公武合体が超わかる!簡単にわかりやすく解説するよ【目的や尊王攘夷運動との関係を中心に】

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公武合体

もぐたろう
もぐたろう

今回は幕末の公武合体こうぶがったいについて、読み方・目的・尊王攘夷そんのうじょういとの違い・中心人物まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 公武合体とは何か(読み方・時期・目的)
  • 公武合体と尊王攘夷の違い(両派の対比)
  • 中心人物(安藤信正・島津久光)
  • 和宮降嫁(公武合体の象徴)
  • 公武合体の終焉と倒幕への影響

公武合体と聞くと、「朝廷と幕府が仲良く手を結んだ協力体制」というイメージを持つ人が多いかもしれません。

しかし実は、公武合体は美しい協力関係ではありませんでした。弱りきった幕府が、天皇の権威を「利用」して延命をはかった苦肉の策だったのです。だからこそ尊王攘夷派の猛反発を招き、かえって幕府の崩壊を早めることになりました。この記事では、そんな公武合体の意味・目的・尊王攘夷との違いを、順を追って解説していきます。

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公武合体とは?読み方と意味をわかりやすく

公武合体とは?(3行まとめ)

① 朝廷(公)と幕府(武)が手を結び、ゆらいだ幕府の権威を立て直そうとした幕末の政策・運動です(読み方:こうぶがったい)。
② 時期はおもに1860〜1862年ごろ。中心人物は老中・安藤信正と、薩摩藩の島津久光。
③ 象徴的な出来事は1862年の和宮降嫁(孝明天皇の妹・和宮が将軍徳川家茂に嫁いだこと)です。

公武合体こうぶがったいとは、文字どおり「公(朝廷)」と「武(幕府)」が手を結ぶ、という意味の言葉です。朝廷と幕府が協力して、ゆらいだ政治体制を立て直そうとした動きを指します。

この公武合体には、2つの顔があります。1つは、幕府が主導して朝廷と縁組みをはかる「政策」としての側面。もう1つは、薩摩藩などの有力大名が幕府に改革を迫っていく「政治運動」としての側面です。教科書で「公武合体政策」「公武合体運動」と両方の呼び方が出てくるのは、このためです。

時期としては、1860年の桜田門外の変のあと、おもに1860〜1862年ごろに本格化しました。「いつ?」と問われたら、まずはこの時期を押さえておけば大丈夫です。

ゆうき
ゆうき

公武合体って、そもそも何と何が合体するの?

もぐたろう
もぐたろう

「公」が京都の朝廷(天皇)、「武」が江戸の幕府(将軍)だよ。バラバラだったこの2つを1つにまとめて、政治を立て直そうとしたんだ。なぜそんな必要があったのか、次の章で見ていこう!

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なぜ公武合体が必要だったのか?(目的)

公武合体が必要になった理由は、ひとことで言えば「幕府の権威が地に落ちていたから」です。その流れを順番に見ていきましょう。

桜田門外の変を描いた絵図
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/桜田門外の変(1860年)

きっかけは、1858年に幕府が天皇の許し(勅許ちょっきょ)を得ないまま日米修好通商条約を結んだことでした。これに尊王攘夷派が猛反発します。大老・井伊直弼は反対派をきびしく弾圧(安政の大獄)しますが、これがさらに反感を広げてしまいます。

そして1860年、井伊直弼が江戸城の門前で暗殺される桜田門外の変が起こります。最高権力者である大老が白昼に殺されたのです。幕府の権威は、もはや力ずくでは保てないところまで落ちていました。

❌ 問題:幕府の権威がガタ落ち(無勅許の条約調印+大老暗殺)

✅ 解決策:天皇の権威を借りて立て直す(=公武合体)

そこで幕府が考えたのが、天皇の権威を借りて自分たちの立場を立て直す方法でした。朝廷(公)と幕府(武)が結びつくことで、「幕府は天皇のお墨付きを得ている」と世間に示そうとしたのです。これが公武合体の最大の目的でした。

安藤信正
安藤信正

桜田門外の変で権威が揺らいだ今、朝廷と手を結んで幕府を立て直すのだ。天皇と縁組みすれば、世も少しは落ち着くであろう。

あゆみ
あゆみ

なぜ仲良くしようとしたのに、かえって倒幕につながっていったの?

