
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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「後醍醐天皇といえば、建武の新政を2年で失敗した天皇」——そんなイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。
でも実は、武力で鎌倉幕府を倒し、武士の時代に「天皇親政」を取り戻した天皇は、日本史上ほぼ後醍醐天皇ただ一人なのです。
建武の新政の”失敗”も、見方を変えれば「時代が早すぎた理想家」の挫折とも言えます。2度の挙兵失敗、隠岐への島流し、それでも諦めずに南朝を開いた執念——。今回はそんな後醍醐天皇の生涯を、性格・政治・息子たち・最期までまるごとわかりやすく解説していきます。
後醍醐天皇とはどんな人?
- 第96代天皇(1288年〜1339年)。鎌倉時代末から南北朝時代を生きた天皇。
- 鎌倉幕府を倒し、建武の新政で天皇親政を復活させた唯一の天皇。
- 武士の反発で京都を追われ、吉野に逃れて南朝を開き、最後まで戦い続けた。
醍醐天皇(第60代・平安時代)は「延喜の治」で有名な天皇で、後醍醐天皇とは約400年離れた別人です。
後醍醐天皇は、この醍醐天皇の「天皇自らが政治を行う」スタイルに憧れていました。そのため「後の世の醍醐天皇」という意味で「後醍醐」という尊称が、本人の遺言によって贈られました。「同じ名前=同じ天皇」ではないので注意です。
後醍醐天皇(1288〜1339年)は、第96代の天皇です。在位は1318年から1339年までで、鎌倉時代の末期から南北朝時代の初期にかけて生きました。
当時の日本は、鎌倉幕府が政治の実権を握り、天皇は形だけの存在になっていました。後醍醐天皇は、この状況に強い不満を持ち、「もう一度天皇が政治を行う世の中に戻したい」という強い意志で動き始めます。
そして実際に鎌倉幕府を倒し、わずか2年余りではあるものの建武の新政と呼ばれる天皇親政を実現させたのです。失敗後も諦めず、京都を追われて吉野に逃れ、そこで南朝を開きました。最期まで「真の朝廷はここにある」と訴え続けた、執念の天皇です。

後醍醐天皇って、ひとことで言うとどんな人なの?テスト前だから簡単に教えて!

ひとことでいうと「天皇による日本再建を夢見た不屈の革命家」だよ!鎌倉幕府を倒して天皇中心の政治を取り戻そうとした、日本史でほぼ唯一の天皇なんだ。覚えるのは「鎌倉幕府を倒した」「建武の新政」「南朝を開いた」の3点でOK!
後醍醐天皇の性格

後醍醐天皇の性格をひとことで表すと、「強烈な理想主義」と「諦めない執念」です。普通の天皇であれば、武家政権が安定している中で穏便に時を過ごすところ。ところが後醍醐天皇は、自ら武装勢力を動かして幕府を倒すという、過激な行動に踏み切ったのです。
その背景には、若いころから学んでいた「宋学(朱子学)」の影響がありました。宋学では「天皇こそが世の中心」という大義名分を重んじます。後醍醐天皇は、この思想を本気で信じ、実行に移そうとした稀有な天皇でした。
「大義名分論」とは、「その地位・役割にふさわしい行動こそが正しい」という儒教(宋学)の考え方です。
わかりやすく言うと——どんなに仕事ができる部長でも、社長の決裁権を奪ってはいけない。社長が社長らしく振る舞うのが正しい秩序だ、というイメージです。
日本に当てはめると「天皇が最高支配者であるのは天の道理。武士が政治を仕切るのは秩序を乱す行為だ」となります。後醍醐天皇はこの論理を「倒幕の大義」として掲げ、幕府に抵抗することを「正義の戦い」として正当化したのです。
■ 後醍醐天皇がすごい3つの理由
すごい点①:鎌倉幕府を自ら武力で倒した唯一の天皇
日本の歴史の中で、武家政権を自ら倒した天皇は、後醍醐天皇のほかにいません。150年近く続いた鎌倉幕府を打倒したという功績だけでも、後醍醐天皇は別格の存在です。
すごい点②:2度の挙兵失敗・隠岐への島流しでも折れない不屈の精神
1324年の正中の変、1331年の元弘の変と、後醍醐天皇は2度の倒幕計画に失敗し、ついには隠岐(島根県沖の島)に流されてしまいます。それでも諦めず、島を脱出してまた挙兵——。普通の人ならとっくに心が折れる場面で、なお戦い続けた精神力は圧巻です。
すごい点③:死の直前まで「朝廷の回復」を諦めなかった執念
建武の新政が崩壊し、京都を追われた後も、後醍醐天皇は吉野で南朝を開き、北朝(足利方)と戦い続けました。最後の遺言は「玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」——つまり「私の体は吉野の山に埋まっても、魂は京都の北の空を見続けるぞ」という、執念の言葉でした。

