今回は、戦国大名たちの間で流行っていた喧嘩両成敗法について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
喧嘩両成敗法とは
喧嘩両成敗法とは、『家臣同士のトラブルが起きたときは、その解決を戦国大名による裁判に委ねること。もし、勝手に私闘で解決しようとしたら、勝った方も負けた方も罰則な!!』っていう法による規定のことを言います。
もし家臣同士が私闘(喧嘩)をしたら、勝敗にかかわらず両方を裁く(成敗する)ので喧嘩両成敗法と名付けられました。
戦国大名は、自分の国を維持・発展させるため、家臣たちの手づなをしっかりと握っておく必要がありました。
もし家臣たちがトラブルを喧嘩で解決してしまったら、あちこちで紛争が耐えなくなり、世の中は「強ければ何をしてもOK」という暴力が支配する世界へと早変わりしてしまいます。
このような事態にならないよう、戦国大名たちが採用したのが喧嘩両成敗法だったのです。
「やられたら、やりかえす!」の精神
さて、喧嘩両成敗法で私闘(私闘)を禁止したというのは、裏を返せば「当時は私闘が頻繁に起こっていた」ということを意味しています。
もともと中世の人々には、「やられたらやりかえす!それが当たり前!」という精神が深く根付いていました。
例えば、もし大切な人の命がA氏の手によって奪われたとしたら、その仕返しにA氏を討ち取って復讐を果たすことは、正当な行為であり責められるような行為ではない・・・というわけです。
私闘が絶えない背景には、こうした中世の人々の考え方が根底にありました。
さらに私闘を助長したのは、中世の人々が持つ強い自尊心(プライド)と集団意識です。
中世の人々は、自分自身や一族・仲間が侮辱されることを極端に嫌いました。
一見些細なことであっても侮辱されたと感じれば、「やられたらやりかえす」の精神とミックスされて大きな紛争に発展することも多々あったのです。
さらに、当時の人々が持っていた強い集団意識が、私闘の規模を大きくしました。
最初は下っ端同士の些細な争いごとであっても、次第に偉い人が出てきて、大紛争になることも珍しいことではありませんでした。
おいテメェ、俺の部下にいちゃもんつけるとかいい度胸だなコラァ。
こっちだって部下がやられるところを黙って見過ごせねぇ。やるってのなら、相応の覚悟で挑んでくることだな。
中世の日本人は「やられたらやりかえす」精神が旺盛
他人から侮辱されることを極度に嫌ったから些細なことでもトラブルが起こりがち
しかも集団意識が強くて些細なトラブルでも偉い人がでてきて大紛争に発展しがち
って感じで、中世の人々はあらゆる場面で争いの火種を抱えていたのです・・・。
キング牧師の言葉に次のような言葉があります。
暴力は憎しみを増すだけである。
憎しみはそのまま残る。
暴力に対して暴力を持って報いれば、暴力は増加するだけである。
このキング牧師の名言は、まさに日本の中世の様子を表しています。
喧嘩両成敗法が登場した時代背景
このような人たちを放っておいたら、日本は「暴力=正義』という秩序のかけらもないダークサイドへと落ちてしまいます。
そうならないよう、当時の権力者(鎌倉・室町幕府)は、基本的に「争いが起きたら幕府が裁判するから、勝手に私闘(喧嘩)をしないでね!」というスタンスをとり続けました。
例えば鎌倉時代には、北条泰時が制定した御成敗式目に「私闘は禁止!」とはっきり書かれていたし、鎌倉幕府には所領裁判に特化した引付という部署も創設されました。
しかし、室町時代になると、肝心の幕府の力が弱くなり、次第に「幕府の言うことなんて聞かなくていいんじゃね?ww」っていう風潮が強まっていきます。
室町幕府が人々の私闘を押さえ込む力を失うと、各地で紛争が多発するようになり、ついに1467年、応仁の乱が起こり、全国を巻き込んだ約10年にわたる大戦乱が起こってしまいます。
応仁の乱が終わると、各国の有力者たちは「幕府は頼りにならないし、俺たちの国は俺たちでしっかり統治していこうぜ!」と考えるようになります。
そうすると、まずは、もともと各国で一番権力を持っていた守護が、一国を統治する守護大名として君臨するようになりました。
その後は、守護という役職にかかわらず「各国で一番強い奴が国の統治者な!」っていう下剋上スタイルが広まり、こうして国のトップにのし上がった者のことを戦国大名と呼びました。
こうして幕府に代わって各国を支配するようになった戦国大名ですが、ここで1つ大きな問題に直面しました。
・・・そうです、その問題こそが、歴代の幕府も頭を悩ませていた「家臣たちの私闘をどのように防ぐのか?」という問題だったのです。
喧嘩両成敗法の内容と目的
戦国大名たちは、紛争を平和的に解決させるため、御成敗式目や建武式目などの過去の法典を参考にしながら、分国法と呼ばれる法律を作りました。
そして、多くの分国法のなかに採用されたのが喧嘩両成敗法の規定(ルール)でした。
喧嘩両成敗法って具体的にどんなことが書かれていたの?
