今回は、1391年に起こった明徳(めいとく)の乱について紹介します。
時代は室町時代。将軍は3代目の足利義満!
【足利義満、病んでるような表情が特徴的】
明徳の乱がどんな事件だったかというと、超簡単に言ってしまうと
です。
非常にシンプルな事件なんですが明徳の乱の面白いのは、明徳の乱の経過を知ると足利義満の性格が少しだけ垣間見えるところです。足利義満は「弱きを挫き、強きを助ける」というような処世術を持っていたと言われています。弱気を助けて強きを挫くヒーローとはまるで真逆の発想ですw
山名氏「11国の守護になった。俺たち強すぎw」
最初に山名氏という一族がどんな一族か、簡単に説明しておきましょう。
山名氏は、足利尊氏が室町幕府を開いた当初(1336年ごろ)から尊氏に従い、活躍していた一族です。そして、山名氏が尊氏に任されたのは山陰地方。
1336年に室町幕府が開かれると、足利尊氏は幕府創設に反対する南朝と争うことになります。
南朝は九州や中国地方といった西国で強い勢力を持っていたため、山名氏が任された山陰地方はとても大事な場所でした。山名氏は南朝との戦いを通じて、輝かしい功績をあげ、山陰地方で強い力を持つようになります。
そして、その後も西国の南朝勢力と尊氏のいる京との中間地点という地勢を活かして、両者の間を巧みに渡り歩き、地盤を着実に固めていきます。
基本は幕府側に味方しつつも、不利と見るとや南朝に寝返り、一時期は室町幕府のある京を攻め落とすことにすら成功しています。
1363年、山名氏を危険視した2代目将軍の足利義詮は、山名氏に「土地をたくさんあげるから室町幕府に戻ってくれ!」と交渉を行い、山名氏を室町幕府に帰順させることに成功します。
この交渉によって、山名氏は中国地方に莫大な所領を得ることになります。この一連の活躍を担ったのは山名時氏(やまなときうじ)という人物でした。
山名時氏は膨大な所領を息子たちに分割して与え、息子たちの所領の最大図は以下のような感じでした。なんかもう、「これ、足利氏より山名氏の方が強いんじゃね?」と思えるぐらい大事な場所を抑えています。
とまさにチートモードです。足利義詮は、確かに強敵の山名氏を味方に引き入れることに成功しました。しかし、その代償は決して安くはありませんでした。
足利義満「山名氏を内部崩壊させたろww」
山名氏が京の間近でこれだけの力を手に入れてしまうと、幕府にとって山名氏はもはや脅威にしか映りません。そして身の危険を感じた3代目の足利義満は、山名氏の勢力を削ぎ落とすことを考え始めます。
が、情けないことに山名氏に正面衝突しても勝ち目はないし、戦う大義名分もありません。そこで1390年、足利義満は閃きました。
足利義満「そうだ!山名氏は家督争いで揉めているみたいだから、これを利用して内部から山名氏を崩壊してやるかww(ゲス笑い)」
ここで当時の山名氏の内部争いについて、以下の系図を使って紹介しておきます。
山名一族の家督は嫡男が順当に行けば
という順番になるはずでした。
ところが、1371年に師義が49歳で亡くなると、この計画はさっそく頓挫してしまいます。というのも、師義の嫡男だった義幸が病弱で若すぎたのを理由に候補から外され、師義の娘と娘婿の関係にあった弟(五男)の時義が家督を受け継いだからです。
・・・が、この家督継承に納得いかない人たちがいました。
山名満幸(義幸の弟)「いやいや、義幸がダメならその弟の俺が家督受け継ぐのが普通っしょ?」
山名氏清「は?年功序列で考えれば、家督を受け継ぐのは俺なんだが?」(この理屈は義理と氏冬にも通じるけど、特に強い不満を持ったのは氏清だったらしい。)
足利義満は、この山名時義VS山名満幸・氏清の争いに注目します。
1384年、山名時義が亡くなって家督を嫡男の時熙(ときひろ)に渡すと、1390年、足利義満は遂に山名一族崩壊計画を実行に移します。