鎌倉幕府など、天皇の前では路傍の石よ!武士ごときに政(まつりごと)を任せてたまるか!
後醍醐天皇は、倒幕の計画を練るために無礼講と呼ばれる宴会を開いたと伝わっています。身分の上下を取り払い、僧侶や貴族たちと酒を酌み交わしながら、本音で「幕府を倒すには?」と相談していたとされます。
現代でも「無礼講で行こう!」という言葉が使われますが、その語源はここだと言われています。後醍醐天皇は、本気で世の中を変えるためなら、しきたりを破ることも辞さない柔軟さを持っていたのです。
鎌倉幕府打倒へ(生涯前半)
ここからは、後醍醐天皇が即位してから鎌倉幕府を倒すまでの「生涯前半」を、時系列でたどっていきます。「正中の変→元弘の変→隠岐配流→隠岐脱出→鎌倉幕府滅亡」という流れを押さえれば、後醍醐天皇の生涯前半はバッチリです。
■ 即位と倒幕の決意
後醍醐天皇が即位したのは1318年、31歳の時でした。当時の天皇位は、大覚寺統と持明院統という2つの皇統が交互に継ぐ「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という、いびつな仕組みになっていました。これは鎌倉幕府の調停で決められたもの。要するに「天皇家のことまで幕府に決められている」状態だったのです。

後醍醐天皇は大覚寺統の出身。本来であれば自分の子に皇位を継がせたいところですが、両統迭立のせいで思うようにいきません。「このままでは天皇家は幕府の傀儡で終わる」——そう考えた後醍醐天皇は、ついに鎌倉幕府打倒を決意します。
■ 正中の変(1324年)・元弘の変(1331年)
1324年、後醍醐天皇は最初の倒幕計画を立てます。これが正中の変です。しかし計画は事前に幕府にバレてしまい、関係者の処分だけで終わってしまいました(後醍醐天皇本人は無罪放免)。
普通ならここで諦めるところ。ところが後醍醐天皇は、なんと7年後の1331年、再び挙兵します。これが元弘の変です。京都を脱出した後醍醐天皇は、笠置山(京都府)に立てこもって戦いますが、ここでも幕府軍に敗北。ついに隠岐へ流罪となってしまいます。


2回も失敗して島流しまでされたのに、どうして後醍醐天皇はあきらめなかったの?

それが後醍醐天皇のスゴいところだよ!「天皇こそが日本の頂点」という宋学の思想を本気で信じていたから、何度失敗しても揺るがなかったんだ。この執念が、最終的に鎌倉幕府を倒す原動力になったんだよ。今でいうと、起業に2回失敗しても「絶対に世の中を変える」って言い続ける起業家みたいなイメージかな!
■ 楠木正成・新田義貞との出会いと鎌倉幕府滅亡(1333年)
隠岐に流された後醍醐天皇でしたが、息子の護良親王や、楠木正成といった味方が、各地で倒幕運動を続けてくれました。

とくに楠木正成は、河内国(大阪府)の千早城に少数で立てこもり、幕府の大軍を翻弄したことで有名です。わずか数百人の兵で何万もの幕府軍を数ヶ月間食い止めた「千早城の戦い」は、落とし穴・落石・丸太落としといったゲリラ戦術を駆使した、日本史上屈指の奇策として語り継がれています。この囮(おとり)作戦のおかげで幕府軍の主力が拘束され、各地での倒幕の動きが広がっていきました。

