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後醍醐天皇の激動の生涯を徹底解説!【その性格や政治とは?足利尊氏や楠木正成との関係も交えながら】

この記事は約12分で読めます。

この記事では、鎌倉幕府の滅亡と南北朝時代の主役である後醍醐(ごだいご)天皇について紹介します。

後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも特に有名な天皇です。後醍醐天皇はやることなすこととにかくド派手!

後醍醐天皇がやったことまとめ
  • 鎌倉幕府を滅ぼす
  • 後醍醐天皇主導の新しい政治「建武の新政」を始める
  • 建武の新政は2年で失敗。その代わり南朝を創設する(南北朝時代が始まる)

こんな風に後醍醐天皇は時代の変化のど真ん中にいた人物なので、後醍醐天皇のことがわかると自然と当時の時代のこともわかるようになります。一石二鳥ですね!

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後醍醐天皇即位までの複雑な道のり

後醍醐天皇が即位したのは1318年。ちょうど天皇家は大覚寺統と持明院統の2つの皇統に別れ、皇位を巡り争いを続けている時代でした。

2つに別れた天皇家の皇統
  • 大覚寺統(だいかくじとう)
  • 持明院統(じみょういんとう)

天皇家が2つの皇統に分裂したこの状態は両統迭立(りょうとうてつりつ)と呼ばれ、皇位継承は以下の図のようになっていました。

さて、89代から96代の後醍醐天皇までの歴代天皇を見ていくと、持明院統と大覚寺統が交代で天皇即位しているのがわかると思います。

「争っているのに、意外とうまくやってるじゃん!」と思った人もいるかもしれませんが、これは決して譲り合いの精神によるものではなく、面倒な争いごとを防ごうとする鎌倉幕府の圧力によるものでした。

しかし、94代目の大覚寺統だった後二条天皇が1308年に若くして亡くなってしまうことで皇位の交代継承がおかしくなっていきます。

後二条天皇は大覚寺統なので、次は持明院統から天皇を即位させる番です。しかし、持明院統の後伏見上皇には即位させるための男の子がまだ生まれていない!(上の系図の光厳天皇は1308年以降に生まれている)

そこで、子供が生まれるまでの繋ぎ役として即位したのが弟の花園天皇(95代)でした。

ピンチヒッターとして即位した花園天皇

当時は、天皇の即位と合わせて皇太子(次期天皇)も決めておくことが慣例でした。交代制なので皇太子は大覚寺統から選ぶ必要がありますが、ここでも似たような問題が起こります。

後二条天皇には邦良親王(くによししんのう)と言う遺児がいましたが、1308年の時点でまだ9歳で病弱だったと言われており、特にその祖父である後宇多上皇が皇太子にすることに強い抵抗を持っていました。(邦良親王が天皇では、不慮の事態があった時に大覚寺統を守りきれないと判断したのだと思う)

そこで皇太子に選ばれたのが後醍醐天皇です。前置きが長くなりましたがようやく登場しました。後醍醐天皇の役割は、花園天皇と似ていて邦良親王が無事に成長するまでの繋ぎ役でした。

そして10年後の1318年、花園天皇が譲位すると遂に後醍醐天皇が即位したのでした。

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後醍醐天皇「俺が正統な天皇だ。異論は認めない」

後醍醐天皇は即位した当時31歳。壮年期の天皇が即位するのは実は約250年ぶりのことでした。(平安時代の終わりから院政が普及すると、若い頃に天皇即位し、壮年期に上皇として政治を行うことが多かったため)

しかも、後醍醐天皇は博識で、強い志を持ち、何事にも諦めない不屈の精神を持つ男でした。熱い想いを秘めた後醍醐天皇はこんなことを思い始めます。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

天皇家の正統は私である。決してつなぎ役などではない。これからは私の子孫が代々天皇になるべきなのだ。その証明として、私自ら世に善政を敷いて見せよう。しかし、皇位の交代制度を強いてくる鎌倉幕府がいる限り、私は安定した地位に立つことができぬ。ならば、私の善政を邪魔する鎌倉幕府など滅ぼしてしまうべきではないか。

というわけで、後醍醐天皇は本当に倒幕運動を始めてしまいます。(有言実行!)