って思う人もいると思うので、実際に喧嘩両成敗法を見てみましょう!
今川氏の分国法である『今川仮名目録』に喧嘩両成敗法がはっきりと定められているので、それを見ていきます。
要するに「勝手に喧嘩をしたら双方ともに死刑にするけど、喧嘩を売られてもやり返さずに我慢したら許してあげるよ!」ってことを言っています。
もし喧嘩を売られてもやり返さずに戦国大名のところに訴えれば、自分は無罪で相手は死刑になる・・・、つまり戦わずとも平和的に相手に勝つことができるわけです!
喧嘩両成敗法があると、やられた側はやり返すよりも戦国大名に訴えた方がお得だし、
喧嘩を売った側は自分だけ処罰される可能性があって損なので、安易に喧嘩を売ることができなくなります。
家臣たちに喧嘩をすると損だよ!ってことを知らしめて喧嘩を未然に防ぎ、トラブルが起きたときは大名に訴えでるよう誘導することが喧嘩両成敗法の目的でした。
喧嘩両成敗法の目的は「喧嘩をしたら双方を裁くこと」そのものではありません。
裁くことはあくまで手段。
真の目的は喧嘩両成敗で家臣たちを脅して、喧嘩を未然に争いを防ぐことにありました。
たしかに喧嘩両成敗法は喧嘩を防ぐのにとても効果的だね!
きっと多くの戦国大名が喧嘩両成敗法を採用したんだろうね!
・・・と、思うかもしれませんが、実は先ほど紹介した今川仮名目録のような単純明快な喧嘩両成敗法はあまり採用されませんでした。
というも、家臣たちに「トラブルが起きたら俺が解決するから、俺を信頼してちゃんと訴えでろよ。勝手に解決したらぶちのめすからな!」と言い切るには、戦国大名もそれなりの力を持っている必要があるからです。
戦国大名は常に下剋上で大名の座を奪われかねない・・・という危機感を持っていました。
そんな中、これまでの習慣を大きく変える喧嘩両成敗法なんてもの制定したら、家臣たちが反対して、大名に謀反を起こす可能性だって考えられます。
だから多くの戦国大名は、明確に喧嘩両成敗法を定めるのではなくて、喧嘩両成敗の原則は採用しつつも、細かな条件をつけたり内容を修正したりして、自国にあった形にアレンジしていきました。
ちなみに、明確に喧嘩両成敗法を定めた分国法は次の3つしかないと言われています。(覚える必要はありませんよ。)
喧嘩両成敗法は惣無事令に進化する
喧嘩両成敗法は、あくまで戦国大名が定めたもので、その効力は国内に限られました。
しかし、戦国時代の勝ち抜いた豊臣秀吉が登場すると、喧嘩両成敗法は大きな進化を遂げることになります。
圧倒的な力を手に入れた豊臣秀吉は、全国の大名に対して「戦いをやめろ!もし不満があるなら私に訴えなさい!もし許可なく争いを続けるようなら成敗すんぞ!」という法を発令したのです。(この法のことを惣無事令と言います。)
当時、関白の地位にあった豊臣秀吉は、惣無事令を天皇の命令(勅令)という形で発令し、名実ともに日本全国に適用される法となりました。
惣無事令を発令した豊臣秀吉は、その後、惣無事令に違反していることを理由に九州の島津氏、関東の北条氏、東北の伊達氏を倒して、全国統一を果たしました。
喧嘩両成敗の理念(喧嘩をやめてほしい!)は、豊臣秀吉を通じて全国に適用されたわけです。
さらに江戸時代になると、世の中にも「トラブったら喧嘩じゃなくて裁判するのが当然!喧嘩なんて古いよね!」っていう考えが根付くようになり、喧嘩両成敗の考え方そのものが不要となり、喧嘩両成敗法はその役目を終えることになりました。
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