勘合貿易(日明貿易)を簡単にわかりやすく解説するよ【儲かりすぎてヤバすぎw】

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今回は、1404年から始まった明と日本との貿易、勘合貿易(かんごうぼうえき)について解説します。(貿易の名前は、勘合貿易とも日明貿易とも言われますが、この記事では「勘合貿易」で表記を統一します)

勘合貿易は、久しぶりに日本と中国の「公式」な貿易でした。どれぐらい久しぶりかというと、平安時代の894年、菅原道真が遣唐使の派遣を中止して以来になります。約600年ぶりということです。

ただ、ここで注意しておきたいのは、私的な貿易自体はずーっと行われていたという点です。例えば、平清盛が実施した日宋貿易なんかは私的な貿易でした。

ここでは、以下の2点を中心に勘合貿易について解説します。

なぜ、このタイミングで日本と明は互いに国交を開いたのか。

勘合貿易は具体的にどんな感じだったのか。

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明という国について

まず最初に、明という国がどんな国だったのか簡単に紹介しておきます。

明は1368年に建国した当時としてはかなり新しい国です。首都は南京。アジア大陸を支配していたモンゴル帝国「元」から独立して生まれました。建国者は初代皇帝は朱元璋(しゅげんそう)。別名「洪武帝」。

朱元璋は、モンゴル帝国に支配される前の唐や宗のような大帝国を築くこと目指し、近隣国に対して積極外交に乗り出します。

そこで実施されたのが、昔々の唐の時代に行われていた朝貢(ちょうこう)の復活です。

朝貢とは、

中国が近隣諸国の君主として君臨し、諸国はその臣下として中国に貢物を献上。一方の中国は諸国に臣下としての称号を与える。

という非常に上から目線の外交スタイルのことを言います。これだけ読むと「近隣国が中国と朝貢関係を持つメリットあるの?」と思うかもしれませんが、大きく2つのメリットがありました。それが↓

  • 1 中国から感謝の証として、様々な金品が貰えた
  • 2 中国から正式に臣下と認められることで、安定した国内統治が可能になる

2番については少し補足しておきます。簡単に言ってしまうと、国内に反乱分子が登場したとしても、その国のトップが中国と朝貢関係を結んでいれば「俺に逆らったらバックには大国の中国(明)がついてるからな!!」と反乱分子を牽制できて、結果的に国の安定統治がしやすくなる・・・ということです。

実は日本も長い間、中国とは朝貢関係にありました。弥生時代末期〜古墳時代は2番の理由で、飛鳥時代〜平安時代中期までは1番の理由によります。

そして朱元璋は、日本に対しても明と朝貢関係を結ぶよう迫ってきます。

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勘合貿易の2つのハードル

足利義満は商人や禅僧などから「明と貿易すると儲かる!」という話を聞いていたので、明と朝貢関係を結ぶため積極的に動き始めます。

ところが、明と国交を結びには様々なハードルがありました。

まず1つ目が、明と貿易をする際に主要な拠点となる博多の支配権を完全に抑えることです。130年代後半、九州地方には南朝の残党勢力が残っていたり、博多のすぐ隣、今でいう山口県あたりには大内氏という強大な勢力が構えていました。

これでは安心して明と貿易できませんし、仮にできたとしても国内の治安が悪ければ、商品を奪われてしまうかもしれません。

・・・というわけで、足利義満は九州地方の反対勢力を一掃しました。まずは南朝の残党を倒し、1399年には応永の乱により大内義弘を滅ぼします。これで1つ目のハードルはクリア。

もう1つのハードルは、倭寇(わこう)という日本の海賊の存在です。海路の治安が悪くては安心して貿易ができません。倭寇は海上のみならず、明や朝鮮の沿岸沿いにも現れて乱暴狼藉をする有様で、明から日本に対しても「貿易をしたいなら、まずは倭寇をなんとかしてくれ!」と強い要望がありました。

足利義満は倭寇対策に乗り出し、1400年代になると次第に倭寇は弱体化していきます。これで2つ目のハードルもクリア。

こうして勘合貿易の目処がつくと、1401年、足利義満は明に対して使者を派遣。その後も、明と外交を続け、そして1404年、ついに明との日本との貿易である勘合貿易が始まります。

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勘合貿易の方法

勘合貿易は、先ほど話したように「朝貢」という形式で行われます。明が君主で、日本がその臣下という関係を結ぶわけです。

そのため、明は日本に対して自由な貿易を認めていません。あくまで明が認めた日本の公式使節団のみが貿易の対象となるのです。

・・・しかし、明との貿易はめちゃくちゃ儲かるのでニセの使節団がウジャウジャと現れるかもしれない。そこで発案されたのが勘合符(かんごうふ)と呼ばれるものでした。

仕組みはとても簡単。

  • 1 縦長のお札の真ん中に縦に文字を書きます。
  • 2 そのお札を真っ二つに割ります。
  • 3 明と日本で、それぞれ割ったお札を持ちます。
  • 4 明が持っている札の片割れと、日本が片割れを合体させてニセモノかどうかを判別します。