鎌倉幕府を支配する北条氏は身内一族だけを優遇する政策ばかり行っていたので、それに不満を持つ人々を味方に付けて幕府に対抗しようとしました。

しかし1324年、後醍醐天皇の不穏な動きが幕府に露見し、近臣たちが天皇の身代わりとなり幕府から処罰を受けます。

が、この程度では後醍醐天皇は諦めません。

というか、ますます鎌倉幕府への憎悪を強めていきます。なぜかと言うと、1326年に邦良親王が亡くなると鎌倉幕府は次の皇太子を持明院統の量仁親王(かずひとしんのう。後の光厳天皇)に選んだからです。

自らを正統考える後醍醐天皇は、「皇太子は私の息子に決まってるだろ」と考えていたから、当然これには納得いきません。しかも、鎌倉幕府は「次は持明院統の番だから、早く譲位しろ。両者公平にしないとまた揉めて面倒なんだよ」と後醍醐天皇に譲位を迫ってきます。

もちろん、後醍醐天皇は屈しません。牛歩作戦で譲位を先延ばしにしながら倒幕の準備を進めますが。そして1331年、再び倒幕計画が露見すると、笠置山という山にこもり幕府に対して徹底抗戦の構えを見せます。こうして両者の間でいよいよ戦いが始まります。

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元弘(げんこう)の乱

後醍醐天皇側の主戦力は以下のとおり。

後醍醐天皇の主力部隊

でした。しかし、鎌倉幕府の軍隊は強かった・・・!

1331年9月、笠置山は陥落。後醍醐天皇は捕らえられ天皇位は廃止。翌年に隠岐に流されます。そして、楠木正成や護良親王も敗走し、倒幕運動は鎮圧されたかに見えました。ちなみに、この時の楠木正成は負けはしたものの、奇策に奇策を重ねて幕府軍を苦しめ、幕府軍に強い印象を残すことになります。(詳細は以下の記事を)

しかし、戦いはこれだけでは終わりません。

1332年12月になると身を隠していた楠木正成・護良親王が河内・吉野で再び挙兵。さらには播磨(はりま。今の兵庫県あたり)では赤松氏が挙兵し、1333年2月には伯耆(ほうき。今の鳥取県あたり)の名和長年(なわながとし)が挙兵し、密かに後醍醐天皇を隠岐から脱出させます。

後醍醐天皇を隠岐から救った名和長年

この時、楠木正成は千早城という城に籠城し、卓越した知略と武勇で敵を次々と撃破。天才戦略家としてその名を後世にまで轟かせることになります。

1333年5月になると、幕府内部でも北条氏に抑圧されていた人々が離反し、その中には足利尊氏や新田義貞の姿もありました。

京にいた足利尊氏は六波羅探題を滅ぼし、関東にいた新田義貞は鎌倉幕府そのものを滅ぼしました。新田義貞の鎌倉攻めは、鎌倉を死体の山にした凄惨な戦いとなりました・・・。

こうして鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は念願だった「自ら世に善政を敷く」の実現に向けて動き始めます。後醍醐天皇が隠岐に流されている間に持明院統の光厳天皇が即位していましたがこれを廃止。そして、自ら天皇として再び即位します。

これら一連の戦いは元弘(げんこう)の乱と呼ばれています。ハイライトは以下の記事にまとめています。

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建武の新政

幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自ら善政を行うため、新しい政治をはじめました。これが有名な建武の新政(けんむのしんせい)となります。

結論から言うと、建武の新政は大失敗に終わります。善政どころか世に大混乱と政治腐敗を招いてしまいました。詳細は以下の記事を読んでみてくださいね!

