

今回は足利尊氏(あしかが たかうじ)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!室町幕府を開いた初代将軍だね。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
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足利尊氏といえば、後醍醐天皇を裏切って幕府を乗っ取った「反逆者」というイメージがありますよね。戦前の教科書では「逆賊」とまで呼ばれた人物です。
でも実は、尊氏は当時の武士たちから絶大な人望を集め、禅僧の夢窓疎石からは「慈悲・勇気・無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍」と絶賛されていた人物でした。今回はそんな波乱万丈の生涯を、わかりやすく解説していきます。
足利尊氏とは?(3行でわかる簡単まとめ)
- 足利尊氏(1305〜1358年)は、室町幕府の初代将軍。鎌倉時代末期に生まれ、南北朝の動乱を生き抜いた武将です。
- 1333年に鎌倉幕府を倒し、1338年に室町幕府を開きました。後醍醐天皇の建武の新政が失敗した後、自ら征夷大将軍となります。
- 後醍醐天皇と対立し、南北朝時代の引き金になった人物。武士から絶大な人望を集める一方、弟・直義との内紛も経験した複雑な英雄です。
足利尊氏が活躍したのは、鎌倉時代の末期から南北朝時代の初期にかけて。日本の歴史でも屈指の動乱期です。1333年の鎌倉幕府滅亡から1392年の南北朝合一までは、約60年にわたって朝廷が2つに分裂する異常事態でした。
その混乱のなかで、尊氏は南北朝時代のキーパーソンとして歴史の表舞台に登場します。最初は鎌倉幕府の武将、次に倒幕の英雄、そして楠木正成と戦う敵対者、最後に室町幕府の創設者──と、立場をめまぐるしく変えながら時代を動かしていったのです。

足利尊氏って「悪役」のイメージがあるけど、実際はどんな人だったの?

実は夢窓疎石(むそうそせき)から絶賛された前代未聞の将軍なんだよ!この記事では「悪役イメージの裏側」も含めてくわしく見ていこう。
では、まずは尊氏がどんな家に生まれたのか、足利氏のルーツから見ていきましょう。
鎌倉幕府の名門、足利氏
足利尊氏は、鎌倉時代の御家人のなかでも特別な家柄に生まれました。父は足利貞氏、母は上杉清子。足利家は鎌倉幕府の有力御家人として、北条氏に次ぐほどの地位を持っていた一族です。
なぜそれほど別格だったのか。その理由は、足利氏が清和源氏(せいわげんじ)の名門だったからです。
■ 清和源氏の流れを汲む名門
足利氏は、清和天皇の血を引く清和源氏の流れを汲む一族です。八幡太郎で有名な源義家の子・義国が下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)の足利荘を所領としたことから、その子・義康が「足利」を名乗ったのがはじまりです。
つまり足利氏は、源頼朝と同じ清和源氏の血筋。鎌倉幕府を開いた頼朝の家系(河内源氏の本流)が3代で絶えたあと、源氏の名門として「いつかは将軍家になる可能性がある家」と見なされていました。
■ 尊氏の誕生と幼少期
尊氏は1305年に生まれました。幼名は又太郎、元服後の名前は最初高氏(たかうじ)。これは鎌倉幕府の執権・北条高時から「高」の一字をもらった名前です。
のちに後醍醐天皇から「尊治(たかはる)」の「尊」の字をもらって「尊氏」に改名します。当時の武士にとって、主君から名前の一字をもらうことは最高の名誉。尊氏は鎌倉幕府からも、天皇からも一字を授かった、まさに「名門中の名門」だったわけです。

「高氏」と「尊氏」って、別人かと思ったらおなじ人なんだ!紛らわしい!