もぐたろう
もぐたろう

いい質問だね。「弱ったから天皇に頼った」のがバレバレだったんだ。尊王攘夷派からすれば、天皇を政治の道具に使う行為に見えて、かえって怒りに火がついた。この対立を理解するには、まず公武合体と尊王攘夷の違いを整理する必要があるよ。

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公武合体と尊王攘夷の違い

ゆうき
ゆうき

公武合体と尊王攘夷って、何が違うの? いつも混ざっちゃうんだよね…。

もぐたろう
もぐたろう

ざっくり言うと、公武合体は「幕府を残したまま朝廷と協力する」立場、尊王攘夷は「天皇を中心にして外国を追い払う」立場だよ。下の表で見比べてみよう!

公武合体と尊王攘夷は、どちらも「天皇を敬う」という点では共通しています。違うのは、その先で何を目指したかです。公武合体派は幕府を残しつつ朝廷と手を組んで体制を維持しようとしたのに対し、尊王攘夷派は天皇を政治の中心にすえ、外国を排斥しようとしました。この尊王攘夷派は、のちに「幕府を倒す(倒幕)」方向へ進んでいきます。

比較項目公武合体(派)尊王攘夷(派)
目指した体制幕府を残し、朝廷と協力して立て直す天皇を中心とした政治へ(のち倒幕)
外国への姿勢現実的(開国もやむなし)攘夷(外国を打ち払う)
天皇の位置づけ幕府を支える権威として利用政治の中心にすえる
代表的な人物・藩安藤信正・島津久光/薩摩・会津長州藩・三条実美ら

こうして見ると、両者の対立点がはっきりします。とくに「外国への姿勢」と「幕府を残すかどうか」が、テストでも問われやすい違いです。

📌 注意:両派は最初から最後まで固定的に対立していたわけではありません。藩や時期によって立場が動きました。とくに薩摩藩は、はじめ公武合体を進めながら、のちに倒幕へと路線を転換します。この「変化」が、幕末をややこしく感じさせる最大のポイントです。

公武合体を推進した中心人物(安藤信正・島津久光)

公武合体を進めた中心人物は、大きく2人います。幕府側の老中・安藤信正と、薩摩藩の実力者・島津久光です。それぞれの立場を見ていきましょう。

■ 老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)

安藤信正は、井伊直弼が暗殺されたあとの幕府を主導した老中です。井伊のような強硬な弾圧路線ではなく、朝廷との融和をはかる道を選びました。その目玉として進めたのが、次の章でくわしく見る「和宮降嫁」です。安藤は、いわば幕府主導の公武合体の中心人物でした。

■ 薩摩の島津久光(しまづひさみつ)

薩摩藩の実力者・島津久光
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/島津久光

一方、薩摩藩の島津久光は、藩の実権をにぎり、幕府側とはまったく別のかたちで公武合体を進めました。安藤のような「幕府主導」ではなく、強大な薩摩の武力を背景に、幕府へ政治改革を迫っていく「大名主導」の公武合体です。久光が兵を率いて京都・江戸へ向かう動き(率兵上京)は、のちの政治を大きく動かしていくことになります。

💡 久光は「殿様」ではなかった:実は久光自身は薩摩の藩主ではありません。藩主はあくまで息子の島津忠義で、久光はその実父(国父こくふ)として藩の実権をにぎっていました。しかも当初は官位もない身。そんな人物が1000人もの兵を率いて中央の政治を動かしたのですから、公家や幕臣からは「田舎者が」と陰口をたたかれることもあったといいます。

