

今回は幕末の英雄・勝海舟について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!江戸城無血開城・咸臨丸・坂本龍馬との師弟関係まで、全部まとめてみたよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史 / 山川準拠 / 共通テスト対応
「江戸城無血開城の英雄」として知られる勝海舟ですが、実は幕府の仲間からは「裏切り者」と呼ばれ、明治政府からも完全には信頼されなかった、孤独な調停者でした。
勝海舟は「勝者」でも「敗者」でもない、どちらの側にも属さない特別な場所に立っていた人物です。
だからこそ、血で血を洗う幕末の中で「江戸を戦火から守る」という、誰にもできなかった仕事を成し遂げることができたのです。
この記事では、そんな勝海舟の生涯を「咸臨丸」「坂本龍馬との出会い」「西郷隆盛との会談」という3つの名場面を軸に、中学生から大人まで楽しめるようにわかりやすく解説していきます。
勝海舟とは?3行でわかる幕末の英雄
- 江戸幕府の旗本出身で、海軍建設・咸臨丸での太平洋横断・坂本龍馬の師として知られる幕末の英傑
- 1868年、西郷隆盛との会談で江戸城を無血開城し、150万の江戸市民を戦火から救った立役者
- 幕府側からも明治政府からも完全には信頼されなかった「孤独な調停者」という特殊な立ち位置にいた
勝海舟(1823〜1899年)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した日本の政治家・軍人です。
江戸幕府の旗本として生まれ、軍艦奉行や海軍卿などを歴任しました。今でいう「海軍大臣」にあたるような立場の人物です。
最大の功績は、1868年(慶応4年)の江戸城無血開城。新政府軍と幕府軍が江戸で全面戦争に突入する寸前で、薩摩の西郷隆盛と交渉し、戦わずに江戸城を明け渡すことで江戸の街を戦火から守りました。

勝海舟って幕府の人なんでしょ?なんで幕府に負けたあとも明治政府で活躍できたの?

いいところに気づいたね!勝海舟は幕府の役人なんだけど、「幕府のため」じゃなくて「江戸の人たちのため」に働いたんだ。だから幕府が倒れたあとも、そのまま新政府から頼られる存在になったんだよ。ある意味、組織を超えた珍しいタイプの人物だったんだね。

幼少期〜旗本の家に生まれた少年・麟太郎
勝海舟は1823年(文政6年)、江戸・本所(現在の東京都墨田区)の旗本の家に生まれました。幼名は麟太郎といいます。
父の勝小吉は、旗本とは名ばかりの貧しい下級武士でした。有名なケンカ自慢で、自伝『夢酔独言』を残したことでも知られています。
旗本とは:将軍の直属の家来で、1万石未満の武士のこと。今でいう中央官庁の官僚のような立場だよ。ただし勝家のように石高が低い下級旗本も多く、暮らしは決して楽ではなかったんだ。
■ 7歳の命がけの体験が人生を変えた
勝海舟の人生を語るうえで、絶対に外せないエピソードがあります。
それは7歳のとき、野良犬に急所を噛まれて死にかけたという事件です。麟太郎少年はまさに生死の境をさまよいました。
父・小吉は70日間、一睡もせずに息子を看病し続けたと伝えられています。この父の献身的な看護のおかげで、麟太郎は奇跡的に一命をとりとめました。
この体験は、のちの勝海舟の「命の重さ」への哲学の原点になったと言われています。江戸城無血開城で150万人の命を優先した判断の背景には、この幼少期の体験があったのかもしれません。

おれは幼い頃から「命はあっけなく失われるもんだ」ってことを身にしみて知ってたんだよ。だから江戸の150万人の命を前にしたとき、迷いなんざ一切なかったのさ。
■ 蘭学との出会いと剣術修行
少年時代の麟太郎は、剣術に打ち込みます。直心影流の島田虎之助に弟子入りし、禅の修行まで積みました。
やがて時代の流れは「剣より学問」へと向かっていきます。麟太郎は蘭学、つまりオランダ語を学び始めました。
当時、蘭学を学ぶことは最先端の知識を得ることと同じ意味を持っていました。今でいうと「英語+プログラミング」のような、将来性抜群のスキルだったのです。
海舟は永井青崖という蘭学者の塾で学び、さらにヅーフ・ハルマ(オランダ語辞典)を自力で2部も写したと伝えられています。1部は自分用、もう1部は売って生活費にしたという逸話は有名です。

辞書を全部写すなんて、気が遠くなるような話ね…。当時の勉強はそれくらい根性が必要だったの?

