面白いほどわかる細川勝元!その生涯を簡単に徹底解説!【応仁の乱をかき乱し、東軍を勝利目前まで導いた男】

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今回は、応仁の乱で活躍した細川勝元ほそかわかつもとについてわかりやすく丁寧に解説します。

この記事を読んでわかること
  • 細川氏ってどんな一族なの?
  • 細川勝元と山名宗全の関係は?
  • 応仁の乱ではどんな活躍をしたの?
  • 細川勝元ってどんな人だったの?
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室町幕府のエース、細川氏

細川勝元の話に入る前に、まずは細川勝元が属していた細川氏について簡単におさらいしておきます。

細川氏は、南北朝時代足利尊氏の部下として活躍していました。そして、その活躍と血筋が認められ、畿内きない・四国を中心に多くの所領を与えられました。

足利氏と細川氏は共に清和源氏の血筋

2代将軍の足利義詮の時代になると細川氏は幕府No2の地位である管領に就任し、将軍を補佐。3代将軍の足利義満が若くして将軍になると、細川頼之よりゆきという人物がその後見も任されています。

細川頼之が義満の時代に功績を残すと、たくさんいた細川氏の中で細川頼之の家柄だけが管領になることを認められるようになります。

この細川頼之の家柄のことを細川京兆家ほそかわけいちょうけと言います。今回紹介する細川勝元も細川京兆家の人間です。

まとめると、将軍家からとても信頼されていた一族だった・・・ということです。

足利義満の時代になると、管領になれるのは清和源氏の血筋のうち、斯波氏・畠山氏・細川氏の3つの家柄だけに限定されました。(この3つの家柄のことを三管領と言います。)

家柄を限定したのは、それ以外の者が管領になろうとして争いを起こすのを防ぐため。逆に1つの家柄に世襲させなかったのは、特定の家柄が突出して強い力を持つことを防ぐためでした。

3つの家柄というのはちょうどバランスが良かったのでしょう。

斯波・畠山・細川はその時々の政治情勢やパワーバランスによって、それぞれ管領に就任しますが、やがて斯波・畠山が家督争いでグダグダになり、細川氏が管領になる期間が長くなっていきます。(つまり、細川氏が強い力を持つ期間が増えた)

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細川勝元・山名宗全・大内政弘 〜三つ巴の攻防〜

細川勝元は1430年、細川京兆家の嫡男として誕生します。

1442年に父(細川持之)が亡くなると家督を受け継ぎ、1445年にはまだ10代にという若さで、管領に就任することになります。

先ほど話したように斯波・畠山は家督争いでゴタゴタが続いたため、細川勝元は長期にわたり管領として強い力を持ち続けます。1445年〜1473年まで、若干の空白期間はありつつも合計23年もの間、管領の座に君臨しました。

ただし、管領だからと言って好き放題できたわけではありません。山名氏や大内氏と言った強い力を持つ守護大名たちとの争いが絶えなかったからです。

  • 山名氏:中国地方に勢力を持つ有力守護
  • 大内氏:今の山口県付近と九州北部に勢力を持つ有力守護

細川勝元は、四国・畿内に所領を持つ守護大名でした。

なので、隣接する九州や中国地方とトラブルが起こるのは地理的に考えれば必然だったのです。

最初、細川勝元は山名宗全との争いを避けるため、山名氏と婚姻関係を結びます。

細川勝元
細川勝元

山名氏は強すぎるので、これと争うべきではない。

山名宗全の娘を私の正室とすることで、婚姻関係を結び、山名氏とは良好な関係を保つのが得策。

こうして1447年、細川勝元は宗全の娘を正室に迎えました。

後顧の憂いを絶った細川勝元は、勘合貿易の利権をめぐって関係が悪化していた大内政弘おおうちまさひろとの対立を深めていきます。

勘合貿易とは、明との貿易のこと。

貿易が始まった頃は、3代将軍の足利義満が貿易権を独占していましたが、義満が亡くなるとその利権をめぐって細川氏と大内氏の間で対立が起こりました。

大内氏は博多港、細川氏は神戸港という良質の港を持っていたので、両者の対立は必然でした。

両者の対立は、伊予国いよのくにの家督争いという形で表面化します。

1449年、伊予国の守護で本家だった河野教通こうののりみちが分家の河野通春こうのみちはるに守護の座を奪われます。

教通と通春のバックには、それぞれ細川勝元と大内政弘が付いていました。(河野家の争いは、細川勝元と大内政弘の代理戦争だった・・・とも言える)

