神皇正統記を書いた北畠親房はどんな人物なのか。簡単にわかりやすく紹介【後醍醐天皇と南朝を支えた重臣】

 

今回は南北朝時代に活躍し、「神皇正統記」の著者でも有名な北畠親房(きたばたけちかふさ)について紹介したいと思います。

 

 

北畠親房といえば、やはり神皇正統記ですよね。この記事では北畠親房の生涯について触れながら、

なぜ神皇正統記を書いたのか?

 

という視点を中心に北畠親房について紹介してみたいと思います。

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後醍醐天皇に抜擢されて大出世

北畠親房は1293年に生まれました。家柄は村上源氏の末裔でいわゆる公家の身分でした。

 

 

青年期は、身分相当の出世コースを歩みます。1307年、若き親房は自分よりも家格の低い人物が自分よりも高い官職を得たことにブチギレて、与えられた官職を辞任するというトラブルを起こしています。

 

この出来事からは、

北畠親房は、家格を重んじる典型的な公家の考え方を持っていた。
不満があったらすぐに行動する公家には珍しい?行動派だった。

1318年、後醍醐天皇が即位すると、厚い信任を得て、順調に出世を遂げていきます。1324年には、本来なら北畠親房の家柄ではなることのできなかった大納言(だいなごん)にまで昇任します。

 

北畠家は、大納言の一つ下の権大納言(ごんだいなごん)までしか出世できなかったので、これはかなり異例のことです。

 

 

また、後醍醐天皇の息子である世良(せよし)親王の乳人(めのと。子供の世話をする人)にも抜擢され、後醍醐天皇から重用されるようになります。

 

 

北畠親房が重用された理由ははっきりとわかりませんが、考えられる理由は3つほどあるのかなと思います。

1 神皇正統記という書を書けるほどの博識の持ち主だった
2 後醍醐天皇がハマっていた「君主には徳が必要」という朱子学(しゅしがく)の理念に北畠親房も同じくハマっていた。
3 公家には珍しい積極的に行動する人間だった。

全部私の勝手な意見ですが、2は当たらずとも遠からずなんじゃないかと思っています。話が少し逸れますが、後醍醐天皇の思想について少し触れておきます。

神の子たる天皇でも徳がない者は国を治める資格なし!!

後醍醐天皇は、ザックリとこんな思想を持っていました。

 

天皇というものは神の子であるがゆえに日本国を治める正統性を持っている。しかし、神の子だからと言ってどんな人物でも国を治めることはできない。徳がなければ、たとえ神の子たる天皇であっても国は乱れ、その身を滅ぼすことになる。

 

 

当時は、鎌倉幕府の指示により皇統が「持明院統」と「大覚寺統」に分裂に、2皇統による皇位継承争いが大きな問題となっていました。詳しい話は、以下の記事を合わせて読んでみてほしいです!

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後醍醐天皇は大覚寺統の皇統であり、こんなことを考えます。

 

政治が腐敗しているのは、徳のない持明院統の者が天皇になっているからだ。持明院統と、それを認めている鎌倉幕府は滅びるべきであり、徳のある私こそが正統な皇統を受け継ぎべきなのだ。だから、私は持明院統を否定し、鎌倉幕府は滅ぼし、自らの徳を世に知らしめるため私自ら政治を行うと思う。

 

こうして起こったのが、鎌倉幕府と後醍醐天皇が戦った元弘(げんこう)の乱(1330〜1333年)でした。

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この徳を重んじる考え方は中国から伝わった朱子学によるものであり、北畠親房の著「神皇正統記」にも後醍醐天皇と似た思想が強く反映されています。

 

 

しかしながら、北畠親房は鎌倉幕府との戦いには参加していません。1330年に世良親王が亡くなると、そのショックで出家してしまったからです。代わりに息子の北畠顕家(きたばたけあきいえ)が朝廷で活躍し、親房はそれを補佐する形で政治に関与することになります。

北畠親房の失望

1333年、鎌倉幕府が滅ぶと北畠親房は政界に復帰し、息子の顕家と共に奥州に向かいます。関東に不測の事態が起こった時に、背後から関東を抑え込むためです。

 

 

一方で、北畠親房は後醍醐天皇の敷いた「建武の新政」にかなり否定的でした。

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「徳を重んじる」という理念は一致していても、その方法論、つまり政治については二人の意見が大きく食い違っていたのです。

 

 

後醍醐天皇が「これまでの貴族や武家が支配していた政治は全部ダメ。天皇自ら行う政治こそが正しい」と考えていたのに対して、

 

 

北畠親房は、「これまでどおり貴族・武家が協力して天皇を支えて政治を行うべきである。ただし、鎌倉幕府のような暴走する輩はダメだ」と考えていました。

 

 

