今回は1349年に起こった観応の擾乱について解説します。
最初に、観応の擾乱の概要を載せておきます。
この記事では、そんな観応の擾乱について以下の点を中心に、わかりやすく丁寧に解説していきます。(最後に簡単な年表もあります)
観応の擾乱の3人の主役を紹介するよ
まずは、観応の擾乱の主役である足利尊氏・足利直義・高師直の3人のキャラを簡単に紹介しておきます。
足利尊氏
言わずと知れた室町幕府の初代将軍。1336年に湊川の戦いに勝利した後、武士たちのために室町幕府を開きます。
足利尊氏は、人望とカリスマ性を備えていたと言われ、武士たちから絶大な支持を受けることになりましたが、政治をするのは好きではありませんでした。
そこで、室町幕府の仕事のうち内政に関する部分を弟の足利直義に全て委ね、自らは軍事に関する仕事だけに携わることとしました。足利尊氏は、公私両方において直義に絶大な信用を置いていたのです。
足利直義
将軍足利尊氏の弟。尊氏は直義を非常に頼りにしていて、困ったことがあると直義に丸投げする癖もあったほど。その尊氏から内政を任され、強い権力を持つ。
メインの仕事は、絶えることのない所領トラブルなどを裁判する仕事。足利直義の元には、たくさんの訴えが舞い込み、多忙な日々を過ごしていました。
高師直
足利尊氏の執事。尊氏のプライベートから仕事に関することまで全てをサポートする側近中の側近。
足利尊氏は内政を全て弟の直義に託しましたが、実は軍事の仕事もそのほとんどを高師直に委ねていました。(尊氏の名前で命令を下しても、その内容は高師直が作っていた・・・とかそんなイメージ)
室町幕府を開いた足利尊氏は、意外にも心を苦しめていました。忠誠を尽くすはずだった後醍醐天皇を、湊川の戦いなどの戦乱によって窮地に追い込んでしまったからです。
後醍醐天皇と戦いたくないのに、情勢はそれを許してはくれない。
もう無理。出家しよ・・・。
室町幕府を開いた後、足利尊氏は政治への関心を失い、引きこもりがちに。こうして幕府の運営は、足利直義と高師直に託されることとなりました。
ここまでの話を以下にまとめておきます。
犬猿の仲、足利直義と高師直
幕府の運営をしていると、次第に足利直義と高師直の関係が悪化していきます。
戦いのどさくさに紛れて近くの土地襲ったろww半済令とかいうルールで、兵糧を徴収する方法が決められているけどそんなの無視や!欲しい分だけ奪うんや!!
また、荒くれ者に土地が荒らされた。
直義様にこの悪事を訴えよう・・・!
また、戦地に住む人々からの訴えか・・・。
師直、いい加減にしろよ。
戦いに勝つため、やむを得ない強奪だった。(ウソ)
現地で必要な物資を集めずに、戦いに負けろってことか?そっちこそをふざけたことを言うなよ。
テキトーなことばかり言いやがって・・・。
こんな風にして、トラブルを起こす高師直ら軍事部隊とその訴えを聞くことになる足利直義ら内政担当は、険悪な関係になってしまいました。
クーデター、起こる
高師直と足利直義の対立は膠着状態が続きますが、1348年に起こった四条畷の戦い以降両者の対立が激化します。
四条畷の戦いは南朝のエース楠木正行と高師直が戦った戦い。
結果は、高師直の快勝。南朝のエースを倒した高師直の名声は一挙に高まり、この勢いに乗じて幕府内から足利直義派を一掃しようと、人事をめぐって直義と激しく争いました。
1349年6月、足利直義は先手を打ち、高師直を闇討ちしようとしますが失敗。1349年8月には高師直が逆襲しします。
危険を感じた直義は兄の尊氏邸に逃げ込みなんとか一命を取り留めました。高師直は尊氏の執事。なので尊氏邸には簡単に手出しはできないわけです。
尊氏邸にて両者にらみ合いが続きますが、尊氏の仲介により、ひとまず以下の条件で、合意することになりました。
圧倒的に高師直に有利な内容であり、高師直が勝利を勝ち取った形です。負けた足利直義は1349年12月、出家して政界から身を引き、隠居してしまいます。
足利直義、南朝に寝返る
1350年10月、隠居して身を潜めていた足利直義は奇策に打って出ます。密かに京を脱出して、事もあろうに足利氏を最も憎んでいる南朝へと寝返ったのです。
南朝では憎き足利氏と協力するか大議論が起こりましたが、最終的に南朝復興のため、直義と手を結ぶことになりました。
足利直義は南朝勢力を味方に引き入れ、高師直への逆襲を目指します。
直義が南朝に下ったことで、高師直VS足利直義だった争いは
高師直・北朝派 VS 足利直義・南朝派
という構図に変化。天皇家の問題も加わった複雑な争いとなってしまいました。
足利直冬「直義父さんをいじめる奴は絶対に許さん」
九州地方では、足利直義派だった足利直冬が破竹の勢いで勢力を拡大していきます。
足利直冬は足利尊氏の実子。しかし、尊氏に認知(我が子と認めること)されず見捨てられ、代わりに足利直義が養子として引き取り育てられました。
足利直冬は、尊氏に認知されていないのを知りながら「私は尊氏の息子である。私の言うことに従うのだ!」と尊氏の名前を利用します。
直冬を息子と認めない足利尊氏はこれに我慢なりません。1350年6月、足利尊氏は直冬追討を高師泰(高師直の弟)に命じます。
