

今回は江戸城無血開城について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!勝海舟・西郷隆盛の有名な会談の舞台裏、山岡鉄舟の決死交渉、そして篤姫やイギリス公使の知られざる役割まで、「なぜ江戸は戦わずに開城できたのか?」を徹底解説するね!
明治維新最大のハイライト、江戸城無血開城。でも実は、勝海舟と西郷隆盛の2人の会談だけで決まったわけではありません。山岡鉄舟の捨て身の単身交渉、徳川家の女性たちが送った嘆願書、そしてイギリス公使の”横やり”——。これら5つの要因が全て重ならなければ、江戸100万人の市民は火の海に沈んでいたかもしれないのです。
江戸城無血開城とは?
- 慶応4年(1868年)4月11日、幕府が江戸城を新政府に明け渡した出来事。
- 幕府代表・勝海舟と新政府代表・西郷隆盛の会談で実現。
- 大規模な市街戦を避け、江戸100万市民を救った「奇跡の政権移行」。

「無血開城」とは、戦闘を行わずに城(要塞)を相手に引き渡すことを意味します。江戸城無血開城は、慶応4年(1868年)4月11日(旧暦)、幕府が新政府軍に対して江戸城を無条件で明け渡した出来事です。正式には「江戸城明け渡し」とも呼ばれ、この日をもって250年以上続いた江戸幕府の実質的な終焉が訪れました。
この出来事は、戊辰戦争(1868〜1869年)の最大の転換点として知られています。戊辰戦争とは、新政府軍と旧幕府軍の間で行われた内戦のこと。江戸城無血開城は「勝者が敗者を殲滅する」という戦争の常識を覆した、歴史的な政権移行でした。当時、江戸は人口100万人を超える世界最大規模の都市の一つ。ここで市街戦が起きれば、計り知れない人的・物的被害が出ていたことでしょう。

「無血」って言葉、なんか不思議ね。でも開城したってことは、幕府が負けを認めたってこと?

「無血」っていうのは「血を流さずに」ってこと——つまり戦わずに城を明け渡したんだよ。単に「負けを認めた」というより、「戦えば江戸が火の海になる」と判断した上での政治的な選択、と考えるのが正確かな。幕府が「自分たちより江戸の100万人を守ること」を優先した、という側面が大きいんだ。
無血開城の背景〜幕末の政治危機
江戸城無血開城が実現するまでには、複数の重大な政治的危機がありました。時計の針を少し戻して、1867〜68年の出来事を振り返ってみましょう。そうしないと、「なぜ幕府はこんな状況に追い込まれたのか」という前提が見えてきません。
■鳥羽伏見の敗北と幕府の崩壊
1867年10月、第15代将軍徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返上しました。しかし同年12月には王政復古の大号令が出され、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府が実権を握ります。徳川家は依然として大きな軍事力と経済力を持っていましたが、政治の主導権は失いつつありました。
旧暦慶応4年1月3〜6日(新暦1868年1月27〜30日)、京都南部の鳥羽伏見で旧幕府軍と新政府軍が衝突しました(鳥羽伏見の戦い)。幕府軍は数的には優勢でしたが(旧幕府軍約1万5千 vs 新政府軍約5千)、新政府軍が「錦の御旗」——天皇の軍を示す旗——を掲げたことで形勢が逆転。この旗が登場した瞬間、幕府軍は「天皇に楯突く朝敵」になってしまいました。多くの兵士が動揺し、士気が崩壊。わずか4日間で旧幕府軍は敗走し、250年以上続いた江戸幕府の軍事的権威は、あっけなく地に落ちたのです。
■徳川慶喜の決断——恭順か抗戦か

鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、大阪城から軍艦で江戸へ帰還。上野寛永寺にこもり、謹慎(謝罪の意を示すために公の場に出ないこと)という行動に出ました。幕府内には「まだ戦える」「徹底抗戦すべきだ」という声もありましたが、慶喜はこれを押し切る形で恭順の姿勢を取り続けます。
📌 慶喜はなぜ逃げたのか? 鳥羽伏見で敗れたあと、慶喜は大阪城から江戸へ戻り上野寛永寺で謹慎しました。「臆病だ」と非難する見方もありますが、「戦えば江戸が火の海になる」と判断した政治的決断だったと評価する研究者も多くいます。慶喜には、旗下の幕臣や庶民を無用な戦争の犠牲にしたくないという思いがあったとされています。
慶喜の謹慎という選択は「臆病だ」「逃げた」と批判されることもありますが、別の見方もあります。慶喜が意地を張って徹底抗戦していたら、幕府軍は江戸を拠点に新政府軍と激突し、江戸での大規模な市街戦は避けられなかったでしょう。慶喜の「戦わない」という決断こそが、無血開城の「前提条件」を作ったとも言えるのです。
■新政府の江戸総攻撃計画
一方、新政府軍(東征大総督府)は、東海道・東山道・北陸道の3方向から江戸へ進軍を開始しました。そして、なんと1868年3月15日を「江戸総攻撃の日」と設定したのです。有栖川宮熾仁親王が率いる新政府軍は、勝機を確信して江戸に迫っていました。
江戸城を守る幕府軍の数は新政府軍に比べて劣勢でした。しかし戦闘になれば、多くの武士や市民が巻き込まれることは明らかです。江戸の町が焼け野原になる——そんな最悪のシナリオが、刻一刻と現実味を帯びていきました。

タイムリミットは3月15日。江戸城を守る勝海舟は、このX-Dayまでに何とかしなければならなかった。でも正面から戦っても勝ち目はない——そんな絶体絶命の状況で、勝海舟は「戦わずして交渉で解決する」という道を選んだんだ。次の章では、有名な勝・西郷会談の「前」に起きた、もう一つの決死の交渉を紹介するよ!
山岡鉄舟の先遣交渉〜見逃された功績
「江戸城無血開城」と言えば、多くの人が「勝海舟と西郷隆盛の会談」を思い浮かべるでしょう。ところが、その有名な会談が実現する前に、一人の人物が命がけで西郷隆盛に直談判しに行っていたことをご存じでしょうか。その人物の名は、山岡鉄舟。歴史の教科書ではほとんど触れられない人物ですが、無血開城の「縁の下の力持ち」と呼ぶに相応しい存在です。
■単身駿府へ——山岡鉄舟の決死行
1868年3月9日早朝。勝海舟の命を受けた山岡鉄舟(当時31歳・幕臣・剣客)は、新政府軍が支配する街道を単身で進み、静岡・駿府(現在の静岡市)まで赴きました。当時の駿府は、西郷隆盛が指揮する新政府軍の本営が置かれていた場所です。
敵軍の真っ只中を手形一枚で進むというこの行為は、まさに「死を覚悟した一歩」でした。
山岡が駿府へ向かった3月9日早朝、江戸から静岡までの道中は新政府軍の検問だらけでした。しかし山岡は恐れる素振りを一切見せず、各所で「幕府の使者として西郷吉之助殿に面会に来た」と堂々と名乗り続けます。複数の検問を突破し、ついに西郷の本営へたどり着いた山岡の胆力を目の当たりにした西郷は「あのような人物が幕府にまだいたとは」と深く感嘆したと伝わっています。剣の道を極めた男が命をかけた瞬間——その迫力が、無血開城への道を切り開いたのです。
山岡が西郷に伝えたのは「徳川慶喜は恭順する意思がある」「朝廷への忠誠を誓う」という慶喜の意思でした。さらに山岡の真摯な態度と、「江戸で戦えば民衆が苦しむ」という訴えが、西郷の心に響いたと伝えられています。この駿府会談が、後の勝・西郷会談への扉を開いたのです。

「山岡には命がけで行ってもらった。あれはただの使いじゃない——江戸百万人の命を背負って一人で乗り込んでいった男だ。あの決死行がなければ、西郷さんも俺の話を聞いてくれなかっただろうよ。」
■篤姫・和宮の嘆願書が西郷を動かした

