誰でもわかる明治六年の政変!簡単に分かりやすく徹底解説【原因と経過、その後まで】

今回は1873年(明治6年)に起きた政変、明治六年の政変めいじろくねんのせいへんについてわかりやすく解説していきます。

最初に教科書に書かれている内容をまとめておきます↓

明治6年の政変とは

戊辰戦争を政府軍として戦った士族の中には、彼らの主張が明治政府に反映されていないことに不満を抱くものが少なくなかった。1873年の征韓論争は、これら不平士族に支持されたものであった。征韓論が否決されると、西郷隆盛さいごうたかもり板垣退助いたがきたいすけ後藤象二郎ごとうしょうじろう江藤新平えとうしんぺい副島種臣そえじまたねおみらの征韓派参議はいっせいに辞職し(明治六年の政変)、政府批判の運動を始めた。

この政変ののちに、政府を指導したのは、内務卿ないむきょうに就任した大久保利通おおくぼとしみちであった。

【政変】

政権(権力者)の突発的な移動のこと。

この記事では明治六年の政変について以下の点を中心に解説をします。

  • 明治六年の政変はなぜ起こったのか?
  • 西郷隆盛らが辞職した経緯は?
  • 明治六年の政変の後、日本の政治はどうなったのか?
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明治六年の政変までの流れ

最初に明治六年の政変が起こるまでの流れを簡単に確認しておきます。

明治六年の政変が起こるまで
征韓論とは?

武力によって朝鮮半島との国交を開こうという主張のこと。

廃藩置県を始めとする政治改革で没落した士族を動員することで、士族の不満を国外に向けさせるとともに、士族救済を目指すことが主な目的

明治六年の政変は、簡単に言ってしまうと

征韓論をめぐる政争に征韓派の西郷隆盛らが敗れた政変

とまとめることができますが、その実情はかなり複雑なものでした。

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留守政府のメンバー紹介

次に、岩倉使節団が出国した後の留守政府のうち、明治六年の政変に関係する要職を紹介してきます。

この記事の主役となる留守政府メンバー
  • 三条実美さんじょうさねとみ【太政大臣】(中立)
  • 西郷隆盛【参議】(征韓派)
  • 板垣退助【参議】(征韓派)
  • 大隈重信おおくましげのぶ【参議】(反対派)
  • 江藤新平【司法卿(司法省のNo1)*1872年から】(征韓派)
  • 副島種臣【外務卿(外務省のNo1)】(征韓派)
  • 山県有朋やまがたありとも【陸軍卿(陸軍省のNo1)*1873年から】(反対派)
  • 井上馨【大蔵大輔(大蔵省のNo2)】(反対派)

黄色が「中立」、赤が「征韓派」、青が「反対派」です。次に当時の日本の官僚制度を簡単に紹介しておきます。

当時の日本の官僚制度
  • 正院せいいん
    政策決定のトップ機関。太政大臣だじょうだいじん左大臣さだいじん右大臣うだいじん参議さんぎで構成される合議機関。正院の決定事項は太政大臣を通じて天皇に伝えられ、天皇の裁可を得ると実行に移される。
  • 各省
    それぞれの担当部署のこと。各省の意見は正院が認めれば反映される。
    司法省:司法に関する部署
    ・外務省:外交に関する部署
    ・陸軍省:陸軍に関する部署
    ・大蔵省:国家財政などに関する部署

さらに、各省の内部でも序列があります。

各省で偉い役職TOP3
  • 第1位:きょう
  • 第2位:大輔たいふ
  • 第3位:小輔しょう

上の留守政府メンバーをみると井上馨だけが卿ではなく大輔ですが、大蔵卿だった大久保利通が岩倉使節団の一員だったので、井上馨が大蔵省の実質的No1でした。

そして、岩倉使節団の主要メンバーたちは反対派の立場であり、大隈・山県・井上と結びついています。

また、一言に征韓派と言っても、その考え方は様々。征韓派の主導者だった西郷と板垣はそれぞれ以下のような考えを持ちます。

西郷隆盛
西郷隆盛

明治政府によって次々と特権を奪われ没落していった士族たちの不満は限界に達している。このままでは大規模な内乱が起こるだろう。

士族の不満を外に向け、士族たちに仕事を与えるためにも、武力を持って朝鮮に国交を求めるべきだ。

板垣退助
板垣退助

明治政府には民衆の意見を反映する仕組みがなく、全てが官僚の思いのままに決定されている。だから、民衆は不満を持ち暴動が起こるのだ。

私は、政府の中に民意を反映させる機関(民選議院)を置くべきだと考えている。そして、士族が征韓論を望むのも民意の1つであるから、私はこれを支持する。

西郷隆盛が「士族の救済・復興」を目指したのに対して、板垣退助は「政府への民意反映」を目指していたのです。

微妙に考え方の違う2人ですが、「今の明治政府はダメだ」と言う点で利害が一致し、征韓論を通じて協力することになります。

一方で、反対派の考えは以下のようなものでした。

井上馨
井上馨

今は政府が絶対的な権力を持ち、富国強兵を目指すのが優先事項。それに逆行する民意反映や士族の復興には反対だ。

しかも、戦争となれば多額のお金が必要となるが今の政府にはそんな財源はない。そして、戦争の財源を負担するのは民衆であるから、士族のみならず民衆まで暴動を起こしかねない。

