

今回は「八月十八日の政変」について解説していくよ!なぜ起こったのか・中心人物・七卿落ち・その後の影響まで、まるごとわかるようにまとめたよ。じつは、この政変のキープレーヤーは孝明天皇その人なんだ。さっそく見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「孝明天皇は、幕府に流されるだけの無能な天皇だった」——そんなイメージを持っている人は少なくありません。
でも実は、八月十八日の政変こそ、孝明天皇が自らの意思で動いた“反クーデター”でした。天皇は操り人形などではなく、幕末の政局を動かした最大のキープレーヤーだったのです。
この記事では、八月十八日の政変が「なぜ・いつ・どのように」起こったのかを、中心人物それぞれの思惑までふくめてわかりやすく解説していきます。
八月十八日の政変とは?
- 1863年(文久3年)8月18日、薩摩・会津藩が長州藩と急進派公家を京都の朝廷から排除したクーデター。
- 孝明天皇の意向を受けた公武合体派が、尊王攘夷急進派の暴走を阻止した政変。
- 三条実美ら7人の急進派公家が都を追われる「七卿落ち」が起きた。
八月十八日の政変とは、1863年(文久3年)8月18日に京都で起きた政治クーデターのことです。
薩摩藩と会津藩が手を組み、当時の朝廷で力をふるっていた長州藩と急進的な公家たちを、御所から一気に追い出しました。
「政変」とは、政治的な力によって権力の構図が突然ひっくり返ること。この日、京都の朝廷を動かす勢力は、一夜にして攘夷急進派から公武合体派へと入れ替わったのです。

政変ってクーデターってこと?薩摩と会津が長州を追い出したって、どういう意味なの?

ざっくり言うと、京都の朝廷っていう“国の方針を決める場所”でのパワーゲームなんだ。攘夷でとにかく突っ走りたい長州派を、もっと落ち着いていこうっていう薩摩・会津派が実力で押し出した——そんな事件だよ。今でいう、政治の主導権争いに近いイメージだね!

では、なぜこのような政変が起きたのでしょうか。まずは当時の幕末の政治状況から見ていきましょう。
政変が起きた背景(文久の改革と幕末の政局)
八月十八日の政変を理解するには、その少し前の幕末の政治状況を知っておく必要があります。
1853年のペリー来航以降、日本は「開国か攘夷か」をめぐって真っ二つに割れていました。朝廷(天皇)と幕府の足並みもそろわず、政治の中心は江戸から京都へと移っていくことになります。
■文久の改革と公武合体政策
1862年、薩摩藩の実力者・島津久光が兵を率いて京都・江戸へ上り、幕府に政治改革をせまりました。これが文久の改革です。
この改革で徳川慶喜が将軍後見職に、会津藩主・松平容保が新設の京都守護職に任じられました。あわせて、大名の負担が重かった参勤交代の緩和も行われています。
改革の根っこにあったのが公武合体——朝廷(公)と幕府(武)が手を結び、力を合わせて難局を乗り切ろうという路線でした。なお久光の一行は江戸からの帰り道で生麦事件を起こし、これがのちの薩英戦争へとつながっていきます。
「公武合体」の“公”は朝廷(天皇)、“武”は幕府(武士)のこと。今でいえば、対立しがちな立場どうしが「とりあえず協力して国の危機を乗り切ろう」と手を組むイメージに近い路線です。
■尊王攘夷派の台頭と長州藩の暴走
一方、京都では長州藩と急進的な公家たちが急速に勢いを増していました。彼らがかかげたのが尊王攘夷——天皇を敬い、外国を武力で追い払えという主張です。
1863年5月、長州藩は朝廷を動かして「攘夷決行」の日を幕府に約束させ、実際に下関海峡で外国船を砲撃する強硬策に出ます(のちの四国艦隊下関砲撃事件の引き金になった攘夷実行)。
急進派の勢いはとどまるところを知らず、ついには天皇みずから軍を率いて攻めに出る「攘夷親征」まで計画されるようになりました。事態は、もはや誰にも止められないところまで来ていたのです。

長州藩って、そこまで過激だったの?孝明天皇は、それをいやがっていたってこと?

