室町時代
1336〜1573年(南北朝の動乱から応仁の乱まで)
なぜ室町時代は「中世の転換点」なのか
室町時代は、武家政権が全国を統治し、民衆・文化・対外交流が花開いた約237年間である
1336年の足利尊氏による室町幕府成立から1573年の足利義昭追放まで、約237年。南北朝57年の動乱、足利義満による天下統一と勘合貿易、北山文化・東山文化の隆盛、そして応仁の乱による下剋上の幕開け——この特集では、複雑な室町時代を5つの時代区分に整理し、各時代を深掘りできる構成になっています。
STEP 1 — 南北朝の動乱
足利尊氏が光明天皇(北朝)を擁立し「建武式目」を制定、室町幕府の基礎を築きます。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開き、以後60年近く南北両朝が対立する時代が続きます。
足利尊氏が征夷大将軍に任命され、室町幕府が正式に成立。管領・侍所などの機構を整備しますが、南朝との戦いが各地で続き、武士たちはどちらにつくか迷いながら「半武半南」の動向をとります。
1392年、3代将軍・足利義満が南北朝を統一。さらに太政大臣就任・出家後も権勢を振るい、明から「日本国王」に封じられます。公武を超えた権力を握り、室町幕府最盛期を現出しました。
STEP 2 — 足利義満と幕府の全盛
義満は明(中国)に使節を送り、「日本国王」として冊封を受け勘合貿易を開始(1401年)。勘合符(合い印)で正規の貿易船を識別し、生糸・銅銭・陶磁器などを輸入。この貿易収益が幕府の重要な財源となります。
4代将軍・足利義持の時代、朝鮮が倭寇の根拠地とみなした対馬に大規模な軍事遠征を行います(応永の外寇・1419年)。この事件は日朝関係に緊張をもたらし、以後も倭寇問題が東アジア外交の懸案となります。
STEP 3 — 将軍の時代と東山文化
弾圧を恐れた播磨守護・赤松満祐が宴席で義教を暗殺した嘉吉の乱(1441年)。幕府は赤松氏を討ちますが、将軍が守護大名に殺されたことで幕府の権威は大きく失墜。下克上の先駆けとなる衝撃的な事件です。
8代将軍・足利義政は政治を顧みず、東山山荘(銀閣寺)の造営に熱中。書院造・枯山水・侘び茶(村田珠光)・連歌(宗祇)・水墨画(雪舟)が花開いた東山文化は、現代の「和」の美意識の原点です。
義政の後継問題に細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の守護大名対立が絡み合い、1467年に応仁の乱が勃発。11年の戦乱で京都は廃墟と化し、将軍権威は地に落ちました。→ 詳細はSTEP 4「応仁の乱」へ
STEP 4 — 応仁の乱と下剋上の幕開け
1477年(文明9年)、大内政弘が西軍を解散し京都から撤退したことで応仁の乱が事実上収束。しかし将軍の権威は完全に失墜し、守護大名の力も弱体化。各地では守護代や国人が実力で主君を倒す「下剋上」が横行し、戦国大名が台頭する戦国時代が始まります。
STEP 5 — 室町幕府の衰退と滅亡
1523
1573
1549年、フランシスコ・ザビエルが来日しキリスト教を伝来。戦国大名が南蛮貿易で鉄砲・文物を取り入れる中、1568年には織田信長が足利義昭を擁立して上洛。1573年、信長は義昭を追放し237年の室町幕府が滅亡します。
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武家政治のしくみ
管領(三管領:斯波・細川・畠山)が将軍を補佐し、侍所頭人(四職:赤松・一色・山名・京極)が京都の警察・軍事を担う幕府機構。守護大名が「守護請・半済令」で地方支配を固め、応仁の乱を経て戦国大名へと変貌するまでの政治史を追う。
南北朝の動乱
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の「建武の新政」は武士の支持を失い崩壊。足利尊氏が北朝(京都)を擁立し、南朝(吉野)と57年間対立した。「神皇正統記」の北畠親房ら南朝の論客の活躍、観応の擾乱、そして1392年の義満による南北朝合一までを整理する。
室町文化
室町時代の文化は2つの山がある。義満期の「北山文化」(公武融合・豪華・金閣寺・世阿弥の能楽)と、義政期の「東山文化」(侘び・簡素・銀閣寺・書院造・侘び茶・水墨画・連歌)だ。入試では「北山vs東山」の対比問題が頻出——それぞれの特徴を押さえよう。