そして1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出します。このとき後醍醐天皇を救ったのが、伯耆国(鳥取県)の豪族・名和長年でした。長年は隠岐から脱出した後醍醐天皇をかくまい、船上山(鳥取県)の山城で幕府軍から守り抜きます。「力ある者が天皇を救う」——まさに英雄譚ともいえる場面です。これを合図に、足利尊氏(当時は幕府方の有力武将)と新田義貞が次々と倒幕側に寝返り、ついに鎌倉幕府は滅亡します。後醍醐天皇は念願の京都に戻り、天皇親政——つまり建武の新政を始めるのです。

■ 楠木正成との最後の別れ——湊川の戦い(1336年)
後醍醐天皇と楠木正成の関係には、感動的な「最後の場面」があります。1336年、足利尊氏が九州から大軍を率いて京都へ攻め上がってくると、楠木正成は後醍醐天皇に意外な作戦を進言しました。
「一度、尊氏に降伏したふりをしましょう。敵が油断したところを背後から突けば、勝機があります。」——正成の見立てでは、正面からぶつかれば絶対に負けるというものでした。しかし後醍醐天皇はこの策を拒否します。「天子が臣下に降伏するなど、大義名分に反する」として、正攻法での迎撃を命じたのです。
正成は「この戦いは死ぬ」とわかっていながら、天皇の命に従い兵庫の湊川で足利軍と激突します。圧倒的な兵力差の前に敗れた正成は、弟の正季と向き合い、最後の言葉を交わします。
弟の正季が「来世には何になりたいか?」と尋ねると、正成は「七生報国。七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を討ちたい」と答えたと伝わります(太平記)。兄弟はそのまま差し違えて自害。享年43歳(推定)。

後醍醐天皇の理想を命懸けで支えた忠臣の死は、南朝の勢力縮小にも大きく影響しました。明治時代には「忠君愛国の象徴」として讃えられ、神戸市の湊川神社に楠木正成が祀られています。
建武の新政とその失敗
1333年、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、京都に戻ってすぐに天皇親政を始めます。翌1334年に「建武」と改元し、これが建武の新政(1334〜1336年)と呼ばれるようになりました。「建武」というのは、後醍醐天皇が新たに定めた元号で、「武力で世を建て直す」という意気込みが込められていました。
後醍醐天皇は、武家政権を一切認めず、すべての政治決定を天皇自身が行うという、徹底した「天皇親政」を目指しました。征夷大将軍は置かず、土地の所有権も天皇の綸旨(天皇の命令書)が出ないと認められない——というほど徹底ぶりでした。
ところが、この建武の新政はわずか2年余りで崩壊してしまいます。なぜ失敗したのか、3つの理由を見ていきましょう。
■ なぜ失敗したのか?
失敗理由①:武士へのご褒美(恩賞)が少なすぎた
武士たちは、命をかけて鎌倉幕府を倒したのに、後醍醐天皇から十分なご褒美(恩賞)をもらえませんでした。土地の認定も、天皇の綸旨が必要で手続きが煩雑。「自分たちが鎌倉幕府を倒したのに、なぜこんな扱いなんだ!」と武士たちは大きな不満を抱きました。
失敗理由②:公家中心の政治で武士が冷遇された
後醍醐天皇は、政治の中枢に公家(貴族)を多く登用しました。武士たちは「自分たちが世の中を動かしている」と思っていたのに、政治の主役は公家——。これは武士たちのプライドを傷つけました。
さらに、すでに鎌倉時代から150年続いていた武士政権の慣習を、いきなり律令制(天皇中心の古い制度)に戻そうとしたため、各地で大混乱が起こります。当時の風刺文「二条河原の落書」には、「このごろ都にはやるもの、夜討、強盗、にせ綸旨……」と、混乱した世相が皮肉られています。
失敗理由③:足利尊氏の離反・武士勢力の反乱
武士たちの不満を吸い上げる形で、ついに鎌倉幕府打倒の立役者だった足利尊氏が反旗を翻します。1335年、関東で起きた「中先代の乱」(北条氏の残党による反乱)を鎮圧するため鎌倉に下った足利尊氏は、そのまま京都に戻らず、後醍醐天皇に反旗を翻したのです。
1336年、足利尊氏は京都を制圧。後醍醐天皇は京都を脱出して吉野(奈良県)に逃れ、ここに南朝を開きます。こうして建武の新政は、わずか2年余りで幕を閉じたのです。


