

今回は維新三傑のひとり、大久保利通について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「独裁者」と呼ばれた男の本当の姿に迫っていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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「独裁者」「冷酷な権力者」——大久保利通といえば、こんなイメージで語られることがほとんどです。
でも実は、没後100年以上が経ってから「近代日本最大の功労者」として再評価された、日本史上もっとも誤解された人物のひとりでした。
幼馴染である西郷隆盛と力を合わせて江戸幕府を倒し、明治維新を成し遂げたのに、最後はその西郷と袂を分かち、政府軍を率いて旧友を死に追いやった男。
この記事では、そんな大久保利通の生涯と功績を、ゆうき・あゆみといっしょにストーリーとして追いかけていきます。読み終わるころには、「冷酷な独裁者」という評価がガラリと変わっているはずです。
大久保利通とは?維新三傑のひとりをわかりやすく解説
- 薩摩藩出身の政治家。西郷隆盛・木戸孝允と並ぶ「維新三傑」のひとり
- 廃藩置県・殖産興業を推し進め、近代日本の土台をつくった
- 1878年、紀尾井坂の変で暗殺。享年47歳
大久保利通は、1830年(天保元年)に薩摩藩(今の鹿児島県)で生まれた政治家です。
江戸幕府を倒した「明治維新」の中心人物のひとりであり、明治新政府が成立してからは、新しい国の仕組みづくりを一手に背負った男でした。
同じ薩摩藩出身の西郷隆盛、長州藩出身の木戸孝允(桂小五郎)とともに、明治維新を成し遂げた立役者として「維新三傑」と呼ばれています。


西郷隆盛は知ってるけど、大久保利通って名前は聞いたことがあるくらいで…どういう人なのかしら?

ザックリ言うと、西郷隆盛が「現場のヒーロー」、大久保利通が「裏で国の設計図を引いた参謀」って感じだよ!派手さはないけど、明治政府の仕組みはほぼ大久保が作ったといってもいいくらいなんだ。
■ 大久保利通の基本プロフィール
大久保利通の基本データを整理しておきます。
| 生没年 | 1830年9月26日〜1878年5月14日(享年47歳) |
| 出身 | 薩摩藩(現・鹿児島県鹿児島市) |
| 身分 | 下級武士(御小姓与)の子 |
| 主要役職 | 参議・大蔵卿・初代内務卿 |
| 主な業績 | 版籍奉還・廃藩置県・殖産興業・内務省設置 |
| 最期 | 紀尾井坂の変で暗殺(1878年) |
身分は下級武士の子で、決して恵まれたスタートではありませんでした。それなのに、明治政府でトップクラスの政治家にまで登りつめた、まさに叩き上げの人物です。
■ 「維新三傑」とは何か
「維新三傑」とは、明治維新を成し遂げた中心人物3人のことを指す呼び方です。
維新三傑:①西郷隆盛(薩摩)/②大久保利通(薩摩)/③木戸孝允(長州)
3人とも幕末から明治維新の中心で活躍しましたが、50歳を迎えることなく短い生涯を終えたのも共通点です。木戸は病死、西郷は西南戦争で自決、大久保は暗殺と、それぞれ違う形で命を落としています。
「維新三傑」という呼び方は、3人とも亡くなったあとに世間で定着した呼称です。生前から「三傑」とまとめて呼ばれていたわけではありません。

国のためなら、皆に嫌われてもかまわぬ。誰かが嫌われ役を引き受けねば、新しい日本は作れぬのだ。
大久保利通の生い立ちと薩摩での台頭
■ 薩摩藩の下級藩士の子として生まれる
大久保利通は1830年、薩摩藩鹿児島城下の高麗町で生まれました。父は大久保利世といい、薩摩藩の下級武士でした。
家は決して裕福ではなく、子どもの頃から貧しい生活を送っていたといわれています。さらに、子ども時代は病弱で、剣術や武芸にも秀でていたわけではありませんでした。

