
今回は横須賀製鉄所について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!誰が何のために造ったのか、「製鉄所」という名前の意味、建設にかかったお金、そして明治政府への引き継ぎまで、順番に整理していくね。
この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
横須賀の大きな造船所は、明治政府が近代化のために造ったもの、と思われがちです。
実は、横須賀製鉄所は幕末の1865年に江戸幕府が起工した事業で、明治政府は工事途中のまま引き継いで仕上げたのです。しかも名前は「製鉄所」なのに、鉄そのものを造る工場ではありませんでした。
計画の中心にいたのは、幕臣の小栗忠順です。2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で主人公として描かれる人物でもあります。
横須賀製鉄所とは?幕府が起工した造船・機械の総合工場
- 江戸幕府が1865年に横須賀で起工した、船の建造・修理と機械づくりのための工場。製鉄所・修船場・造船場・武器庫などを4年で整える計画だった
- 構想の中心は小栗忠順、技術の中心はフランス人技師ヴェルニー。船を入れて水を抜き、船底まで直せるドライドックが中心設備のひとつだった
- 幕府の崩壊で未完のまま明治政府に引き継がれ、1871年に横須賀造船所と改称。のちの海軍の拠点へつながった
横須賀製鉄所は、いまの神奈川県横須賀市に、江戸幕府が建設を始めた工場です。起工式にあたる「くわ入れ式」は、慶応元年にあたる1865年に行われました。

計画は4年間で製鉄所・修船場・造船場・武器庫などを整えるというものでした。船を新しく造る場所、傷んだ船を直す場所、そのための機械や部品を作る場所を、ひとつの敷地にまとめる構想です。
なかでも大事なのが、ドライドックです。海につながる大きな石造りのくぼみに船を入れ、門を閉めて水を抜くと、ふだんは海に沈んでいる船底がむき出しになります。そこで穴をふさいだり、付着した貝を落としたり、船体そのものを組み立てたりできるのです。

2027年の大河ドラマで小栗忠順が主人公になると聞いて、横須賀製鉄所という名前を見かけたの。そもそも何をする施設だったのかしら?

ひとことで言えば、幕府が造り始めた「船と機械の大工場」だよ。船を造る造船所と、ボルトや歯車、蒸気機関の部品を作る機械工場が、同じ入り江に並んでいるイメージに近いね!
ただし、この工場は幕府の時代には完成しませんでした。工事の途中で幕府が倒れ、明治政府が引き継いで仕上げたのです。
なぜ幕府は大規模な造船所を必要としたのか
きっかけは、1853年のペリー来航でした。蒸気で動く外国の軍艦が、江戸湾の入り口の浦賀に姿を見せたのです。
その後、幕府は1858年に日米修好通商条約を結びます。同じ年のうちにオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような条約を結び(安政五カ国条約)、1859年から横浜などで貿易が始まりました。
外国船が日常的に日本の港へ出入りするようになると、海から来る外国の力にどう備えるかが、幕府にとって大きな課題になります。これを当時の言葉で海防といいます。海岸や港の守りを固める、という意味です。
幕府は、老中の阿部正弘が進めた安政の改革の中で、1855年に長崎で海軍伝習所を開きました。オランダ人の教官から、蒸気船の動かし方を学び始めたのです。幕府や諸藩は、外国から蒸気船を買い入れるようにもなりました。

外国から蒸気船を買えば、それで海の守りは解決じゃないの?

軍艦は買って終わりじゃないんだ。自動車に車検や修理工場が欠かせないのと同じで、船も定期的に水から出して船底を点検しないと、すぐに傷んでしまうんだよ。長崎には、オランダの指導で1861年に完成した工場があって、船の修理を受け持っていたとされるけど、江戸からはとても遠いよね。だから開国後の日本には、江戸の近くで大きな船を修理できる施設が必要になったんだ。
つまり、幕府がほしかったのは、江戸の近くで船を造り、直し、そのための機械まで作れる拠点でした。この構想を形にしようと動いたのが、小栗忠順だったのです。
小栗忠順の構想とフランス公使ロッシュの協力
小栗は1860年、万延元年遣米使節の一員としてアメリカへ渡りました。ワシントンでは海軍の造船所を見学したとされ、機械で船や部品を作る現場を自分の目で見ています。
帰国後の小栗は、幕府のお金を預かる勘定奉行や、軍艦を担当する軍艦奉行などを務めました。造船所の計画を立てたのも、この小栗でした。
そこへ積極的に近づいてきたのが、1864年に着任したフランス公使ロッシュ(レオン・ロッシュ)です。当時のヨーロッパでは蚕の病気が広がっており、フランスは日本の生糸を強く求めていたとされます。幕府との結びつきを深めたいフランスと、技術を求める幕府の思惑が重なったのです。