後醍醐帝の夢は大きすぎた……。だが武士たちの暮らしを守れるのは、もはや我ら武家しかおらぬ。武士の世は俺たちが守る!
📌 世界史とのつながり:後醍醐天皇が建武の新政を進めていた1330年代のヨーロッパでは、ちょうど百年戦争(1337〜1453年)が始まろうとしていた頃。日本では「天皇 vs 武士」、ヨーロッパでは「イギリス vs フランス」と、洋の東西で大きな戦乱が同時に起こっていた時代です。
後醍醐天皇の息子たち
後醍醐天皇は、皇子(息子)の数がとても多かったことで知られます。記録に残るだけでも16人以上の皇子がいたと言われ、その多くが南朝のために各地で戦い続けました。ここでは、とくに有名な4人の息子たちを紹介します。
■ 護良親王:征夷大将軍に任じられた悲劇の皇子
護良親王は、後醍醐天皇の3男。元弘の変では、父が隠岐に流された後も各地を転戦し、倒幕の中心人物として戦い続けました。鎌倉幕府滅亡後は、その功績により征夷大将軍に任じられます。

しかし、足利尊氏と激しく対立。やがて尊氏の策略で捕らえられ、鎌倉に幽閉されてしまいます。そして1335年、中先代の乱の混乱の中、尊氏の弟・足利直義の命令によって暗殺されたと伝わります。享年28歳。父・後醍醐天皇の理想を背負った、悲劇の皇子でした。
■ 懐良親王:九州で南朝を支えた征西将軍
懐良親王は、後醍醐天皇の皇子の中でもとくに長寿で、南朝の勢力を九州で大きく広げた人物です。征西将軍に任命され、まだ幼いころ(7〜8歳前後とされる)に九州に派遣されました。
九州では、肥後(熊本県)の菊池氏と組み、北朝方の勢力と粘り強く戦い続けました。1361年には大宰府を占領し、九州のほぼ全域を南朝の支配下に置くという、後醍醐天皇の息子の中でも最大級の戦果を上げています。中国(明)からも「日本国王」として認められるほどの実力者でした。
■ 宗良親王・成良親王:歌人として、また鎌倉将軍として
宗良親王は、後醍醐天皇の皇子の中では珍しく、和歌の達人として知られた人物。父の死後も信濃(長野県)を中心に南朝のために戦い、晩年は和歌集『新葉和歌集』を編纂しました。「武力で戦う皇子」とは違った形で、南朝の文化的支柱となった人物です。
成良親王は、建武の新政の時代に「鎌倉将軍」として鎌倉に派遣された皇子。足利尊氏の弟・直義の補佐を受けて鎌倉府の長を務めましたが、足利尊氏の離反で京都に戻されました。後に北朝方に幽閉され、若くして亡くなったとされます。
南朝の樹立と吉野への脱出
1336年、足利尊氏との戦いに敗れた後醍醐天皇は、京都を脱出して吉野(奈良県南部)へと逃れます。吉野は険しい山々に囲まれた天然の要害で、古くから天皇家ゆかりの土地として知られていました。
このとき、京都では足利尊氏が持明院統の光明天皇を即位させ、新しい朝廷(北朝)を樹立していました。これに対して後醍醐天皇は、京都から持ち出した三種の神器こそが本物だと宣言。吉野に独自の朝廷——南朝を打ち立てたのです。