山岡鉄舟の事前交渉と並行して、もう一つの動きが西郷の心を揺り動かしていました。それは徳川家の女性たちからの嘆願書です。
篤姫(第13代将軍・徳川家定の妻。薩摩・島津家出身)は、同じ薩摩藩出身の西郷隆盛に向けて「徳川家を滅ぼさないでほしい」という嘆願書を送りました。さらに孝明天皇の妹・和宮(第14代将軍・徳川家茂の妻)も同様の嘆願書を届けます。
薩摩出身の篤姫が「同じ薩摩の者」として西郷に直訴するという構図は、武士の情け・故郷への絆という感情的な側面から、西郷の心に強く響いたと言われています。一方の和宮は天皇の血を引く皇族であり、その書状は新政府に対しても「天皇の身内が徳川家の命乞いをしている」という重みを持ちました。これらの書状が、西郷の江戸総攻撃への意欲を削いだことは間違いないでしょう。
■パークスの横やりと列強の圧力
そして三つ目の要因が、意外にも「外国」からの圧力でした。当時の日本では安政の開国(1854年〜)以来、多くの外国人が横浜や長崎などに居留していました。イギリス公使ハリー・パークスは、1868年3月9日(旧暦)前後、新政府に対してこう訴えます——「江戸での戦闘は、外国人居留民の生命と財産を危険にさらす。中立を守れない場合、我々は干渉せざるを得ない」と。
幕末の日本には、横浜・長崎などの開港場に数千人の外国人居留民がいました。江戸での市街戦は、これらの外国人の財産を直撃する可能性がありました。さらに治外法権(外国人には日本の法律が適用されないという不平等条約の条項)があったため、外国人への被害は即座に外交問題になります。
イギリスは当時、薩摩・長州に好意的(事実上の新政府寄り)でしたが、それでも「江戸を攻撃するな」と警告しました。これは単なる人道的理由だけでなく、「戦争が長期化すれば貿易が停滞する」という経済的利益の観点からも、早期の政治的解決を求めていたのです。パークスの一言が、新政府指導部に「江戸での戦争は得策ではない」という判断をさせる一因となりました。

外国も絡んでたんだ!勝・西郷の会談だけじゃなかったのね。山岡鉄舟もほとんど知らなかったわ。

そうなんだよ!山岡の決死行・篤姫の嘆願・パークスの圧力——この3つが揃って初めて、あの有名な勝・西郷会談が成立したんだ。どれか一つが欠けていても、無血開城は実現しなかったかもしれない。次の章でいよいよ、あの歴史的な会談の中身を見ていこう!
勝海舟と西郷隆盛の会談〜1868年3月14日
山岡鉄舟の事前工作、篤姫の嘆願、パークスの圧力——。この3つの伏線が重なった上で、いよいよ歴史的な会談の日がやってきました。場所は江戸・薩摩藩邸(現在の東京都港区田町付近)。時は1868年3月14日。江戸の命運を懸けた2日間の会談が始まります。
■前日の根回し(3月13日)

3月13日、勝海舟と西郷隆盛は非公式の形で最初の接触を持ちました。ここで勝海舟が提示したのは、大きく7つの条件です。
📋 勝海舟が提示した主な条件:
①江戸城を新政府に引き渡す ②幕府の軍艦・兵器を引き渡す(勝は軍艦の一部保全を主張) ③慶喜は水戸に退去する ④江戸城の幕臣は城外に退去する ⑤慶喜を助けた会津藩・桑名藩への寛大な処分 ⑥旧幕府関係者の戦犯追及をしない ⑦開城後の江戸市民の安全を保障する
これらの条件をめぐって、3月13日に非公式の議論が行われました。勝海舟は「江戸の100万市民を戦火から守る」ことを最優先に交渉を進めます。特に注目すべきは、軍艦の引き渡しについて「幕府の軍艦は将来の日本海軍の礎になる」として保全を主張したことです。これは単に幕府の財産を守るためではなく、明治以降の日本の国防を見据えた戦略的思考でした。
■運命の3月14日——江戸城開城の決定

翌3月14日、正式会談が行われました。西郷はほぼすべての条件を認め、江戸総攻撃の中止を決定します。この決断により、1868年4月11日の江戸城明け渡しまでの約1か月間、江戸での戦闘が回避されることが保証されました。
会談のポイントは「慶喜の処遇」でした。当初、新政府内には慶喜を厳しく処罰すべきという強硬意見もありましたが、西郷は「慶喜が恭順の意を示している以上、命を奪うことは本意ではない」という大局的な判断を下しました。この西郷の決断が、事態の平和的解決を決定的なものとしたのです。

「勝つための戦じゃない。生き残るための交渉だ——それが俺の考えだった。江戸を守ることが、日本の未来を守ることなんだ。だから俺は西郷さんに正直に話した。”戦えば江戸は燃える。それで得をする者は誰もいない”ってね。」