幕府とフランスの間を取り持ったのは、幕臣の栗本鋤雲と、フランス人のメルメ・カションでした。1864年(元治元年)、小栗とロッシュは造船所の構想を立てました。
元治元年12月9日には、老中や小栗らがロッシュを招いて、造船所設立の大筋を話し合ったとされます。これは旧暦の日付で、西暦にすると1865年1月6日にあたります。
ここまでの役割分担を整理すると、次のようになります。
分担① 構想・お金・決断 小栗忠順をはじめとする幕府の役人
分担② 橋渡し・交渉 フランス公使ロッシュ、幕臣の栗本鋤雲、フランス人のカション
分担③ 設計・建設の技術 フランス人技師ヴェルニーと、彼が集めた技術者たち

軍艦を外国から買うだけでは、壊れたときに手も足も出ぬ。造船も修理も機械づくりも国の中でできる場所があれば、技術も職人も育っていく。横須賀は、そういう工場にしたいのだ。

料理にたとえると、お弁当を毎回買うか、自分の家に台所と料理人をそろえるかの違いだね。台所を作るのはお金も時間もかかるけど、一度できれば、作れるものがどんどん増えていくんだ。
もっとも、幕府の中が一枚岩だったわけではありません。巨額の費用がかかることや、外国の力に頼ることへの懸念もあったとされます。

フランスに頼るのって、当時の幕府の中でも不安はなかったのかしら?

不安や反対の声はあったと言われているよ。ただ、小栗たちは話し合いから契約、建設地の決定、技師の手配までを短い期間で進めていったんだ。
「製鉄所」なのに鉄を造らない?名前の意味
いまの感覚で「製鉄所」と聞くと、鉄鉱石を溶かして鉄を造る工場を思い浮かべます。ところが横須賀製鉄所の中心は、船を造ることと、船を直すことでした。
横須賀市の特集ページは、幕府が「鉄を加工する場所」という意味で使われていた「製鉄所」という名称をこの施設に付けた、と紹介しています。名付けられたのは、技術の責任者ヴェルニーがフランスへ一時帰国していた間のことでした。

製鉄所なのに、鉄は造らないの? それならなんで「製鉄所」って名前なんだろう?

当時の「製鉄」は、鉄を造ることだけじゃなく、鉄を切ったり叩いたりして形にする仕事まで含めた言い方だったと考えるとわかりやすいよ。今でいう金属加工と造船と機械づくりが一つにまとまった工場、ってイメージだね。
フランス人たちはこの工場を「Arsenal d’Iokosuka(アルスナル・ディオコスカ)」と呼びました。Arsenal は英語読みでアーセナル、兵器や軍艦の建造・修理・保管を担う国の工場のことで、日本語では「工廠」と訳されます。
なお、鉄鉱石から鉄そのものを大量に造る国営の工場は、1901年に操業を始めた八幡製鉄所が代表です。同じ「製鉄所」という名前でも、横須賀と八幡では役割がまったく違います。
- 製鉄所:幕府が付けた日本側の名前
- Arsenal(アルスナル):建設に当たったフランス側の呼び名
- 横須賀造船所:明治政府のもとで1871年に改称
- 横須賀海軍工廠:1903年、海軍の組織改編で改称
240万ドルの資金はどう用意されたのか
建設費の見積もりは240万ドル、完成までの期間は4年とされました。この2つの数字は、複数の資料で一致しています。
1年あたりにならすと、240万ドル÷4年で、年に60万ドルずつ支払う計算です。規模はフランスの軍港ツーロンを3分の2ほどに縮めたものとされ、当時の幕府にとって、とても大きな事業でした。
では、そのお金はどこから出たのでしょうか。ここは資料によって書き方が分かれます。原平三『幕末洋学史の研究』は、経費のうち100万ドルを、輸出する生糸を担保にしてフランスから借りることにしたと述べています。
担保とは、お金を借りるときに「もし返せなかったら、これを渡します」と約束しておく品物や権利のことです。つまり、日本の生糸を売って得るお金を返済の当てにした、という説明になります。
『横須賀市史』も、生糸を担保に100万ドルを借り入れることにしたと記しています。ただし、国立国会図書館のレファレンス事例は、同書に載る老中とロッシュの約定書そのものには担保の記載がないと注意を添えています。生糸が返済の当てとして語られていたことと、契約の文面に書かれていたかどうかは、分けて考える必要があります。
『横須賀市史』は、のちに幕府が武器の代金の支払いに困り、横須賀と横浜の製鉄所を未払金50万ドルの担保に入れたことさえあったとも記しているとされます。

