今回は、1333年〜1336年にかけて行われた後醍醐天皇による建武の新政(けんむのしんせい)について紹介します。
1333年、元弘の乱によって後醍醐天皇の長年の悲願だった「鎌倉幕府ぶっ倒す!」が実現。後醍醐天皇は遂に理想の政治を行えるようになりました。しかし!!その政治(建武の新政)がそれはもうグダグダすぎて目も当てられない有り様。
どれぐらい酷かったかと言うと、後醍醐天皇と鎌倉幕府の間のドンパチ(元弘の乱)がやっと終わったかと思うと、建武の新政があまりにも酷すぎて再び国内で内乱が起きてしまったほど!
この記事では、
最初に注意!建武の「新政」と天皇「親政」の違い
建武の新政とは簡単に言うと「後醍醐天皇が行った天皇親政」のこと。ただ、ちょっとした注意点があります。
それは建武の「新」政なのにその中身は天皇「親」政だってところ。
「新」と「親」で漢字が違うんです。わかりにくいですよね。
なぜ漢字が違うのかというと、後醍醐天皇が行った天皇親政が今までにない全く新しい政治だったから。だから、後醍醐天皇による天皇「親」政のことを建武の「新」政と呼ぶのす。
というオマケ的な話を踏まえつつ本題に入ろうと思います。
建武の新政はなぜ始まったか
まず最初に後醍醐天皇はなぜ天皇親政を目指したのかを考えてみます。
後醍醐天皇自身が野心を秘めた男だったというのもありますが、一番大きい理由は、鎌倉時代末期から続いていた熾烈な皇位継承争いにありました。
ちょっと複雑な話になるので以下の天皇の系図を使って説明します。
承久の乱以降、皇位継承には鎌倉幕府の意思が色濃く反映されるようになりました。
そして、鎌倉幕府の提案によって当時は後醍醐天皇→邦良親王→光厳天皇(上の図で関係を確認してみてね)の順で天皇即位をすることになっていました。
ここで「なんか天皇の皇統が2つ分裂してるんだが?」と疑問を持った方は、以下の記事を読んでからこの記事を読むと事情がよくわかると思います。分裂した背景やその理由について紹介しています。
後醍醐天皇はこの皇位継承の順番に納得いきません。皇統が分裂する中、後醍醐天皇は「俺の正統こそが、真に正しい天皇家の血統である」と強い信念を持っており、次の天皇には自分の息子を即位させたがっていたからです。
邦良親王が1326年に亡くなると鎌倉幕府主導で「じゃあ、後醍醐天皇の次の天皇は光厳天皇な」と決まりますが、自分が正しいと信じる後醍醐天皇はこれを拒否し、光厳天皇への譲位を拒み続けます。(いわゆる牛歩作戦です)
しかし、光厳天皇を即位させようとする持明院統や幕府からの圧力が続くことを考えれば、このままでは後醍醐天皇はジリ貧です。すると後醍醐天皇はこんなことを考えました。
後醍醐天皇「私が正統な血筋であることを世に示すには、私自らの徳によって天下に善政を敷くしかない。しかし善政を敷くには、まずはいちいち口と手を出してくる鎌倉幕府を消さなければならぬ!!」
この後醍醐天皇の願いは、1333年に鎌倉幕府が滅亡したことで現実のものとなります。ちなみに、鎌倉幕府滅亡の経過は以下の記事で紹介しています!