こんな感じで政治のあり方をめぐって対立が続き、それが表面化したきっかけとなったのが征韓論だったんです。

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明治六年の政変が起こるまで

1872年から1873年にかけて、征韓派は反対派の有力者を排除します。ここで活躍したのが司法卿だった江藤新平

江藤新平は、反対派の陸軍卿の山県有朋、大蔵大輔の井上馨の汚職事件を暴き、司法卿らしく法の力によってこの2人を辞職に追い込みます。(1873年4月〜5月)

そして、反対派を排除が完了すると、西郷隆盛がいよいよ戦争のために動き始めます。

実は西郷隆盛が当初ターゲットにしていたのは朝鮮ではなく台湾だったんじゃないか・・・と言われています。1871年に漂流した琉球王国の人々が台湾で殺された事件が起こっていて、これが戦争の絶好の口実になったからです。

・・・が、1873年5月になると、次は朝鮮と日本の間でトラブルが起きます。朝鮮の草梁にある日本人居留地で、日本人が朝鮮を無視した貿易を行うようになり、これに朝鮮が抗議してきたんです。

7月にこれを知った西郷隆盛はこう考えました。

西郷隆盛
西郷隆盛

このトラブルをきっかけにして、朝鮮と戦争をした方が良いのでは?

しかし、朝鮮の背後には清がいる。まずは状況について情報収集する必要があるな・・・。

そこで、台湾と朝鮮の背後にいる清の様子を探るため、外務卿の副島種臣を清に派遣します。(この時に合わせて日清修好条規が結ばれた)

8月、副島種臣の報告を聞いた西郷隆盛は朝鮮出兵を決心。西郷の作戦はこうです。

西郷隆盛の朝鮮征討案
  • STEP1
    西郷を大使として派遣
  • STEP2
    西郷が朝鮮を挑発

  • STEP3
    朝鮮が使節団に乱暴してくる
  • STEP4
    それを口実に朝鮮に攻め込む

西郷は天皇の裁可をもらうため、太政大臣の三条実美の説得に動きます。

正院の決定事項は太政大臣を通じて天皇に伝達されるため、太政大臣の説得は必須だった。

西郷隆盛
西郷隆盛

正院の参議のほとんどは征韓論に賛成である。

実美どの、ここはどうか天皇に朝鮮征討の裁可をお願い致す。

三条実美
三条実美

西郷の言いたいことはわかる。しかし、あと少しで岩倉使節団が戻ってくるのだから、それまで待つべきであろう。

西郷隆盛
西郷隆盛

戦は二段構えで行う。今回の話は単に朝鮮に使者を送るだけの話だ。岩倉使節団を待つまでもない内容である。

そして、使節を送れば朝鮮が使節を暴殺するだろうから、これを大義名分に朝鮮を征討するのだ。

使節派遣は、士族らの不満を国外に向けることが目的で行うものなのだ。国のためにもなんとしてもお願いしたい・・・!

西郷隆盛は、「暴殺」される予定の使節団の大使を自ら志願し、そこ死地に定めていたと言われています。これを知っていた板垣退助はこれを止めようとしたこともあります。

板垣退助
板垣退助

お前(西郷)が死ぬつもりなのなら、征韓論には賛成しかねるぞ・・・

西郷隆盛
西郷隆盛

人はいずれ死ぬ。そこにあるのは前後の差だけだ。私の死など気にしないで欲しい。

だから、私の最後の望みに協力してほしいのだ。もし希望が叶ったら、死んでもなおその恩に感謝するだろう。

板垣退助も西郷の決死の覚悟を知り、朝鮮征討のために奔走することになります。そして、三条実美も西郷の覚悟を知っていたため、気迫に満ちた西郷の懇願に押され、遂に征韓論を認めてしまいました。

こうして正院で朝鮮征討が決定され、あとは三条実美が明治天皇に裁可を貰えば、戦争確定となりますが、明治天皇は「岩倉使節団が戻ってからでないとダメだ」とこれを認めなかったと言われています。

しかも、どうやら三条実美はこれを西郷に隠したようです。もちろん、岩倉使節団が帰ってくるまでの時間稼ぎをするためでしょう。一方の西郷は天皇の裁可を得たものと思い込み、9月20日を出発日と定め、士族軍の準備を始めます。

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明治六年の政変

9月13日、岩倉使節団が帰国。岩倉具視はすぐに三条実美から事情を聞き、朝鮮征討阻止へと動きます。

まず最初にすべきは、征韓派で占められている正院に反対派を送り込むこと。当時の正院のメンバーは以下のようになっていました。1871年と比較すると、征韓派が増えていることがわかります。