幕府は、借金をしてまでこんな大きな工場を造ろうとしたの?

うん。借り入れの中身は資料によって違うけど、苦しい財政の中で240万ドルもの工場づくりに踏み切ったのは確かだよ。それだけ本気だったんだね。
ヴェルニーが持ち込んだ技術と工場のしくみ
建設を指揮したのは、フランス海軍の技師レオンス・ヴェルニーです。1837年にフランスで生まれ、理工系の名門校エコール・ポリテクニークで学んだ人物でした。
ヴェルニーは日本に来る前、中国の寧波で造船所やドックを建て、砲艦を造った経験を持っていました。その実績を買われ、1865年1月に日本へ派遣されます。

来日したヴェルニーは、フランスのツーロン港に似た横須賀の港を気に入りました。こうして建設地として横須賀が選ばれたのです。

この入り江は、故郷フランスのツーロン港によく似ている。ここなら、船の建造も修理もできる工場を置ける。まずはフランスへ戻り、機械と技術者をそろえてこよう。
ヴェルニーは1865年4月にいったんフランスへ戻り、機械の買い付けと技術者集めに当たりました。資材をそろえて横浜に戻ったのは、1866年6月のことです。
このとき運び込まれた機械のひとつが、スチームハンマーです。蒸気の力で重いおもりを持ち上げては落とし、真っ赤に熱した鉄を叩いて、船の部品の形に整える機械です。
このスチームハンマーは1865年にオランダで造られ、ハンマー部分の重さは500キログラムあります。1866年に横須賀へ届き、機械の手配にはヴェルニーと、幕府からオランダへ派遣されていた肥田浜五郎が当たったとされます。1998年には国の重要文化財に指定されました。
フランスから来た技術者の数は、40人あまりとも50人あまりともいわれ、数える時期によって資料に差があります。彼らのもとで、日本人の職人たちが西洋式の工場づくりに取り組みました。
働き方も、それまでの日本とは大きく違いました。日曜日を休みとする西洋式の曜日の仕組みが取り入れられ、給料は当時めずらしい月給制でした。医師も常駐し、職員や職人のけがや病気を診ていたといいます。

フランス人の技術者と日本の職人さんって、言葉も単位も違うのに、どうやって一緒に工場を造ったの?