そう、鎌倉幕府を倒すまでが「高氏」、それ以降が「尊氏」だと思っておけばOK!テストでは「尊氏」で出ることが多いよ。

我が足利家は源氏の名門。御家人たちからは「いずれ将軍になる器」と思われていたのだよ。北条氏が幕府を独占する状況に、不満を持つ武士は少なくなかった。
こうした「源氏の名門」という血筋が、後の倒幕運動でも将軍就任でも大きな武器になっていきます。次の章では、そんな尊氏の人物像──「朗らかで太っ腹」と評された性格を見ていきましょう。
足利尊氏の性格と人物像
足利尊氏の性格は、ひと言で言うと「朗らかで太っ腹、戦場では勇猛、でも内面は揺れやすい」という三面性を持った複雑な人物でした。
同時代の軍記物語『太平記』や禅僧・夢窓疎石の証言から、その人物像をくわしく見ていきましょう。
■ 朗らかで「太っ腹」な性格
尊氏の一番の魅力は、なんといっても気前のよさです。『梅松論(ばいしょうろん)』という史料には、こんな逸話が残っています。
戦に勝つたびに、家来から献上される財宝や土地を、中身も確認せずに次々と家来たちに分け与えてしまう──そんな型破りなふるまいです。普通の武将なら「自分の取り分」を確保するところを、尊氏は「全部あげちゃう」。これが武士たちの心を強く掴みました。
■ 戦場では無双の勇猛さ
もうひとつの顔が、戦場での圧倒的な勇猛さです。鎌倉幕府末期から南北朝の戦いまで、尊氏は何度も「絶体絶命」の窮地に追い込まれましたが、そのたびに逆転勝利を収めています。
とくに有名なのが、1336年の湊川の戦い。一度は新田義貞・楠木正成の連合軍に敗れて九州まで落ち延びたものの、そこから九州武士を結集して大軍勢で京へ攻め上り、見事に勝利を収めました。この「ピンチに強い」性質が、武士たちから「この人についていけば勝てる」という信頼を生んだのです。
■ 優柔不断・精神的な揺れ(出家願望)
一方で尊氏には、意外な弱さもありました。強気と弱気のあいだで激しく揺れる、繊細な内面です。
後醍醐天皇に弓を引いたあと、尊氏は繰り返し出家を望みます。その最初の機会は1335年12月──後醍醐天皇との全面対立が始まった直後のことです。尊氏は鎌倉の浄光明寺に蟄居し、出家を試みました。周囲の必死の説得でようやく思いとどまりましたが、心が折れかけていたのは明らかでした。
さらに衝撃的なのが、翌1336年8月に清水寺へ奉納した「自筆願文」です。この頃、尊氏は湊川の戦いで楠木正成を打ち破り、光明天皇を擁立した──まさに権力の絶頂期にありました。ところが願文の内容は、「この世は夢のごとく候。直義に現世の幸運を譲り、後生の安穏を願う」というものでした。
📝 自筆願文とは:清水寺に尊氏自身が書いて奉納した祈願文。現在は国の重要文化財に指定されており、文化遺産データベースで確認できます。勝利の直後に「出家したい」と記した将軍の肉声として、歴史的に貴重な一次史料です。
精神的な落ち込みは日常にも表れていました。尊氏は毎年正月の書初めに「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書き続けたと伝わります。また苦戦が続くなか、「直義が死ねば自分も生きていても無益だ」と漏らし、周囲に強く叱責されて踏みとどまることもありました(『太平記』)。とくに観応の擾乱で弟・直義と決裂したときは、ふさぎ込んで政務を投げ出す場面もありました。
こうした言動をもとに、後の研究者・佐藤進一氏は尊氏を「躁うつ気質」と評しました。ただし近年は呉座勇一氏らが「医学的根拠のない解釈」と批判しており、確定した学説ではありません。「勝利の絶頂で出家を願う」という矛盾した行動は、単に病気と言い切るのではなく、武士として戦いを続けながらも仏教的な「無常観」を深く内面化していた尊氏の複雑な人間像を示すものとして理解することもできるのです。
💡 夢窓疎石による尊氏評:尊氏が深く帰依した禅僧・夢窓疎石は、尊氏のことを「慈悲・勇気・無欲の三徳を兼備した、前代未聞の将軍」と高く評価しました。負けた敵兵も殺さず、財宝に執着せず、戦の最前線にも立つ──この三つを兼ね備えた武将は、たしかにめずらしい存在だったのです。
そんな尊氏が、いよいよ歴史の表舞台に立つことになります。次の章では、尊氏が鎌倉幕府を裏切る決断をした経緯を見ていきましょう。
足利尊氏、鎌倉幕府を裏切る
1333年。鎌倉時代の最末期、当時28歳の足利高氏(のちの尊氏)は、人生で最大の決断を迫られます。主君・北条氏を裏切り、後醍醐天皇に味方するかどうか──。
この時、元寇以降の御家人たちの不満、後醍醐天皇の倒幕計画、そして北条氏への失望が複雑に絡み合っていました。
■ 後醍醐天皇の倒幕運動と尊氏の立場
当時、後醍醐天皇は鎌倉幕府の打倒を目指して動き出していました。1331年には元弘の乱を起こし、笠置山(かさぎやま)で挙兵。一度は捕らえられ隠岐へ流されますが、2年後に脱出し、ふたたび倒幕の旗を掲げます。
このとき鎌倉幕府は、後醍醐の鎮圧を足利高氏に命じます。鎌倉から大軍を率いて京へ向かう尊氏──しかし彼は、道中の三河(みかわ、現在の愛知県)で重大な決断をします。


北条氏の幕府などもはや時代遅れじゃ。朕(ちん)が自ら政治を執り行う、天皇親政こそが正しき政(まつりごと)である!高氏よ、朕の味方となれ。
■ 六波羅探題を攻略!幕府討伐へ転換
1333年5月、足利高氏は突如として後醍醐天皇側に寝返り、京都の六波羅探題を攻撃します。
※六波羅探題:京都に置かれた鎌倉幕府の出先機関。朝廷を監視し、西国(西日本)の御家人を統括する重要拠点。

当時、御家人たちは元寇のあとに恩賞をもらえず、北条氏への不満が爆発寸前。尊氏もこの空気を読んでいたんだ。
六波羅探題は鎌倉幕府の西国支配の要(かなめ)。ここを失うと、幕府は西日本のコントロールを失います。高氏の電光石火の攻撃に、北条仲時(なかとき)ら六波羅勢は壊滅。同月、関東でも新田義貞が鎌倉に攻め入り、北条高時を自害に追い込みます。こうして約150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。


主君を裏切るって、めちゃくちゃ重い決断だよね…。なんで尊氏はそんなことができたの?

