南北朝時代の主人公!新田義貞を徹底紹介してみる【その生涯、性格や足利尊氏との因縁の関係を探る】

今回は、鎌倉幕府滅亡の立役者である新田義貞(にったよしさだ)について紹介します。

 

 

新田義貞は、鎌倉時代末期〜南北朝時代に活躍した人物。同時期に楠木正成や足利尊氏という有名人がいるので影の薄い存在ですが、新田義貞はこの2人に並ぶ当時の主役となる人物の一人です。というわけで、新田義貞のこともぜひ知ってもらえたらと思い、この記事を書くことにしました。

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弱小一族の新田氏

新田義貞の本拠地は「新田荘」と言って、今でいう群馬県太田市あたりにありました。(群馬県と埼玉県の境界らへん)

 

そして、その東隣には「足利荘」がありました。足利氏の所領です。

 

 

新田氏も足利氏もルーツを辿ると同じ源氏であり、両者は良くも悪くも密接な関係にありました。足利氏と新田氏に明確な主従関係はなかったようですが、立場としては足利氏の方が上でした。というのも、足利氏は鎌倉幕府のボスである北条氏との血縁関係があったからです。

 

 

1333年時点で、新田義貞が無位無官だったのに対して、足利尊氏は低いながらも従五位上という位と官位を与えられていました。このことからも新田義貞がいかに力のない一族だったかがわかります。

裏切り

1331年〜1333年にかけて、倒幕を目指す後醍醐天皇と鎌倉幕府の間で激しい戦いが続いていました。これを「元弘(げんこう)の乱」と言います。

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1333年2〜3月、新田義貞は幕府軍の一員として河内の千早城攻略に向かいます。千早城は楠木正成が籠城していたお城。守りが堅く幕府軍は大苦戦を強いられます。

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ところが、新田義貞は千早城の途中、理由をつけて地元の新田荘へ帰還してしまいます。その後1333年5月、新田義貞は関東にて挙兵し、鎌倉を攻め滅ぼしました。

 

 

詳しい経緯は不明ながらも、千早城で戦っている間に後醍醐天皇側となんらかの接触があったと考えられています。太平記では、後醍醐天皇の息子だった護良親王(もりよししんのう)と接触したと書かれています。

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元々、新田氏は北条氏から冷遇されており、新田義貞が幕府を裏切り理由は色々とあったのですが、直接のきっかけは1333年4月のとある事件だと言われています。

 

 

先ほど紹介した楠木正成の篭る千早城の戦い。この戦いが想定以上に長期化し、幕府は軍費の捻出に迫られました。そこで幕府は新田荘に対して法外な年貢を要求しますが、新田義貞はこれに激怒し、幕府の人間の一人を斬り殺し、もう一人を幽閉してしまいます。

 

この事件をきっかけに一気に幕府と新田義貞の関係が悪化。幕府軍が新田義貞を討伐するという話も流れると、遂に新田義貞は幕府に対して挙兵します。1333年5月の話です。

 

 

こうして、新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした人物としていよいよ歴史の表舞台に登場することになったのです。同じ頃、京では足利尊氏が同じく幕府から寝返り、六波羅探題を滅ぼしていました。

鎌倉攻め

挙兵した新田義貞は新田荘から南下し鎌倉を目指します。最初は少なかった兵力は、進軍中に次々と増え、途中で敵を撃破しながら鎌倉に到着した頃には大軍となっていました。

 

 

南下の途中、新田義貞は足利尊氏の息子の足利義詮(あしかがよしあきら)と合流しています。この合流から、同時期に幕府から寝返った足利尊氏との連携があったものと考えられます。この足利義詮の存在は、後に新田義貞の運命を大きく変えることになります。

 

 

いよいよ鎌倉に侵攻する新田義貞ですが、鎌倉は南を海、ほか三方を山に囲まれた天然の要塞です。攻めあぐねた新田義貞は、一旦鎌倉の南に向かいそこから海沿いに進み、由比ヶ浜から鎌倉への侵入を試みます。

 

 

が、海沿いを進むということは敵の水軍(船)から弓矢を受けるということ。闇雲に進軍することはできません。そこで新田義貞は考えます。

 

 

「そうだ。困った時は神に祈ろう!!」(ドンっ!!!!!!)