フランス人の技術者が図面を描き、日本の職人がそれを読み解いて形にしていったんだ。たとえば1号ドックはフランスのメートル法で設計されていたけど、日本の職人たちは寸法を当時の物差しだった尺貫法に置き換えて完成させたんだ。のちには、日本人の技術者を育てる学校も設けられたよ。
こうして、図面や機械、働き方のルールまで含めて、西洋の工場の仕組みがまるごと横須賀に持ち込まれていきました。しかし工場が形になるより先に、幕府そのものが大きく揺らいでいきます。
起工から幕府の終わりまで〜未完で止まった工事
工事が正式に始まったのは、1865年11月15日のくわ入れ式とされます。旧暦では慶応元年9月27日にあたる日です。建設への着手を同じ年の8月とする資料もあり、どの段階を「始まり」とみるかで日付が変わります。
1866年にヴェルニーが戻ると、フランスから招かれた技術者たちが現場に加わりました。幕府に雇われたこの一団は、工事の段取りから日本人の職人への指導までを受け持つ、技術の顧問団でした。
幕末の日付には、当時の暦(旧暦)と西暦の2通りがあります。くわ入れ式は西暦1865年11月15日で、旧暦では慶応元年9月27日です。1871年の横須賀造船所への改称も旧暦の明治4年4月のことで、西暦では5月下旬にあたります。日本が西暦と同じ暦に切り替えたのは1873年からです。
ところが、工事が本格化したころ、幕府をめぐる情勢は急速に悪くなっていました。1866年、将軍の徳川家茂が、長州藩を攻める長州征討のさなかに大坂城で亡くなります。
15代将軍となった徳川慶喜は、ロッシュの助言を受けながら、フランス式の軍制改革を進めました。それでも幕府の力は戻らず、慶喜は1867年に政権を朝廷へ返す大政奉還を行います。
横須賀の工場は、完成を見ないまま幕府の手を離れることになりました。小栗については、造船所ができあがれば、たとえ幕府が倒れても「土蔵付きの売り家」として栄誉が残る、という意味の言葉を語ったと伝えられています。小栗本人が書いたものではなく、ともに製鉄所づくりに関わった栗本鋤雲が、のちの回想に書き残した言葉です。

土蔵付きの売り家って、どういうこと? 幕府がなくなったら、作りかけの工場は全部ムダになっちゃうんじゃないの?

家を手放すことになっても、丈夫な蔵が付いていれば、次の持ち主はそれをそのまま使えるよね。工場も同じで、持ち主が幕府から新しい政府に替わっても、土地や建物、機械、そこで腕を磨いた職人は横須賀に残るんだ。途中まで建てた家を、次の持ち主が引き継いで仕上げるイメージだよ。
ただ、小栗自身がその完成を見ることはありませんでした。1868年、新政府軍と戦うべきだと主張して職を解かれた小栗は、領地の上野国権田村(いまの群馬県高崎市)へ移り、同じ年のうちに新政府軍の手で処刑されています。
明治政府はどう引き継いだか〜横須賀造船所から海軍工廠へ
旧幕府軍と新政府軍が争う戊辰戦争のさなかの1868年、新政府は横須賀製鉄所を接収して引き継ぎました。旧幕府がフランスの銀行に負っていた借金は、新政府の小松帯刀がイギリス系の銀行から資金を借りて返済したとされます。
戦乱の中で新政府のお金も足りず、工事をやめる案も出たとされます。それでもフランス公使ウートレやヴェルニーが反対し、建設は続けられることになりました。

戦っていた相手の幕府が始めた工場なのに、新しい政府は壊さずに続けたのね。どうしてかしら?

軍艦を造って直せる場所がほしいのは、新しい政府も同じだったからだよ。ここで工事を止めたら、運び込んだ機械も、フランス人技術者のもとで育ち始めた職人も、行き場を失ってしまう。だれが始めたかより、日本にとって必要な工場かどうかが大事だったんだね。
新政府のもとで工場の所管は何度か替わり、やがて鉱山や鉄道などの事業を担当した工部省が受け持ちました。1871年には1号ドックが完成し、名前も横須賀製鉄所から横須賀造船所へ改められます。同じ明治4年の旧暦11月(西暦では1872年1月1日)には、明治天皇も横須賀を訪れました。