北朝など偽りの帝じゃ。真の朝廷は、この吉野にあり!神器を持つ我こそが、唯一の天皇である!
■ 南北朝時代の始まり——57年続く動乱へ
こうして、日本に2つの朝廷が同時に存在するという、前代未聞の事態が始まりました。これが南北朝時代(1336〜1392年)です。京都の北朝(持明院統)と吉野の南朝(大覚寺統)は、それぞれ自分こそが正統な朝廷だと主張し、武力衝突を繰り返します。
この南北朝の分裂は、後醍醐天皇の死後も長く続き、57年間にわたって日本中を巻き込む動乱となりました。最終的には1392年、後醍醐天皇のひ孫にあたる後亀山天皇のときに、北朝の後小松天皇へ三種の神器が引き渡されて南北朝合一が成立します。
📌 大覚寺統と持明院統:もともと鎌倉時代後期から、皇位継承をめぐって天皇家が2つの家系に分裂していました。後醍醐天皇は大覚寺統、北朝の光明天皇は持明院統の流れ。両統が交互に天皇を出す「両統迭立(てつりつ)」というルールがあったのですが、後醍醐天皇はこれを破って自分の子孫だけに皇位を継がせようとしたことも、対立の根本原因でした。
後醍醐天皇は、この吉野の地で最期まで「京都奪還」の夢を持ち続けます。次の章では、その最期の様子と死因について詳しく見ていきましょう。
後醍醐天皇の最期と死因
吉野に逃れた後も、後醍醐天皇は息子たちを各地に派遣して南朝の勢力拡大をはかります。しかし、武力でも数でも北朝・足利方が優勢な状況は変わらず、戦況は次第に悪化していきました。そんな中、ついに後醍醐天皇の体にも限界が訪れます。
■ 後醍醐天皇の死因——1339年、吉野で病死
1339年8月16日、後醍醐天皇は吉野の金輪王寺(現在の吉水神社付近とされる)で崩御しました。享年52歳。死因は病死とされていますが、具体的な病名は史料に明記されていません。長年の心労と戦乱の疲れが重なった末の病とも、当時流行していた疫病ともいわれ、現代でも特定はされていません。
後醍醐天皇は、亡くなる直前まで「もう一度京都を取り戻す」という執念を持ち続けました。その思いは、有名な遺言に凝縮されています。
「玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」
意味は「たとえ自分の遺骨がこの吉野の山中(南山)の苔の下に埋まってしまっても、魂は常に京都の御所(北闕)の方を向いていたい」というもの。死してなお京都奪還の夢を捨てない、その執念の強さが伝わってくる名言です。
※この遺言は軍記物語『太平記』の「先帝崩御事」に記されたものです。
遺言の通り、後醍醐天皇のお墓(塔尾陵)は、京都の方角を向いて北向きに作られています。日本の天皇陵は通常、南向きに作られるのが慣例ですが、後醍醐天皇陵だけは例外として北を向いているのです。死後何百年経っても京都を見つめ続ける——まさに後醍醐天皇らしい、執念の象徴と言えるでしょう。