新田義貞は稲村ヶ崎という場所で黄金で飾った剣を捧げ、「どうか道を開きたまえ」(超訳)と祈りました。なんということでしょう。祈った途端、引き潮で水が引いていき、陸から話された敵の水軍は無力化してしまいました。この時の様子がこちら

【新田義貞が剣を捧げる様子】

 

これは太平記に書かれている話で流石に逸話だと思いますが、引き潮のタイミングを狙って海岸沿いを攻めたことは本当かもしれません。何れにしても新田義貞は鎌倉への侵入に成功します。

 

 

鎌倉は天然の要塞ですが、逆に考えれば「一旦敵に侵入されたら袋叩きにされやすい」ということ。逃げ場を失った女子供らは次々と命を落とし、戦後の鎌倉はどこを見渡しても埋め尽くされた屍の山、そして野犬がそれを食い漁るというまさに地獄絵図と化しました。

 

この凄惨で壮絶な戦いに勝利した新田義貞は北条氏を滅ぼし、鎌倉幕府はここに滅亡することになります。1333年5月でした。鎌倉攻めの詳細については以下の記事で紹介していますので合わせてどうぞ。

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こうして六波羅探題と鎌倉幕府が滅び、世は後醍醐天皇による新しい政治いわゆる「建武の新政」の時代へと移っていきます。

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【悲報】新田義貞、手柄を奪われる

壮絶な戦いを制した新田義貞でしたが、実は本当の戦いはここから。次の戦いは足利尊氏との鎌倉制圧の手柄をめぐる争奪戦。武器ではなく政治による戦いです。

 

 

源氏の血を引く新田義貞は、自らが鎌倉の支配者だと言わんばかりに一緒に戦ってくれた武士たちに恩賞を与えます。しかし、京にいる足利尊氏が鎮守府将軍という高い地位を得ると、人々はこう考えます。

 

 

鎌倉攻めで活躍した武士たち「京に行って足利尊氏を頼って、恩賞をもらった方がコスパ良くね?」

 

こうして新田義貞の元から次々と人は離れ、関東では新田義貞よりも尊氏の息子の足利義詮を担ぐ動きが活発になります。さらに1333年6月には鎌倉を離れ、京へ向かいます。原因は不明ですが鎌倉で何かトラブルがあったのではないかと言われています。(この辺の話は諸説ある。)

 

 

何れにせよ、新田義貞が鎌倉を離れたことで鎌倉は足利尊氏と息子の義詮の手中に入ることになりました。

 

 

この事件をきっかけに足利尊氏と新田義貞の関係は悪化。両者は後に敵同士となり争うことになります。(ちなみに、新田一族も内部で新田義貞派と足利尊氏派に分裂していました。すごい複雑!!)

 

 

京に向かった後の新田義貞の行動はよくわかってはいませんが、足利尊氏のような高い役職に就くことはありませんでした。新田義貞は確かに鎌倉幕府滅亡の功労者でしたが、足利尊氏と比較するとその後の待遇はなんとも微妙なものでした。

後醍醐天皇「足利尊氏と新田義貞戦わせたろ」

さて、後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、その政治は武家を蔑(ないがし)ろにするものでした。活躍した者にまともな恩賞が与えられず、多くの者が不満を覚え、新たな武家政権を求めるようになります。建武の新政については以下の記事で詳しく紹介していますので、合わせてご覧ください!

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そこで後醍醐天皇への反対勢力として担ぎ出されたのが足利尊氏。足利尊氏は京において武士たちを束ねる存在となっており、人々は尊氏に大いに期待をしました。

 

 

そんな中、北条氏残党が蜂起し鎌倉を襲う事件がありました。中先代(なかせんだい)の乱と言い、1335年7月に起こります。

 

足利尊氏は後醍醐天皇の命令に背き、独断で鎌倉へ出兵。乱を収めた後、鎌倉で活躍した武将に天皇の許可なく恩賞を与え始めます。足利尊氏の力を恐れた後醍醐天皇は、足利尊氏に勝手な行動をしないよう諌めますが、これに対して尊氏は「京では新田義貞らが俺の命狙ってるって噂じゃん!?そんなん怖くて戻れねーから!」と反論。

 

 

そうこうしているうちに両者決別し、いよいよ武力闘争に発展しました。ここで尊氏の対抗馬として登場したのが新田義貞でした。

 

 

既に書いたように、鎌倉攻めの戦後処理により尊氏と義貞の関係は悪化しており、後醍醐天皇はこれを利用します。恩賞や官位をチラつかせて新田義貞を大将とし、鎌倉に向けて兵を送ります。源平合戦の際に、後白河天皇が源義経を兄の源頼朝と戦わせたのと似た構図です。

 

 