1872年には管轄が海軍省へ移り、造船所は海軍の工場として歩み始めました。ヴェルニーの指導で造られた軍艦清輝は1875年に進水し、1876年に完成します。1878年から翌年にかけては、国産の軍艦として初めてヨーロッパまでの航海を果たしました。
一方で、ヴェルニーの高い給料は新政府にとって重い負担でもありました。ヴェルニーは1876年3月に任を解かれ、家族とともにフランスへ帰国します。1865年の来日から1876年の帰国まで、およそ11年にわたる仕事でした。
その後、横須賀造船所は1884年に海軍の拠点となる横須賀鎮守府の付属となり、1903年には組織の改編で横須賀海軍工廠となりました。海軍工廠とは、海軍が直接運営して軍艦や兵器の建造と修理を行う工場のことです。フランス人が最初から呼んでいた「アルスナル(工廠)」が、ここで日本側の正式な名前にもなったといえます。
横須賀製鉄所が残したもの〜技術者・富岡製糸場・評価の変化
技術者を育てた学校
横須賀製鉄所が残した大きな財産のひとつが、人です。ヴェルニーが幕府に示した設立案には、いずれ日本人がフランス人に代わって造船を担えるよう、所内に学校を開いて技術者を育てる方針が書かれていました。
こうして設けられたのが、技術学校の黌舎です。設立年は、国立国会図書館の電子展示が1870年、アジア歴史資料センターの解説が1867年としていて、資料によって異なります。授業はフランス語で行われ、造船学や機械学が教えられました。
黌舎は1888年に閉校するまでに約100人の卒業生を出したとされます。横須賀造船所は、機械づくりや技術者の養成を通じて、ほかの産業の発達にも役立ちました。
富岡製糸場と灯台へ広がった技術
横須賀で身についた技術は、造船所の外にも広がっていきます。

富岡製糸場とつながりがあるって聞いたけれど、本当? 船と糸では、ずいぶん分野が違う気がするわ。

本当だよ。富岡製糸場の建物の図面を描いたのは、横須賀造船所にいたフランス人の技師なんだ。大きな工場の建物を設計して建てる技術は、造船所でも製糸場でも共通する部分が多かったんだね。
明治政府は殖産興業の一環として、1872年に群馬県の富岡製糸場を開きました。フランス人の生糸検査人ブリュナが計画を指導し、横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成しています。

建物は、木の骨組みの壁にレンガを積んだ木骨レンガ造です。富岡に製糸機械を取り入れたブリュナと、横須賀製鉄所の首長ヴェルニーは、親しい間柄でした。
横須賀製鉄所では1867年ごろからレンガが造られ、1869年に初めて灯りがともった観音埼灯台などの建設にも使われたとされます。
小栗への評価の移り変わり
幕府側の人物として処刑された小栗の仕事は、後になって見直されていきました。
日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎は、勝てたのは小栗が横須賀に造船所を造ってくれたおかげだ、という趣旨の礼を述べたと伝えられています。大隈重信も、明治政府の近代化政策は小栗の構想をなぞったものにすぎない、という意味の言葉を残したとされます。いずれも後年に伝えられた言葉で、言い回しは資料によって少しずつ違います。
いまの横須賀には、海に面したヴェルニー公園があり、ヴェルニーと小栗をしのぶ式典も毎年開かれています。幕府が始めた工場は、明治の海軍と産業を支える土台となり、それを構想した人の名前も、時間をかけて横須賀の歴史に刻まれていったのです。
横須賀製鉄所の理解を深めるおすすめ本