そうなんだ。本も辞書も超高級品だった時代だからね。貧しい下級旗本の海舟にとっては、写本こそが最強の勉強法だったんだよ。そしてこの「地味な努力の時期」があったからこそ、のちに幕府の海軍を担う技術官僚として抜擢されるんだ。
咸臨丸で太平洋を渡った!日本人初の偉業
1860年(万延元年)、勝海舟は咸臨丸の艦長として太平洋を横断し、アメリカへ渡航しました。
これは、日米修好通商条約の批准書を交換するために派遣された使節団の随行艦という位置づけです。正式な使節はアメリカ艦「ポーハタン号」に乗り、咸臨丸はそれに同行する形で出航しました。
しかし歴史的に大きな意味を持ったのは、この咸臨丸のほうでした。なぜなら、日本人の手によって蒸気船で太平洋を横断するのは史上初めてのことだったからです。
■ 嵐の太平洋を約37日間で横断
1860年1月に浦賀を出港した咸臨丸は、連日の大嵐に見舞われました。船酔いと恐怖で日本人乗組員の多くは動けず、船室に閉じこもる有様だったといいます。
実は、航海を実質的に支えたのは同乗していたアメリカ海軍のジョン・ブルック大尉とその部下たちでした。勝海舟自身も激しい船酔いに苦しみ、艦橋に立てる状態ではなかったと伝えられています。
それでも咸臨丸は約37日間の航海を経て、無事サンフランシスコに到着しました。日本人だけの力で成し遂げたとは言えないまでも、日本の船が太平洋を渡りきったこと自体が歴史的な快挙だったのです。

嵐と船酔いで、凄まじい航海だった。しかし、日本の船が太平洋を渡りきったってだけで、世界が日本を見る目が変わった。
■ アメリカで見た「近代国家の姿」
サンフランシスコに滞在した勝海舟は、アメリカ海軍の工廠や蒸気機関の工場、近代的な都市の様子を目の当たりにしました。
特に驚いたのは、アメリカ社会の身分制度の薄さです。「大統領の子孫が今どこにいるか誰も知らない」と聞き、日本の身分社会との違いに衝撃を受けたと伝えられています。
この渡米経験は、帰国後の勝海舟に「日本も近代的な海軍と開かれた国づくりをしなければ列強に呑まれる」という強い信念を植え付けました。のちの海軍建設と坂本龍馬ら志士たちとの交流は、すべてこの時のアメリカ体験が原点になっています。

坂本龍馬が斬りにきた!師弟の出会い
幕末の志士といえば誰もが思い浮かべる坂本龍馬ですが、その師匠にあたるのが勝海舟です。
ところがこの2人の出会いは、ちょっと信じがたいほど劇的なものでした。なんと龍馬は、勝海舟を「斬りにいった」はずだったのです。
■「斬りにいったら弟子になった」劇的な出会い
1862年(文久2年)、土佐を脱藩した龍馬は、勝海舟を「開国派の幕臣だ」と見て暗殺しようと訪問しました。当時の志士の間では、開国派の幕府高官は「攘夷の敵」として斬られる対象だったのです。
ところが勝海舟は、斬りに来た龍馬を家に招き入れ、世界情勢と日本の未来について語り始めました。アメリカで見た近代国家の姿、これから日本が歩むべき道。
龍馬は話を聞いているうちに、刀を収めて海舟の弟子になることを誓ったと伝えられています。

勝先生は日本一の人物じゃき!おれは斬りにいったはずが……気づいたら弟子になっちゅう!こりゃあもう、時代が動くぜよ!

坂本がおれを斬りに来た?そりゃあ本当さ。でも話してみたら見込みがありそうだったからよ、弟子にしてやったんだ。面白いやつだったぜ、あいつは。

■ 神戸海軍操練所の設立と廃止
龍馬との出会いのあと、勝海舟は1864年(元治元年)に神戸海軍操練所を設立します。場所は今の神戸市中央区あたりです。
ここは日本初の近代的な海軍教育機関で、勝海舟が塾長を務めました。坂本龍馬をはじめ、身分の垣根を越えて全国から集まった若者たちが航海術・砲術を学びました。
神戸海軍操練所とは:今でいう海軍士官学校のこと。幕府が作った教育機関だけど、勝海舟は「身分問わず誰でも入れる」という画期的な方針で運営した。坂本龍馬たち浪士も学んでいたのが特徴だよ。
しかしこの操練所は長続きしませんでした。1864年の禁門の変で、操練所の塾生の一部が長州側に加担していたことが問題視されたのです。
幕府から責任を問われた勝海舟は軍艦奉行を罷免され、操練所も1865年に廃止されます。このとき行き場を失った龍馬たちを、勝は薩摩藩に預けて保護しました。これが後の亀山社中(海援隊の前身)誕生につながっていきます。

幕府の役人なのに、幕府の敵になりそうな龍馬たちを守ったってこと?それって大丈夫なの?

