今回は、1862年に起きた坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)について解説します。
坂下門外の変は簡単に言ってしまうと、幕府の重鎮が襲撃された事件で、1860年に起きた桜田門外の変の続篇的な位置付けです。
坂下門外の変までの流れ
「桜田門」と「坂下門」で名前が似ていて紛らわしいですが、まず最初に時代の流れをハイライトで確認しておきましょう。
- 1857年〜1858年将軍継嗣問題が起こる
次の将軍は「徳川慶福or徳川慶喜どっち?」を巡って幕府内で対立起こる。
- 1858年6月井伊直弼、アメリカと日米修好通商条約を結ぶ
井伊直弼が孝明天皇を無視して条約を結んだことで、天皇ブチギレ。さらに、将軍継嗣問題で井伊直弼と対立していた勢力もブチギレ。
- 1858年〜1859年
井伊直弼の強引な条約締結に多くの人たちが反発。そして、井伊直弼はその反対勢力を弾圧によって粛清する。
- 1860年
- 1860年〜公武合体へ
桜田門外の変をきっかけに、幕府は尊王攘夷派を牽制しようと朝廷へ接近する。
- 1862年1月坂下門外の変←この記事はココ!
尊王攘夷派が朝廷に近づこうとする老中の安藤信正(あんどうのぶまさ)を襲撃!
流れは桜田門外の変と同じです。
名前も中身も似ていて紛らわしい・・・。「桜田門=安政の大獄」「坂下門=公武合体」と関連付けて、時代の流れとセットで覚えると良いかも?
坂下門外の変のきっかけ
坂下門外の変のきっかけは公武合体と呼ばれる政治の動きにありました。
桜田門外の変によって尊王攘夷派の勢いを知った江戸幕府は、自らも「尊王」となって尊王攘夷派の矛先をそらすため、将軍の徳川家茂と孝明天皇の妹との政略婚を計画します。
幕府と朝廷の交渉の末、この政略婚は現実のものとなります。1860年には決定され、1862年2月に結婚の儀が行われました。これは坂下門外の変の一ヶ月後の出来事です。
尊王攘夷派の人たちはこの政略婚についてこんな風なことを考えます。
この政略婚は幕府が強引に行ったものであり、幕府は政略婚を通じて天皇の攘夷の意志を封じ込めようとしている。これは、天皇の意思を冒涜する許し難き行為である!!
実際のところは、朝廷側にも「政略結婚を通じて、幕府の政治を朝廷が監視しよう」という意図がありました。だから、決して「幕府が強引に行った」わけではありませんが、少なくとも尊王攘夷派はそう考えていました。詳しい話は以下の記事を合わせて読んでみてくださいね。
孝明天皇廃位の噂
公武合体と合わせて、尊王攘夷派の人たちをさらに刺激したのは「江戸幕府は孝明天皇の廃帝を計画している」という噂でした。
なぜこんな噂が広まったかというと、孝明天皇と江戸幕府の外国に対する姿勢に大きな違いがあったからです。
開国派の幕府にとって、攘夷派という強い意志を持つ孝明天皇は邪魔な存在です。この両者の思想の違いから、こんな噂が生まれました。
幕府は公武合体を通じて、孝明天皇に廃位の圧力をかけているんだ。そして、孝明天皇の後に江戸幕府の言いなりになる別な天皇を即位させるに違いない・・・!
この噂が真実かどうかは不明です。しかし、噂が広まるほどに幕府と朝廷の関係が微妙だったことは事実です。
このような情勢の中、尊王攘夷派では公武合体に深く関わっている幕府の老中である安藤信正(あんどうのぶまさ)を殺害する計画が浮上します。これが坂下門外の変となります。
坂下門外の変、起こる
1862年1月15日、決行の日がやってきます。この日は江戸城でイベントがあり、多くの大名が江戸城へやってくる日でした。
犯行グループは全部で6名。全て水戸藩の脱藩浪士です。(水戸藩は尊王攘夷派の中心となる藩でした。)
安藤信正も立派な大名行列を率いて、坂下門から江戸城へ入ろうとします。大名行列は江戸の町の観光名物の1つだったり、大名に色々な困りごとを直接訴えるチャンスでもあるので、多くの人が集まりました。
この時、グループの一人が直訴をするふりをして、安藤信正の乗る籠(かご)に近づきます。そして、隠し持った拳銃を持ち、その籠へ発砲。
この銃砲を合図に、潜んでいた他の5人も一斉に籠へ切りかかります。
・・・実はここまでの流れ、ほとんど桜田門外の変と同じなんです。
しかし、これがアダとなります。桜田門外の変が起こって以降、大名行列の警備はメチャクチャ厳しくなっていたんです。
安藤信正の大名行列では50名ほどの護衛兵がいたとされており、たった6人では歯が立ちません。
安藤信正に一撃を加えて傷を負わせるも死亡までにはいたらず、坂下門外の変は失敗。実行犯の6人はその場で皆命を落としました。
こうして坂下門外の変は未遂に終わります。坂下門外の変は、実行犯の計画不足感が否めません。もう少し冷静に綿密な計画を立てていれば、結果は違ったものになっていたかも・・・?
天誅(てんちゅう)
実は、この頃から京都を中心に尊王攘夷派による似たような事件が多発するようになります。
- 1862年7月安政の大獄に関わった島田左近が襲撃され死亡。四条河原で晒し首に。
- 1862年8月安政の大獄で弾圧者の逮捕に協力した文吉と言う人物が死亡。
- 1862年11月安政の大獄の際に女スパイとして暗躍していた村山たかが襲われ、河原で柱に縛り付けられたまま辱めを受ける。
公武合体を推進した公家の岩倉具視(いわくらともみ)も命を狙われ、その圧力に屈して朝廷の官職を辞職。出家して隠居を始めたほどです。
これらの尊王攘夷派のテロ行為は、天誅(てんちゅう)と呼ばれ、安政の大獄や公武合体に関与した人たちを恐怖に陥れ、実際に多くの人が命を落としました。そして坂下門外の変もまた、未遂ではありますがそんな天誅の1つなのでした。
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