今回は、1864年6月に起きた禁門の変(別名:蛤御門の変)についてわかりやすく解説していきます。
禁門の変は、簡単に言ってしまうと次のような事件です。
この記事では禁門の変(蛤御門の変)について
の3点を中心に解説していきます。
禁門の変(蛤御門の変)までの流れ
まずは、禁門の変が起こるまでの流れをチェックしておきましょう。
- 1863年5月長州藩、外国船を砲撃
下関を通る外国船を砲撃。長州藩は報復攻撃を受け、外国がメチャクチャ強いことを悟る。
長州の過激な攘夷行動に幕府はブチギレ。
- 1863年8月
クーデターにより、過激な思想を持つ尊王攘夷派が京都から追放される。
尊王攘夷派だった長州藩も京都から追い出される。
- ~1864年6月長州藩内で意見が分かれる
異国との戦闘や八月十八日の政変を通じて、長州藩の中には「過激な攘夷は身を滅ぼす。まずは富国強兵を目指すべき」という「大攘夷」の考えが生まれる。
長州藩では尊王攘夷派と大攘夷派で対立が起こる。
- 1864年6月池田屋事件
尊王攘夷派の人々が新撰組によって襲われる。これに長州の尊王攘夷派がブチギレ。
- 1864年7月禁門の変←この記事はココ
御所の蛤御門付近で長州藩と幕府が衝突。
長州藩は敗北。
- 1864年7月〜第一次長州征討、始まる
禁門の変への報復として、幕府軍が長州へ進攻。
孤立した長州藩
1863年に起こった八月十八日の政変により京都から追放された長州藩は完全に孤立します。幕府・朝廷・諸藩のいずれにも長州藩を援助する者はいません。
そして、1864年になると孤立したこの状況を打破するため、尊王攘夷派は「武力を背景に、朝廷に対して攘夷を訴えよう!」と考えるようになります。
しかし、1863年5月に外国艦隊と直接やりあった長州藩の中には、その強さを知り、慎重な行動を求める勢力が生まれつつありました。
禁門の変の主役となる久坂玄瑞も、当初は慎重派の一人でした。
慎重派が急進派を説得している最中の1864年6月、京都で池田屋事件と呼ばれる事件が起こります。
池田屋事件で長州藩ブチギレ
八月十八日の政変によって尊王攘夷派は京都から一掃されましたが、それでもまだ、密かに京都に潜伏し、挽回のチャンスを狙っている輩が多くいました。
そこで、これらの不穏分子を排除するため新撰組という組織が京都の街を監視することになりました。
1864年6月7日、新撰組は池田屋というお店で尊王攘夷派が良からぬ計画を企てているとの情報を知り、池田屋を襲撃しました。
池田屋事件で長州・土佐ら尊王攘夷派の多くの志士たちが命を奪われます。
この事件をきっかけに、長州藩はブチギレ。慎重派と急進派の間で膠着状態が続いていた長州では、これを機に一気に急進派が優勢となり、京都出兵への準備を進めることに。
慎重派だった久坂玄瑞も池田屋事件を機に急進派に一転し、そのリーダー格となります。
桂小五郎(後の木戸孝允)や高杉晋作と言った慎重派はこれを止めようとしますが、池田屋事件に激昂した人々を抑えることは今となっては不可能でした。
池田屋事件が憎いのわかる。現地にいた俺だって、運が悪ければ殺されていたかもしれん。
しかし、攘夷にはまず富国強兵が必須だ。京都に対して武力をもって訴えても何の解決にもならない。無謀なことはやめるんだ!
