今回は1869年に実施された版籍奉還についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に教科書風の概要を載せておきます↓
この記事では版籍奉還について以下の点を中心に解説を進めていきます。
そもそも版籍奉還ってどんな意味?
最初に、版籍奉還という言葉の意味について確認しておきます。版籍奉還は「版」「籍」「奉還」の3つの単語に分解することができます。
そして、この3つの単語の意味は以下のとおり。
【版】
版図(領地のこと)。ここでは各藩の領地を指している。
【籍】
人々を管理する戸籍。ここでは各藩に住む人々のこと。
【奉還】
天皇へ返上すること
そして、この3つを組み合わせると・・・
「版籍奉還」=「各藩の領地と領民を天皇へ返上すること」
という意味になります。
1867年には、これと似た大政奉還というのが実施されています。
「大政」というのは、「江戸幕府(徳川将軍)の持っていた政治の大権」という意味なので
「大政奉還」=「江戸幕府の大権を天皇に返上する」
というものでした。
とっても簡単に言ってしまうと、1869年に実施された版籍奉還は、1867年に江戸幕府に対して行われた大政奉還の藩バージョンということになります。
版籍奉還までの流れ
- 1867年10月江戸幕府、大政奉還を決意
徳川将軍家の地位を保障することを条件に朝廷へ大政奉還を申し出る。
- 1867年12月
天皇親政が始まる。大政奉還は受け入れるが、徳川将軍家の地位は保証しないことを決定。
15代将軍の徳川慶喜は激怒。
- 1868年戊辰戦争、始まる。
江戸幕府の大政奉還は白紙となり、幕府VS新政府の戦争に突入。
新政府に有利の展開に進み、幕府の没収地は、「県」「府」という呼び名で新政府の直轄領になった。
- 1869年1月薩摩・長州・土佐・肥前、版籍奉還する
天皇の名の下に国家を1つにすべく、新政府の主要メンバーだった薩長土肥が率先して、版籍奉還を実施。
- 1869年5月戊辰戦争、終結
新政府が五稜郭の戦いに勝利し、内乱終結
- 1869年6月新政府、全藩主に版籍奉還を命じる←この記事はココ!
戊辰戦争の勝利に合わせて全藩主に版籍奉還を命令。多くの藩がこれに従う。
- 1871年廃藩置県
藩そのものを撤廃する。
国家統一に向けて
江戸時代の民衆統治の仕組みは、簡単に表現すると以下のようなものでした。
幕末になると、黒船来航をきっかけに欧米諸国が日本に入り込んできます。
朝廷や江戸幕府はこの非常事態に対応するため、国を1つにまとめようとしますが上手くいきません。江戸幕府が各藩を統率することができなかったからです。(上図の江戸幕府→各藩のところで失敗した。)
すると、「もう幕府無くして、天皇の名の下に一致団結した方がよくね?」という倒幕運動が活発になり、妥協した江戸幕府は大政奉還を行います。「2 江戸幕府」が「1 天皇」に吸収され、民衆統治の構図は以下のように変化しました。
重税や物価上昇に苦しんでいた人々は、「これからはこの苦しみから解放される・・・」と新政府の掲げた五箇条の御誓文に大いに期待します。
ところが、この期待は大きく裏切られます。庶民たちの税はさらに重くなり、士族は武家特有の特権を剥奪されようとしていたからです。これに人々は怒り、各地で頻繁に暴動が起きるようなりました。
新政府に不満を持つ諸藩と民衆が結びつくと大変なことになる。
版籍奉還により、藩を藩主のものから天皇のものとすることで、藩の力を削ぎつつも新政府に取り込んでしまうべきであろう。
こうして、国内の不安定な情勢に対応するために行われたのが版籍奉還でした。
版籍奉還は突如として考えだされたものではなく、江戸幕府が大政奉還を受け入れた時点で、「幕府が大政を奉還するなら、いずれ諸藩も同じ運命を辿るだろう」とこれを予想していた人も多くいました。
ちなみにこの時、人々の不満を抑える案として、外敵に民衆の目をそらすため、朝鮮を征服すべきという征韓論も登場しました。しかしこの時点では採用されず、1873年頃から再び議論が盛んとなります。