というわけで、後醍醐天皇が自らを天皇家の嫡流と世に証明するために善政を敷こうとして行ったのが建武の新政ということになります。
後醍醐天皇「延喜・天暦の治を手本にするぞ」
後醍醐天皇は、自らの政治を延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治になぞらえました。
延喜・天暦の治とは平安時代中期、村上天皇と醍醐天皇によって行われた天皇親政のことを言います。
平安時代は、摂関政治や院政など藤原氏や上皇という天皇以外の者が権力を奮った時代。そんな中、村上天皇と醍醐天皇は藤原氏や上皇に頼らず自ら政治を行った象徴的な天皇として広く有名だったのです。(ただし実際はそれほど天皇親政ではなく、あくまで「思われていた」だけだったりします。詳しいは上の記事を読んでみてね)
延喜・天暦の治を目指したのは、貴族にも上皇にも、そして幕府にも指図されず自ら政治を行いたいという後醍醐天皇の意思の表れだったのです。しかし、その志とは裏腹に建武の新政は世に大混乱を招くことになってしまいます。
複雑すぎる恩賞問題
当時の人々の最大の関心ごとは、元弘の乱で敵味方別れて戦った人たちへの恩賞や人事についてでした。
当時の恩賞とはつまり土地のこと。「誰にどれだけの土地を与えるか?」を決めければなりません。後醍醐天皇は当然、協力者には恩賞を、敵対した者は領地を没収することを決めましたが、事は口で言うほど単純じゃありません。
この恩賞問題は揉めに揉めました。そもそも「敵」と「味方」の区別がめちゃくちゃ難しい。当時、多くの人々は「勝てそうな方に味方すれば恩賞が貰えるで!!」と勝てそうな人に味方する傾向が強くありました。
しかも、「あ、やっぱこいつはダメや。もう負ける」と思ったら「じゃあ、次はあっちに寝返るわ。さいならwww」と同じ人が敵になったり味方になったり、なんかもうカオスな状態になっていました。
だから、パッと味方に見えても直前までは敵方として戦って味方に大損害を与えていた人とかが普通にいるわけです。というか、後醍醐天皇のために大貢献した新田義貞・楠木正成なんかがまさにそうです。
元弘の乱以前の大合戦を見てみると、源平合戦と承久の乱この2つの戦いでは「敵」は多くの人が納得しうる最低限の人々に留められました。源平合戦では平氏一族とその家人たち。承久の乱では、処罰の対象は首謀者に限るとされました。
こうして事は穏便に済んだのですが、後醍醐天皇は「敵」の解釈を広く適用しました。なぜかというと、敵が多くないと多くの領地を没収できず、味方に土地を恩賞として与えられないからです。
問題はそれだけじゃありません。後醍醐天皇は、過去に幕府が決定した所領裁判の結果を頻繁に覆しました。後醍醐天皇としては「天皇の意が汲まれていない決定などもはや決定とは言えぬ」と考えていたのですが、これがまた大混乱を招きます。
これまで鎌倉幕府に従っていた御家人たちは、幕府の決定や幕府が制定した御成敗式目に従って土地を巡るトラブルを解決してました。
これが否定されるとこんなことが起こります↓
御家人A「俺は1240年頃に、もぐもぐ荘という土地を幕府から頂いたぞ!」
御家人B「はっ?もぐもぐ荘は昔に不正にお前から奪われたんだぞふざけんな。」
後醍醐天皇「んー、それは幕府の決定が悪いよね。もぐもぐ荘は御家人Bの土地な!」
御家人A:(゜Д゜)ポカーン
さらには、「どうせ昔のことなんて朝廷も詳しくわからないんだし、とりあえず訴訟起こしとけば土地を貰えるかもしれない!ゴネ得や!!」と嘘偽りで京へ裁判を願いに行く者まで現れる始末。
こんな感じでそもそも敵味方の区別が難しい上に、後醍醐天皇が過去の所領裁判の結果を否定しちゃったもんだから、嘘偽りも含めた訴訟案件が山のように積み上がり、朝廷には無秩序が広がりました。
建武の新政と人事問題
土地の問題と同じく人事の面でも建武の新政は大きく揉める事になります。
まず大きな貢献をした足利尊氏の処遇で揉めました。足利尊氏は、元弘の乱で六波羅探題を滅ぼした後、六波羅探題に居座って鎌倉幕府亡き後の御家人たちの求心力として強い存在感を示していました。
しかし、天皇親政を目指す後醍醐天皇にとって、幕府は否定しなければならない存在。なので、元弘の乱の大活躍にも関わらず足利尊氏は要職にも就けず、望む征夷大将軍にもなることができませんでした。
そして、足利尊氏に親しいの多くの御家人たちも同じく不遇に見舞われることとなり、後醍醐天皇に強い不満を抱くようになります。
さらに、悲劇に見舞われたのは御家人だけではありません。以外にも貴族たちの中にも建武の新政によって財源を奪われ人生が終了してしまった人たちがいました。