島津久光
島津久光

武力を背景に、幕府へ改革を迫る。これが我ら薩摩の公武合体じゃ。ただ朝廷に頭を下げる幕府とは、わけが違うぞ。

このように、ひとくちに「公武合体」と言っても、幕府側(安藤)と薩摩側(久光)では狙いが微妙に違いました。この温度差が、のちの公武合体のゆくえを左右していきます。次の章では、安藤信正が進めた最大の公武合体策「和宮降嫁」を見ていきましょう。

和宮降嫁 — 公武合体の象徴(1862年)

公武合体を世の中に示す最大の出来事が、1862年の和宮降嫁かずのみやこうかでした。「降嫁」とは、皇女(天皇の娘や妹)が皇族以外の男性に嫁ぐことをいいます。

将軍家茂に嫁いだ皇女・和宮
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/和宮(かずのみや)

幕府は、孝明天皇の妹である和宮を、14代将軍徳川家茂の妻に迎えました。朝廷と将軍家が縁戚(親戚)になることで、「朝廷と幕府は一体である」と世に示そうとしたのです。これこそが公武合体の象徴でした。

ただし、この結婚はすんなり決まったわけではありません。和宮には別の婚約者がいて、本人も乗り気ではありませんでした。孝明天皇も当初は強く反対しています。最終的に天皇は、「将来かならず攘夷(外国の排斥)を実行する」という条件をつけて、しぶしぶこの結婚を認めました。つまり和宮降嫁は、攘夷の約束とひきかえに成立した政略結婚だったのです。

実は和宮には婚約者がいた

和宮にはもともと有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうという婚約者がいました。それでも降嫁を受け入れるにあたり、和宮は「江戸でも御所風の暮らしを続ける」ことなどを条件として認めさせています。京都から江戸へ下った和宮の行列は、尊王攘夷派の襲撃を避けるためにあえて中山道なかせんどうを通り、通過に何日もかかるほどの空前の規模だったと伝えられます。沿道の宿場は大人数の対応に追われ、「政略結婚」の重みを街道全体が背負ったのです。

あゆみ
あゆみ

政略結婚って、結局この縁組みで幕府は得をしたの?

もぐたろう
もぐたろう

それが、逆効果だったんだ。「天皇の妹を政略結婚に使うなんて、天皇に対して失礼だ!」と、尊王攘夷派が激怒。和宮降嫁は、幕府への反発をかえって燃え上がらせてしまったんだよ。

幕府としては「朝廷と一体になった」とアピールしたかったのですが、尊王攘夷派の目には「弱った幕府が天皇の権威を利用している」と映りました。和宮降嫁という公武合体の象徴は、そのまま反発の火種にもなったのです。そしてその怒りは、ついに直接の事件となって爆発します。

坂下門外の変と安藤信正の失脚(1862年)

老中・安藤信正の肖像
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/安藤信正

1862年、和宮降嫁に反発した尊王攘夷派の水戸浪士らが、公武合体を進めた中心人物・安藤信正を襲撃しました。これが坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)です。

2年前の桜田門外の変では大老・井伊直弼が殺されました。今度は、その路線を引き継いだ老中・安藤信正がねらわれたのです。同じ「門外の変」という名前がついているのは、このためです。

安藤は一命をとりとめましたが、背中に傷を負って逃げたことが「武士らしくない」と批判され、まもなく老中を退きました。こうして、幕府主導の公武合体は早くも行きづまります。和宮降嫁という大きな成果をあげたばかりなのに、その立役者がすぐに失脚してしまったのです。

🗓 2つの「門外の変」セットで覚える:1860年・桜田門外の変=大老 井伊直弼が暗殺/1862年・坂下門外の変=老中 安藤信正が襲われ失脚。どちらも尊王攘夷派による幕府要人へのテロで、幕府の権威が大きくゆらいだ出来事です。

幕府主導の公武合体がつまずいたあと、政治の主役は薩摩の島津久光へと移っていきます。次の章からは、久光が起こした公武合体運動(率兵上京・文久の改革)を見ていきましょう。

島津久光の公武合体運動(文久の改革・参預会議)