そう、まさにそこ!勝海舟って幕府にいながら「幕府の枠を超えた目線」で動いてたんだ。だからこそ幕臣からは「裏切り者」って言われたんだよ。でもね、この行動が4年後の江戸城無血開城につながる人脈を作ったんだ。
西郷隆盛との決断の会談〜江戸城無血開城
勝海舟の最大の功績といえば、何といっても1868年(慶応4年)の江戸城無血開城です。
同年1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、新政府軍(官軍)は江戸へ向けて進軍を開始しました。このままいけば、江戸は第2の京都となり、人口150万人の大都市が戦火に包まれる——そんな最悪のシナリオが現実味を帯びていたのです。
この危機のなかで、幕府側の交渉責任者に指名されたのが勝海舟でした。相手は薩摩藩の西郷隆盛です。
■ 150万人の命を救った2人の決断

会談に先立って、幕臣の山岡鉄舟が勝の密使として駿府(現在の静岡)に出向き、西郷と事前交渉を行いました。この山岡の命がけの交渉で、江戸攻撃中止の大枠がほぼ固まります。
そして1868年3月13日・14日、江戸・薩摩藩邸(田町)にて勝海舟と西郷隆盛の会談が行われました。
この会談で徳川慶喜の処遇・江戸城の明け渡し・幕府軍の武装解除などの条件が合意され、予定されていた江戸総攻撃は中止されました。1868年4月11日、江戸城は戦うことなく新政府軍に明け渡されたのです。これが江戸城無血開城です。

勝どん、おはんの覚悟はよぅわかり申した。江戸を焼かずに済ますこつ、薩摩にて引き受けもす。

おれは幕府のために働いたんじゃねぇ。江戸の150万人のために働いたんだよ。この際、勝敗なんざどうでもいい。江戸が燃えなければそれでいいのさ。
■ なぜ2人は信頼し合えたのか——舞台裏の交渉術
江戸城無血開城は、会談当日の2人のやり取りだけで実現したわけではありません。いくつもの伏線が重なった結果でした。
1つ目は、山岡鉄舟の命がけの事前交渉。勝と西郷が会う前に、すでに主要な条件はほぼ固まっていました。
2つ目は、イギリス公使パークスの圧力。江戸を焼き払えば貿易に支障が出ると考えたイギリスは、新政府軍に対して江戸攻撃に強く反対しました。
3つ目は、勝海舟が準備していた「江戸焦土作戦」のハッタリ。勝は、もし会談が決裂したら江戸を自ら焼き払い、住民を逃がす計画まで用意していました。これを西郷が知っていたかどうかは諸説ありますが、勝の覚悟が交渉を後押ししたのは間違いありません。
そして何より、勝と西郷は「互いの人物を認め合っていた」という共通点がありました。ともに大局を見る目を持ち、「戦争を避けて国をつくり直す」という同じゴールを見ていたのです。
もし会談が決裂して江戸総攻撃が行われていたら、江戸の街は火の海となり、数十万人の死者が出ていた可能性があります。また、幕府側の抵抗が長引けば欧米列強の軍事介入を招き、日本は半植民地化していたかもしれません。無血開城は、日本が近代国家として自立するための「最後の踏ん張り」でもあったのです。