遺骨は吉野の山に埋まっても、魂は京都を向いていたい——本当に最後まで諦めなかったのね。お墓が北向きっていうのも、ぐっとくるエピソードね。

そうなんだよ。明治時代になって「南朝こそ正統な朝廷だった」と公式に認定されたとき、後醍醐天皇の評価は一気に上がったんだ。明治政府は「天皇親政」を掲げていたから、後醍醐天皇の理想は「時代の先を行っていた」って再評価されたんだよ。500年遅れで夢が叶った、とも言えるかもね!
■ 後醍醐天皇の評価はなぜ時代で変わるのか?
後醍醐天皇の評価は、時代によって大きく揺れ動いてきました。室町時代は「建武の新政を失敗させた天皇」として批判的に見る向きもありましたが、南北朝の動乱を題材にした軍記物語『太平記』が民衆の間で広く読まれ、後醍醐天皇は「不屈の戦士」として語り継がれていきます。
転機となったのは江戸時代後期、水戸藩を中心に広まった尊王思想です。「天皇こそが日本の正統な支配者である」という考えが広まり、後醍醐天皇は「武家政権に抗い続けた天皇の鑑(かがみ)」として高く評価されるようになりました。
そして明治維新後、新政府は「南朝こそが正統な皇統だった」と公式に認定。後醍醐天皇は「天皇親政の先駆者」として顕彰されます。明治天皇は吉野の如意輪寺に使者を送り、後醍醐天皇陵を整備させました。後醍醐天皇が抱いた「天皇が直接政治を行う」という理想は、550年の時を経て明治維新という形で実現したとも言えるのです。
📌 「南朝正統論」は現代の教科書では?:現在の歴史教科書は「どちらが正統か」を断定しない中立的な立場をとっています。南北朝両方の存在を記述しつつ、正統性の問題には踏み込まない形です。これは明治〜戦前の「南朝正統」から戦後に修正された結果です。
後醍醐天皇が歴史に与えた影響
後醍醐天皇の挑戦は「失敗」で終わったとよく言われます。しかし、その挫折は日本史の流れを根底から変えた、5つの大きな遺産を後世に残しました。
影響①:室町幕府の誕生
後醍醐天皇が建武の新政に失敗したことが直接の引き金となり、足利尊氏が1338年に征夷大将軍に就任して室町幕府を開きます。逆に言えば、後醍醐天皇がいなければ、室町幕府は存在しなかったと言えるほど、その影響は絶大でした。
影響②:57年間続く南北朝の動乱
後醍醐天皇が吉野に南朝を開いたことで、日本に2つの朝廷が並立する前代未聞の事態が生まれました。この南北朝の動乱は1392年まで57年間続き、武士社会・土地制度・文化にいたるまで、日本のあらゆる面に深く影を落としました。
影響③:「悪党」と新興武士の台頭——下剋上の先駆け
後醍醐天皇の倒幕運動は、それまで歴史の表舞台に立てなかった新興の武士勢力(当時「悪党」と呼ばれた)を引き上げるきっかけとなりました。楠木正成はその代表格です。鎌倉幕府の御家人制度によらない、実力ある者が世を動かす——この流れは戦国時代の「下剋上」の源流のひとつと言えます。
影響④:尊王思想から明治維新へ——550年後に実現した夢
「天皇こそが政治の中心であるべきだ」という後醍醐天皇の思想は、江戸時代の尊王論に受け継がれ、やがて明治維新の「王政復古」へとつながります。明治政府が掲げた「天皇親政」は、後醍醐天皇が抱いた理想の550年後の実現とも言えるのです。
影響⑤:三種の神器をめぐる「正統性論争」
「北朝と南朝、どちらが本物の天皇か?」——この問いは、三種の神器の所在を焦点に展開されました。後醍醐天皇が「神器を持つ我こそが唯一の天皇だ」と主張したことで、三種の神器は天皇の正統性を証明する絶対的なシンボルになります。この概念は現在の皇室にも受け継がれており、今日まで続く「天皇とは何か」という問いの原点のひとつとなっています。