しかし、遠征軍は九州に到着する前に撃破され失敗。1350年10月、尊氏は遂に重い腰を上げ、自ら九州に向けて出陣します。
こうして、足利尊氏・直冬の親子喧嘩も加わって、観応の擾乱は
高師直・北朝・足利尊氏 VS 足利直義・南朝・足利直冬
という構図になります。
さらに関東地方でも、足利直義を支持する勢力が優勢となります。後醍醐天皇が建武の新政を行っていた頃、足利直義は関東の最高責任者になっていたこともあり、直義を支持する者が多かったのです。
観応の擾乱、第一ラウンド終了
足利直義の支持勢力が勢いを増しているのを見た多くの人々はこう思います。
今は高師直たちに味方してるけど、足利直義に寝返った方が勝ち目がありそうだな・・・
1350年10月に直冬討伐のため遠征をした尊氏は、12月に九州に到着。しかし、10月に南朝に寝返った足利直義が京都に逆襲をしようとしていることを知って急いで帰京。1351年の1月には畿内へ戻ってきます。
ここで足利尊氏は惨敗します。尊氏が九州に行っている間、多くの人々が勢いに乗る足利直義に寝返り、尊氏軍は壊滅状態となったからです。腹心にも裏切られ、最後に残ったのは足利尊氏と高師直、そしてそれに従うわずかな兵のみでした。
1351年2月、摂津国の打出浜(今の兵庫県芦屋市)にて、尊氏軍と直義軍が衝突しますが、直義軍の快勝。尊氏と直義の間で以下の条件で和平交渉が行われました。
この和平は成立して高師直・師泰は出家しますが、帰路の途中、直義派の上杉能憲に襲撃され、一族もろとも滅亡することになります。
上杉能憲は父の上杉重能を高師直に殺されていたので、父の仇を討ったことになります。
観応の擾乱、第二ラウンドへ
高師直が亡くなると、足利直義は「足利義詮を補佐する」という形で政界に復帰します。
一見、尊氏と直義が仲直りして良さげに思えますが、仲直りしてしまったことで足利直義は窮地に立たされることになりました。なぜかと言うと、直義に味方した多くの人たちは勝利によって得られる恩賞を期待していたのに、それが全然貰えなかったからです。
敗北側に与していた足利尊氏が変わらず幕府のトップだったため、尊氏派に属した敗者のうち特に有力者についてはなんのお咎めもなし。
敗者の所領を奪えない以上、勝者に与えられる恩賞も限られるため、足利直義に味方していた人々は強い不満を持つようになりました。
それだけではなく、足利義詮が直義に強い不快感を示すようになります。理由は大きく2つ。
こんな複雑な事情もあって、幕府内では不穏な空気が漂い始め、直義派の人々が襲われる事件が多発します。
- 1351年3月直義派の斎藤利泰が闇討ちされ、死亡
- 1351年5月直義派のエース武将桃井直常が闇討ちされるも命は無事・・・
さらに1351年8月には、足利尊氏が足利直義と南朝の関係を引き裂きます。
高師直討伐に協力してやったのに、直義は南朝を正統と認めてくれなかった。もはや、直義など信用できない。
安心しろ。俺と組めば南朝を正統にしてやるよ。
その代わり、足利直義追討の宣旨を出すんだ。
俺自身は、弟と争いなどしたくない。
しかし、息子の義詮は直義を憎み、直義に不満を持つ人々は直義を亡き者にする事を望んでいる。争いを終わらせるにはもはや直義を討つほか道はない。許せ直義よ・・・。
これが決定打となり、直義は孤立。同じ八月に京を脱出し、直義派が優勢だった関東へ向かいます。
1351年12月、今の静岡県に位置する薩埵峠で両軍が激突。直義軍は敗北し、1352年1月になると直義は遂に降伏。直義はその後、謎の死を遂げ、観応の擾乱は遂に終結しました。
新しい戦乱へ
直義が亡くなることで観応の擾乱自体は終結しますが、全国の戦いは終わりませんでした。
理由は大きく3つ。
そして、この3つの難題は、二代目将軍となる足利義詮の手によって少しずつ解決されることになります。
観応の擾乱まとめ(年表付き)
- 1349年6月足利直義、高師直を襲撃するが失敗
- 1349年8月高師直、直義に逆襲。
足利直義は敗北し、隠居へ追い込まれる。
この頃から九州地方で直義を支持する足利直冬が、勢力を拡大する。
- 1350年10月足利直義、高師直に対抗するために南朝に転じる。
同じ10月、足利尊氏は直冬を討つために九州へ向かう。
- 1350年12月足利直義、尊氏のいない隙に京へ進軍。
九州にいた足利尊氏は、大急ぎで京へ引き返す。
- 1351年2月打出浜の戦い
高師直と足利直義が衝突。結果は直義の勝利。高師直は命を奪われる。
ここまでが観応の擾乱の第一ラウンド。
- 1351年3月〜5月直義派の人々が襲撃されるようになる。
直義は勝者となったのに支持者に恩賞を与えられず、批判を浴びる。
- 1351年8月尊氏の裏工作によって、南朝と直義の関係が破局する。
孤立した直義は、関東へ逃亡
- 1352年1月薩埵峠の戦い
尊氏と直義が激突。
直義は敗北し幽閉される。
ここまでが観応の擾乱の第二ラウンド。
- 1352年2月足利直義、幽閉先で謎の死を遂げる。観応の擾乱、終結へ。
新たなる戦乱の世へ・・・
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