その後、両者は箱根のあたりで激突。しかし、新田義貞は敗北。

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勝利した足利尊氏は京を目指しますが新田義貞は楠木正成・北畠顕家ら猛将と協力し足利尊氏を西国に追放します。しかし、足利尊氏は九州で後醍醐天皇に対する不満分子を集めて大軍を引き連れて再起。再び京を目指して進軍します。

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楠木正成「新田義貞の首を足利尊氏に渡したろ」

「はっ!?」と思うかもしれませんが、足利尊氏を九州へ追放した頃、楠木正成は足利尊氏とこれ以上戦っても勝ち目はないと考え、新田義貞の首を差し出すことで尊氏を和睦してはどうか?と後醍醐天皇に提案したという記録があります。この記録の真偽については諸説あり、事実かどうかはわかりませんが、同じ味方同士でも楠木正成と新田義貞の関係は微妙だった可能性があります。

 

 

鎌倉幕府を滅亡させて以降、手柄を奪われたり政治に利用されたり味方に殺されそうになったり、新田義貞には不幸が連続して襲い掛かります・・・。しかし、名もなき弱小一族だった頃を考えれば、後醍醐天皇から大将を任されたりと著しい出世を遂げていたとも考えられるので難しいところ。

湊川(みなとがわ)の戦い

1336年5月、今でいう神戸市あたりで湊川の戦いが起こります。これは京を目指す足利尊氏とそれを阻止したい新田義貞・楠木正成の戦いです。

 

 

湊川の戦いは天下分け目の大決戦で非常に熱い戦いです。(特に楠木正成がアツすぎる!)詳細は以下の記事で紹介していますので、合わせて読んでみてほしいです。

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この戦いに、またもや新田義貞は敗北。ちなみに、この戦いで後醍醐天皇側の最強武将だった楠木正成は命を落としています。ここでも新田義貞は良いところなし。さらなる不幸が義貞を襲います。

 

 

当時、天皇家の血統は大きく「大覚寺統(だいかくじとう)」「持明院統(じみょういんとう)」の2つに分かれており、両者は激しく対立していました。後醍醐天皇は大覚寺統であり、一方の足利尊氏は持明院統の光厳上皇と協力し後醍醐天皇と戦っていました。つまり、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いは実は天皇家同士の主導権戦いでもあったのです。

 

 

湊川の戦いで勝利した足利尊氏は京に入ります。そして1336年9月、尊氏の後ろ盾となっていた光厳上皇の弟が光明天皇として即位。しかし、天皇即位に必要な三種の神器は後醍醐天皇が持っています。(この頃、後醍醐天皇は尊氏を恐れて比叡山に逃げていた!)

 

 

1336年11月、交渉の末、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦。和睦の条件の1つには「後醍醐天皇が三種の神器を光明天皇に渡すこと」というのもあったようです。

 

 

・・・足利尊氏と後醍醐天皇が和睦したことで、新田義貞の立場は非常に苦しいものになります。というのも、新田義貞は足利尊氏の対抗馬としてその地位を築いたわけで、尊氏が和睦してしまうとその存在価値がなくなってしまうからです。

 

 

新田義貞は自分に何も知らせずに尊氏と和睦した後醍醐天皇に大激怒。京へ向かおうとする後醍醐天皇を3000騎の兵で囲み、脅します。そこで、両者の間でこんな話がまとまりました。

 

 

後醍醐天皇「私が天皇のまま尊氏と和睦すれば、義貞は朝敵となり滅ぼされるだろう。そこで、私が尊氏と和睦するのと同時に私は譲位して、皇太子の恒良(つねよし)親王を即位させ、義貞に託そうと思う。そして、義貞は新帝と共に北陸へ向かい政治をとりおこなって欲しい。その代わり、隙あらば尊氏に降った私の屈辱を果たすために計略を立てるのだ」

 

 

・・・話が複雑なのでちょっと解説します。

 

持明院統では既に光明天皇が即位していました。それなのに後醍醐天皇は自分の息子を天皇にすると言っています。この矛盾した行動が意味するのは「後醍醐天皇は和睦の材料として三種の神器を尊氏にチラつかせていたけど、実際に皇位を持明院統に譲る気はなかった!」ということになります。

 

 

さらに!!!後醍醐天皇は翌月の12月に吉野に逃亡して南朝を開き、光明天皇も恒良親王も否定した上で自ら天皇として君臨しています。つまり、後醍醐天皇は新田義貞に政治を任せる気など最初からなかったんです。いやー、ほんと凄いですね。言うことやること全部嘘!wwこれこそまさに二枚舌外交というやつでしょうか。