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細川勝元VS山名宗全

1460年代に入ると3者の関係に大きな変化が見られ、細川勝元と山名宗全は次第に対立するようになります。

理由は色々あります。

細川勝元「山名宗全が嫌いな赤松氏を復興させたぞ」

1つは没落していた赤松氏が1458年に復活したことです。

赤松氏はもともと、兵庫県周辺を支配していた有力な守護大名でした。しかし1441年に赤松満祐が嘉吉の変によって将軍を暗殺すると、山名氏に成敗されてしまい没落。赤松氏が持っていた所領も山名氏に奪われてしまいました。

こんな経緯があるので、赤松氏が復活すれば山名宗全と争いが起こるのは必然。山名宗全は赤松氏の復興に反対します。

・・・ところが、山名宗全の勢いが増すことを恐れた細川勝元は裏で暗躍して、赤松氏の復興を認めるよう幕府に働きかけました。

赤松氏には復興の証として加賀国の一部が与えられ、赤松氏は昔に山名氏奪われた所領を取り戻すため、山名宗全と敵対することになります。

山名宗全「細川勝元の敵である大内政弘と組んだぞ」

一方で山名宗全は、勘合貿易をめぐって細川勝元と長い間対立を続けていた大内政弘に接近して、細川勝元を刺激します。

【悲報】細川勝元と山名宗全、犬猿の仲へ・・・

1466年になると、細川・山名の争いは決定的となります。

8代将軍の足利義政が、斯波・畠山両家の家督争いへの介入に失敗すると、斯波・畠山の家督争いはさらに激化。(義政は火に油を注いでしまった・・・!)

斯波氏では斯波義廉しばよしかど斯波義敏しばよしとしが。畠山氏では畠山義就はたけやまよしなり畠山政長はたけやままさながが、争っているとそこに細川勝元と山名宗全も介入。

争いは以下のような構図になり、細川勝元と山名宗全は完全に敵対することになりました。

細川勝元派山名宗全派
斯波氏斯波義敏斯波義廉
畠山氏畠山政長畠山義就

おまけに細川勝元は、同年(1466年)に嫡男である細川政元が生まれると、山名宗全から養子としてもらっていた山名豊久を用済みとばかりに仏門に押し込みました。

これは、将来起こりうる細川京兆家の家督想相続の際に、豊久をその候補から抹消するためです。こうして細川勝元は山名宗全に対して、挑発を続けました。

細川勝元
細川勝元

山名宗全と戦いたいわけではないが、宗全は強くなりすぎた。

悪いが宗全の好きにさせるわけにはいかない。

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応仁の乱

1467年1月、畠山義就がクーデターを起こします。山名宗全と協力して将軍の足利義政に圧力をかけることで、畠山政長を畠山氏の家督の座から引き摺り下ろしてしまいます。

これにブチ切れた畠山政長は遂に挙兵をし、同月(1月)、畠山義就と畠山政長が京内で武力衝突します。(御霊合戦)

