書風にまとめておきます。
このk爺では、薩長同盟について以下の点を中心に丁寧に解説します。
仲の悪かった薩摩藩と長州藩
元々、薩摩藩と長州藩の関係はあまり良いものではありませんでした。両者の関係を時系列で整理します。
- 1863年12月長州藩、下関を通る薩摩藩の船を砲撃
薩摩藩の外国製の船を、長州藩が外国船だと誤って撃沈(意図的に薩摩藩に攻撃した説もある)
- 1864年7月禁門の変、起こる
- 1864年7月〜12月
幕府は長州への攻撃を計画。これに薩摩藩も参加。(ただし、西郷隆盛らの根回しで戦いは回避される。)
- 1865年第二次長州征討が計画される。
幕府の無能を確信した薩摩藩はこれに参加せず。この頃から、坂本龍馬らを仲介に薩摩藩と長州藩の交流が深まる。
- 1866年1月薩長同盟、成立←この記事はココ!
- 1866年6月第二次長州征討
薩摩藩は長州藩を裏から援助。幕府はたった1つの藩に敗北し、その権威が失墜する。
- 1867年大政奉還 and 王政復古
江戸幕府滅亡へ・・・
こんな感じで長州藩と薩摩藩はあまり仲が良くありませんでしたが、一方で2つの共通点を持っていました。
両者の攘夷の決定的な違いは「江戸幕府を滅ぼすか、それとも存続させるか」という点。
攘夷の方法論こそ違えど、この2つの共通点が薩摩藩と長州藩を結びつけることになります。
長州藩の武器密輸ルート
1865年5月、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの間で日本への密輸禁止が決定されます。幕府と長州との戦争に中立の立場を保つためです。(諸外国が幕府や長州に加担すると、国際戦争に発展する可能性がある)
幕府を倒すために下関で諸外国から大量の武器を密輸していた長州藩は困りました。
当時、ちゃんとした貿易場所として認められていたのは以下の3つの港でした。いずれも幕府が認めた貿易場所であり、幕府と敵対する長州藩がこれらの港を利用するのは不可能でした。
そこで長州藩は、長崎を経由で密輸できる裏技を使うことにしました。その方法がこちら↓
- STEP1長崎で薩摩藩が長州藩の代わりにイギリスから武器を買う。
長崎での貿易は密輸じゃないので四国の決定に違反しない。さらに、薩摩藩なら長崎を比較的自由に動ける。
- STEP2薩摩藩は購入した武器を下関へ運ぶ
薩摩→長州は、国内問題なので4国の規定の対象外。
- STEP3長州藩、武器ゲット!
ルールの抜け道を作るために薩摩藩に貿易を代行してもらったわけです。
しかし、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったはず。薩摩藩がなぜこれに協力したかというと、薩摩藩側として実際に貿易を代行していたのが坂本龍馬だったからです。
卓越した航海スキルを持つ男、坂本龍馬
坂本龍馬は土佐藩出身の男。
元々は幕府海軍を率いる勝海舟のもとで航海術などを学んでいました。勝海舟は幕府の人間でありながら非常に開明的な考え方を持っており、それが幕府に危険視され1864年に幕府の要職をクビに。
そして、勝海舟のもとで働いていた坂本龍馬も同時に居場所を失い路頭に迷うことになります。坂本龍馬は土佐藩の許可がないまま藩を抜け出した脱藩浪士だったので、土佐藩に戻ることも不可能でした。(戻ったら命がないかもしれない・・・)
この坂本龍馬を受け入れたのが薩摩藩です。薩摩藩は薩英戦争以降、軍事力の強化を推し進めており、坂本龍馬の持つ最新の航海技術が欲しかったのです。
1865年1月、坂本龍馬は薩摩藩の支援の下、長崎の亀山という場所に海運業などを営む会社を設立しました。これを亀山社中と言います。亀山社中では、海運業を通じて得た資金を使って海軍の育成が行われていました。
この亀山社中が長州藩への武器輸送に名乗りをあげた・・・というわけです。
死の商人、グラバー
この裏技を実現するには、武器を長崎に持ち込んでくれるイギリスの存在も不可欠でした。
この時に活躍したのがイギリス人のグラバーという商人でした。グラバーは、長州藩との貿易を強く望んでいました。なぜなら、めちゃくちゃ儲かるからです。グラバーは、亀山社中がこれに協力してくれることを大変喜んだと言われています。
こうして、亀山社中(薩摩藩)によって長州藩とイギリスの貿易が実現し、長州藩には大量の武器や戦艦が流れ込みました。幕末から明治維新にかけて、グラバーが持ち込んだ多くの武器が戦争で使われたことから、グラバーは死の商人という異名を持ちます。
イギリスは薩摩藩とも長州藩とも友好関係があったので、薩摩・長州・イギリスが混じり合うことで、薩摩藩と長州藩の関係は少しずつ改善されていきました。
薩長同盟、成立
1866年1月、坂本龍馬とその盟友だった中岡慎太郎は、この貿易上の協力関係を軍事同盟にまで発展させました。これが薩長同盟です。
坂本龍馬らは薩長の藩士たちを説得し、京都の薩摩藩邸にて以下の内容で同盟を結びました。
内容を見てみると、薩長同盟は対幕府戦争のための同盟であることがわかります。1866年1月当時、幕府は2回目の長州征討を計画しており、これに対抗するための軍事同盟でした。
薩長同盟のその後
1866年6月、幕府は長州藩を攻撃しますが、薩摩藩の支援と大量の最新鋭武器を手に入れた長州藩に敗北。
その後、坂本龍馬・中岡慎太郎は土佐藩に戻ることを許され帰藩。坂本龍馬らは土佐藩主の山内容堂に幕府に大政奉還を勧めるよう意見し、山内容堂はこれを受け入れました。
こうして、土佐藩・長州藩・薩摩藩の方針は以下の3つに分かれました。
結局、「幕府よりも朝廷中心の政治を・・・」という目標で一致して薩長同盟で軍事同盟までは結んだものの、「幕府そのものをどうするか・・・」という点では長州藩、薩摩藩、さらには土佐藩の意見は完全に一致することはありませんでした。
薩摩、土佐、長州は微妙な駆け引きを続け、そこに朝廷の思惑も加わり、幕末の情勢は複雑化。そしていよいよ、江戸時代はクライマックスを迎え、明治時代がやってくるのです。
コメント
どんな本よりもわかりやすい!感謝!
でもでも、攘夷はどうしていつも尊皇攘夷?
どうして佐幕攘夷じゃないの?