では、何で身を立てたかというと——勉強と政治力でした。書物を読み、頭を使って物事を整理し、人を動かす能力で、若い頃から薩摩藩内で頭角を現していきます。
■ 西郷隆盛との出会い——幼馴染の絆
大久保のすぐ近所に住んでいたのが、2歳年上の西郷隆盛でした。2人は幼い頃から顔なじみで、薩摩藩の青少年組織「郷中教育」のなかで一緒に育ちます。
「郷中」とは、薩摩藩独自の青少年教育の集まりのことです。年長者が年少者に学問や武術、人としての心得を教える場で、大久保と西郷もここで深い絆を結びました。
薩摩藩の青少年が地区ごとに集まって学び合う、独自の教育システムです。学校というよりも「地域の年上の兄ちゃんから生き方を学ぶ場」に近く、武術・学問・礼儀作法を一緒に身につけました。西郷も大久保もこの郷中で人格を育てています。
のちに2人は明治維新を一緒に成し遂げ、そして征韓論をめぐって決別することになります。その始まりは、子ども時代の薩摩の路地裏にあったわけです。
■ 囲碁で島津久光の信頼を勝ち取る
若き日の大久保利通には、もうひとつ大事な転機がありました。囲碁です。
当時の薩摩藩で力を持っていたのが、藩主の父である島津久光。久光は大の囲碁好きで知られていました。大久保は囲碁が得意だったため、久光と碁を打つ機会を得て、しだいに信頼を深めていきます。
そして、ついに久光の側近のひとりに抜擢されることになります。これによって、下級武士だった大久保が、薩摩藩の政治の中枢に食い込むチャンスを掴んだのです。

囲碁で出世するなんて、まさに頭脳派の大久保らしいよね!今でいうなら、社長の趣味のゴルフに付き合って距離を縮めて、本業の提案を通す、みたいな感じかな。
島津久光に取り立てられた大久保は、藩内で幕府を倒す方向へと薩摩を動かすキーパーソンになっていきます。1866年には、長州藩との同盟(薩長同盟)の成立にも関わりました。
そして1868年、ついに明治維新が実現。大久保は新政府の中心メンバーとして、ここから本領発揮していくことになります。
廃藩置県と版籍奉還——大久保利通の功績①
明治新政府ができた直後の日本には、大きな問題がありました。「日本がひとつの国になっていない」という問題です。
江戸時代の日本は、各地の藩がそれぞれ土地と人民を支配する、いわば「ミニ独立国の集まり」のような状態でした。新政府は中央集権国家を作りたい——つまり、東京の政府が日本全体を直接動かせる体制にしたかったのです。
そのために大久保利通が中心になって進めたのが、版籍奉還と廃藩置県です。
■ 版籍奉還(1869年)とは何か
1869年に行われたのが、版籍奉還です。
「版」は土地、「籍」は人民を意味します。つまり版籍奉還とは、各藩が持っていた土地と人民を、形式的に天皇(朝廷)に返した政策です。

版籍奉還ってなに?土地を返したら、藩はもうなくなったってこと?

いいところに気づいたね!実は、版籍奉還で藩が完全になくなったわけじゃないんだ。形のうえでは天皇に返したけど、それまでの藩主が「知藩事」に名前を変えてそのまま藩を治めた、という中途半端な状態だったんだよ。
もう少しくわしく知りたい人は、専門記事もあわせて読んでみてください。
■ 廃藩置県(1871年)——日本の大改革
版籍奉還だけでは中途半端だったので、2年後の1871年、ついに廃藩置県に踏み切りました。
廃藩置県とは、全国の藩を完全になくし、新たに「府」と「県」を置いて中央政府が直接支配する大改革です。これにより、明治政府は名実ともに日本全体を治める存在になりました。
とはいえ、各藩には独自の軍隊(藩兵)があり、強引に廃止すれば反乱が起こる可能性も十分にありました。そこで大久保たちは、薩摩・長州・土佐の3藩の兵を東京に集めて「御親兵」と呼ばれる政府直属の軍隊を組織。武力を背景に、廃藩置県を一気に断行したのです。
■ 廃藩置県の意義——近代国家の出発点
廃藩置県は、明治維新でいちばん重要な改革のひとつです。なぜなら、日本がはじめて「ひとつの国」になった瞬間だからです。
江戸時代までの「殿様の国の集まり」から、東京の政府が直接日本全体を動かす近代国家へ——廃藩置県によって、日本は税制度・軍隊・教育などをまとめて整備するための土台を手に入れました。
岩倉使節団と殖産興業——大久保利通の功績②
■ 岩倉使節団(1871〜1873年)——欧米を見た衝撃
廃藩置県を成し遂げたあと、大久保は新たな使命を帯びて海外に旅立ちます。岩倉使節団への参加です。
岩倉使節団は、岩倉具視を全権大使とし、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文などが副使として加わった、明治政府最大の外交使節団です。1871年(明治4年)11月に横浜を出発し、約1年10ヶ月をかけてアメリカ・ヨーロッパ各国を視察しました。