賄賂や媚びへつらいがはびこり陰謀術数が渦巻いていた朝廷で、排除のターゲットにされたのが後に室町幕府を開く足利尊氏でした。足利尊氏は当時、ダメダメな建武の新政に失望した武士たちの最後の希望になっていて、後醍醐天皇から見れば危険な存在に映ったからです。

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延元(えんげん)の乱、尊氏VS後醍醐天皇

1335年7月、北条氏の残党が関東で反乱を起こします。これを中先代(なかせんだい)の乱と言います。

この時、尊氏は後醍醐天皇の命令を無視して勝手に出兵し、乱を鎮圧するため関東へ向かいます。関東には尊氏の弟や息子が住んでおり、決して他人事ではなかったからです。

後醍醐天皇は「尊氏が乱を鎮圧したら、ますます尊氏の力は強くなる・・・」と考えていて、足利尊氏に出兵しないよう命令していました。

しかし、尊氏が勝手に出兵することで不安は現実のものになります。乱を鎮圧すると、尊氏は天皇を差し置いて自分の名前で味方に恩賞を与え始めたのです。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

恩賞を与えるのは私の仕事でお前の仕事じゃないからな。そんな暇あるなら早く京に戻ってこい(激怒)

が、尊氏はこれをガン無視。プッツンした後醍醐天皇は遂に「尊氏ぶっ倒す!」宣言をして、両者は戦争状態に突入します。

この一連の戦いは延元の乱(えんげんのらん)と呼ばれています。

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南朝の成立

戦いに破れた後醍醐天皇は比叡山に避難していましたが、まだ諦めてはいません。なぜなら、後醍醐天皇の手元には天皇の正当性を証明する物とされる三種の神器があったからです。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

私が三種の神器を持っている限り、いくら頑張っても尊氏は永遠に朝敵だからな。私は諦めが悪いから、天皇位にしがみついて必ず鎌倉幕府を倒したように、室町幕府も潰してやるよ。覚悟しとけ。

足利尊氏
足利尊氏

それは無理。だって持明院統が俺に味方してるから、朝敵になんてなるわけないもん。現に1336年9月には光明天皇が即位してる。でも三種の神器がないと、ビシッと決まらないから後醍醐天皇の持ってるやつ返してよ。

あっ!言い忘れてたけど、比叡山は包囲してるから。逆らったら兵糧攻めとか余裕だからそこんとこよろしくww

後醍醐天皇
後醍醐天皇

ぐぬぬ・・・わかった。三種の神器を渡そう(偽物だけどな)

こうして1336年10月、尊氏と後醍醐天皇の和平が成立。後醍醐天皇は京へ戻ります。11月には三種の神器を光明天皇に渡し、後醍醐天皇自身は幽閉状態に。

・・・が、1336年12月になると後醍醐天皇は幽閉先から密かに脱出し、吉野へ逃走。そして、こんなことを言い始めます。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

そういえば前に渡した三種の神器、あれ偽物だから(笑)。本物は私が持ってるし、今も私こそが正統な天皇である。これから持明院統も尊氏もぶっ潰すから首を洗って待っとけやコラァ!

もちろんこんな無茶苦茶な理由で光明天皇の即位は否定されるはずはなく、世は光明天皇と後醍醐天皇の2人が同時に即位している奇妙な時代へと突入します。南北朝時代の始まりです。

南朝と北朝に分かれた天皇家
  • 南朝:大覚寺統の後醍醐天皇が吉野に構えた朝廷
  • 北朝:京に残った持明院統の従来の朝廷
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後醍醐天皇の最期

後醍醐天皇は吉野の南朝で一発逆転の機会を伺いますが、これはうまくいきません。後醍醐天皇には3人のエース武将たちがいました。

後醍醐天皇軍のエース3人組
  • 楠木正成(くすのき まさしげ)
  • 北畠顕家(きたばたけ あきいえ)
  • 新田義貞(にった よしさだ)