横須賀製鉄所をもっと深く知りたい人に、新書で読める一冊を紹介するよ!
中公新書の小栗忠順の評伝です。目次を見ると、第5章「幕府洋式海軍の整備」に、横浜製鉄所、横須賀製鉄所設立の背景、フランスへの使節団派遣、スチームハンマー、ドックの項目が並んでいます。
第4章には関口製造所や滝野川反射炉など、製鉄所以外の洋式化の取り組みも出てきます。製鉄所を小栗の仕事の中に置いて読める一冊です。
著者は横須賀製鉄所の設立と洋式海軍整備を扱った研究書(春風社、2026年)も出しています。製鉄所そのものを学術的に掘り下げたい人は、そちらが次の一歩になります。
小栗がなぜ製鉄所を構想したのか、幕府海軍や遣米使節とのつながりを、一人の生涯の流れで読みたい人。新書なので、この記事のあとに手に取りやすい一冊です。
ヴェルニーら技術者の仕事や、工場の設備と運営を中心に知りたい人。製鉄所の話は第5章が中心で、本全体は小栗の評伝です。
よくある質問(FAQ)
江戸幕府が1865年に起工した事業です。構想と資金集めの中心は小栗忠順ら幕府の役人、設計と建設の技術はフランス人技師レオンス・ヴェルニーが担いました。幕府の崩壊後は明治政府が引き継ぎ、1871年に1号ドックを完成させています。
横須賀市の説明では、当時の「製鉄所」は「鉄を加工する場所」を指す言葉で、幕府がこれを施設の名前にしました。仕事の中心は船の建造と修理で、フランス側の呼び名は Arsenal(工廠)です。鉄鉱石から鉄そのものを造る八幡製鉄所などとは役割が違います。
建設費の見積もりは240万ドル、期間は4年とされています。お金の出どころは資料によって説明が分かれ、生糸を当てにして100万ドルを借りたとする記述がある一方、契約の文面には担保の記載がないという指摘もあります。
同じ施設の呼び名が、時代とともに変わったものです。幕府が付けた名前が横須賀製鉄所で、明治政府のもとで1871年に横須賀造船所と改められ、1903年には横須賀海軍工廠となりました。
長崎製鉄所は、オランダの指導で1861年に完成し、船の修理などを受け持ったとされる先行の施設です。横須賀製鉄所は、江戸に近い場所に、フランスの技術でドックを備えた造船・修理の拠点を新しく造る計画でした。
あります。1872年に開かれた富岡製糸場は、ブリュナの指導のもとで、横須賀造船所の技師バスティアンが図面を作成しました。横須賀製鉄所で造られたレンガは、観音埼灯台などの建設にも使われたとされます。
残っています。1866年に横須賀へ届いたスチームハンマーは、1998年に国の重要文化財に指定されました。1871年に完成した1号ドックも、現在の米海軍横須賀基地の中に残っています。
まとめ
横須賀製鉄所は、江戸幕府が1865年に起工し、幕府の崩壊で未完のまま明治政府に引き継がれた、船と機械の総合工場です。「製鉄所」は鉄を加工する場所という意味の名前で、240万ドルとされる資金の出どころには、資料によって説明の違いがあります。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で小栗忠順の歩みを追うときは、横須賀の工場がその代表的な仕事のひとつだったことを思い出してみてください。
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1864年小栗忠順とロッシュが造船所の構想を立てる
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1865年ヴェルニーが来日。11月15日にくわ入れ式(起工)
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1866年ヴェルニーが機械と技術者をそろえて再来日
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1867年徳川慶喜が大政奉還。工事は未完のまま
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1868年新政府が製鉄所を引き継ぐ。小栗忠順が処刑される
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1871年1号ドックが完成し、横須賀造船所と改称
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1872年管轄が工部省から海軍省へ移る
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1876年ヴェルニーが任を解かれてフランスへ帰国
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1903年横須賀海軍工廠となる

以上、横須賀製鉄所のまとめでした。下の記事で、小栗忠順や万延元年遣米使節、殖産興業、富岡製糸場もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:Historist(山川出版社『日本史小辞典』)、コトバンク、横須賀市公式サイト、横須賀市自然・人文博物館、国立国会図書館、文化遺産オンライン、アジア歴史資料センター
Historist「横須賀製鉄所」(山川出版社『日本史小辞典』)(2026年10月確認)
横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」(2026年10月確認)
横須賀市自然・人文博物館 メールマガジン 2016年4月27日号・2017年9月28日号(2026年10月確認)
国立国会図書館 レファレンス協同データベース(横須賀製鉄所の建設資金に関する事例。原平三『幕末洋学史の研究』、鳴岩宗三『幕末日本とフランス外交』、『横須賀市史』の記述を紹介)(2026年10月確認)
国立国会図書館 電子展示会「近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流」(大規模官営工場の建設)(2026年10月確認)
文化遺産オンライン「スチームハンマー(旧横須賀製鉄所設置)」「横須賀製鉄所製れんが」「旧富岡製糸場 繰糸所」(2026年10月確認)
アジア歴史資料センター グロッサリー「横須賀造船所」「黌舎」(2026年10月確認)
コトバンク「横須賀造船所」(日本大百科全書)(2026年10月確認)
東善寺「小栗上野介随想」(「土蔵付き売家」の横須賀造船所)(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「横須賀造船所」「レオンス・ヴェルニー」「小栗忠順」「長崎製鉄所」「肥田浜五郎」「観音埼灯台」、英語版「Japanese corvette Seiki」(2026年10月確認)
Wikimedia Commons(掲載した画像のファイルページ)(2026年10月確認)
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