使節団のおもな目的は2つありました。
目的①:幕末に結ばれた不平等条約の改正交渉
目的②:欧米諸国の制度・産業・軍事を視察し、日本の近代化に活かす
結果からいうと、目的①の条約改正は失敗でした。アメリカで「日本にはまだ近代的な法律や制度がない」と門前払いされてしまったのです。
でも、目的②のほうは大成功でした。とくに大久保利通は、欧米の工場・鉄道・銀行・議会のしくみをじっくり観察し、「日本もこれをやらなければ列強に飲み込まれる」と確信します。

2年近くも海外を視察するなんて、すごい長旅ね。何がいちばん心に残ったのかしら?

大久保が衝撃を受けたのはドイツのビスマルク。後発国だったドイツが、強い政府の力で一気に近代化を進めたやり方が、これからの日本の手本になると感じたんだ。「日本もビスマルク方式でいくしかない」って覚悟を固めて帰国するんだよ。
■ 殖産興業の設計者として——内務省の設置
1873年に帰国した大久保は、ここから本格的に近代日本の経済の土台を作っていきます。キーワードが殖産興業です。
殖産興業とは、政府が主導して産業を起こし、近代的な経済を作っていく政策のこと。具体的には、官営の工場をつくり、鉄道や電信を整備し、新しい産業の手本を国が示すという方針です。
大久保は1873年に新設された内務省の初代内務卿に就任。事実上の総理大臣のような立場で、日本の内政を一手に握ります。
当時はまだ「内閣総理大臣」という役職がなく、内務卿が政府内で最も力のあるポストでした。大久保は内務卿として殖産興業・地方制度・警察・治水まで担当し、文字通り日本の内政を掌握します。
大久保が進めた殖産興業の主な取り組みは次のとおりです。
- 富岡製糸場の運営強化(生糸の輸出で外貨を稼ぐ)
- 新橋〜横浜間の鉄道整備(人と物の流れを近代化)
- 郵便制度・電信網の整備(情報インフラの構築)
- 第1回内国勧業博覧会の開催(1877年・東京上野で実施)
- 北海道開拓の推進(屯田兵制度の整備)

内務省は、今でいう経済産業省と国土交通省と総務省を合わせたような巨大な役所。それを大久保が一人で仕切っていたんだよ。「ミスター明治政府」って呼びたいくらいだね!
征韓論対立と西郷隆盛との決別
大久保が岩倉使節団で欧米を回っていた留守中、日本国内で大きな問題が持ち上がっていました。征韓論です。
■ 征韓論(1873年)とは何か
征韓論とは、朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)に対して武力を背景に開国を迫ろうという主張のことです。
当時の朝鮮は、明治政府からの国書(外交文書)を、表現の問題などを理由に受け取らずにいました。これに対し、留守政府を率いていた西郷隆盛・板垣退助・江藤新平たちは、朝鮮への強硬な対応を主張します。
とくに西郷隆盛は、「自分が遣韓大使として朝鮮に行き、もし殺されたらそれを口実に出兵すればいい」とまで言ったとされています。
征韓派(賛成):西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎ら
内治優先派(反対):大久保利通・岩倉具視・木戸孝允・伊藤博文ら