ところが、この3人が次々と亡くなってしまいます。

  • 1336年
    楠木正成、湊川の戦いで戦死
  • 1338年
    新田義貞、北陸地方を攻略中に戦死
    北畠顕家、奥州地方を攻略中に戦死

特に新田と北畠の戦死は北陸と奥州の拠点を失ったことを意味し、かなりの痛手となります。

しかし、これでも後醍醐天皇はまだ諦めません。後醍醐天皇は特に奥州を重要視していて、北畠顕家の父親である北畠親房(きたばたけちかふさ)を奥州に送り込みます。(これも失敗に終わりますが・・・)

そして1339年、後醍醐天皇は52歳で崩御。太平記に描かれる最後のシーンがとてもカッコいいので載せておきます。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

私が未来永劫望み続けるのは朝敵(足利尊氏)を滅ぼし、世を太平にすることである。私が亡き後は、息子が後村上天皇として即位して、忠臣たちと共に天下を治めなさい。私の骨は吉野の苔になろうとも、私の魂は常に皇位の座を望んでいる。もし私の命(尊氏を滅ぼせ!)に背くならば、息子といえど天皇とは認めず、忠臣であってもその忠を認めることはない

こう言って、左手に法華経、右手に宝剣を持ちながら崩御しました。

そして、後醍醐天皇の遺志を受け継いだ後村上天皇は、北朝や足利尊氏と熾烈な戦いを繰り広げ、長い長い戦乱の時代が再び始まります。

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後醍醐天皇の性格や人柄

後醍醐天皇の人柄について書かれている本を読んだことがないので、ここから先は私の感想になります。

後醍醐天皇の性格・人柄は、これまでの破天荒な生涯から考えると

確固たる意志を持ち、自分の信念は絶対に曲げない
どんな苦境に立っても諦めない不屈の精神

この2つが大きな特徴だと思います。隠岐に流され廃帝となっても、尊氏に敗れて幽閉されても不死鳥のごとく復活し、最期まで希望を捨てることはありませんでした。

一方、自分の信念を貫き通すあまり柔軟性に欠け、政治を大きく乱してしまったことも事実です。建武の新政では、天皇の権力を絶対視し、貴族・武士を軽視したことで大ブーイングを浴びました。

また、後醍醐天皇は非常に博識で、和歌や音楽にも長けている多彩な天皇でもあったようです。この辺は、同じく破天荒な生涯を歩んだ後鳥羽天皇と似ています。

頭も良かった後醍醐天皇は、当時中国で流行っていた朱子学(しゅしがく)というのを非常に好んでいました。朱子学の教えの中には「国は徳によって治められるべき」「君主と臣下は、それぞれ役割が違うから、己の役割を全うすべし」というものがあり、後醍醐天皇はこの思想をとても大事にしていたと言われています。

現に、「善政によって自らの天皇の正統性を証明する」という思想は「徳によって国を治めるべし」という思想そのものですし、「君主は「命令する絶対的立場」、臣下は「その命令に従う立場」というのを建武の新政ではっきりと示しています。

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まとめ

簡単にまとめます。

後醍醐天皇、不屈の精神で鎌倉幕府を倒す。
新しい政治建武の新政を始めるも、現実離れした政策が多すぎて失敗。逆に多くの人の不満を招き、足利尊氏が離反する。
足利尊氏と戦うも敗北。それでも諦めない後醍醐天皇は南朝を創設する
息子に「打倒!尊氏」の遺言を残して崩御。南朝・北朝で激しく争う時代

後醍醐天皇の波乱万丈な生涯は読んでいて面白いですし、南北朝時代の時代のことも自然とわかるようになります。このブログでもwikipediaでも別なサイトでもなんでも良いので、この時代に興味のある方はぜひ後醍醐天皇に焦点を当てて時代を追ってみることをオススメします。



室町時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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