当時の貴族たちの生活は、身内を地方の国司に任命し、そこから得られる税金を懐に入れることで成り立っていました。ところが、後醍醐天皇はこれを否定してしまったのです。
後醍醐天皇「国司って昔は国のための徴税官だったけど、なんか今は貴族たちと癒着しててダメダメだよね。だからそーゆーしがらみ全部無くすわ。」
これに貴族たちは戦々恐々。ちなみに、貴族と地方で癒着が起こったのは平安時代中期から。「癒着」というと響きが悪いですけど、これには「律令制が崩壊し、国が貴族たちにお給料を払えないから、貴族たちが自力で金を稼ごうとした」という側面もあったりします。そう思うと、貴族たちのこの処遇は不憫極まりないです。
建武の新政って、貴族が優遇されて御家人が冷遇された!ってイメージがありますけど、後醍醐天皇は摂関政治みたいな貴族が権力を牛耳ることも否定しているので、一辺倒に貴族が優遇されたわけでもないんです。
こうして武家・公家共に、建武の新政のおかげで大混乱に陥りましたが、没落する人がいれば、その代わり下から這い上がってくる人もいるわけで、要するに建武の新政って運ゲーだったんです。
それに、建武の新政は人々に混乱をもたらすだけでなく、政治腐敗をも招いてしまいます。後醍醐天皇が政治の全てを決めるようになると、天皇への媚びへつらいや賄賂が横行し始め、人々の後醍醐天皇への不満はさらに高まっていきます。
諸国平均安堵法と雑書決断所
このようなグダグダな建武の新政でしたが、あまりにも酷すぎるのですぐに方針の転換に迫られることになります。
建武の新政が始まったのが1333年6月ですが、その翌月の7月になると諸国平均安堵法(しょこくへいきんあんどほう)という法が発令されました。内容は「敵は北条高時一門の人々だけにするよ。そして、所領問題は基本地方に任せるよ。」というもの。
これは、「裏切りしたやつは敵認定すべきか味方認定すべきか」問題で揉めに揉めて、朝廷に舞い込んでくる訴訟案件がパンクした結果です。
さらに少し経って、雑書決断所(ざっしょけつだんしょ)という部署が設けられます。これは、天皇の代わりに問題を決定するための機関。
後醍醐天皇は当初、「天皇親政を目指すんだから、物事の決定は全て俺の決定で行う!!(キリッ」と自負していましたが、日本中の案件を1人で決定することは不可能でした。(そりゃ当然だよね・・・)
雑書決断所には、御家人に関する問題を解決するために御家人身分の人も加わっており、幕府を否定する後醍醐天皇はそもそも自己矛盾に陥ってしまいました。
そんな感じで、建武の新政は始まってすぐに崩壊へと近づいて行きます。(良く言えば、現実な政策へと軌道修正されていったとも言えます。)
建武の新政の崩壊
このような不穏な空気の中、1335年に大きな事件が2つ起こります。
1つは、公家の西園寺公宗(さいおんじきんむね)によるクーデター未遂事件。
西園寺公宗は、この2人と連携しクーデタを企てますが事前に計画が露見し失敗。西園寺公宗は誅殺されますが、これがもう1つの大きな事件へと繋がります。
それが、1335年に起こった中先代(なかせんだい)の乱。北条高時の遺児だった北条時行が信濃国で鎌倉を奪還しようと挙兵した事件で、西園寺公宗のクーデターに呼応したものと考えられています。
中先代の乱の鎮圧を任されたのは、関東一帯の統治を任されていた足利尊氏の弟の足利直義(あしかがただよし)。
そして、弟を助けようと京から鎌倉に向かった足利尊氏が中先代の乱を鎮圧すると、次は足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、再び戦乱の世が訪れます。
足利尊氏と後醍醐天皇の戦いは1336年に足利尊氏の勝利に終わり、これによって建武の新政は終わりを告げることになります。
建武の新政まとめ
建武の新政についてまとめるとこんな感じ。
最後に、建武の新政の歴史的意義について考えてみると、ズバリその意義は「建武の新政への反発から室町幕府が創設され、天皇の影響力は完全に地に落ちた」という点にあると思います。後醍醐天皇以後、失墜した天皇権力は明治時代まで回復することはなく、基本的に天皇は政治の中心からは姿を消します
なんとなく、室町時代〜江戸時代の天皇って地味だと思いません?つまりはそーゆーことです。「天皇権力という名の最後の打ち上げ花火」こそが建武の新政なのだろうと私は思います。(わずか3年でド派手に暴れたのも、瞬間を彩るきらびやかな花火のようですしね!!)
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