慎重派の言っていることは理解しているつもりだ。
しかし、池田屋事件で仲間が奪われた。これを傍観するわけにはいかない。出兵すると言っても、戦争をしたいわけではない。まずは、朝廷にお願いして長州藩の地位を回復させようと思っている。
交渉決裂
6月、久坂玄瑞らは兵を引き連れて上京し、朝廷に嘆願書を提出。長州の地位の回復を要望します。
朝廷には長州藩に理解を示す人々もいましたが、最終的に薩摩藩が断固反対し交渉は決裂。7月、長州藩には八月十八日の政変の時と同じように朝廷から退却命令が下されます。
これと同時に幕府は不測の事態(長州藩が攻めてくる)に備え、兵を集め始めます。
一方、交渉に失敗した長州藩士は石清水八幡宮に集合し、最後の会議が開かれます。
ここは、一度、朝廷の退却命令に従うべきだ。
私たちの目的は長州藩の地位回復である。こちらから何の理由もなく、戦闘を仕掛ければ、長州藩の立場はますます失墜する。兵力的にもこちらが不利だ。
機が熟するのを待つべきである・・・!
しかし、来島又兵衛という人物はこれに猛反対します。
今になって何を言うか臆病者め。この時のためにわざわざ兵を率いてきたのだろうが。武力を持って朝廷に訴えるのだ。
若者風情に戦争の何がわかる。ビビって動けないなら、そこで静かにしていろ。私は長州藩のため、命を賭けて戦う覚悟だ!!
この来島又兵衛の意見が通り、久坂玄瑞もそれ以上は何も語らず、進軍の準備を進めます。
禁門の変(蛤御門の変)始まる
7月19日、長州藩と会津藩・長州藩が御所の蛤御門付近で衝突。戦闘が始まります。
来島又兵衛が御所内への進入に成功するも長州藩の攻勢はここまで。多勢に無勢の中、来島又兵衛は狙撃され、最後は自害。
久坂玄瑞は最後まで朝廷との話し合いの希望を捨てず、公卿の鷹司輔煕の元へ向かいます。敵の猛攻をかわし、命がけで長州藩の地位回復を懇願しますが、鷹司輔煕はこれを拒否。
最期の希望を失った久坂玄瑞は、鷹司邸にて自害。久坂玄瑞は当時25才、松田松蔭が秀才と認めた逸材は若くしてその生涯に幕を閉じることになります・・・。
各地で戦闘が起こるも、わずか一日で長州藩は敗北することとなりました。
長州藩は、長州藩屋敷に火を放ち撤退。会津藩も長州藩士が潜んでいそうば場所へ放火し、京都は大火災に見舞われます。火災は3日間に渡って続き、公卿の邸宅も数十件が焼け、そのほか京都市内の家屋は2万戸以上が消失。死者も数百名にのぼるという大惨事となりました。
朝廷・幕府「長州は征伐しなければならない」
禁門の変(蛤御門の変)は終わってみれば、長州藩にとって最悪の結果に終わりました。桂小五郎や久坂玄瑞の言ったとおりになってしまったんです。
禁門の変は、長州藩の地位を回復するどころか、長州を嫌う幕府に長州へ攻め込む絶好の機会を与えてしまうことになりました。
朝廷内でも長州を擁護する声は消え去り、御所を襲撃し公卿らを震え上がらせた長州藩を征伐すべし・・・との声が大きくなります。
禁門の変が終わるとすぐ、長州藩は朝廷から朝敵と認定され、幕府では征討部隊を編成し、長州へ攻め込む計画が進められました。これがいわゆる「第一次長州征討」になります。
しかも翌月の1864年8月には、外国船への砲撃をやめない長州に対してイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国が艦隊砲撃をしてきた四国艦隊下関砲撃事件まで起こっており、長州藩は諸外国・幕府・朝廷の全てを敵に回した四面楚歌状態に陥りました。
この時期は、長州藩にとっては幕末の歴史の中でおそらく最も絶望的な状況でした。そして、その絶望的な状況を打破した中心人物であり有名だったのが以下の4人です。
高杉晋作は早世してしまいますが、残り3人は生き残り、いずれも明治時代に大活躍することになります。この4人を抜きにして明治時代の歴史の話をするのは不可能なほどです。
もし、久坂玄瑞が生きていたとしたら、久坂玄瑞もまた明治時代に名を残していたことでしょう。
禁門の変→長州征討→四国艦隊下関砲撃事件と続く絶望的な状況の中、長州藩では将来を担う新たな希望の光が次々と生まれることになります。
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