なんで大久保は反対したの?西郷さんと幼馴染なんだから、味方してあげればよかったのに…

大久保は欧米を見てきたばかりだったんだ。「今の日本に外国と戦争する余裕はない、まず国内を強くするのが先だ」って痛感していたんだよ。情で動くより国の存続を選んだ、まさに嫌われ役の決断だったんだ。
■ 明治六年政変——幼馴染の決別
1873年(明治6年)10月、征韓論の議論はクライマックスを迎えます。一度は西郷の朝鮮派遣が閣議で決定しかけました。
ところが、ここで岩倉使節団から急いで帰国した大久保・岩倉・木戸らが猛反対。明治天皇に直接働きかけて、西郷の派遣を中止に追い込みます。
これに激怒した西郷隆盛は、参議の職を辞して薩摩に帰郷。板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣ら征韓派の参議たちも一斉に下野しました。これが明治六年の政変です。
明治六年の政変:1873年10月、征韓論をめぐって西郷ら征韓派が政府を一斉に去った大政変
幼馴染で、ともに明治維新を成し遂げた大久保と西郷。その2人が、国の方向性をめぐって決定的に道を分けた瞬間でした。
■ 士族の反乱——佐賀の乱・神風連の乱・萩の乱
明治六年の政変のあと、政府を去った士族たちの不満は、各地で武装蜂起となって噴き出します。大久保はこれを次々と鎮圧していきました。佐賀の乱
1874年:佐賀の乱(江藤新平・島義勇)
1876年:神風連の乱(熊本)/秋月の乱(福岡)/萩の乱(長州・前原一誠)
これらの反乱を、大久保は政府軍を動員してすべて短期間で鎮圧しました。とくに佐賀の乱では、自ら現地に乗り込んで指揮を執り、首謀者の江藤新平を処刑するという厳しい処分を行います。
こうした強硬な対応が、「冷酷」「独裁者」というイメージを大久保に貼り付けることになりました。けれども本人は、「ここで甘く対処すれば日本という国そのものが崩れる」という強い覚悟を持っていたのです。
西南戦争と西郷隆盛の最期(1877年)
■ 西南戦争勃発——旧友との最後の戦い
1877年(明治10年)、ついに最大の士族反乱が起こります。西南戦争です。
薩摩に帰っていた西郷隆盛のもとには、政府に不満を持つ薩摩士族たちが集まり、私学校という教育組織を作っていました。やがて若い士族たちが暴発し、西郷を担いで挙兵。鹿児島から熊本へと進軍します。

これに対して大久保利通は、政府軍の最高指揮官として徹底的に鎮圧する道を選びます。総勢約6万人の政府軍を動員し、半年にわたる激戦を戦い抜きました。

政府軍 vs 薩摩軍——つまり、幼馴染の大久保と西郷が、組織のトップ同士で向き合う最後の内戦。情の人・西郷と、理の人・大久保。同じ薩摩で育った2人が、こんな形でぶつかってしまうなんて切なすぎるよね…。
■ 西郷の自決と大久保の沈黙
戦況は次第に薩摩軍に不利になっていきます。激戦地・田原坂の戦いで敗れた西郷軍は、各地で追い詰められ、最後は鹿児島の城山にこもります。
1877年9月24日、政府軍の総攻撃を受けた西郷隆盛は、城山の洞窟近くで負傷したのち、別府晋介に介錯を頼んで自決。享年49歳。これにより西南戦争は政府軍の勝利で終わります。

西郷の死を聞いた大久保は、報告を受けながら人目をはばからず号泣したと伝えられています。あれほど冷静で「冷酷」と呼ばれた男が、です。

吉之助さぁ…(西郷のこと)。お前を死なせたのは、結局この私だ。お前のいない国を、私はこれからどう作ればよいのだ。
そして大久保は、こんな言葉を残したと伝えられています。
「西郷がいなくなった以上、自分もあと半年の命だろう」
この予感は、わずか数ヶ月後に的中することになります。
大久保利通の暗殺——紀尾井坂の変(1878年)
■ 紀尾井坂の変の経緯
西南戦争が終わってから約8ヶ月後の1878年(明治11年)5月14日、東京で衝撃的な事件が起こります。紀尾井坂の変です。
その朝、大久保利通は自宅から馬車で皇居へ向かう途中、東京・紀尾井坂(現在の千代田区紀尾井町付近)にさしかかったところで、石川県士族の島田一郎ら6名の刺客に襲撃されました。
馬車は止められ、御者は斬り殺され、馬車を降りた大久保もそのまま路上で斬り殺されました。享年47歳。明治政府を一手に背負っていた最高権力者が、白昼堂々、東京のど真ん中で命を奪われたのです。

なんで暗殺されてしまったのかしら?刺客の人たちは、何が許せなかったの?