そうなんだ。孝明天皇も外国は大きらいで攘夷派ではあったんだけど、“いますぐ戦争”みたいな乱暴なやり方には大反対だったんだよ。あくまで幕府と協力して、おだやかに進めたかった。だから長州たちの暴走には、内心ものすごくイライラしていたんだね。
では、この対立はどのようにして政変へと発展したのでしょうか。次の章では、政変が起きた原因をくわしく見ていきます。
なぜ起こった?八月十八日の政変の原因
八月十八日の政変がなぜ起こったのか。その原因は、大きく次の3つに整理できます。
① 孝明天皇の強い意思(最大の原動力)
② 薩摩・会津の利害が一致(薩会同盟の形成)
③ 長州・急進派の暴走への危機感
■孝明天皇の強い意思(最大の原動力)
最大の原動力となったのが、孝明天皇本人の意思でした。天皇は急進的な攘夷を「かえって国をほろぼすもの」と考え、長州派が自分の名を勝手に使って突き進むことに、強い不満を抱いていたのです。
そこで天皇は、信頼する中川宮(朝彦親王)らを通じて、薩摩・会津に「急進派を排除してほしい」という意向を伝えたとされています。つまりこの政変は、天皇の“内意”を受けて動いた行動だったのです。

私の名を、勝手に使わないでほしい…!このままでは、国が壊れてしまう。たのむ、あの者たちを朝廷から遠ざけてくれ。
■薩摩・会津が手を組んだ理由(薩会同盟の形成)
天皇の意向を受け止めたのが、薩摩藩と会津藩でした。2つの藩は立場こそ違いますが、「長州の暴走を止めたい」という一点で利害が一致します。
会津藩は京都守護職として都の治安を守る立場。長州派に朝廷の主導権をにぎられたままでは、その役目を果たせません。薩摩藩もまた、公武合体路線をぶち壊そうとする長州を、苦々しく思っていました。
こうして「長州という共通の敵」を前に、薩摩と会津は手を結びます。これを薩会同盟(薩摩・会津の提携)と呼びます。

“敵の敵は味方”ってやつだね。薩摩と会津は別に仲よしだったわけじゃなくて、長州をどかすために組んだ期間限定タッグなんだ。今でいう、政策が近い政党どうしの連立みたいなイメージかな!
では、この政変を動かした中心人物たちは、それぞれどんな立場だったのでしょうか。次の章で4人の役割を整理していきましょう。
中心人物は誰?薩摩・会津・長州・孝明天皇の役割
八月十八日の政変は、立場の異なる4者の思惑がぶつかり合った事件です。ここで主役となる人物たちの役割を、ひとりずつ整理しておきましょう。
登場人物①:孝明天皇(政変の最高司令塔)
■孝明天皇(主導者)
政変の最高司令塔が孝明天皇です。第121代天皇で、外国ぎらいの強い攘夷論者でしたが、武力一辺倒の急進攘夷には反対の立場でした。
妹の和宮を14代将軍・徳川家茂にとつがせるなど、幕府との協調を重んじた天皇でもあります。「攘夷はしたい、でも幕府は守りたい」——その願いこそが、政変の引き金になったのです。

急進的な攘夷など、国をほろぼすだけだ。あせってはならぬ。幕府とともに、一歩ずつ外国に立ち向かうのだ。
登場人物②:松平容保(会津藩・京都守護職)
■松平容保と会津藩(京都守護職)
松平容保は会津藩の藩主で、京都守護職として都の治安維持を任されていました。生真面目で、忠義に厚い人物として知られます。
容保は孝明天皇から深く信頼され、のちに天皇直筆の手紙(御宸翰)を下賜されるほどでした。政変では、天皇の意思を実行に移す中心的な役割をになうことになります。

天皇陛下の御心は、この容保がお守りいたす。それが、京都を預かる会津の務めにございます。
政変のあと、孝明天皇は容保の働きをたたえ、直筆の手紙(御宸翰)と和歌(御製)をひそかに下賜したと伝えられています。そこには「長州たちの暴走を抑えてくれた」という、天皇本人の感謝の言葉がつづられていました。
容保はこの宝物を小さな竹筒に収め、入浴のとき以外は生涯ずっと首から下げ、肌身離さなかったといわれます。その存在を知る家臣は、ごくわずかだったそうです。
のちに会津藩は会津戦争で新政府軍と戦い、皮肉にも「朝敵」とされて苦難の道を歩みます。それでも容保がこの竹筒を手放さなかったのは、「自分は本当は天皇に信頼されていた」という誇りこそが、最後の心の支えだったからなのかもしれません。
登場人物③:島津久光(薩摩藩・公武合体の旗手)
■島津久光と薩摩藩(公武合体の旗手)
島津久光は、薩摩藩の事実上の最高実力者で、公武合体路線を強く後押しした人物です。
久光は文久の改革を主導した張本人でもあり、長州の急進路線とは真っ向から対立していました。薩摩藩がもつ軍事力は、政変を成功させる大きな後ろ盾となります。


島津久光って、薩摩藩主ではないんだよね?なんで藩主じゃない人が、こんなに動いてるの?