幕府主導の公武合体が坂下門外の変でつまずいたあと、運動の主役になったのが薩摩藩の島津久光です。久光は「公武合体運動」と呼ばれる動きの中心人物でした。ここからは、その具体的な中身を見ていきましょう。

■ 率兵上京と文久の改革

1862年、島津久光は1000人ほどの兵を率いて京都へ上りました。これを率兵上京そっぺいじょうきょうといいます。武力を背に、朝廷を動かして幕府に改革を迫ろうとしたのです。

久光は朝廷から勅使ちょくし(天皇の使い)を引き出し、その勅使とともに江戸へ下って幕府に圧力をかけました。こうして実現したのが文久の改革です。一橋慶喜(のちの徳川慶喜)が将軍後見職しょうぐんこうけんしょくに、松平春嶽が政事総裁職せいじそうさいしょくにつくなど、幕府の人事と仕組みが大きく改められました。

将軍後見職・政事総裁職ってなに?

どちらも、文久の改革で新しくつくられた幕府の最高ポストです。当時の将軍・徳川家茂はまだ16歳と若かったため、その政務を支える役職が必要だったのです。

・将軍後見職…若い将軍のうしろ盾となり、後見役(サポート役)として政務を補佐する役職。今でいう「将軍の保護者・相談役」のイメージです。一橋慶喜がつきました。

・政事総裁職…老中の上に置かれた、幕府の政治全体をとりまとめる最高責任者。事実上「大老」に近い立場で、今でいう「総理大臣」のような幕政のトップです。松平春嶽がつきました。

文久の改革で将軍後見職についた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/一橋慶喜(のちの徳川慶喜)。文久の改革で将軍後見職に就いた

大名が朝廷の権威を使って幕府を動かす——これこそ、久光が進めた「大名主導の公武合体」の中身でした。なお、この上京からの帰り道に薩摩藩士がイギリス人を斬る生麦事件が起こり、のちの薩英戦争へとつながっていきます。

■ 参預会議

1864年には、有力な大名たちが朝廷のもとに集まって政治を話し合う参預会議さんよかいぎがつくられました。参加したのは、島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・松平容保・徳川慶喜といった面々です。

これは、朝廷・幕府・有力大名が手を取り合って政治を進める、公武合体のいわば完成形を目指したものでした。ところが、開国か攘夷かをめぐって久光と慶喜が激しく対立し、参預会議はわずか2か月ほどで崩れてしまいます。

あゆみ
あゆみ

せっかく大名が集まったのに、どうしてすぐ壊れちゃったの?

もぐたろう
もぐたろう

みんな立場も思惑もバラバラだったからだよ。とくに久光と慶喜は仲が悪くてね。「話し合いで日本をまとめる」って理想は、現実の権力争いの前にあっけなく崩れちゃったんだ。この失敗が、次の大事件への伏線になるよ。

こうして大名主導の公武合体も、足並みの乱れから行きづまっていきます。一方その裏で、京都では尊王攘夷派が一気に勢力を伸ばしていました。次の章では、その流れを一変させた八月十八日の政変を見ていきましょう。

八月十八日の政変(1863年)

1863年、京都では長州藩を中心とする尊王攘夷派が大きな力を持ち、朝廷を動かして「天皇による攘夷の実行」を迫るほどになっていました。これに危機感を抱いたのが、公武合体派の薩摩藩と会津藩です。

1863年8月18日、薩摩・会津の両藩は孝明天皇の意向を受け、クーデターを決行します。京都から長州藩の勢力を追い出し、尊王攘夷派の公家たちも朝廷から退けました。これが八月十八日の政変はちがつじゅうはちにちのせいへんです。

このとき、長州とともに京都を追われた三条実美ら7人の公家が、長州へ落ちのびていきました。これを七卿落ちしちきょうおちといいます。政変によって、京都の主導権は一時的に公武合体派の手に戻りました。

ゆうき
ゆうき

あれ? 薩摩って公武合体派だったよね。じゃあこのときは幕府の味方ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