という流れ。割り印と同じ仕組みです。下の写真はその片割れの1つです。右側の字が切れているのがわかりますね。

明と日本の貿易が日明貿易ではなくて「勘合」貿易と呼ばれることがあるのは、この勘合符が由来になっています。

もう1つ大事な部分があって、それは明は日本国のトップ(王)が派遣した使節団としか貿易を認めなかった点です。これの何が大事かというと、

「ところで、日本国のトップって誰だ?」

というわかるようでわからない疑問に直面するからです。

結論から言うと、「形式上のトップは天皇だけど、天皇はお飾りで実際に君主としての権力を持っていたのは足利義満」と言うのが答えです。

なので、「足利義満が天皇に働きかけて明へ使節団を派遣する・・・」というの自然な流れですが、圧倒的権力を持つ足利義満はそれをしませんでした。

で、何をしたのかと言うと・・・、明に対して「俺が日本の国王だ」と明言してしまったんです。

こうすることで、天皇との意見調整も不要となり、スムーズに勘合貿易ができるのに加えて、貿易の利権を完全に義満の手の内に収めることができます。

ただ、この発言はこう解釈することもできます。

「明に公式に日本国王と認めてもらうことで、本当に天皇から皇位を奪おうとしたのではないか?」

と。

足利義満に皇位簒奪の意図はあったのかは不明ですが、今も学者の間で議論が続いています。ちなみに、古墳時代〜平安時代に行われていた朝貢の際は、名実ともに天皇がトップだったのでこのような問題はありませんでした。(平安時代は微妙な時期だけれども)

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勘合貿易はめちゃくちゃ儲かる

いきなりですが、勘合貿易はめちゃくちゃ儲かりました。

主要な輸出品は、硫黄や金、そして蘇芳(すおう)と呼ばれる染料など。ちなみに、硫黄は昔から日本の主要な輸出品で、戦争で使う火薬に用いられ、何気に元寇の遠因ともなった重要な資源です。

そして主要な輸入品は、明銭や生糸、美術品などなど。

とある人物の記録にはこんなことが書いてあります。(金額の単位はわかりやすいように、現代風に意図的に変えています)

「まず日本で1000円ぐらいで売れそうなものを明で売ると、だいたい4〜5倍、4000〜5000円で売れる。そしてその5000円で生糸を買って、日本で売ると、約25倍の125、000円で売れる」

つまり、日本と明の利ザヤを使えば、1000円をその125倍の12万5千円に増やすことができるんです。

私が100万円持っていて日明貿易すれば、それが1億2500万円になります。凄いですよね。そりゃ明と貿易したくなります。

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商人は儲かりすぎて笑いが止まらないw

勘合貿易は室町幕府が主導で行いましたが、その具体的な方法は、

「商人に認可を与えて、売り上げの一定割合を税金として徴収する」

というものでした。この時に徴収した税金は抽分銭(ちゅうぶんせん)と呼ばれました。「商人には自由に貿易させてやるけど、自由に貿易できるのは幕府のおかげだから金を払え」って仕組みですね。

なので、室町幕府主導と言いつつ、実際に貿易を担っていたのは商人でした。上述のとおり、勘合貿易はめちゃくちゃ儲かるので商人らは認可を貰おうと室町幕府との密接な関係を持つようになります。おそらく賄賂なんかも数えきれないほど横行していたことでしょう。

こうして、莫大な富を得た商人は強い力を持つようになり、武士や寺社勢力に並ぶ強大な勢力へと成長していきます。応仁の乱の際、日野富子が商人と癒着してボロ儲けした話なんかは、商人の影響力を象徴する良い例です。

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勘合貿易と明銭

上の商人の話とも関係がありますが、勘合貿易によって銅で造られた明銭が日本に大量流入します。この明銭は永楽通宝(えいらくつうほう)と呼ばれ、日本国内で広く使われるようになりました。

日宋貿易以降、少しずつ広がっていた貨幣の流通ですが、勘合貿易で得た永楽通宝によって貨幣流通がさらに加速します。

米がお金の代わりとして使われる時は、米を生産する土地が大事ですが、貨幣が流通すれば大事なのは貨幣そのものです。そして、貨幣を持っているのは商人なので、商人が強くなるのは必然と言えます。

「土地から貨幣へ」この流れにおそらく最も上手く乗ったのが、戦国時代の織田信長でした。楽市・楽座制度とか堺を重要拠点にしたりとか、時代の最先端を走りました。そして、その時流を作ったのは紛れもなく勘合貿易でした。

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勘合貿易と中継貿易

これほど儲かる貿易だったので、幕府に認可されない商人たちも必死に裏道を考えました。こうして考え出されたのが中継貿易(ちゅうけいぼうえき)でした。

簡単に言うと、明と朝貢関係結んでいて明の商品がたくさんある東南アジア諸国から明の商品(生糸とか)をゲットして日本で売ればいいんです。明の商品を東南アジアで中継して日本に輸入する、これが中継貿易です。

中継貿易を通じて東南アジアとの交易が増えるようになり、これは戦国時代〜江戸時代初期の朱印船貿易へと発展していきます。また、今の沖縄県である琉球王国は中継貿易の拠点として大きく栄えることになります。

明の貿易政策1つで、東アジア圏全体の交易がガラリと変わってしまいました。

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勘合貿易まとめ

様々な分野・地域に大きな影響を与えた勘合貿易、書いていると長くなりましたが、まとめておきます。

明は「隣国に朝貢してもらって国の権威を高めたい」、日本は「明と貿易して金が欲しい」という利害が一致して、行われたのが勘合貿易。「勘合」の由来はニセの貿易船を防ぎために勘合符が使われたため。

当時将軍だった足利義満は明との貿易のため、博多を自らの支配下に置き、倭寇対策に乗り出した。義満は明に対して「日本国王」と名乗り、皇位簒奪の疑惑が今でも議論されている。

日明貿易は超儲かる。明銭が大量流入し、貨幣がより一層流通するようになると、貨幣を大量保有する商人の影響力が強くなった。日明貿易は規制が強かったので裏ルート的な感じで中継貿易が始まって、東南アジアとの繋がりも生まれた。

それにしても貿易で125倍の利益になるっていうのは夢がありますよね。人生一発大逆転を目指して多くの商人が日明貿易の利権を求め、それがダメなら危険を冒してでも中継貿易に血眼になっていたんじゃないかな・・・と想像するのでした。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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