いいところに気づいたね!久光は、藩主の父親なんだ。藩主は息子の忠義だったんだけど、まだ若かったから、父である久光が“国父”として実権をにぎっていたんだよ。今でいう、会長と社長みたいな関係だね。
登場人物④:三条実美(急進派公家・尊王攘夷側)
■三条実美と急進派公家(尊王攘夷側)
政変で追われる側の中心人物が、公家の三条実美です。彼は急進的な尊王攘夷をかかげ、長州藩と手を組んで朝廷を動かしていました。
若くして朝廷の実力者にのぼりつめた実美は、攘夷親征を計画するなど、急進派のシンボル的な存在でした。しかしその勢いの強さが、かえって天皇や薩摩・会津の警戒を招くことになります。

われらが朝廷を導くのだ!攘夷のためには、もはや議論よりも行動あるのみ。ためらっている時間はない。
こうして役者がそろいました。次の章では、いよいよ1863年8月18日当日の動きを、時間を追って見ていきましょう。
八月十八日の政変の経過(1863年8月18日)
1863年8月18日、政変は夜明け前から電光石火で進められました。ここからは、当日の動きを順番に見ていきましょう。
■薩会同盟の密議と計画始動
政変の前夜、薩摩・会津の関係者は中川宮らとひそかに連絡を取り合い、計画を最終確認しました。天皇の意向を受けた、極秘の作戦です。
標的となったのは、御所の警備にあたっていた長州藩兵と、朝廷で実権をにぎる急進派公家たちでした。相手に気づかれる前に、一気に勝負をつける必要があったのです。
■御所九門の封鎖と長州藩の排除
18日の未明(午前1時ごろ)、薩摩・会津の藩兵が動き出します。御所をぐるりと囲む9つの門(禁裏九門)を封鎖し、長州藩兵が御所に入れないようにしたのです。
朝になると、天皇の命令である勅命が正式に下されました。長州藩の御所警備を解くこと、急進派公家の参内(御所への出入り)を禁じること——この2つが告げられ、長州派はなすすべもなく京都から締め出されました。

ようやく…これで、朝廷を取り戻せる。あとは、おだやかに国の道筋を立てていけばよい。
■七卿落ちとは?(三条実美ら7人が都を去る)
七卿落ちとは、政変で京都を追われた三条実美ら7人の急進派公家が、長州(山口)へと落ちのびた出来事のことです。

都を追われた7人は、雨の中を長州藩兵に守られながら、西へと向かいました。華やかな朝廷の中心にいた公家たちにとって、それは大きな転落だったのです。
七卿落ちの7人は、三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・四条隆謌・澤宣嘉の7名。多くがのちに明治政府で要職につきました。

まさか、このわしが都を追われるとは…。だが、ここで終わりではない。長州で、かならず巻き返してみせる。
こうして長州派は京都から一掃され、政変はわずか一日で決着しました。しかし、この出来事はあくまで幕末の動乱の序章にすぎません。次の章では、政変がその後の歴史にどんな影響を与えたのかを見ていきます。
政変のその後・影響
八月十八日の政変によって、京都の政局は一変しました。朝廷の主導権は急進派の手をはなれ、ふたたび公武合体派ににぎられることになります。
都を追われた長州藩は「朝敵」あつかいとなり、一気に苦しい立場へ追いこまれました。失った力を取り戻そうとあせる長州は、翌1864年の池田屋事件や禁門の変へと、さらに過激な行動へ突き進んでいきます。
■禁門の変との違いは?(混同防止)
テストでよく混同されるのが、八月十八日の政変と禁門の変(蛤御門の変)です。この2つはセットで問われやすいので、違いをはっきりさせておきましょう。
ひとことで言えば、八月十八日の政変は「長州を追い出した事件」、禁門の変は「長州が取り返そうとして返り討ちにあった事件」です。下の表で整理しておきます。
| 比較項目 | 八月十八日の政変 | 禁門の変 |
|---|---|---|
| 時期 | 1863年8月 | 1864年7月 |
| 長州の立場 | 追い出される側 | 取り返しに攻める側 |
| 手段 | 勅命による平和的な排除 | 武力衝突(市街戦) |
| 結果 | 長州・急進派が京都から退去 | 長州が敗走し、第一次長州征討へ |