島田たちは斬奸状という声明文を残していて、そこには「大久保が独裁政治をして人民を苦しめた」「西郷たちを死に追いやった」「有司専制(一部の役人が国を独占している)を糾弾する」という主張が書かれていたんだ。要するに、明治政府への不満が大久保ひとりに集中してしまったんだよ。
暗殺の理由を説明するために犯行者が残す声明文のことです。「奸」とは「悪者」の意味で、「自分たちは悪者を斬った正義の人間だ」と主張するために書かれます。島田一郎らの斬奸状は、大久保政権の専制を批判し、国会開設や西郷ら下野した功労者の名誉回復などを訴える内容でした。
■ 「半年の命」——大久保の予感と覚悟
不思議なことに、大久保は西郷の死後、「自分もあと半年の命だろう」と周囲にこぼしていたと伝えられています。実際には西南戦争終結(1877年9月)から約8ヶ月後に暗殺されているので、ほぼ予感どおりの最期でした。
事件当日、大久保の懐からは西郷から届いた古い手紙が見つかったとも言われています。本当だとすれば、大久保は最後まで西郷のことを心の支えにしていたのかもしれません。

恨みを買うことは覚悟のうえだ。私が斬られて済むなら、それで国が静まるのなら——それも本望よ。
大久保の死後、自宅を調べると、財産は現金わずか140円のみで、8,000円もの借金が残っていたといいます。現在の価値に換算すれば、現金は約200万〜400万円ほどにすぎない一方、借金は約1億〜2億円規模にのぼったと考えられます。
私財を投じ、さらに借金までして国の事業を支えていたのです。債権者たちは大久保の借金の使い道を知っていたため、遺族への返済請求をしなかったと伝えられています。「冷酷な独裁者」と呼ばれた男が、実は私財を投げ打ってまで国のために尽くしていたことが、ここで明らかになったのです。
■ 大久保利通の子孫——麻生太郎・牧野伸顕につながる血脈
大久保利通の子孫は、その後も日本の政治・文化の中心で活躍し続けています。
- 次男・牧野伸顕:外務大臣・内大臣を歴任。パリ講和会議の次席全権大使
- 曾孫・吉田健一:英文学者・作家。父は吉田茂(元内閣総理大臣)
- 玄孫・麻生太郎:第92代内閣総理大臣。牧野伸顕の曾孫にあたる
つまり、元総理大臣の麻生太郎さんは、大久保利通の玄孫にあたります。明治の大政治家の血が、令和の今も日本政治に流れ続けているのです。