明治政府での活動と晩年
江戸城無血開城によって新政府と幕府の内戦(戊辰戦争)は決着に向かい、日本は明治という新しい時代を迎えます。
勝海舟は旧幕臣でありながら、明治政府に出仕しました。外務大丞・兵部大丞を経て、1872年(明治5年)には海軍大輔(海軍省のナンバー2)に就任。翌1873年には参議・海軍卿となり、明治の海軍建設に尽力しました。
1887年(明治20年)には伯爵の爵位を授けられ、1888年には枢密顧問官にも任命されています。
ただし、勝海舟と明治政府の関係は必ずしも良好ではありませんでした。勝は政府の方針を厳しく批判することも多く、とくに1877年の西南戦争では、かつての盟友・西郷隆盛が自刃に追い込まれたことに深い憤りを抱いたと伝えられています。
また、徳川慶喜の名誉回復のために粘り強く働きかけたのも勝海舟です。1898年、慶喜は明治天皇に謁見し、ついに公式に赦されました。これは勝が30年かけて実現させた「最後の仕事」でもありました。
■「氷川清話」——最晩年の語り
晩年の勝海舟は、東京・赤坂氷川の邸宅に住み、多くの若者や新聞記者の訪問を受けました。そこで語られた談話をまとめたのが、有名な『氷川清話』(ひかわせいわ)です。
江戸弁まじりの軽快な口調で、幕末の舞台裏、西郷や龍馬の思い出、明治政府への批評までが語られています。幕末・明治の生き証人としての貴重な記録であり、今も文庫で読むことができる名著です。
『氷川清話』は、勝海舟の晩年の談話を新聞記者の吉本襄が記録・編集した談話集。1897年(明治30年)11月に第1巻が刊行され、1898年(明治31年)にかけて全3巻が完結した。幕末の舞台裏、坂本龍馬・西郷隆盛の人物評、明治政府への批判まで、勝の江戸弁そのままの語り口で収録されている。ただし記者による脚色もあり、「盛っている部分」もあると指摘される一方で、幕末・明治史の一級史料として今も読み継がれている。
■ 最期の言葉「コレデオシマイ」
1899年(明治32年)1月19日、勝海舟は赤坂氷川の自邸で76歳の生涯を閉じました。
最期の言葉は「コレデオシマイ」だったと伝えられています。脳溢血で倒れる直前に「胸が苦しい」と呟いた海舟が絞り出した、実にさっぱりとした一言でした。幕末から明治の激動を駆け抜け、徳川慶喜の名誉回復という最後の仕事も成し遂げたあとの言葉です。
「コレデオシマイ」——勝海舟、最期の言葉(1899年1月19日)

「コレデオシマイ」——たった6文字に、76年の激動の人生が全部つまってる気がするよね。幕府側からも明治政府側からも半端者扱いされながら、それでも「江戸の150万人を救った」って事実は誰にも奪えない。その静かな自負が、この最期の一言に込められてるんだ。
勝海舟の名言・逸話【人間くさい一面】
ここまで勝海舟の「偉業」を中心に見てきましたが、実は彼には「大言壮語(おおげさに話を盛る)」という批判もつきまといます。「自分はすごかった」と晩年に語りすぎた、という評価です。
でも、それも含めて勝海舟は「人間くさい」歴史人物として今も愛されています。ここでは『氷川清話』に残された代表的な言葉から、勝のリアルな一面を見ていきましょう。
■ 江戸弁で語る「生の勝海舟」
『氷川清話』には、勝海舟の江戸弁がそのまま残されています。政治・人生観・幕末の舞台裏まで、軽快な口調で語られているのが最大の魅力です。代表的な言葉を3つ紹介します。
「行いは己(おの)れのものなり、批評は他人のものなり。我、関(あずか)り知らず」——勝海舟『氷川清話』
「自分の行動は自分のもの、評価するのは他人の勝手。自分は気にしない」という意味。今でいうと「人の評価は気にせず自分の信念で動け」というメッセージです。幕臣から「裏切り者」と呼ばれても江戸を救った勝らしい一言ですね。
「人間は、活物(いきもの)だから、気を養(やしな)うのが第一だ」——勝海舟『氷川清話』
「人間は生き物なんだから、元気(気力)を養うのが一番大事だ」という意味。今でいうと「メンタルヘルス第一」ですね。76歳まで激動を生き抜いた勝ならではの実感です。
「処世の秘訣は、誠の一字だ」——勝海舟『氷川清話』
「世の中を渡る秘訣は、ただ『誠』の一字だけだ」という意味。敵対していた西郷隆盛との会談を成功させられたのも、まさに「誠」で向き合ったからこそ。勝の人生哲学が凝縮された一言です。

どれも力強い言葉ね。150年以上前の人とは思えないくらい、現代にも通じるわ…。

そうなんだ。勝海舟の言葉は、今のビジネスパーソンが読んでも「グサッ」とくる内容が多いんだよ。だから『氷川清話』は100年以上たっても売れ続ける名著なんだね。
■「自分で盛った?」大言壮語の謎
一方で、勝海舟には「自分の話を盛っているのでは?」という批判もあります。とくに『氷川清話』の記述には、福沢諭吉など同時代人から「話が大きすぎる」と疑問視されたエピソードもいくつか含まれています。
たとえば「坂本龍馬が俺を斬りに来たが、説教して弟子にした」という有名な話も、龍馬側の史料ではやや違う書かれ方をしており、勝海舟側の脚色があるのではないかと指摘されています。
ただ、これは『氷川清話』が新聞記者(吉本襄ら)の聞き書きで編集されたものであり、勝本人というより記者側の脚色が入った可能性も指摘されています。今でいうと「インタビュー記事が本人の意図より誇張されて出回る」のに近い現象ですね。