足利義満「そういえば、山名時義って将軍の俺に対してめっちゃ態度悪かったよな。ムカつくから息子の時熙・氏之を失脚させたいんだが、満幸と氏清も協力してくれない?君らも不満持ってるんでしょ?」
満幸・氏清「もちろん協力する。これを機に山名氏の家督を狙うぞ!!」
足利義満「(騙されてるとも知らずにwww)」
こうして、時熙・氏之はなんとも理不尽な理由で失脚。
しかも、話はこれだけで終わりません。1391年、足利義満の態度が180度急変します。
足利義満「うーん、考え直してみたら時熙・氏之ってそんな悪くないし許してやろ。あと、所領問題で問題を起こした満幸は許さんから追放な。それと、これまで管領は斯波氏だったけど、細川氏にするから。山名氏と犬猿の仲の細川氏だけど我慢してなww(所領を近くにもつ山名と細川は何かとトラブルことが多かった)」
と露骨に満幸・氏清を挑発。ここで満幸は、足利義満の策略に気付きます。
満幸「足利義満の節操のない行動は、俺たち山名氏の力を衰えさせるための策略だ。俺たちの敵は時熙・氏之ではない。本当の敵は足利義満だったのだ!今ならまだ間に合う。山名一族の総力で京にいる足利義満に攻め込むぞ!!」
こう氏清を説得し、遂に京への侵攻作戦を決断します。こうして起こったのが明徳の乱です。
しかし、すでに山名氏の内部分裂は誰の目にも明らかであり、足利義満の謀略に気付いても時すでに遅し・・・でした。
明徳の乱
1391年12月、京都市内北部で幕府軍と山名軍との間で激しい戦いが行われます。
結果を先に言ってしまうと、満幸・氏清は惨敗。氏清は戦死し、満幸は辛うじて逃げ出しましたが、のちに捕まり命を落とします。
足利義満は満幸・氏清との戦争に若干の不安を持っていたようですが、結果を見れば足利義満の圧勝でした。
実は足利義満は将来起こるであろう戦いに備え、奉公衆(ほうこうしゅう)という親衛隊を編成していました。明徳の乱ではこの奉公衆が大活躍!義満の予想は見事に的中し、親衛隊の実力が証明されることになりました。
また、山名氏の勢力に警戒していた中国地方の細川・大内氏が足利義満に味方したことも、義満勝利の大きな要因でした。
特に大内義弘の功績は大きく、大内氏は明徳の乱で勢力を拡大することになりますが、勢力拡大は足利義満に警戒感を抱かせることとなり、皮肉にも大内氏は1399年の応永の乱で山名氏と同じ運命を辿ることになります・・・。
山名氏、終了のお知らせ
明徳の乱を通じて、山名氏の勢力は著しく衰えます。時熙は但馬国を、氏之は伯耆(ほうき)国を義満から与えられましたが、これは明徳の乱の戦功を評価されたものであって、山名氏の威厳は無くなっています。
乱が終わってみると、11国もの国の守護を担っていた山名氏の支配国はわずか3国にまで減ってしまいました。
こうして山名氏の勢力は衰えますが、これで終わったわけではありません。この後、山名氏は地道な活躍を積み重ね、再び政界に復帰することになります。ちなみに、応仁の乱の際に活躍する山名宗全は山名時熙の孫に当たります。
明徳の乱まとめ
以上、明徳の乱についての紹介でした。
室町幕府全般に言えることですが、将軍以上に強い力を持つ守護たちがいたおかげで、歴代の将軍たちは幕府運営に非常に苦労することになります。
足利義満は、幼少期に南北朝の動乱で人々が次々に寝返ったり、いろんな勢力が複雑に絡み合っている様子を目の当たりにしていたせいか、人間関係の見極めに非常に長けていた節があります。その教訓から生まれたのが「弱気を挫き、強きを助ける」であり、明徳の乱ではそんな義満の性質がフル活用されています。
これに加えて、足利義満は明徳の乱を通じて奉公衆の重要性を身をもって理解します。足利義満は1399年、大内義弘との間で大規模な戦いを繰り広げますが、この際にも奉公衆の強化をしています。
明徳の乱についてまとめると
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