公武合体が超わかる!簡単にわかりやすく解説するよ【目的や尊王攘夷運動との関係を中心に】

今回は、幕末に登場した公武合体(こうぶがったい)について解説します。

手元にある高校の教科書では、公武合体について次のようなことが書かれています。

桜田門外の変の後、幕政の中心となった老中安藤信正は、朝廷(公)と幕府(武)の融和をはかる公武合体の政策をとり、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を将軍徳川家茂の妻に迎えた。

これをもっとわかりやすく、そして詳しく見ていきましょう!

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公武合体までの時代の流れ

まずは、「朝廷と幕府は一つになろうぜ!」と言う発想が生まれるまでの流れを確認しておきます。

公武合体までの流れ
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幕府「尊王攘夷派強すぎるから天皇の動きを封じたい」

日米修好通商条約の締結に孝明天皇が激怒してから、孝明天皇は攘夷派の人たちの求心力となり、政治に強い影響力を持つようになります。

江戸幕府はこの状況を非常に嫌いました。江戸幕府は、その初期の頃から禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とか言うメチャクチャ難しいそうな名前の法律を作って、朝廷や天皇の動きを強く制限してきました。

今回も同じように、なんとかして天皇の動きを封じ込めたい・・・と幕府は考えるようになります。尊王攘夷派が勢力を増す世の中となっては、禁中並公家諸法度だけでは天皇の動きを抑えることは不可能。そこで考え出された方法が政略結婚でした。

日米修好通商条約が結ばれた1858年から井伊直弼が主導で動きがありましたが、1860年に桜田門外の変で井伊直弼が討たれると、次は老中の安藤信正(あんどうのぶまさ)が中心となって政略結婚の交渉を進めます。

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暗躍する岩倉具視

この時考えられていた政略結婚は、将軍の足利家茂(あしかがいえもち)に孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)が嫁ぐというものでした。

和宮(かずのみや)

しかし、孝明天皇はこの結婚には大反対です。

和宮は別な人との婚姻が決まっていたので和宮自身がものすごく嫌がっていたし、そもそも天皇側に政略婚のメリットがありません。むしろ、和宮を将軍に嫁がせるということは「和宮が人質としてとられている・・・」と考えることすらできます。

しかし、朝廷の中には「幕府がそう来るなら、こっち(朝廷)だって政略婚を利用して幕府に迫ってやろうじゃねーか!!」と積極戦法を考える人もいました。

その人物こそが、後に明治維新で活躍することになる岩倉具視(いわくらともみ)です。岩倉具視は、孝明天皇にこう言って、幕府との政略婚を認めるよう説得します。

岩倉具視
岩倉具視

これはむしろ大チャンスですぞ。幕府が政略婚を望むということは、逆に考えれば、『婚姻関係を利用しなければ朝廷を抑えられないほど幕府の力は弱体化している』ということ。

こちらからも政略婚の条件を提示するのです。

・孝明天皇が望んでいた外国との条約破棄を実施する

・幕府は重要政策を決定する際に、朝廷の意見を必ず伺う

この2つを要求するのです。こうすれば、政略婚を利用して逆に幕府の動きを牽制できるようになりますぞ!

この岩倉具視の意見に孝明天皇の考えは大きく揺らぎます。

孝明天皇は元々「外国と条約など結ばず、徹底抗戦すべき」という攘夷の考えを持っていたので、政略婚を通じてそれを実現できるとなると、心が揺らいだのです。

結局、孝明天皇は岩倉具視の意見を聞き入れ、政略婚を認めます。(政略婚を嫌った和宮の意見が受け入れられることはありませんでした・・・)

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公武合体へ

1862年2月、和宮と徳川家茂は遂に結婚することとなります。こうして幕府と朝廷はお互いに妥協の上、公武合体を実現することになります。

公武合体は、政治に次のような影響を与えることになります。

公武合体が政治に与えた影響
  • 1 幕府内で虐げられていた攘夷派(一橋派)の勢力が増した。
  • 2 幕府は悪だとして公武合体に反対する尊王攘夷派の中でも過激派の人々たちが、関係者の闇討ちを始める。(天誅と呼ばれている)

まず、公武合体によって安政の大獄によって虐げられていた幕府内の攘夷派勢力が息を吹き返しました。その中でも、朝廷との繋がりも持っていた薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)という人物が台頭してきます。

公武合体後に台頭した島津久光

これと合わせて、尊王攘夷派の中でも過激派な人たちがテロのような闇討ちを始めるようになります。過激派にとって公武合体は幕府側の陰謀にしか映りませんでした。なので、公武合体を推進していた人たちに対してテロ行為を始めたんです。

有名なのは1862年1月に起こった坂下門外の変という事件。過激派の人たちが公武合体を推進していた幕府側の安藤信正を襲撃しました。

天誅は幕府側の人間だけではなく、公武合体を推進した朝廷側の人間にも及びました。公武合体の後、岩倉具視も命を狙われるようになり、危険を感じて官職を辞任して出家。隠居することになります。

過激派の天誅は外国人にも及び、この頃になると日本に滞在している外国人がいきなり襲われて命を落とす事件が多発します。

外国人が襲われた有名な事件
  • 1860年:東禅寺事件(オランダ人襲われる)
  • 1862年:生麦事件(イギリス人襲われる)
  • 1862年:イギリス公使館焼き討ち事件(イギリス公使館焼かれる)

公武合体だけが理由ではないと思いますが、こうして日本全体の世論が少しずつ攘夷へと傾いて行くことになります。(そして、1863年に起こった薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件を通じて異国が強すぎて攘夷が不可能であることを悟ることになる)



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