八月十八日の政変はなぜ起こった?わかりやすく徹底解説!【攘夷をめぐる争い】

八月十八日の政変で追放された三条実美

今回は、1863年8月18日に起きた八月十八日の政変という事件についてわかりやすく解説していきます。

八月十八日の政変は、簡単に言ってしまうと・・・

攘夷(じょうい。異国を排除しようとする動き)の方法について、国の意見が大きく2つに分かれて、お互いに政治の世界で争った事件

です。

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そもそも「攘夷」ってなんだ?

攘夷については、当時、大きく以下の2つの考え方があり、お互いに激しく対立していました。

攘夷の考え方その1「小攘夷」

今すぐにでも鎖国をして、日本にいる外人を全て排除する。排除するためならその命を奪っても構わない。異国が戦争を仕掛けてくるなら、トコトン戦う。

外人を徹底的に排除するこの考え方は「小攘夷」と呼ばれることもあります。小攘夷派は、とにかく過激な行動に走りがちだったのでこの記事では「急進派」と呼びます。

攘夷の考え方その2「大攘夷」

諸外国は強い。現時点で武力による不可能であるから、まずは富国強兵を目指すべき。そして、将来的には諸外国と対等に外交を行い、その中で攘夷を実行する。であるから、今、諸外国に対して強硬な姿勢をとるのは良くない。

この「夷をもって夷を制す」の攘夷の考え方は、「大攘夷派」と呼ばれることもあります。この記事では、急進派の反対ということで「穏便派」と呼ぶことにします。

実際は、急進派と穏便派の中にも温度差があったり、

幕府は無能だから国難に立ち向かうためには天皇を中心に政治を行うべきと考える「尊王派」

これまで通り、天皇が頂点に立ちつつも政治は幕府を中心に行うべきと考える「左幕派」

と政治の在り方そのものについて議論があったりと、情勢はもっと複雑です。

ちなみに、急進派(小攘夷)は尊王派でもあることが多かったため、尊王攘夷派(そんのうじょういは)と呼ぶこともあります。一方で、穏便派には左幕派を者が多くいました。

まとめると、

八月十八日の政変は「急進・尊王派」VS「穏便・左幕派」の対立

ということになります。

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八月十八日の政変までの流れ

次に、八月十八日政変までの時代の流れをチェックしておきます。

八月十八日の政変までの流れ
  • 1862年
  • 1863年5月
    長州藩、外国船を砲撃する

    公武合体をしたはずなのに、孝明天皇の望む攘夷に踏み切らない幕府に長州藩は不満。単独で諸外国と戦争をふっかける。

    穏便に事を済まそう考えていた幕府は長州藩にブチギレ。長州藩に賛同する藩もなく孤立する。こうして長州藩は朝廷に接近する。

  • 1863年6月〜8月
    長州藩、天皇直轄の軍隊創設を目指して朝廷で活動する

    「幕府がダメなら皇軍として戦うべき」と考えた長州藩は、朝廷に接近。天皇自ら攘夷を実行するよう朝廷工作を始める。

    そして、朝廷工作は成功。孝明天皇は、神武天皇のお墓や春日大社、伊勢神宮を廻り、軍議を開くことに。

  • 1863年8月
    八月十八日の政変←この記事はココ!

    劣勢に立たされた穏便派の反撃開始!

    8月18日の早朝、穏便派は密かに朝廷御所の門を封鎖。御所の中を穏便派だけに固めて、穏便派に有利な決まりを次々と決定させる。

    当然、軍議の話はなくなり、長州藩は幕府・諸藩、そして朝廷からも見放され、完全に孤立。

    京都に、急進派を監視するための新撰組しんせんぐみが置かれる。

  • 1864年6月
    池田屋事件

    新撰組によって、急進派が襲撃を受ける。

  • 1864年7月
    禁門の変【別名:蛤御門はまぐりごもんの変】

    急進派の長州藩、池田屋事件に猛抗議。御所の蛤御門を中心に、急進派VS穏便派の戦闘が起こる。

    長州藩は敗北し、撤退する

  • 1864年7月〜
    第一次長州征討(だいいちじちょうしゅうせいとう)

    御所に対して攻撃した長州藩は「朝敵」に認定され、征討作戦が開始!

長州藩を中心に置いて流れを確認するとわかりやすいと思います。

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孝明天皇「軍議なんかしたくないんだが・・・」

長州藩の朝廷工作によって朝廷内は急進派一色となり、8月13日、孝明天皇の神武天皇陵・春日大社などへの行幸(ぎょうこう。天皇が遠出すること)が決まりますが、当の本人はこれに不満を持っていました。

