管領とは?三管領って?簡単にわかりやすく解説するよ!【執事とか時代遅れすぎww今は管領の時代だぞ】

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今回は、室町幕府に置かれた管領(かんれい)という役職について紹介します。

室町時代に登場する役職で、とても簡単に言ってしまうと

室町幕府将軍(足利家)を補佐する側近秘書官

将軍に次ぐ権力を持つ重要なポストです。

・・・と、ここまでの説明ならどんな本やサイトにも載っているので、この記事では管領についてもっと掘り下げてわかりやすく解説していきます。

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執事(しつじ)から管領へ

室町時代にいきなり登場する管領という役職ですが、実はいきなり登場したわけではありません。管領が置かれる以前は似たポジションで執事(しつじ)という役職がありました。

執事は武家一族を補佐する役職で、一族ごとに執事が置かれていました。例えば・・・

足利尊氏の執事 → 高師直(こうのもろなお)
新田義貞の執事 → 船田義昌(ふなだよしまさ)
北条貞時の執事 → 平頼綱(たいらのよりつな)

と言った感じ。ちなみに、最後の北条貞時は鎌倉幕府のボスです。北条氏は特別な存在だったので、北条氏の執事は別名「内管領(うちかんれい)」と呼ばれていました。

内管領だった平頼綱はその悪政で有名であり、霜月騒動という事件で有名な人物です。気になる方は以下の記事も合わせて読んでみてください。

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この執事が、北条氏の執事を「内管領」と呼ぶのと同様に、室町時代に入ると足利一族の執事に限って「管領」と呼ぶようになったわけです。

「管領」という言葉には、もともと「リーダー」「総支配人」的な意味があり、東北地方のまとめ役は蝦夷管領(えぞかんれい)なんて呼ばれていました。

話があっちこっちに飛んでしまいましたが、何が言いたいかというと「管領というのはいきなり登場したわけじゃなくて、執事から派生したものだし、『管領』って言葉自体も前から使われていたんだよ!」ってことです。

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執事たちの権力争い

足利尊氏が室町幕府を開くとその執事である高師直も大きな権力を手に入れるようになりましたが、それ故に政務を担当していた足利直義と対立し、1351年に高師直は消されてしまいます。詳しくは以下の記事で触れています。

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その後、仁木頼章(にきよりあき)という人物が執事になるも、1358年に足利尊氏が亡くなると、それに合わせて仁木頼章も執事を辞退。

その後2代目将軍の足利義詮の執事として細川清氏(ほそかわきようじ)が選ばれるも、1361年に権力争いに巻き込まれ失脚。

そして1362年、この次に執事の候補に上がったのが、斯波(しば)という一族でした。

しかし、斯波一族は源氏の血を引く一族で足利氏に並ぶ高貴な血筋。当時、執事候補になっていた斯波氏頼はこう言って執事を辞退します。

斯波氏頼「執事ってその一族の家来がなる役職だぞ。名門の斯波一族が足利氏の家来になんてなるわけねーだろ。」

氏頼の父である斯波高経も同じく斯波一族にふさわしくないと執事就任を断り、結局、足利義詮が「どうか天下を管領してくれ(政治を引き受けてくれ)!!」とお願いして、氏頼の弟である斯波義将(よしゆき)がようやく管領に就任したと言われています。(これが管領の始まりと言われている)

この話には諸説があり、この話が真実かどうかはわかりません。ただ、「執事という役職が名門斯波一族にふさわしくない」というのはあながち間違いではありません。

足利尊氏が室町幕府を開いて以降、足利氏の執事は単なる家来のレベルを超えて強大な権限を持つようになり、幕府の運営を担う超重要な役職になっています。

そんな重要な役職なのに、斯波氏みたいに「執事って所詮家来だろ?俺のような高貴な身分の者には卑しすぎて無理だわww」って舐められたら、幕府の運営がスムーズに進まないことは容易に想像できます。

こうして、紆余曲折を経ながら足利氏の執事は自然と室町幕府の組織に取り込まれ、「管領」と呼ばれるしっかりとした要職になりました。

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三管領

上でお話をした執事がバカにされる事件は地味に根の深い問題であり、1398年になると三代将軍の足利義満はこの問題に対して抜本的な改革を試みます。

何をしたかというと、同じ源氏の血を引く特定の一門にしか重要な役職に就任させない!というもの。

例えば・・・

管領になれる家柄 → 斯波・細川・畠山の3氏のみ(これが三管領!!)
侍所(軍事を司る部署)のトップ → 山名・赤松・一色・佐々木の4氏のみ

と言った感じ。みんな名前はバラバラですが遡ると源氏の血筋です。「源氏」というのは天皇の血を引いた氏族ですが、どの天皇の血を引いているかで微妙な違いがあります。

足利氏は清和天皇という天皇の血を引いた清和源氏であり、三管領は全て足利氏と同じ清和源氏から選ばれています。

こんな風に足利氏の血筋を頂点とした序列を作り上げ、足利氏を絶対的存在にしようと試みたわけです。高貴な血筋の者しか慣例になれなくすることで、管領が舐められることを防ごうとしました。(それでも舐められることはありますが・・・)

ちなみに、足利義満がやっていることは新しい政策でもなんでもなく、平安時代に藤原道長を筆頭とした藤原氏らがやっていたことと同じです(平安時代は家柄や血筋によって政治秩序が保たれていた!)。よく足利義満は貴族的だという話がありますが、三管領の成立の背景にもそんな貴族的な思想がありました。

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まとめ

以上、管領と三管領のお話でした!

学校の教科書なんかだと突如として登場する管領ですが、こうして歴史を追ってみると唐突に登場したわけではないことがわかると思います。

まとめると・・・、

各一族の側近秘書だった執事という役職が、将軍家である足利氏の執事に限り「管領」と呼ばれるようになった。(鎌倉時代には得宗北条家の執事のことを内管領と呼んでいたのと似ている!)
足利氏が将軍になると執事の権限も大きくなる一方、それまでの「足利氏の家来」という立場では舐められる事例も発生。そこで、幕府運営の重要ポストとして相応しい呼び名として管領(かんれい)と呼ぶようにした。
足利義満が、足利氏の血筋を頂点に家柄・血筋を使った一族の序列を定め、特定の一族しか重要なポストに就けなくした。特に管領は畠山・斯波・細川の3氏しかなることができず、この3氏は三管領(さんかんれい)と呼ばれた。(三管領は、後の応仁の乱のキーパーソンになる!)

簡単に言うと「足利氏が将軍になると、執事という名前だと色々と不都合が生じてきたから管領って言葉使おうぜ!」ってことです。

初期の鎌倉幕府は、御家人の奉公(成果)とそれに対する幕府のご恩(褒美)の関係を大事していたはずですが、貴族のように家柄・血筋を大事にするということはそんな御恩と奉公の関係も希薄化しつつあったのだろうと思います。

本来、家柄や血筋ばかりを重んじる貴族たちの代わりに台頭したはずの幕府だったのに、今はその幕府が貴族と同じことを考えている。源頼朝によって幕府が開かれてから200年前後が経過していますが、この記事を書いていると時代の流れを痛感せざるを得ませんでした。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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