「失敗した天皇」という印象が強かったけど、室町幕府の誕生から明治維新まで影響が続いているなんて、すごいわね……。

そうなんだよ。後醍醐天皇の行動は「時代に負けた革命」だったかもしれないけど、その波紋は数百年先まで広がり続けたんだ。これが歴史の面白さだよね!
後醍醐天皇ゆかりの地
後醍醐天皇の激動の生涯は、日本各地に足跡を残しています。ゆかりの地を訪れると、教科書の文字が「生きた歴史」として感じられるはずです。
■ 吉野山・如意輪寺(奈良県吉野町)——南朝の都・後醍醐天皇陵
後醍醐天皇最大のゆかりの地といえば、吉野山です。1336年に南朝を開いてから崩御(1339年)まで過ごした地であり、山中の如意輪寺には後醍醐天皇陵(塔尾陵)が残ります。
前述の通り、この陵は遺言に従い北向き(京都の方角)に作られており、通常の天皇陵とは逆向きという異例の構造です。吉野山は春の桜の名所としても有名で、観光の合間に南朝の歴史を感じることができます。如意輪寺には後醍醐天皇の木像や遺品も残されており、南北朝時代を伝える貴重な史跡です。
📌 如意輪寺の基本情報(2026年5月確認):奈良県吉野郡吉野町吉野山1024。吉野山の中千本エリアに位置。後醍醐天皇陵の参拝は境内で可能。拝観については如意輪寺公式サイトでご確認ください。
■ 笠置山(京都府笠置町)——元弘の変で挙兵した山城
1331年の元弘の変で、後醍醐天皇が京都を脱出して立てこもったのが笠置山(京都府相楽郡笠置町)です。標高324mの山頂に自然の岩場を利用した山城を築き、幕府軍と対峙しましたが、わずか1ヶ月ほどで落城。ここで後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐へ送られることになります。
現在は笠置山自然公園として整備されており、後醍醐天皇が潜んだとされる岩穴や行宮跡などが残っています。木津川沿いに位置するアクセスしやすい史跡です。
■ 隠岐の島(島根県)——2度の流刑地
後醍醐天皇は1331年〜1333年の約2年間、隠岐の島(島根県隠岐郡)に流されました。本州から約60kmの日本海に浮かぶ諸島で、流人の配流地として古くから使われた地です(後鳥羽上皇もここに流されました)。
隠岐では現在も「後醍醐天皇御腰掛の岩」などゆかりの史跡が残されています。島根県隠岐の島町の黒木御所跡は、後醍醐天皇が滞在したとされる場所で、訪問者が絶えません。なお、後醍醐天皇が「島を脱出した」という事件は日本史上まれな出来事として知られており、当時の脱出ルートも研究者の間で諸説あります。
■ 船上山(鳥取県)——隠岐脱出後の拠点
隠岐を脱出した後醍醐天皇をかくまい、山城に迎え入れたのが伯耆国(鳥取県)の豪族・名和長年でした。その拠点となったのが船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)です。標高687mの山頂部に設けられた天然の要害で、後醍醐天皇はここで諸国に向けて倒幕の呼びかけを行い、各地の武士が呼応する糸口となりました。
現在も「船上山千丈のぞき」と呼ばれる断崖の景勝地があり、天然の要塞ぶりを体感できます。後醍醐天皇の「第三の挙兵」の出発点として、歴史ファンに人気の史跡です。
■ 湊川神社(兵庫県神戸市)——楠木正成を祀る忠臣の聖地
後醍醐天皇のために命を捧げた楠木正成を祀る神社が、兵庫県神戸市の湊川神社です。1336年の湊川の戦いで正成が自害した地に建てられ、「楠公さん」の愛称で親しまれています。
明治時代には明治天皇の勅命により正式な神社として整備され、境内には正成の墓所もあります。後醍醐天皇の忠臣中の忠臣として語り継がれる楠木正成の生き様は、今も多くの人を惹きつけてやみません。


修学旅行で奈良に行くんだけど、吉野山って行ける?どんな見どころがある?

吉野山は奈良市内から少し離れていて、修学旅行の定番コースというよりは自由行動向きかな。でも春の桜シーズンは別格の絶景だよ!「日本のさくら名所100選」にも選ばれているし、如意輪寺で後醍醐天皇陵を参拝しながら南朝の歴史を感じられる、歴史好きには外せない場所だね。
まとめ
ここまで、後醍醐天皇の生涯を性格・政治・息子たち・最期までまるごと見てきました。最後に、生涯の流れを年表で振り返ってみましょう。
後醍醐天皇・南北朝時代についてもっと詳しく知りたい人へ
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:建武の新政は「1334(人さんよ)建武の新政」と覚えよう(1333年に親政開始・1334年に「建武」と改元)。「正中の変=1324年」「元弘の変=1331年」は、年号の下2桁が「24→31」と続けて覚えるのがおすすめ。皇子の「もりよし(もりなが)=征夷大将軍/かねよし=征西(九州)」は職名と土地でペアにすると混同しない。