江戸の民を巻き込む戦は、本意ではごわせん。勝先生の話には筋が通っておる。徳川慶喜公が真に恭順する意思があるなら、これ以上の血を流す必要はなか。江戸の者たちを苦しめることは、俺には出来もはん。

勝海舟が「海軍力を温存したかった」という視点も面白いよ。「軍艦を全部渡せ」という新政府の要求に対して、勝はギリギリまで交渉して、軍艦の一部を守ることに成功した。これがのちの明治海軍の礎の一部になったんだ。「江戸を救った英雄」というだけでなく、日本の近代化を見据えた長期的戦略家でもあったんだよ!
無血開城が成立した5つの理由
「なぜ江戸城は無血で開城できたのか?」——この問いに一言で答えるなら「奇跡のような要因が5つ重なったから」です。単純に「勝海舟と西郷隆盛が話し合ったから」というだけでは、この複雑な歴史的出来事の本質は掴めません。ここでは、それぞれの理由を整理してみましょう。
理由①:徳川慶喜の恭順方針——トップが「戦わない」と決断したこと
もし慶喜が「最後まで戦う」という姿勢を崩さなければ、幕府側の武士たちは徹底抗戦を続けていたでしょう。江戸を拠点にした長期的な抵抗が始まり、市街戦は避けられなかったはずです。慶喜が上野寛永寺での謹慎という「戦わないという意思表示」を選んだことが、無血開城の大前提となりました。トップの意思決定がいかに重要かを示す、歴史的な事例です。
理由②:山岡鉄舟の事前交渉——勝・西郷会談前に「道」を開いた決死行
3月9日の山岡の駿府行きがなければ、勝海舟が西郷隆盛と直接交渉する場は設けられなかった可能性が高いです。敵地を単身で赴いた山岡の行動が、西郷に「幕府側には話し合いの意思がある」という印象を与え、勝・西郷会談への道を開きました。「縁の下の力持ち」という言葉がこれほど似合う人物も、歴史の中では珍しいでしょう。
理由③:篤姫・和宮の嘆願——徳川家の女性たちの訴えが西郷の心を動かした
薩摩出身の篤姫が「同じ薩摩の人」である西郷に訴えたという事実は、単なる手紙以上の重みがありました。故郷への絆、武士の情け——そういった感情的な側面が、西郷の江戸総攻撃への意志を揺るがせたのです。また和宮(天皇の妹)からの書状は、新政府全体が無視できない政治的圧力となりました。「男たちの交渉」だけでなく、女性たちの声も歴史を動かした事例として特筆すべきです。
理由④:パークス(英)の圧力——列強が「江戸での戦争」を望まなかった
当時の日本にとって、欧米列強との関係は最重要課題でした。幕末の不平等条約を改正し、欧米と対等な外交を実現するためにも、国内での大規模な内戦は避けたい——それは新政府も同じでした。イギリス公使パークスが「江戸での戦争は認めない」と圧力をかけたことで、新政府指導部は「国際社会の目」を強く意識せざるを得なくなりました。外交的孤立を招く行動は、新政府にとっても避けるべきことだったのです。
理由⑤:勝海舟の戦略的交渉力——「戦わずして勝つ」という決断
幕府軍は陸軍では劣勢でしたが、海軍力(軍艦)ではまだ新政府軍を上回っていました。勝海舟は「もし戦えば、我々の軍艦で東京湾を封鎖することもできる。それは双方にとって得策ではない」という暗黙の交渉材料を持ちつつ、西郷に平和的解決を訴えました。さらに「江戸の民衆が苦しむ」という道義的な訴えも加え、感情と戦略の両面から西郷を説得したのです。軍事力を誇示しながら使わない——これは歴史的にも珍しい、高度な外交術でした。
実は勝海舟には、表向きには見せなかったもう一つの「切り札」がありました。それが焦土作戦——もし江戸への総攻撃が始まったならば、自ら火付け役を組織して江戸の町を焼き払うという秘密の覚悟です。「我々が火を放てば、横浜の外国人居留地にも飛び火する」——この事実は、新政府軍にとっても無視できないリスクでした。勝海舟自身の著書『氷川清話』にも、そうした覚悟がにじんでいます。「戦わずして勝つ」という哲学は、こうした捨て身の覚悟の上に成り立っていたのです。
江戸の街は本当に”無血”だったのか?
「江戸城無血開城」という言葉には、実は大きな落とし穴があります。確かに、江戸城そのものは血が流れることなく明け渡されました。でも、「江戸城無血開城=戊辰戦争の終わり」ではありません。無血開城の後も、日本各地で激しい戦闘が続いていたのです。
📌 開城後も続いた戦い:江戸城が無血開城された後も、旧幕府勢力の抵抗は続きました。1868年5月、彰義隊と呼ばれる旧幕府方の武士たちが上野・東叡山寛永寺に立てこもり、新政府軍と戦った「上野戦争」が勃発。さらに東北では会津藩を中心に激しい抵抗が続き(会津戦争)、最終的には北海道の五稜郭での「箱館戦争」(1868〜69年)まで戊辰戦争は終わりませんでした。
つまり「無血」だったのは、あくまでも「江戸城の明け渡し」という一点のみです。江戸城無血開城から約1年間、日本列島のあちこちで戦いが続きました。特に会津(現・福島県)では、城を守りながら戦い続けた会津藩の侍や女性・子どもたちも多くが犠牲になり、「戊辰戦争の悲劇」を象徴する激戦地となりました。歴史を学ぶ際には「無血開城=戊辰戦争終結」という混同をしないよう注意しましょう。
それでも——「江戸の街が無血だった」という事実の持つ意味は、やはり計り知れないものがあります。当時の江戸は世界最大規模の人口を誇る都市。ここで大規模な市街戦が起きていれば、東京の近代化は大幅に遅れ、現代の首都・東京はまったく異なる姿になっていたかもしれないのです。