つまり、政変で追い出された長州が、一年後に武力で巻き返しをはかったのが禁門の変、という流れです。この順番をおさえておけば、もう混同しません。
■参預会議の成立と公武合体の行方
政変で急進派を退けたあと、公武合体派は新しい政治のしくみづくりに動きます。それが1864年に発足した参預会議でした。
参預会議は、有力大名を朝廷の政治に参加させ、幕府と雄藩が協力して国を運営しようという試みです。島津久光・松平容保・松平慶永・伊達宗城・山内豊信、そして一橋慶喜らがメンバーに選ばれました。
しかし、この会議はうまくいきませんでした。開国をめぐる方針の食いちがいや、慶喜と久光の対立がたたり、わずか数か月で空中分解してしまいます。せっかく政変で手にした公武合体路線も、長くは続かなかったのです。

八月十八日の政変→池田屋事件→禁門の変→第一次長州征討と、幕末はここからどんどん加速していくんだ。この政変は、その大きな分かれ道になった事件なんだよ。

長州を追い出した薩摩が、結局この後どうなっていくのか気になるわ。明治維新につながっていくのかしら?

ここが歴史の面白いところでね。この政変で長州を追い出した薩摩が、わずか3年後には薩長同盟を結んで、いっしょに幕府をたおす側にまわるんだ。敵だった2つの藩が手を組むなんて、当時は誰も想像できなかったはずだよ。
テストに出るポイント(八月十八日の政変)
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:混同しやすい「八月十八日の政変(1863年・長州を追い出す)」と「禁門の変(1864年・長州が攻め返す)」は、年号とセットで「追い出す→攻め返す」の順で覚えると間違えません。「追放したのは薩摩・会津」「追放されたのは長州・三条実美」とペアで暗記しましょう。
八月十八日の政変の理解を深めるおすすめ本

八月十八日の政変についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!幕末全体の流れから朝廷内部の人間ドラマまで、読み応えのある2冊をピックアップしたよ。
よくある質問(八月十八日の政変)
1863年(文久3年)8月18日、京都の御所で起きた政変です。薩摩・会津藩が、長州藩と急進派公家を朝廷から排除しました。
孝明天皇の意思を受けた薩摩・会津藩が、急進的な尊王攘夷を進める長州藩と急進派公家の影響力を排除するために起こしました。天皇自身が、過激な攘夷の動きに強く反対していたことが大きな原因です。
政変で朝廷を追われた三条実美ら7人の急進派公家が、長州(山口)へ落ちのびた出来事を「七卿落ち」といいます。7人とは三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・四条隆謌・澤宣嘉です。
孝明天皇は急進的な攘夷の実行に強く反対し、公武合体路線を望んでいたとされています。政変の発動には天皇の意思が深くかかわっていたと考えられており、「幕府の操り人形」ではなく、自分の考えをもった政治的存在として評価されています。
八月十八日の政変(1863年)は、薩摩・会津藩が長州藩を朝廷から平和的に排除した事件です。禁門の変(1864年)は翌年、失った地位を取り返そうとした長州藩が武力で京都御所に攻め込んだ武力衝突です。「政変=追い出した」「禁門の変=攻め返して敗れた」と覚えましょう。
薩会同盟は、薩摩藩と会津藩が急進派の排除をめざして結んだ協力関係で、八月十八日の政変を実行する原動力になりました。一方の薩長同盟(1866年)は、敵対していた薩摩藩と長州藩が手を結び、倒幕へ向かった同盟です。組む相手も目的も正反対なので、混同しないよう注意しましょう。
まとめ:八月十八日の政変とは何だったのか
- 1860年桜田門外の変(大老・井伊直弼暗殺)
- 1862年文久の改革・島津久光が上京し幕政に介入
- 1863年春長州藩・急進派公家が朝廷内で主導権を握る
- 1863年夏薩摩・会津が密議(薩会同盟の形成)
- 1863年8月18日八月十八日の政変・御所九門封鎖・長州藩を朝廷から排除
- 1863年8月(直後)七卿落ち(三条実美ら7人の急進派公家が長州へ)
- 1864年7月禁門の変(長州藩が武力で京都御所に攻め込む)
- 1864年第一次長州征討(幕府が長州藩を征伐)

以上、八月十八日の政変のまとめでした!「無能」とも言われる孝明天皇が、実はこの政変のキープレーヤーだったことが伝わったかな?下の記事で、禁門の変や薩長同盟まで読めば、幕末の流れがぐっとつながるよ。ぜひあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「八月十八日の政変」「七卿落ち」「参預会議」「孝明天皇宸翰」(2026年6月確認)
コトバンク「文久3年8月18日の政変」「七卿落」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
刑部芳則『公家たちの幕末維新 ペリー来航から華族誕生へ』(中公新書、2018年)
半藤一利『幕末史』(新潮文庫、2012年)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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