岩倉使節団帰国後の正院メンバー
  • 三条実美【太政大臣】(中立)
  • 岩倉具視いわくらともみ【右大臣】(反対派)
  • 西郷隆盛【参議】(征韓派)
  • 板垣退助【参議】(征韓派)
  • 江藤新平【参議】(征韓派)
  • 後藤象二郎【参議】(征韓派)
  • 大隈重信【参議】(反対派だけど日和見)

岩倉具視が反対派の主力して正院に送り込もうとしたのは大久保利通と木戸孝允でした。大久保・木戸ともに、征韓派が占める参議就任には消極的でしたが、岩倉の必死の説得でそれを了承。

特に大久保は親友の西郷と決別することを固く決心し、岩倉に対して「参議になる代わりに、私の方針どおりにものごとを決定をして欲しい」と約束までしています。

一方の西郷は、派遣予定日の9月20日を過ぎても正院の会議(閣議)が開かれないことに不信感を抱き、三条に訴えます。三条は、岩倉が大久保・木戸が参議に就任するまで閣議をひたすら先延ばしにしていたんです。

そして、10月12日に大久保・木戸が参議に就任すると、14日遂に正院の会議(閣議)が行われます。詳細は不明ですが、その内容は「朝鮮への使節派遣を延期するかどうか」だったと言われています。

この会議で三条は再び西郷に押し切られ、西郷の「即時派遣」の意見が認められると16日、大久保・木戸ら反対派がこれに激怒して、参議を辞任。

17日、使節派遣の詳細を決める閣議が開かれますが、岩倉具視は欠席。反対派のいない閣議を嫌った三条はまたもや結論を翌日(18日)を先延ばしにします。

少しわかりにくいですが、要するに「三条実美が征韓派と反対派の間で板挟みにされてしまった・・・」ということです。

強引に使節派遣を迫る西郷一斉辞任で三条に精神的プレッシャーを与えて三条を思い留めようとする反対派

18日、精神的に追い詰められた三条実美は、胸の痛みを訴え倒れてしまいます。

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大久保利通の作戦

19日朝、この状況を見て大久保利通が「秘策あり」と本気モードに。

まずは宮内省への根回しを始め、病に倒れた三条に代わって岩倉を太政大臣代理にするよう天皇に働きかけます。

20日、岩倉は太政大臣代理となり、22日には西郷ら征韓派が岩倉に「閣議の決定事項(使節派遣)について早く天皇から裁可をもらえ」と迫ります。しかし、岩倉具視はこれを拒否。

岩倉具視
岩倉具視

私は三条とは違うのだよ。私には私の考え方がある。

23日、岩倉は閣議決定を無視して「使節派遣の延期」を天皇に伝え、天皇はそれを裁可しました。宮内省への根回しは、ここで天皇から閣議決定を覆す裁可をもらうためでした。

これにて勝負ありです。大久保VS西郷の旧友同士に戦いは、三条実美が病で倒れたのを好機とし、宮内省を動かして機敏に対応した大久保利通の大勝利に終わります。(三条が倒れたタイミングがあまりにも怪しいので「仮病では?」という話もあったりなかったり・・・)

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明治六年の政変の後

24日、派遣の延期を知った征韓派は、もはや政府に望みなしと参議を次々と辞任。

それぞれ自らの志を貫くため、別々の道を歩みました。

板垣退助
板垣退助

私は民意を政府に反映させるため自由民権運動じゆうみんけんうんどうに加わった。

そして、同じ志を持つもので「愛国公党あいこくこうとう」という党を作って政府に対して民選議員設立の建白書を提出して、政府に訴えたのだ。

江藤新平
江藤新平

私は、最初は板垣退助の創設した愛国公党に参加していたが、1874年、地元の佐賀県に戻り、没落して苦しむ士族らと共に政府に対して反乱を起こした。(佐賀の乱)

西郷隆盛
西郷隆盛

私は地元の鹿児島県に戻り、生活に苦しむ士族たちの不満を押さえ、そして士族たちを救うために活動していた。

しかし、1876年に政府は秩禄処分・廃刀令により士族にさらなる追い討ちをかけると、私の手では士族の不満を抑えきれなくなり、1877年に最大の士族反乱となる西南戦争を起こした。

西南戦争は敗北に終わり、私は切腹によりその生涯を終えた。

明治六年の政変によって民衆派の板垣退助や士族派の西郷隆盛が政府から抜けたことで、政府に対する反対運動はますます強まるようになります。上に挙げた「自由民権運動」「佐賀の乱」「西南戦争」は全てその一例と言えます。

また、明治六年の政変は「政府が決定したことでも、天皇に根回しする人物がいれば、簡単に覆ってしまう」という前例を作ってしまいました。

またこれにより、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定を可能にするところにある。そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその懸念を現実のものとした。その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。

wikipedia「明治六年の政変」



明治時代
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