大久保→牧野伸顕→(牧野の娘・吉田雪子)→吉田茂→麻生太郎元首相(麻生の母・和子は吉田茂の娘)。歴史の教科書の人と、ニュースに出てくる政治家がつながってるって、なんだか不思議だよね!歴史って今に続いてるんだなぁって実感するよ。
大久保利通の功績まとめ——近代日本を設計した男
ここで、大久保利通の主な功績を一気に整理しておきましょう。明治維新後のわずか10年あまりの間に、大久保はとんでもない量の改革を成し遂げています。
功績①:版籍奉還(1869年)・廃藩置県(1871年)の推進
江戸時代の藩を消し、土地と人民を朝廷に返させ、最終的には県と知事に置き換えた大改革です。日本がはじめて「ひとつの国」として動き出すための土台を作りました。
功績②:岩倉使節団に副使として参加(1871〜1873年)
欧米12カ国を約1年10ヶ月かけて視察。「日本が今やるべきは戦争ではなく国内の近代化だ」という確信を、この旅で大久保は得ました。帰国後の政策のすべてが、この体験を出発点にしています。
功績③:内務省を設置・内務卿として殖産興業を推進(1873〜1878年)
富岡製糸場の運営、勧業博覧会の開催、鉄道・郵便・道路の整備、士族授産事業など、産業革命の入口となる政策を一手に取り仕切りました。今でいう経済産業大臣・国土交通大臣・総務大臣をぜんぶ束ねたような立場です。
功績④:征韓論を退け、内治優先路線を確立(1873年・明治六年政変)
もし征韓論が通っていれば、まだ国力の弱かった日本は朝鮮との戦争——さらには清やロシアとの衝突に巻き込まれていたかもしれません。大久保が「待て」と言わなかったら、近代日本はもっと早い段階で破綻していた可能性すらあります。
功績⑤:士族反乱・西南戦争を平定し、明治政府の基盤を確立
佐賀の乱から西南戦争まで、すべての武力反乱を鎮圧しきったことで、「もう武士の時代に戻ることはない」という事実を日本中に知らしめました。これ以降、政府への不満は武力ではなく言論——自由民権運動という形で表現されるようになります。
「初代内閣総理大臣になるはずだった男」——もし暗殺されていなければ、伊藤博文ではなく大久保が初代総理だった可能性が高い
内閣制度ができたのは1885年。大久保が暗殺されなければ、当時の政治力・実績・年齢から考えて、初代内閣総理大臣はまず間違いなく大久保利通でした。実際、初代総理になった伊藤博文も、若い頃は大久保のもとで実務を学んだ人物です。
【歴史のif】もし大久保が暗殺されていなければ?
大久保は暗殺の前夜まで、地租改正の見直し・国会開設の準備・憲法草案の方向づけなどを進めていたといわれます。47歳という若さで命を落とさなければ、初代内閣総理大臣として明治憲法(大日本帝国憲法)の制定に深く関わっていたでしょう。日本の近代化はもう少し穏やかで、もう少し違うかたちになっていたかもしれません。

そんなにすごい功績があるのに、なんで長いあいだ「冷酷」「独裁者」って言われ続けたのかしら?最近になって再評価されたのはどうして?

大きな理由は2つ。①明治の元勲のなかで大久保だけが暗殺で早く亡くなったから、自分で自分の業績を語る時間がなかった。②西郷隆盛が「敗者の英雄」として人気者になったから、その対比で「西郷を死なせた冷酷な男」という役回りを背負わされた。でも昭和後期から平成にかけて、佐々木克さんや瀧井一博さんといった研究者が史料をていねいに読み直して、「実は大久保こそが近代日本の設計者だった」ということが少しずつ知られるようになってきたんだよ。
■ 名言・格言——大久保利通の言葉
大久保が遺した言葉のなかには、彼の「嫌われ役を引き受ける覚悟」がにじむものがいくつもあります。
「為政清明」
政治を行うには、清く明らかであれ——大久保が好んで揮毫した言葉。私心を捨てて公のために尽くすという、彼の政治姿勢そのものを表しています。
「明治の事業は、創業の時代・整備の時代・守成の時代の三段階に分けられる。創業は終わった。これからは整備の10年だ」
暗殺される少し前に語ったとされる言葉。維新の革命(創業)はもう終わり、これから国の制度をていねいに整える地味な時代が来る、と見抜いていた発言です。派手な革命家ではなく、地道な「整備の人」でありたいという覚悟がうかがえます。
テストに出るポイント
ここでは、中学・高校の試験で大久保利通について問われやすいポイントをぎゅっとまとめておきます。テスト直前の見直しに使ってください。
📝 セットで覚える「維新三傑」:大久保利通(薩摩・冷静沈着・内政の天才)/西郷隆盛(薩摩・情に厚い・西南戦争で自決)/木戸孝允(長州・桂小五郎・五箇条の御誓文)。3人の出身藩・性格・最期をセットで覚えると、明治初期の出来事が一気に整理しやすくなります。

大久保利通って、定期テストや高校入試・共通テストでよく出るの?どこを重点的に覚えればいい?