これに山名宗全が参戦します。もちろん、山名宗全は畠山義就を支援する立場です。

一方の細川勝元も畠山政長に援軍しようとします。しかし、京で戦乱が起こるのを恐れた足利義政がこれにストップをかけます。

足利義政
足利義政

戦火を広めないためにも、何人も政長VS義就の戦いに加勢してはならん。

細川勝元はこの命令に大人しく従いますが、将軍を舐め切っている山名宗全はこれを無視します。

山名宗全「義政の言うことなんか無視でOK。畠山政長をぶっ潰すww

こうして、畠山政長は敗北。京から追い出されてしまいました。

山名宗全が足利義政の命令を無視したことに、細川勝元はブチ切れました。知らない人たちが見れば、細川勝元が畠山政長を見捨てたように見えてしまったからです。

細川勝元って、畠山政長が苦戦しているのに何もしなかったらしいわよ。

なんて薄情な人なのかしら・・・ww

メンツを潰された細川勝元は、山名宗全への復讐を決意します。

細川勝元
細川勝元

山名宗全の野郎、絶対に許さんぞ。

メンツを潰されたせいで、幕府での俺の立場まで危うくなりそうじゃねーか。

名誉挽回のためには山名宗全をぶっ倒すしかない。宗全がそーゆーやり方をするなら、こっちも相応のやり方で仕返しをしてやる。

目には目を。歯に歯を・・・だ。

1467年5月、細川勝元は兵を集めて挙兵。花の御所(将軍の住処)を制圧して、足利義政を手中に収めました。

足利義政
足利義政

細川勝元に家を包囲されたんだがww

もう細川勝元が正しいことにして、将軍の旗も細川勝元に渡すわ。

こうして足利義政は、細川勝元の行動(畠山政長を助けようとしたこと)を正当な行為だと認めてしまいます。

・・・これは、義政が1月に下した「政長じゃなくて義就が畠山氏の家督!」という決定を覆したことになります。

将軍のお墨付きをもらった細川勝元は、畠山政長や斯波義敏らと共に戦闘を開始。この戦いによって戦乱は本格化し、京は戦火に包まれました。

この時、細川勝元が花の御所がある京の東側に陣を構えたことから、細川勝元軍のことを東軍

一方、花の御所に対して西側に山名宗全の邸宅があることから、山名宗全軍のことを西軍と言います。

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細川勝元の最期

細川勝元と山名宗全のドンパチが始まると、両派閥の守護大名たちが援軍のために次々と京に集結。

そして、守護大名が留守の間を狙って、各国でも戦乱が起こります。各地で戦乱が起きた理由は様々です。

  • 応仁の乱の戦費・軍役負担に不満を持った人たちが反乱を起こした
  • 守護大名に搾取されていた人々の不満が爆発した
  • 守護大名の留守を狙って下克上げこくじょうを狙った
下克上に成功した朝倉孝景

1471年、細川勝元は西軍のエースだった朝倉孝景あさくらたかかげの野心を利用して、こう持ちかけます。

細川勝元
細川勝元

朝倉孝景よ。東軍に寝返れば、越前国の守護にしてやるよ。

大名の家臣であるお前が守護になれるなんて破格の待遇だぞ!

この誘いに乗った朝倉孝景は、東軍に寝返って越前守護の地位をゲット。越前国の守護だった斯波氏が京にいる隙に、守護の座を奪ってしまったのです。

朝倉孝景は後の戦国時代で見られる下克上の先駆者となり、この寝返りによって戦況は東軍有利に大きく傾きました。

各地で戦乱が起こると、守護大名たちも京で戦っている場合ではなくなってきます。

守護大名たち「早く帰らないと領国が崩壊してしまう・・・!」

京に厭戦えんせんムードが広がり始めると1472年、朝倉孝景の寝返りで優位に立っていた細川勝元は山名宗全に対して和睦の提案をします。

山名宗全はこれを拒否しますが、1473年3月に山名宗全が病で亡くなったため、一気に和平ムードが高まります。

・・・しかし、その2ヶ月後の1473年5月、次は細川勝元が亡くなってしまいます(享年44歳)。こうして、東軍・西軍の総大将が共に亡くなってしまいました。

後を託された宗全・勝元の息子たち、山名政豊やまなまさとよ細川政元ほそかわまさもとに争いの意志はなく、その後、両者の間で和睦が成立。

こうして、京での戦いは少しずつ収束していきますが、地方では守護大名やその家臣たちの家督争いが続きました。

1467年、日野富子の暗躍もあって、応仁の乱はようやく終結することになります。

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細川勝元の人柄 〜智謀に長け、文化にも精通〜

細川勝元は、

  • 長年管領の座に居続けた政治力
  • 大内・山名との争いで培った外交力
  • 応仁の乱で見せた決断力と智謀

を兼ね持った勇将だった一方で、文化人でもありました。

細川勝元は禅や儒教の教えに精通しており、1450年には石庭で有名な龍安寺りょうあんじを建立します。

龍安寺の石庭

さらに、医学の知識や和歌・絵画などの美術についても詳しい知見を持っており、文化人だった8代将軍の足利義政と並ぶ当時最高レベルの教養人だったのです。

長く管領として足利義政を補佐し続けた細川勝元です。もしかすると義政とも、たまには仕事の話を抜きにして、趣味の話で盛り上がっていたかもしれませんね。

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細川勝元のまとめ【年表付】

細川勝元の生涯まとめ
  • 1430年
    細川勝元、生まれる
  • 1445年
    細川勝元、細川氏の家督を受け継ぐ
  • 1447年
    細川勝元、山名宗全の娘を正室とする。

    領国の安定統治のため、山名氏と友好な関係を結ぶ

  • 1449年
    細川勝元、伊予国の家督争いに介入

    伊予国の家督争いを代理戦争に細川勝元と大内政弘が争う。

    細川と大内は勘合貿易の利権をめぐって対立していた。

  • 1458年
    細川勝元、没落していた赤松氏を復活させる

    嘉吉の変で山名氏に領国を奪われていた赤松氏を復活させる。

    勢力を増す山名宗全を牽制しようとする狙いがあった。

  • 1466年
    細川勝元と山名宗全が対立する

    畠山・斯波の家督争いを通じて細川勝元と山名宗全が対立する。

  • 1467年
    応仁の乱

    畠山氏の家督争いが細川勝元(東軍)VS山名宗全(西軍)の戦いへ発展。京が戦火に焼かれる

  • 1471年
    細川勝元、西軍の朝倉孝景を東軍に引き入れる

    戦況は東軍の優勢へ

  • 1473年
    細川勝元、亡くなる(享年44歳)
  • 1477年
    応仁の乱、終結する
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この記事を書いた人
もぐたろう

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