面白いほどわかる桜田門外の変!簡単にわかりやすく徹底解説【さよなら井伊直弼!】

桜田門外の変当日の様子

今回は、1860年3月に井伊直弼が襲撃され命を落とした桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)について解説します。

この記事を読んででわかること
  • 桜田門外の変が起こるまでの流れ
  • 変が起こった当日の話
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桜田門外の変までの流れ

最初に、桜田門外の変が起こるまでの時代の流れを簡単に載せておきます。

桜田門外の変までの流れ

この流れからわかるとおり、井伊直弼は安政の大獄への報復として、桜田門外の変で討たれたのです。

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井伊直弼「水戸藩よ、天皇からの勅定返せ」

井伊直弼が安政の大獄により大弾圧に踏み切ったのは、反対派の勢力が同じく井伊直弼に不満を持っている孝明天皇(こうめいてんのう)と結びついて、1858年12月に勅定(ちょくじょう。天皇からの命令のこと)を使ってきたためでした。

井伊直弼
井伊直弼

反対派が天皇と結びつくのは非常にマズい。大事になる前に反対派を一掃すべきか・・・。

大弾圧のきっかけとなった天皇の勅定には何が書いてあったかというと、簡単に言うと次の3つのことが書いてありました。

勅定の3つ内容
  •  井伊直弼の大老を解任すること
  • 2 処分を受けた徳川斉昭などを許すこと
  • 3 南紀派によって将軍に擁立された徳川家茂の将軍位を撤回して、もう一回議論すること

少し補足しておきます。

2番で登場する徳川斉昭(とくがわなりあき)は水戸藩主であり、井伊直弼反対派の筆頭人

井伊直弼反対派!徳川斉昭

3番で登場する南紀派(なんきは)は、将軍継嗣問題で徳川慶福を支持した勢力のこと。ちなみに、徳川慶喜を支持した勢力は一橋派(ひとつばしは)と言います。詳しい話は、以下の記事を合わせて読んでみてくださいね!

井伊直弼も南紀派に属し、大老の立場を利用して徳川慶福(将軍になった後は「家茂」と名乗る)を将軍にしました。反対派(一橋派)の人たちはこれをなかったことにしろ!と言っているわけです。

ところが、安政の大獄により大量の人物が弾圧を受けると、朝廷内からも弾圧者が現れ、勅定を出した孝明天皇は勅定を撤回するような発言をするようになります。

孝明天皇
孝明天皇

今は無理でも、いずれ外国を倒してくれることに期待をしている。条約が結ばれた事情も理解した。まぁ、仕方なかろう・・・

こうして、勅定撤回宣言がされると、次は井伊直弼は水戸藩に対してこんなことを言いました。

井伊直弼
井伊直弼

孝明天皇は、前回の勅定の内容を撤回するような発言をしている。だから、水戸藩の手元にも渡っている最初の勅定を天皇に返せ。

天皇が考え方を変えたとは言え、公式の文書が反対派に渡っていると何に使われるかわからんからな・・・

水戸藩は一橋派の中核となっていた藩です。井伊直弼は、水戸藩から勅定を取り上げて、一橋派が天皇の力を利用する可能性を摘もうと考えたわけです。

ここで、水戸藩の意見は大きく2つに分かれます。

2つに分かれた水戸藩
  • 「返しても良いんじゃね?」と思う鎮派(ちんは)
  • 「天皇の勅定は絶対だ!返すわけねーだろ」と思う激派(げきは)

に分かれました。主に水戸藩の上層部は鎮派、身分の低い人々は激派に分かれます。

鎮派と激派
  • 鎮派 : 水戸藩の上層部の人たちが中心
  • 激派 : 水戸藩の身分の低い人たちが中心

そして、桜田門外の変はこの激派の人物たちによって起こされることになります。

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桜田門外の変を首謀した人たち

激派の思想というのは、いわゆる尊王攘夷(そんのうじょうい。天皇を中心として外国を打ち倒そうとする考え)の思想です。

200年以上もの間、幕府を中心に回っていた日本において、「天皇の下、異国を倒す」という思想は非常に過激な考え方です。だから「激派」と呼ぶわけです。

「勅定を返すor返さない」問題で不利に立たされた激派は、次第に井伊直弼の闇討ちを計画するようになります。(水戸藩の上層部が鎮派である以上、藩政の意思決定権を持たない激派が不利になるのは自然の流れでした)