後醍醐天皇の思想は親房の思想と比べるとかなり過激派であることがわかります。貴族・武家を否定した後醍醐天皇の建武の新政には批判の嵐が飛び交います。(北畠親房も批判めいたことを言っている)

 

 

一方、北畠親房の考え方は、貴族や武家が政治に関与することを認めており、非常に現実路線な考え方でした。それもあってか、親房は奥州から畿内に戻ると、南朝方の指導者として活躍するようになります。

神皇正統記が完成する

1333年、後醍醐天皇の建武の新政に不満を持った足利尊氏が反乱を起こします。これを延元(えんげん)の乱と言います。この戦いで、後醍醐天皇は最強チート武将だった楠木正成(くすのきまさしげ)を失います。

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さらに1336年、後醍醐天皇は敗北。吉野に逃げて南朝を開きます。

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1338年には、後醍醐天皇の主力部隊だった新田義貞と北畠顕家(親房の息子!)も戦死。南朝は窮地に陥ります。

 

 

そこで活路を見出したのが、奥州地方でした。というか、東国を抑えるにはもはや奥州を抑えるしか選択肢がありませんでした。

 

そして、この時に奥州統治を任されたのが北畠親房でした。以前に息子と共に奥州統治をした実績が評価された形です。

 

 

親房は早速船で奥州に向かい、足利尊氏らに不満を持つ人たちを集めました。(大嵐による悲惨な旅路だった・・・!)

 

 

北畠親房は関東・奥州の武将たちに大量の書簡を送りました。武将たちを説得し、南朝側に引き込むためです。しかし、そんな努力も虚しく、南朝に味方する武将たちはほとんど現れませんでした。

 

 

というのも、東国武士と北畠親房では全く話が噛み合わないからです。

 

北畠親房の主張はこうです。

「天皇に背くものは滅びる。そして、貴族・武士には古来より決められた身分、役割があるから、天皇に従って決められた仕事を全うすべきである。だから私たちに味方してほしい」

 

なんともまわりくどい・・・。一方、東国武士の主張は超シンプルで

「味方する代わりに勝ったら官位と所領をよこせ」

というものでした。しかし、北畠親房は「官位や所領の処分は昔からの慣例に従うべきであるから、望み通りにするのは難しい」という態度を示します。

 

 

これでは東国武士が北畠親房になびくわけがありません。北畠親房の考え方は、有職故実を重んじる公家的思考そのものであり、東国武士にそれを理解することは不可能でした。

 

 

1339年の秋、北畠親房は関東の尊氏派との戦闘の中、籠城先の小田城(今の茨城県つくば市)で神皇正統記を書き上げます。

 

書いた目的は諸説ありますが、東国武士を説得するために書かれたと言われており、

天孫である天皇の歴史とその偉大さ
天皇に逆らうことの愚かさ

を説こうとしたと言われています。神皇正統記は、初代の神武天皇から今上天皇の後村上天皇までの皇室の歴史を書いた著であり、籠城中のため参考文献などは特に見ずに書かれたものだと言われています。

 

 

私は神皇正統記は少ししか読んでいませんが、参考文献なしで頭の知識だけで書いた本とはとても思えない内容です。素人が読んでも、北畠親房が頭脳明晰な男だったことを痛感することができます。

 

 

戦時中に名著を残した人物には、ローマ帝国の皇帝だったマルクス=アウレリウスという人物がいて、自省録という哲学書を残しています。カエサルも遠征途中にガリア戦記を書いていますし、才のある者はどんな環境でも名作を生み出せてしまうのでしょうかね・・・。弘法筆を選ばずと言うのと同じように。

観応の擾乱と正平一統

さて、話の流れで既にわかっている方もいると思いますが、北畠親房の奥州統治は失敗に終わりました。敗因は親房が自分の政治理念を東国武士に押し付けてしまったことでした。1343年、北畠親房は失意の中、吉野へ帰還します。

 

 

後醍醐天皇は1339年に崩御しており、当時はその息子の後村上天皇が即位していました。そして、その後しばらくは南朝にとっては不遇の時代を迎えます。

 

 

1348年には吉野が足利尊氏軍に攻め落とされ、吉野の南西にある賀名生(あのう)地方に追い込まれています。

 

 

しかし1349年、幕府内の内紛が全国に拡大した観応の擾乱が起こると事態は急変。内紛で不利に陥った足利直義(あしかがただよし)が南朝に接近してきたのです。

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衰退しつつあった南朝にとってこれはビックニュースですが、そもそも足利一族は南朝を衰退させた張本人。直義を受け入れるべきか否か、南朝内では大激論が交わされます。

 

 

この時、北畠親房は一時的に直義を受け入れるべきと提案し、この案が受け入れられました。こうして、室町幕府の内紛を利用して、南朝は次第に勢力を回復し始めます。

 