「無血」って江戸城だけの話なのね。会津ではほんとうに激しい戦闘があったと聞いたことがあるわ。

そう!「無血開城で守られたのはあくまでも江戸の町」——でもそれだけでも100万人が救われたという事実は本当に大きいんだよ。「無血開城=戊辰戦争終結ではない」という点は多くの人が混同しがちなポイントだから、しっかり押さえておこう!
無血開城が変えた歴史〜もし戦争になっていたら
では、無血開城が実現したことで、日本の歴史はどう変わったのでしょうか?そして逆に「もし江戸で大規模な戦争になっていたら」どうなっていたのか——「歴史のif」を考えることで、この出来事の意義が一層鮮明になります。
📌 もし江戸で激戦になっていたら? 東京(当時の江戸)は人口100万人を超える当時世界最大規模の都市。市街戦になれば江戸の寺社・町屋・水路・インフラが壊滅し、明治政府が首都を「東京」に置けなかった可能性があります。殖産興業・富国強兵・文明開化といった近代化の出発点が大幅に遅れ、列強に植民地化されるリスクも現実味を帯びていたかもしれません。「江戸が無血だったこと」は、単に命が救われただけでなく、現代日本の首都・東京の発展の礎になったとも言えるのです。
現代の東京には、江戸時代から続く神社仏閣・上野の山・浅草などの歴史的な場所が多く残っています。これらは市街戦があれば焼け落ちていた可能性が高いものです。勝海舟・西郷隆盛・山岡鉄舟・篤姫——彼らが命をかけて守ったのは、江戸の市民の命であり、日本の都市文明そのものでした。
江戸城無血開城という出来事は、後世の人々にも大きな影響を与えています。徳川慶喜は晩年まで長生きし(1913年没・77歳)、明治の世に静かに生きた最後の将軍となりました。勝海舟は明治政府においても重用され、「幕末の英雄」として語り継がれています。そして西郷隆盛は後に明治政府と対立して「西南戦争」(1877年)で亡くなりますが、今でも日本人に最も愛される歴史人物の一人として語り継がれています。「戦わないことで歴史を変えた」——それが江戸城無血開城の最大の意義でしょう。