大久保はめちゃくちゃ出やすいよ!特に①廃藩置県②岩倉使節団③明治六年の政変(征韓論)④内務卿として殖産興業の4つはセットで超頻出。記述問題では「大久保がなぜ征韓論に反対したのか」が定番。「欧米視察で日本の国力不足を痛感し、内政を優先すべきだと考えたから」と書ければカンペキだよ!
大久保利通をもっと深く知りたい人へ——おすすめ本

大久保利通についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を3冊紹介するよ!
よくある質問(大久保利通)
大久保利通(1830〜1878年)は、薩摩藩出身の政治家で、西郷隆盛・木戸孝允と並ぶ「維新三傑」のひとりです。明治政府で参議・大蔵卿・内務卿などを歴任し、廃藩置県や殖産興業を推進して近代日本の土台を作りました。1878年、紀尾井坂の変で士族に暗殺され、享年47歳で生涯を閉じました。
主な功績は5つあります。①版籍奉還(1869年)と廃藩置県(1871年)の推進、②岩倉使節団に副使として参加(1871〜1873年)、③内務省を設置し内務卿として殖産興業を推進、④征韓論を退けて内治優先路線を確立、⑤西南戦争を平定して明治政府の基盤を確立、です。要するに、近代日本の中央集権体制と産業・経済の土台を作り上げたのが大久保利通でした。
1878年5月14日、東京・紀尾井坂で石川県士族の島田一郎ら6名に暗殺されました(紀尾井坂の変)。刺客たちは斬奸状という声明文を残し、「大久保が独裁政治を行い、西郷隆盛らを死に追いやった」「有司専制を糾弾する」と主張しました。明治政府への士族たちの不満が、政府を一身に背負っていた大久保に集中してしまったことが背景にあります。享年47歳でした。
直接の原因は1873年の征韓論をめぐる対立です。西郷は朝鮮に自ら使者として赴き、武力衝突も辞さない覚悟を示しましたが、欧米視察から帰国したばかりの大久保は「今は内政整備が先」と強く反対。明治六年の政変で西郷は政府を去りました。背景には、不平士族をどう扱うかという根本的な路線の違い(情の西郷/理の大久保)がありました。幼馴染の絆と、国家のリーダーとしての立場が、最後にぶつかってしまった悲劇でもあります。
征韓論とは、開国を拒んでいた朝鮮に対し、武力をちらつかせてでも国交を結ばせるべきだという主張です。1873年、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎らが推進し、西郷自らが使者として渡る案が決まりかけていました。これに対し、岩倉使節団から帰国した大久保は「まず国内の制度・産業・軍備を整えるのが先で、外征している場合ではない」と猛反対。欧米列強の力を肌で見てきた大久保からすれば、征韓は明らかに時期尚早だったのです。
はい、たくさんいます。次男の牧野伸顕は外務大臣・内大臣として活躍し、パリ講和会議の次席全権大使も務めました。その娘婿が吉田茂(戦後の元内閣総理大臣)。さらに曾孫の吉田健一は英文学者・作家として知られています。そして玄孫にあたるのが、第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏です。明治の元勲の血が、令和の今も日本政治に流れ続けているのです。
まとめ:大久保利通——嫌われ役を引き受けた近代日本の設計者

以上、大久保利通のまとめでした!「冷酷」と呼ばれた男の裏側には、「国のためなら嫌われてもかまわない」という静かで強い覚悟があったんだ。下の年表で生涯をもう一度見直して、関連記事もぜひあわせて読んでみてね!
- 1830年薩摩藩(現・鹿児島市)に誕生
- 1858年頃島津久光の信頼を勝ち取り側近に
- 1869年版籍奉還を推進
- 1871年廃藩置県断行・岩倉使節団(副使)に参加
- 1873年征韓論に反対→明治六年の政変・西郷が下野
- 1873年内務省設置・内務卿に就任。殖産興業を推進
- 1877年西南戦争勃発→政府軍が鎮圧。西郷隆盛自決
- 1878年5月14日紀尾井坂の変で暗殺・享年47歳
- 没後〜長年「独裁者」と語られ続ける
- 20世紀末以降歴史学者による再評価——近代日本最大の功労者と称される
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📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「大久保利通」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「紀尾井坂の変」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「明治六年政変」(2026年5月確認)
コトバンク「大久保利通」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典)
コトバンク「岩倉使節団」(日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
佐々木克『大久保利通』(講談社学術文庫)
瀧井一博『大久保利通——「知」を結ぶ指導者』(新潮選書)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。