というのも、孝明天皇は攘夷の思想を持ちつつも、その思想は穏便・左幕派に近いものだったからです。

孝明天皇
孝明天皇

急進派は同じく急進派の公卿と連携し、私の気持ちなど知らぬまま、私を担ぎ出そうとしている。

こう思った孝明天皇は、密かに中川宮という人物にこう指示します。

孝明天皇
孝明天皇

朝廷の急進派公卿たちは『幕府は無能だから天皇自ら攘夷すべき』と言うが、公武合体のため私の妹が将軍に嫁いでいるのだから、それは無理だ。

それに、今戦争をしても異国に勝てるわけがない。時期尚早だ。私は、軍議のための行幸は延期にしようと思っている。

中川宮よ、この私のためにしかるべき計画を進めてほしい・・・。

ここで登場した「計画」こそが、八月十八日の政変となります。

当時、朝廷内は、急進派の代表人物であった三条実美さんじょうさねとみらによって支配されており、孝明天皇は堂々と自分の意思を表明することができませんでした。だからこそ、密かに中川宮に「しかるべき計画」をお願いした・・・というわけです。

中川宮は、考え方を同じくする人々と共に、計画の準備を進めます。この中には、孝明天皇の信頼厚かった会津藩の松平容保まつだいら かたもり、大攘夷を目指す薩摩藩の島津久光しまづ ひさみつの姿もありました。

松平容保(イケメンでモテたらしい)
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計画実行の日(八月十八日の政変)

計画は綿密に練られ、実行日は8月18日と決まりました。

8月18日午前1時ごろ、中川宮が御所に入り、その後も続々と中川宮を支持する公卿たちが御所に入ってきます。

主要人物が御所に入ると、御所の門は全て閉じられ、薩摩・会津藩を中心とした藩士たちが門を警備します。

そして午前4時、遂に予定していた会議が開かれます。会議での決定事項は、事前に綿密に考えられており、この会議で決定したのは大きく次の3つの事項でした。

八月十八日の政変で決められたこと
  • 行幸の中止
  • 急進派の公卿たちの政治関与の禁止
  • 長州藩の御所警護の任の解任

異変に気づいた急進派たちが御所へ向かいますが、時すでに遅し・・・です。

急進派の公卿たちは御所に入ることもできないまま、政界から追放され失墜。

長州藩士は異変に気づいた後、警備を任されていた境町門という門へ向かいますが、そこで会津・薩摩の藩士らと対峙し、一時、一触即発の状態となります。その途中に「警備解任」の決定が下され、長州藩は何もできず退却を強いられることになります。

政界から追放された公卿たちは、長州藩士と共に長州へと逃げ落ちます。この時、7人の公卿が追放されたことから、この様子のことを「七卿落ち」と呼ぶようになりました。

穏便派の完全勝利です。急進派敗北の最大の要因は・・・

急進派の敗北要因

尊王と言いながら、孝明天皇の意思を尊重せず、それを都合の良いように解釈して、テロ行為(天誅)や外国船砲撃などの過激な行動に走ってしまったこと

でした。尊王を語る以上、孝明天皇から見放されてしまってはその大義名分を失い、急進派は一瞬にして無力化してしまったのです。

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天誅組の変と生野の変

ここから先は、八月十八日の政変のサイドストーリー。

8月13日に天皇の行幸が決まると天誅組てんちゅうぐみと名乗る急進派の勢力が、行幸先となる大和地方で、幕府に対して挙兵する計画を立てていました。8月17日からわずか30名の手勢で、幕府代官などを襲いますが、八月十八日の政変により計画は失敗。最後まで戦い続けるも天誅組は壊滅してしまいます。(これを『天誅組の変』と言います)

ちなみに、天誅とは当時行われていた尊王攘夷派による反対派への襲撃・テロ行為のことを言います。

1863年10月には、但馬たじま国の生草いくさという場所で、平野国臣ひらのくにおみという人物が反乱を起こしますが、鎮圧。(これを『生草の変』と言います)

これらの変は、後に起こる鳥羽・伏見の戦いを中心とした倒幕運動の先駆け的なものであり、八月十八日の政変を通じて「倒幕」という思想が人々の間で少しずつ芽生えてきたことを意味しています。

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新撰組と池田屋事件

八月十八日の政変によって、京都から急進派の人々は一掃されました。しかし、八月十八日の政変後も、密かに京都で行動する急進派も少なからず存在していました。

この隠れた急進派を監視するため「京都を警備する」という名目の下編成されたのが新撰組しんせんぐみという組織でした。

1864年6月、新撰組は池田屋に潜んでいた急進派を襲撃。そして、これに怒った長州藩は、兵を率いて再度上京し、禁門の変(蛤御門の変)を起こすことになります。

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八月十八日の政変まとめ

八月十八日の政変まとめ

攘夷をめぐる急進派VS穏便派の政争急進派の代表格は長州藩。

朝廷工作を進める急進派が有利になるが、八月十八日政変で穏便派の大逆転勝利

政変と同時に各地で小規模ながらも倒幕運動が起こる。

京都に新撰組がおかれ、池田屋事件発生し、後の禁門の変へと繋がる

江戸時代の天皇って「幕府の操り人形」みたいなイメージがあるかもしれませんが、孝明天皇に関しては、決して操り人形ではなかったことが、八月十八日の政変からわかると思います。



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