この時点ではそうなんだ。薩摩はまだ「幕府を残して立て直す」公武合体の立場だったからね。長州の暴走を止めたかったんだ。でも、このあと薩摩の考えが180度変わっていくよ。

八月十八日の政変の翌年に起きた禁門の変(蛤御門の変)
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/禁門の変(蛤御門の変・1864年)。政変で京都を追われた長州が翌年、巻き返しをはかった

🗓 政変のあとの流れ:八月十八日の政変で京都を追われた長州は、翌1864年に勢力回復をねらって京都へ攻め上り、禁門の変(蛤御門の変)を起こします。これが長州征討へとつながり、幕末の動乱はいっそう激しくなっていきます。

八月十八日の政変は、公武合体派が尊王攘夷派をおさえこんだ大きな転換点でした。しかし、この「勝利」は長くは続きません。次の章では、公武合体がどのように終わりを迎え、倒幕へとつながっていったのかを見ていきましょう。

公武合体の終焉と倒幕への影響

八月十八日の政変で一時は主導権をにぎった公武合体派でしたが、その後はうまくいきませんでした。1864年、理想の形だった参預会議が崩壊すると、公武合体の限界がはっきりと見えてきます。

参預会議で慶喜と対立した島津久光は、「幕府と協力しても日本は立て直せない」と考えるようになります。こうして薩摩藩は、公武合体から「幕府を倒す(倒幕)」へと、方針を大きく転換していきました。

① 1864年:参預会議が崩壊(久光と慶喜が対立)

② 薩摩が公武合体を見限る(幕府への協力に失望)

③ 1866年:薩長同盟へ(かつて敵だった薩摩と長州が手を結ぶ)

1866年、薩摩はそれまで敵対していた長州藩と手を結びます(薩長同盟)。倒幕の中心となるこの同盟が成立したことで、流れは一気に幕府打倒へとかたむきました。そして1867年の大政奉還、翌1868年からの戊辰戦争を経て、江戸幕府は滅び、明治維新へと進んでいきます。

こうして振り返ると、皮肉な結末が見えてきます。幕府を守るために始まった公武合体が、結果的には薩摩を倒幕へと向かわせ、幕府自身の崩壊を早めてしまったのです。

もぐたろう
もぐたろう

最初に言った「弱った幕府が天皇を利用した苦肉の策」って話、ここでつながったね。守るための作戦が、かえって倒幕の引き金になっちゃった。これが公武合体の最大のポイントだよ。

🔎 現代とのつながり:「権威を借りて自分の立場を強める」やり方は、現代の政治でもよく見られます。たとえば、人気のある人物や肩書きを後ろ盾にして発言力を高めるケースです。しかし公武合体が教えるのは、借りた権威に頼りすぎると、かえって自分の弱さを露呈してしまうこともある、ということです。

テストに出るポイント

ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 公武合体の定義:朝廷(公)と幕府(武)が協力し、幕府の権威を立て直そうとした政策・運動
  • 和宮降嫁(1862年):象徴的な出来事。孝明天皇の妹・和宮が14代将軍 徳川家茂に嫁ぐ
  • 中心人物:老中 安藤信正(幕府主導)/薩摩 島津久光(大名主導)
  • 坂下門外の変(1862年):安藤信正が襲われ失脚 → 幕府主導の公武合体が頓挫
  • 八月十八日の政変(1863年):薩摩・会津が長州ら尊攘派を京都から追放(七卿落ち)
  • 公武合体派 vs 尊王攘夷派:「違い」は最頻出。薩摩は公武合体→倒幕へ転換した点に注意

📌 暗記のコツ:公武合体は「和宮降嫁+安藤信正」をセットで覚えるのが基本。記述問題では「公武合体と尊王攘夷の違い」と「薩摩が公武合体から倒幕へ転換した流れ」がねらわれやすいので、原因と結果をつなげて言えるようにしておきましょう。

ゆうき
ゆうき

結局、テストで一番出るのはどこ?