後醍醐天皇の問題って多すぎてどれを最優先に覚えればいいの?テスト前で時間がないんだけど……。

時間がないなら「建武の新政=1334年(改元年)=失敗の3つの理由(恩賞不足・公家中心・足利尊氏の離反)」の3点セットだけは絶対に覚えよう!記述問題では「武士の不満」が答えになることが多いから、これだけでも点が取れるよ。あと「南朝=吉野」「北朝=京都」の組み合わせも頻出だから要チェック!
よくある質問
後醍醐天皇についてよく寄せられる質問をまとめました。気になるところから読んでみてください。
第96代天皇(1288〜1339年)。鎌倉幕府を倒して建武の新政を行い、天皇親政の復活を目指した不屈の天皇です。武士の反発で京都を追われた後も、吉野に南朝を開いて最期まで戦い続けました。日本史上、武力で武家政権を倒した唯一の天皇として知られています。
当時の鎌倉幕府は得宗専制政治によって御家人の不満が高まっており、すでに内側から崩れかけていました。そこに後醍醐天皇の倒幕の呼びかけが響き、楠木正成・足利尊氏・新田義貞といった有力武士が次々と倒幕側に加わったため、1333年に幕府を滅ぼすことができました。「時代の不満」と「天皇の旗印」が結びついた結果と言えます。
主な失敗理由は3つです。①武士へのご褒美(恩賞)が不十分で不満が高まった、②公家中心の政治で武士が冷遇された、③足利尊氏の離反を招いた——という流れで、わずか2年余りで崩壊しました。150年続いた武士の慣習をいきなり律令制(古い天皇中心の制度)に戻そうとしたことが、根本的な無理筋だったとされています。
16人以上いたとされる息子の多くが、南朝のために各地で戦いました。代表的な皇子としては、征夷大将軍となるも足利尊氏と対立して暗殺された護良親王、九州で征西将軍として活躍した懐良親王、信濃で南朝を支え歌人としても名を残した宗良親王、鎌倉将軍を務めた成良親王などが知られています。
1339年8月16日、吉野で病死しました。享年52歳。具体的な病名は史料に残っていませんが、長年の戦乱と心労による衰弱とされています。亡くなる直前まで京都奪還の夢を持ち続け、「玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも魂魄は常に北闕の天を望まん(魂は常に京都を向いていたい)」という有名な遺言を残しました。
「1334(人さんよ)建武の新政」と覚えましょう(1333年に鎌倉幕府を倒して親政を開始、翌1334年に「建武」と改元して新政が本格始動しました)。あわせて「正中の変=1324年」「元弘の変=1331年」も年号の下2桁を続けて覚えると、後醍醐天皇の倒幕の流れがスムーズに頭に入ります。
別人です。醍醐天皇は第60代天皇(在位897〜930年)で「延喜の治」と呼ばれる平安時代の善政で知られます。一方、後醍醐天皇は第96代天皇(在位1318〜1339年)で、約400年後の南北朝時代の人物。後醍醐天皇は醍醐天皇の親政スタイルに憧れていたため、本人の遺言で「後の世の醍醐天皇」という意味の「後醍醐」という尊称が贈られました。
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1288年誕生(後宇多天皇の第二皇子として)
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1318年第96代天皇として即位(31歳)
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1324年正中の変——最初の倒幕計画が露見し失敗
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1331年元弘の変——笠置山で挙兵するも捕らえられ隠岐に配流
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1333年隠岐を脱出。足利尊氏・新田義貞らが倒幕に加わり鎌倉幕府滅亡
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1334年「建武」に改元——建武の新政(天皇親政)本格始動
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1336年足利尊氏の離反で京都陥落。吉野へ脱出して南朝を樹立
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1338年足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く
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1339年吉野にて崩御(享年52歳・病死)。遺言「魂魄は常に北闕の天を望まん」

以上、後醍醐天皇のまとめでした。下の記事でも建武の新政や足利尊氏など、関連する歴史をあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「後醍醐天皇」(2026年5月確認)
コトバンク「後醍醐天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
コトバンク「建武の新政」「南北朝時代」「護良親王」「懐良親王」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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