 

 

何れにしても、この大胆な提案で新田義貞の怒りは収まり、義貞は北陸へと向かいます。1333年10月の話でした。11月に和睦したのでその直前の話です。

 

*新田義貞が北陸に赴いた理由は実は諸説あるようですが、ここでは太平記の話を採用しています。

なんとも言えない最期

新田義貞はまず越前の支配を目指しますが、そのためには足利尊氏が越前守護に任命していた斯波高経(しばたかつね)を倒す必要があります。

 

 

新田義貞は金ヶ崎城(今でいう福井県敦賀市)に入り、恒良親王の名を使って各地に尊氏打倒を呼びかけます。

 

 

しかし、兵は思うように集まりません。金ヶ崎城は足利尊氏軍の猛攻を受け続けるも、かなりの善戦をしますが、遂に城内の食料が底をつき陥落。戦いは1333年1月に始まり3月に城は落ちてしまいました。この時、恒良親王は捕らえられ京に幽閉され、新田義貞は辛うじて城を脱出し再起を目指します。

 

 

その後も、尊氏に批判的な人々を集め、斯波高経の拠点である越前国府(今の福井県武生市)を落とし、さらに進軍を進め斯波高経を追い詰めますが、その途中に奇襲を受け自害することになります。

 

 

最期、新田義貞は追い詰められ部下たちから「義貞公だけでもお逃げください」と進言されるも「部下を見捨てて私だけ助かるなどできぬ!!!」とこれを無視。その後馬を矢で射抜かれ、新田義貞は転倒。そして起き上がろうとしたところを眉間を矢で射抜かれ、その後すぐさま刀を抜き自害したと言われています。

 

 

これまでの活躍の割にはなんともあっさりとした最期です。太平記では新田義貞の最期を

「大将であるのなら行動を慎むべきであるのに、それほど重要ではない戦いに赴き、油断して身分の低い敵兵に討ち取られた。新田義貞の運が尽きたためだとはいえ、これはとてもがっかりな話である」

 

と非常に辛辣な文言で表現しています。

 

 

そして義貞の首の扱いも酷くて、京に送られた首は「最大の朝敵であり、勇猛なライバルであった」として獄門に掛けられました。楠木正成の首が丁寧に親族に渡されたのとは月とスッポンの違い。京には新田義貞に助けられた人々も多くいて、人々は義貞の首を見て悲しみに包まれたと言われています。

 

 

うーん、最初から最後までどうもスッキリしない・・・。なんか新田義貞のことが可哀想になってきた(汗。

新田義貞の性格・人柄

新田義貞は、イメージとしては源平合戦時の木曽義仲(きそよしなか)に非常に近いです。性格どころかやっていることもとても似ています。(後醍醐天皇に裏切られたり北陸に逃げたり)

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今回は、源平合戦の主役の1人であり、短命ながらも激動の生涯を送った木曽義仲(きそよしなか)という人物について紹介したいと思います。 木曽義仲の生い立ち 木曽義仲は、乳飲み子の頃から波乱万丈な人生を送ることになります。木曽義仲が2歳の時、父を殺され、木曽義仲自身も命を狙われることになったのです。しかしながら、いろんな人の助けがあって信濃国へと逃れる...

 

最期のシーンからもわかるように非常に部下想いで義理に熱い男であり、一方で田舎育ちだったこともあってとてもぶっきらぼうな性格だったようです。また、知略にはあまり長けておらず、政治駆け引きも得意ではありませんでした。

 

 

鎌倉攻めで大活躍をしたものの、その後は後醍醐天皇と足利尊氏の間で翻弄され、主導権を握ることはありませんでした。(これは義貞の性格よりも義貞の低い出自に関係することかもしれませんが)

 

 

新田義貞の義理に熱く不器用なその人柄はまさにTHE鎌倉御家人という感じがします

 

 

鎌倉攻め以降の新田義貞の生涯はお世辞にも幸せだったとは言えないかもしれません。しかし、鎌倉幕府を滅ぼしたことや敗北が続くも足利尊氏の対抗馬として強い力を持っていたことは事実であって、田舎の弱小一族がここまで歴史に名を残すことになったことは本当に凄いことです。楠木正成、足利尊氏という天才たちと比べれば確かにその存在は霞んでしまいますが、無名だった新田義貞がここまで歴史に名を残したことは評価されて然るべきだと思います。

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