もぐたろう
もぐたろう

「和宮降嫁」と「尊王攘夷との違い」がド頻出だよ! この2つだけは絶対に押さえておこう。

公武合体・幕末政治史の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

公武合体は、幕末の政治の流れ全体の中で見るといっそうわかりやすくなるよ。「もっと深く知りたい!」という人に、レベル別でおすすめの本を紹介するね!

①まず幕末の流れを一気につかみたいなら|語り口調で読める定番

黒船来航から西郷隆盛の死までの激動の25年を、講演をもとにした語り口でわかりやすく描いた一冊です。難しい用語を使わずに幕末史を通しで追えるので、公武合体がどの局面で出てくるのかを「物語」として体感できます。学生からやり直し勉強の社会人まで、最初の1冊にぴったりです。

幕末史

半藤一利 著|新潮社(新潮文庫)


②学術的な通史でじっくり深掘りしたいなら|最新研究をふまえた定番新書

岩波新書「シリーズ日本近現代史」の第1巻。黒船来航から明治維新・西南戦争までを、最新の研究成果をふまえて描いた本格的な通史です。公武合体や尊王攘夷をめぐる各藩の動きを、史料にもとづいて立体的に理解したい人向け。大学受験で記述・論述に踏み込みたい人や、教養として深く学び直したい社会人におすすめです。

幕末・維新(シリーズ日本近現代史1)

井上勝生 著|岩波書店(岩波新書)

公武合体についてよくある質問

朝廷()と幕府()が手を結び、ゆらいだ幕府の権威を立て直そうとした幕末の政策・運動です。象徴的な出来事が、1862年の和宮降嫁です。

「こうぶがったい」と読みます。「公(朝廷)」と「武(幕府)」が合体する、という意味です。

1860年の桜田門外の変のあと、おもに1860〜1862年ごろに本格化しました。象徴の和宮降嫁は1862年です。その後も島津久光の運動(〜1864年)まで続きました。

公武合体は幕府を残したまま朝廷と協力する立場、尊王攘夷は天皇を中心にすえ外国を排斥する立場(のち倒幕へ)です。どちらも天皇を敬う点は共通しますが、幕府を残すかどうかで大きく分かれます。

幕府側は老中・安藤信正(和宮降嫁を推進)、大名側は薩摩藩の島津久光(率兵上京・文久の改革)が代表的です。岩倉具視も朝廷側で関わりました。

「弱った幕府が天皇の権威を利用している」と尊王攘夷派の反発を招いたうえ、参預会議で大名たちの足並みがそろわず崩壊したためです。最終的に薩摩が倒幕へ転換し、公武合体は行きづまりました。

公武合体のまとめ

最後に、公武合体の流れをまとめておきましょう。幕府の権威がゆらいだことをきっかけに始まり、和宮降嫁で頂点をむかえ、やがて倒幕へとつながっていった——その全体像を年表で確認してください。

公武合体の年表
  • 1858年
    日米修好通商条約を無勅許で調印し、幕府の権威が動揺
  • 1860年
    桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺される
  • 1862年
    和宮降嫁/坂下門外の変で安藤信正が失脚/島津久光の率兵上京・文久の改革
  • 1863年
    八月十八日の政変で薩摩・会津が尊攘派を京都から追放(七卿落ち)
  • 1864年
    参預会議が崩壊し、公武合体が行きづまる
  • 1866年
    薩長同盟が成立し、流れは倒幕へ(→大政奉還・明治維新)

もぐたろう
もぐたろう

以上、公武合体のまとめでした! 幕府を守るための作戦が、かえって倒幕を早めたという皮肉な歴史だったね。下の記事で、徳川慶喜や戊辰戦争もあわせて読むと、幕末の流れがもっとスッキリわかるよ!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「公武合体」「参預会議」「坂下門外の変」「和宮親子内親王」(2026年6月確認)
コトバンク「公武合体」「和宮降嫁」(国史大辞典・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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