 

さらに1351年には、直義との関係が悪化すると南朝と直義の分断を狙った足利尊氏が南朝に接近し、突然「南北朝で皇統が分かれてるけど、俺と組んでくれるなら南朝で統一してもOK」とかトンデモナイことを言い始めます。

 

 

もちろん、南朝はこれに飛び付きます。なんせ北朝に勝利できる千載一遇の大チャンスです。南朝と直義の関係を引き裂いた尊氏は、直義追討のため鎌倉へ出兵しますが、その隙を狙って北畠親房は人生最後の大勝負に出ます。

 

 

1352年2月、北畠親房は突如京を襲撃します。当時、足利尊氏は鎌倉にいて、京は息子の義詮(よしあきら)に託されていましたが、奇襲に動揺した義詮は北朝の天皇らを放置したまま京から逃走。北朝の崇光(すこう)天皇と2人の上皇(光厳・光明)は捕らえられ、北朝は本当に断絶してしまうことになります。

 

 

ぐうの音も出ない南朝の完全勝利です。こうして一時的ではありますが皇統は、南朝に一本化されました。これを正平一統(しょうへいいっとう)と言います。(北朝はすぐに復活して、再び南北朝時代が到来するけど・・・))

 

 

京を制圧し完全勝利した南朝は、後醍醐天皇の目指した建武の新政を復興を図ります。(前述したように北畠親房は、建武の新政に否定的だったので現実的な路線に変更されていたはずです。)

 

 

そして、復興の一環として挙げられたのが

足利尊氏の命令によって与えられた所領は全て無効。建武時代に後醍醐天皇が決めた持ち主に所領を戻すべし

というもの。これは室町幕府の存在を否定するものであり、尊氏としては断じて許せるものではありません。室町幕府は義詮を中心に1352年3月に京を奪還。再び南朝は京から追放されてしまいます。

 

 

しかし、一瞬でも南朝を完全勝利に導いた北畠親房の智謀と度胸は強く評価され、後村上天皇から「准后(じゅごう)」というこれまで摂関家と平清盛しかなったことのない破格の待遇を与えられました。

 

 

1352年6月、南朝は再び京を奪還するなど、京を巡って南朝と室町幕府との間で攻防が続き、北朝も幽閉を免れた親王を天皇即位させ復活するなど、目まぐるしく情勢が動く中、1354年に北畠親房は亡くなります。62歳でした。

 

 

北畠親房は南朝にとって無くてはならない優秀な指導者であり、親房を失った南朝は再び凋落の一途を辿ります。北畠親房は、南北朝時代の主役の一人と言っても過言ではないでしょう。

まとめ

北畠親房についてまとめるとこんな感じ!

後醍醐天皇の信任を受けて一躍大出世する。
後醍醐天皇と同じ志を持っていた。しかし、それを実現する政治論については、お互いに相容れないものがあった。
関東の尊氏勢力を抑えるため奥州で活動。周辺武士に南朝への参戦を呼びかけるも、東国武士の意図を汲み取れず破談。戦時中に東国武士を説得するために書かれたと思われる有名な「神皇正統記」が完成する。籠城中に書いたとは思えないほどの知識量と文才!
湊川での敗戦後、南朝は衰退するものの幕府内の内乱(観応の擾乱)に乗じて瞬間的大勝利を実現。北朝を消滅させ、南朝へ皇統を統一させる(正平一統)。この功績により准后という通常ではあり得ない破格の待遇を与えられ、その2年後に逝去する。

 

こうしてまとめてみると、親房は公家らしからぬ決断力と度胸を持っていたことがわかります。息子の北畠顕家も、文武両道の逸材だったことを思うと、やはり親子なのだなと感じざるを得ません。

 

 

北畠親房の成し遂げた北朝の断絶はほんのわずかな期間だったとはいえ、日本の皇室の歴史に大きな影響を与えました。

 

 

江戸時代から戦前にかけて「南朝と北朝はどちらが正統だったのか?」が頻繁に議論されますが、北朝はいつも

 

「北朝は南北朝時代に一瞬だけど断絶してるんだから正統とは言えないだろ」

 

と非常に手痛い反論を受け、弱みを握られ続けることになります。(この議論は時に政治にも利用された)

 

 

ちなみに、現在の宮内省は南北朝時代に関しては南朝が正統との公式見解を示しています。北畠親房の活躍がなければ、この公式見解は違ったものになっていたかもしれません。そんな感じで、決して知名度のある人物ではないですが日本の歴史に今もなお強い影響を与え続けているのが今回紹介した北畠親房でした。

あと、興味がある方はぜひ神皇正統記も読んでみましょう!数百年経過した今でも、北畠親房の思想を感じることができますよ!

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