江戸城無血開城は単なる「城の引き渡し」じゃない。現代の東京につながる街を守った出来事であり、「戦わないことが最強の決断になりうる」という歴史の教訓でもあるんだよ。勝海舟の有名な言葉「やるだけやった」——その言葉には、すべてをかけて交渉した男の重みが詰まってるね。
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よくある質問(FAQ)
1868年(慶応4年)4月11日、幕府が戦闘を行わずに江戸城を新政府軍に引き渡した出来事です。幕府代表の勝海舟と新政府代表の西郷隆盛の会談(3月13・14日)で合意が成立し、当時世界最大規模の人口を誇った江戸(100万人以上)の市民を戦禍から救いました。戊辰戦争(1868〜69年)における最大の転換点として歴史に刻まれています。
主に5つの要因が重なった結果です。①徳川慶喜の恭順方針——トップが「戦わない」と決断したこと。②山岡鉄舟の事前交渉——3月9日に単身で駿府まで赴き、西郷に慶喜の意思を伝えたこと。③篤姫・和宮の嘆願——徳川家の女性たちが西郷に書状を送り、江戸攻撃への意志を揺るがせたこと。④イギリス公使パークスの圧力——列強が江戸での戦争を望まず、新政府に自重を求めたこと。⑤勝海舟の交渉力——感情と戦略の両面から西郷を説得した高度な外交術。この5つが全て揃ったことで、無血開城が実現しました。
1868年(慶応4年)3月13日と14日の2日間、江戸の薩摩藩邸(現在の東京都港区田町付近)で行われました。13日が非公式の事前交渉、14日が正式会談です。この2日間の会談で江戸総攻撃の中止と開城が決定し、1868年4月11日の実際の江戸城明け渡しへとつながりました。
山岡鉄舟は幕臣・剣客として、勝海舟の命を受けて1868年3月9日に敵中を単身で駿府(現・静岡市)まで赴き、西郷隆盛に直談判しました。徳川慶喜が恭順する意思を持つことを伝え、西郷の態度を軟化させることに成功。有名な「勝・西郷会談」の道を開いた「縁の下の力持ち」的存在です。歴史の教科書では目立ちませんが、山岡の決死行がなければ無血開城は実現しなかった可能性が高いと言われています。
はい、続きました。江戸城が開城(1868年4月11日)された後も、旧幕府方の抵抗は各地で続きました。1868年5月には彰義隊が上野で新政府軍と戦った「上野戦争」が勃発。さらに東北では会津藩を中心とした「会津戦争」、北海道では榎本武揚率いる旧幕府軍による「箱館戦争(五稜郭の戦い)」と戦闘が続き、戊辰戦争が終結したのは1869年5月のことでした。「江戸城無血開城=戊辰戦争の終わり」という混同には注意が必要です。
江戸城無血開城後、徳川慶喜は静岡(駿府)に移り、謹慎生活を送りました。その後、明治政府に公爵として処遇され、1913年まで長生きしました(77歳)。徳川家そのものは「徳川宗家」として存続し、明治・大正・昭和を通じて貴族(公爵→侯爵)として遇されました。江戸城(現在の皇居)は明治天皇の住まいとなり、以後の日本の政治の中心となります。
まとめ

以上、江戸城無血開城のまとめでした!勝海舟・西郷隆盛だけじゃなく、山岡鉄舟・篤姫・パークスなど多くの人物の思惑が重なって実現した「奇跡の政権移行」——それぞれの記事も読んでみると、幕末がさらに面白くなるよ!下の関連記事もぜひ読んでみてね!
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1867年10月大政奉還第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上
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1868年1月3日王政復古の大号令薩摩・長州主導の新政府が樹立。江戸幕府の廃止を宣言
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1868年1月鳥羽伏見の戦い・幕府軍敗北「錦の御旗」登場で幕府軍は「朝敵」に。慶喜は江戸へ退去・謹慎
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1868年3月9日山岡鉄舟、駿府で西郷隆盛と会談単身で敵中を赴き、慶喜の恭順の意思を伝える
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1868年3月13・14日勝海舟・西郷隆盛 江戸で会談・開城合意江戸薩摩藩邸での2日間の会談で江戸総攻撃の中止・開城を決定
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1868年4月11日江戸城無血開城江戸城が正式に新政府軍に引き渡される。250年以上続いた江戸幕府が終焉
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1868年5月彰義隊の戦い(上野戦争)旧幕府方の彰義隊が上野に立てこもり新政府軍と交戦。1日で鎮圧される
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1869年5月箱館戦争終結・戊辰戦争終わる北海道・五稜郭で榎本武揚率いる旧幕府軍が降伏。戊辰戦争が正式に終結
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「江戸城無血開城」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「山岡鉄舟」(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「彰義隊」(2026年7月確認)
コトバンク「江戸城無血開城」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年7月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
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