版籍奉還の方法
版籍奉還と言っても、これを実行することは簡単ではありません。
そもそも、何かメリットがなければ藩主たちが版籍奉還に応じることはありません。だからと言って藩主の意向を無視して強引に行ってしまうと、反乱が起きるかもしれない。しかも版籍奉還が行われた1869年は戊辰戦争の真っ最中なので、慎重にならざるを得ません。
そこで、新政府の木戸孝允・大久保利通らはこう考えました。
まずは新政府の主要メンバーが多くいる薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が率先して版籍奉還を行う。
雄藩らが版籍奉還するのを見れば、それに追従する藩も増えるだろう
こうして、新政府のメンバーたちは薩長土肥の4藩主を説得し、1869年1月、新政府に対して以下のような版籍奉還の意思表明をしました。
つまり、薩長土肥の藩主たちは「新政府に貢献した俺たちなら今よりも良い処遇を与えられるかもしれない」という強いメリットを感じ、版籍奉還に応じたという流れです。
新政府も「今後、新政府で議論の上、必要な決定をする」と、これを受け入れます。
これを知った各藩では、
版籍奉還に応じておけば、新政府の方で良き決定をしてくれるに違いない!
と多くの藩が薩長土肥に続きます。
ここまでは木戸孝允らの計画通りです。
版籍奉還の内容
ただし、この時点で1つ注意しなければならないのは各藩が版籍奉還を願い出ても、新政府は一言も「領地領民を与える」とは言っていない点です。
あくまで「議論の上、必要な決定を下す」という曖昧な表現で終わっています。
1869年5月、五稜郭の戦いに新政府が勝利して戊辰戦争が終わるとその翌月(6月)、遂に新政府は各藩に対して以下の決定を下します。
さらに申し出ていない藩に対しても、版籍奉還をするよう命令を下しました。
版籍奉還の内容は、薩長土肥らの意思表明を完全に無視したものになっています。多くの藩は期待を大きく裏切られました。しかし、その割には強い反対を受けることはありませんでした。
藩主たちは知藩事として地位を保証され、しかも公卿と同等の華族に選ばれたからです。
「藩」という名前はそのままに、知藩事としてこれまでと変わらない藩領を任された藩主の中には、何がどうなったか理解していない藩主もいたとも言われています。これでは反対のしようもありません。
藩と府と県
版籍奉還により、新政府直轄領として3つの領地が完成しました。
それが「藩」「府」「県」です。
版籍奉還から廃藩置県へ
平穏無事に終わった版籍奉還ですが、藩主の権益を保護した上での版籍奉還のに木戸孝允は強い不満を持ちます。
藩の反乱を恐るあまり、藩主の力がそのまま残ってしまった。
名は新政府の領地となったが、実態は依然として知藩事となった藩主が支配している。これでは、旧来の藩主の影響力を排除できない。
いずれ全ての「藩」を「県」「府」のように名実ともに新政府の直轄領としなければならない・・・・!(これが廃藩置県となります)
こうして全ての藩を廃止して「県」「府」とし、名実ともに国土の全てを新政府直轄領にしようとしたのが1871年に行われた廃藩置県となります。
版籍奉還は、木戸孝允の言うとおり反乱を恐るあまりに藩主の力を守りすぎてしまった点では失敗と言えるかもしれません。藩主の力が残ったままだったせいで、「藩を天皇に返上する」と言うのも形だけになってしまいました。
しかし、後に行われる廃藩置県に向けた大きな布石だった・・・と考えれば、成功のような気もします。
いずれにせよ、版籍奉還の結果は明治政府が望んだパーフェクトな結果ではありません。明治政府が望んだものは版籍奉還の先にある廃藩置県にありました。
なので、廃藩置県について知ると、版籍奉還についての理解も深まるはずです。
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