今回は1871年に実施された廃藩置県についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に教科書風に廃藩置県についてまとめておきます↓
この記事では、廃藩置県について以下の点を中心に解説を進めていきます。
廃藩置県が行われるまでの流れ
最初に廃藩置県が実施されるまでの時代の流れをチェックしておきます。
- 1867年
新政府が天皇親政(王政)を宣言。
諸藩の集まりだった日本の国家統一を進める。(この流れの中に廃藩置県がある)
- 1868年戊辰戦争、起こる
新政府VS旧幕府。
旧幕府の没収地は、「県」「府」という呼び名で新政府の直轄領になった。
- 1869年
藩の所領を新政府に返上させた。
しかし、新政府から任命された地方長官(知藩事)として藩主が旧藩領を支配し続けたため、版籍奉還は不完全に終わる。
- 1871年廃藩置県←この記事はココ!
藩を廃止して、その代わりに新政府直轄領の「県」を置いた。
名実ともに全国が新政府直轄領となる。
- 1873年地租改正
藩が消滅したことで、新政府は全国の人々から直接税金を徴収できるようになる。
これに対応する新たな税制度のため、地租改正が実施される。
王政復古を宣言した新政府は、天皇親政に向けた様々な政策を進めます。そして、土地・人民の支配に関しては、この記事で紹介する廃藩置県により新政府の目的は達成することになります。
廃藩置県の断行
廃藩置県とは「藩を廃止して県を置くこと」なので、知藩事(版籍奉還前の藩主)は基本的にこれに反対する立場をとります。藩が廃止すれば、自らの地位を失うことになるからです。
なので、無闇に廃藩置県を実施すれば諸藩が反乱を起こすことも想定され、事前準備が進められます。
この準備で大きな問題となったのが
「諸藩が反乱を起こした際に、それを鎮圧する新政府直属の軍隊がない」
という問題です。
当時、軍隊を持っているのはあくまで諸藩。新政府は直属の軍隊を持っていませんでした。(本格的な軍隊育成が始まるのは、1872年に徴兵令が施行されてから)
そこで、新政府の主要メンバーが多い薩摩・長州・土佐の3藩の軍事力を借りることにしました。この3藩の兵によって作られた軍隊は御親兵と呼ばれ、新政府初の軍隊となります。
また、諸藩の反乱(内乱)を覚悟しての廃藩置県には新政府内でも反対があることが予想されたので、廃藩置県の計画自体も秘密裏に進められます。
1871年7月9日、木戸孝允の邸宅にて廃藩置県の強硬実行(クーデター)の計画が練られます。その後、新政府の関係者への根回しが行われ、7月14日には廃藩置県が実行されることになりました。
1871年7月14日、木戸孝允らは議論を経ないまま、強硬的に廃藩置県を断行します。東京にいた知藩事たちを皇居に集め、天皇の御前にて廃藩置県を発表したのです。もちろん、反対運動に備えて御親兵も準備万端です。
弱体化する藩
用意周到に行われた廃藩置県でしたが、予想に反して廃藩置県はめちゃくちゃスムーズに行われました。(新政府にとっては嬉しい誤算)
藩主の反乱どころか、反対そのものがほとんどありません。むしろ、これを喜んで受け入れる藩主もいたほどです。
これには以下のような理由がありました。
当時、多くの藩は借金苦に陥っていました。江戸時代中期から諸藩の財政は悪化するようになり、幕末の内乱がそれに拍車をかけます。軍事費用の捻出により、藩の借金はさらに膨れ上がり、破綻寸前にまで追い込まれました。
なので借金地獄から開放してくれる廃藩置県は、藩主にとってはまさに救世主。おまけに、藩を手放した後も華族の特権身分は保証され、お給料まで支給されるのですから、至れり尽くせりです。
言い方を変えれば、「新政府が諸藩の膨大な借金を肩代わりしたおかげで、暴動が起きなかった・・・」とも言えます。
ちなみに、新政府が肩代わりした借金の多くは大阪の商人が貸していたものでしたが、新政府はそのほとんどを踏み倒しました。なので、廃藩置県で一番困ったのは実は藩を失う知藩事ではなく、大阪の商人たちでした。
多額のお金を貸していた大阪商人は大混乱に陥り、破産してしまった者も・・・。「商人の混乱=大阪経済の混乱」であり、廃藩置県後、大阪の経済はしばらく停滞することになります。新政府のやり口がエグすぎます。(首都を東京に移したので、大阪はもはや軽視されてしまったのでしょうか・・・)
廃藩置県は47都道府県の始まり
この記事を書いている時点で、日本には47の都道府県があります。廃藩置県はこの47都道府県の原点となりました。
廃藩置県当初は、1使・3府・302県が置かれていました。「使」は開拓使の「使」で今の北海道を指しています。「府」は東京府・大阪府・京都府の3つです。
これが1871年度末には1使・3府・72県に統合され、1888年には1道・3府・43県にまで統合されました。
1道・3府・43県はその後、1943年に「東京府」が「東京都」となり今の47都道府県の形が完成します。
今でこそ県には「県知事」、府には「府知事」、都には「都知事」がいますが、廃藩置県の当初は、
が置かれました。県知事ではなく県令ってところがポイント。県令が今のように県知事と呼ばれるようになるのは1886年以降になります。
皆さんが住んでいる都府県の歴史を知ろうと思ったら必ず廃藩置県の話が登場するので、廃藩置県の話は知っておいて損はないと思います。(ただし、沖縄県と北海道はもう少し複雑な歴史がある)
廃藩置県によって何が変わったのか
ところで、諸藩の反乱を覚悟してまで実施した廃藩置県ですが、廃藩置県の実施により日本は何か変わったのでしょうか。
廃藩置県は「藩を廃止して、日本全国に新政府直轄領の県を置く」という政策なので、廃藩置県によって新政府は日本全土とそこに暮らす人々を直接統治することができるようになりました。
これだけだとイメージがしにくいですが、廃藩置県のおかげで具体的に以下のような政策を実施できるようになりました。
廃藩置県は、その後も続く政治改革の土台の中の土台。廃藩置県の実施により初めて、民政・軍事・税制・治安維持・教育といった多岐にわたる政治改革が実現可能となったのです。
そんな意味では、明治維新の数ある政策の中でも廃藩置県は最も重大な政策でした。また、廃藩置県により藩の集まりだった日本が新政府の下に統一されたことで、現代日本の原形が造られた・・・とも言えるかもしれません。
しかし、廃藩置県とそれに続く数々の政治改革は急すぎました。上に挙げた例だけでも1872年〜74年で目まぐるしく日本が変わっていることがわかると思います。
一連の政治改革はその急進性ゆえに、人々からの強い反発も招きました。
- 1873年血税一揆が起こる
人々に負担を強いる徴兵令や学制に反対する大規模な一揆が起こる。
学制は学校の建設や教師の給料を地元の負担としたため、負担に耐えかねた人たちが猛反対した。
- 1876年地租改正一揆が起こる
重税に苦しむ人々が一揆を起こす。
このほかにも急な政治改革は、江戸時代の特権身分だった士族たちの反乱も招き、1877年に西南戦争が起こります。
最後に廃藩置県について一文でまとめます。
地租改正や徴兵令など多くの政策は廃藩置県抜きにしては実施不可能であり、廃藩置県は明治維新の中でも最も重要と言っても良い大改革だった。
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