主な首謀者は以下の人物たち。

  • 高橋多一郎(たかはしたいちろう)
  • 金子孫二郎(かねこそんじろう)
  • 関鉄之介(せきてつのすけ)      などなど

彼らは水戸藩を密かに抜け出し(脱藩し)、薩摩藩の有村次左衛門(ありむらじざえもん)らとも協力し、井伊直弼の闇討ち作戦を決行しました。

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桜田門外の変の当日

計画の実行日は1860年3月3日。雛祭りの日でした。

雛祭りということで江戸城でもイベントが開催され、桜田門外の変当日は多くの人たちが江戸城を訪れる日でもありました。江戸の町には江戸城へ向かう偉い大名たちの大名行列がたくさんでき、これを一目見ようと多くの見物者が集まります。この人混みを利用して井伊直弼を討ち取る計画です。

天気は久しぶりの雪。時間は早朝午前9時。井伊直弼の護衛隊は雨具を着け、機敏な動きができない状態だったため、計画実行にはうってつけのシチュエーションです。

まずは刺客のうち数人が、見物客に紛れ込み井伊直弼に近づきます。そして、刺客の一人である森という人物が、護衛隊を切りつけたことで桜田門外の変は始まります。

森の目的は、護衛隊を自分に引きつけて井伊直弼の警護を薄くすること。護衛隊が森に注意を注いでいる間に、見物客に紛れた一人井伊直弼の乗っている籠(かご)に向けて拳銃を打ち込みます。

この発砲が井伊直弼暗殺の合図となります。銃声を合図に他の刺客たちもワッと籠に押し寄せ、籠を刀でめった刺しにします。そして、薩摩藩の有村次左衛門が井伊直弼の首をとりますが、護衛隊から受けた傷により動けなくなり、そのまま死亡。

井伊直弼のほか、護衛隊8名、刺客5名が亡くなりました。他の刺客らは、自首または逃亡しますが、その多くが捕らえられ、命を落とします。

白昼堂々の暗殺劇に見物者たちも騒然。そして、雪で白銀に染まっていたはずの地面も、気づいてみれば鮮血の赤に染まっていました。

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桜田門外の変の影響

桜田門外の変を受けて、幕府は孝明天皇への歩み寄りを見せるようになります。幕府も尊王の意思を示すことで尊王攘夷派の矛先をそらそうとしたのです。

こうして幕府は、朝廷と幕府が一緒になって外国からの脅威に立ち向かう公武合体(こうぶがったい)の政治を目指すことになります。

しかし、朝廷と幕府が一丸となるのは簡単なことではありません。

なぜなら、朝廷の幕府の考え方は真っ向から対立するものだったからです。

朝廷と幕府の考え方の違い
  • 朝廷(孝明天皇):「開国なんかしないで外国をぶっ倒す」という攘夷派
  • 江戸幕府:「外国と戦争しても勝てないからとりあえず開国しとけ」という開国派

まさに水と油の関係です。そこで幕府は、孝明天皇の妹との政略婚を通じて公武合体を実現することになります。

ただ、尊王攘夷派の人の中には

「幕府は『公武合体』などと立派なことを言っているが、単に攘夷を唱える天皇を懐柔したいだけだろ。天皇の攘夷の志を惑わす幕府を許すわけにはいかない・・・!」

みたいな人たちもいて(実際に幕府は似たようなことを考えていました)、1862年には尊王攘夷派によって、公武合体を目指していた老中の安藤信正(あんどうのぶまさ)が坂下門の前で襲撃を受ける事件も起きています。これを坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)って言います。

さらには、これに合わせるかのように攘夷の運動も盛んとなり、1863年には、長州藩と薩摩藩が外国船に砲撃する事件も起きました。

こんな感じで桜田門外の変をきっかけに、これまでの「開国して戦争を避ける」と言う考えから、攘夷の思想へと日本全体が大きくシフトしていくことになります。



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