でもね、仮に多少「盛って」たとしても、咸臨丸で太平洋を渡ったことも、江戸城を無血開城に導いたことも、まぎれもない事実なんだ。そこは誰にも否定できない。この「人間くささ」も含めて、勝海舟は今も愛される幕末のスターなんだよ。
テストに出る!勝海舟の重要ポイント
ここまでの内容を、テスト対策用にギュッとまとめます。中学歴史・高校日本史のどちらでも頻出のキーワードです。
試験で間違えやすいポイント
・江戸城無血開城を実現したのは「勝海舟と西郷隆盛の会談」。徳川慶喜が直接交渉したわけではない(慶喜は恭順の姿勢を示して江戸を離れていた)。
・神戸海軍操練所を「つくった」のは勝海舟。そこで学んだのが坂本龍馬ら。「龍馬がつくった」と書くと誤りになる。
・咸臨丸の艦長は勝海舟だが、実際の航海はアメリカ人提督ブルックら外国人水夫の補助を受けて行われた。「完全に日本人だけで渡った」と書くのも誤り。
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よくある質問
A. 1823年生まれ・旗本出身の幕末・明治の軍人で政治家です。1860年の咸臨丸による太平洋横断、1864年の神戸海軍操練所設立、1868年の江戸城無血開城を成し遂げ、明治政府では海軍卿などを歴任しました。1899年に76歳で死去しました。
A. 1868年4月11日、戦争をせずに江戸城を新政府軍に引き渡したことを指します。幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談によって実現し、人口150万人の江戸市民を戦火から救った歴史的な決断でした。
A. 師弟関係です。1862年(文久2年)、坂本龍馬が勝海舟を暗殺しようとしましたが、話を聞いて勝の思想に感銘を受け、その場で弟子になったと伝えられています。その後は神戸海軍操練所でともに海軍建設に取り組みました。
A. 江戸幕府が保有していた蒸気船(木造・スクリュー式軍艦)です。1860年、勝海舟を艦長として太平洋横断に成功し、日本の軍艦による初の太平洋横断として歴史に刻まれています。
A. 代表的なのは『氷川清話』に収められた「行いは己れのものなり、批評は他人のものなり。我、関り知らず」「処世の秘訣は、誠の一字だ」などです。自分の信念で動くことの大切さと、誠実さで人と向き合う姿勢が語られています。
A. 幕末の旗本・軍人です。咸臨丸で日本初の太平洋横断を成し遂げ、西郷隆盛と交渉して江戸城を無血開城させ、150万人の江戸市民を戦火から救った人物、の一言に尽きます。
まとめ:勝海舟の生涯と功績
最後に、勝海舟の生涯と功績を一気におさらいしましょう。
- 1823年江戸・本所に生まれる(幼名:麟太郎)
- 1850年代蘭学・砲術・兵学を修め幕府に注目される
- 1860年咸臨丸で太平洋横断——日本初の快挙
- 1864年神戸海軍操練所を設立。坂本龍馬らを育てる
- 1864〜65年禁門の変の余波で軍艦奉行を罷免。1865年3月に操練所廃止
- 1867年軍艦奉行に復帰。倒幕の動きが加速する中で奔走
- 1868年3月西郷隆盛と会談。江戸城無血開城を実現(4月11日)
- 1870年代明治政府に出仕。海軍卿・枢密顧問官などを歴任
- 1898年徳川慶喜の名誉回復が実現・『氷川清話』刊行
- 1899年1月76歳で死去。最期の言葉「コレデオシマイ」

以上、勝海舟のまとめでした!幕府にいながら「どちら側でもない強さ」で江戸を救った、唯一無二の男だったんだ。下の関連記事で、龍馬や井伊直弼といった幕末のキーパーソンもぜひ読んでみてね!

📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)・Wikipedia「勝海舟」・コトバンク「勝海舟」
Wikipedia日本語版「勝海舟」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F)(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「咸臨丸」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E8%87%A8%E4%B8%B8)(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「神戸海軍操練所」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E6%93%8D%E7%B7%B4%E6%89%80)(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「江戸開城」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%9F%8E)(2026年4月確認)
コトバンク「勝海舟」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(https://kotobank.jp/word/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F)(2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)p.—(要確認)
吉本襄 編『氷川清話』(初刊:鉄華書院、1897〜1898年)・岩波文庫・角川ソフィア文庫ほか
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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