「源氏の名門だから、北条にこき使われるのはおかしい」っていう源氏のプライド、そして「元寇で疲弊した武士に恩賞を分けないと武士は持たない」っていう実利、その両方があったんだ。
こうして鎌倉幕府を倒した尊氏は、後醍醐天皇の「建武の新政」に参加します。しかしこの新政が、武士たちにとってとんでもない不満の種になっていくのです。
足利尊氏と建武の新政
鎌倉幕府滅亡の翌年・1334年。後醍醐天皇は京で建武の新政を開始します。約700年ぶりに天皇が直接政治を執るという、画期的な政治改革でした。
──しかし、この新政は武士からも公家からも、農民からも不満が噴出する大失敗に終わります。
■ 建武の新政とは?武士が怒った理由
建武の新政は「天皇親政」が理念でした。後醍醐天皇は鎌倉幕府を「武士の暴走」と捉え、武士に頼らない、公家中心の政治体制を目指したのです。
具体的には、こんな政策が打ち出されました。
- すべての土地所有を天皇の綸旨(りんじ・命令書)で確認しなおす──御家人の所領が宙に浮く
- 恩賞は公家・寺社・武士の順に厚く──倒幕に貢献した武士よりも、何もしていない公家のほうが優遇される
- 大内裏(だいだいり)の造営を強行──疲弊した武士・農民にさらに重税
命がけで戦った武士たちが冷遇され、何もしていない公家が出世する。これでは武士の不満が爆発するのは時間の問題でした。

命を懸けて戦った武士たちに、ろくな恩賞も与えられぬ……。これでは皆を率いる立場の私が、申し訳が立たぬではないか。
■ 当時の落書「二条河原の落書」
建武の新政への不満の大きさは、当時京都の二条河原に貼り出された「二条河原の落書(らくしょ)」からもよくわかります。
「此頃都ニハヤル物(このごろみやこにはやるもの)」で始まるこの落書は、新政のもとで混乱する都の様子を皮肉たっぷりに描いています。「夜討、強盗、謀綸旨(にせの天皇命令書)……」と、治安の乱れと役所のいい加減さを次々にあげつらう、痛烈な政治風刺でした。
これは中学・高校のテストでも頻出の史料です。「建武の新政=失敗=二条河原の落書」とセットで覚えておきましょう。

後醍醐天皇って、現代の感覚だと「いきなり改革しすぎて空回りした人」っていう感じね…。

そう、改革のスピードが速すぎたんだよね。武士の支持基盤を無視して理想だけ走らせちゃった。これがすぐ後の南北朝動乱の引き金になっていくよ。
そんな不安定な情勢のなか、ある事件が尊氏と後醍醐天皇の決定的な決裂を引き起こします。それが「中先代の乱」です。
足利尊氏と中先代の乱
1335年7月、思いがけない事件が起きます。鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺児である北条時行が、信濃(しなの、現在の長野県)で挙兵し、あっという間に鎌倉を奪い返してしまったのです。
この事件を中先代の乱と呼びます。
■ 中先代の乱とは?北条の残党が反乱
北条時行は、父・高時を新田義貞に追い詰められて自害させた仇敵への復讐に燃えていました。建武の新政への武士の不満も追い風となり、各地の武士が時行のもとに馳せ参じます。
建武新政府はあわてて鎮圧軍を派遣しましたが、敗北。時行の鎌倉支配は約20日余りで終わりましたが、この間に尊氏が独断で動き出すことになります。
📝 「中先代」の意味:「先代」が鎌倉幕府(北条氏)、「当代」が室町幕府(足利氏)、その中間に位置するから「中先代」。北条時行が一時的に鎌倉を支配した、いわば「幻の幕府」です。
■ 尊氏の独断行動が後醍醐天皇との決裂を招く
京で事態を知った足利尊氏は、後醍醐天皇に「征夷大将軍に任命して、鎌倉を取り戻す権限をください」と願い出ます。しかし後醍醐天皇は拒否しました。源氏の名門に征夷大将軍を与えれば、第二の幕府ができてしまう──そう警戒したのです。
許可を待ちきれない尊氏は、ついに勅許(ちょっきょ・天皇の許可)を得ないまま京を出発。弟・直義(ただよし)と合流して時行軍を撃破し、鎌倉を取り戻します。
しかしここで尊氏は決定的な一手を打ちます。鎌倉を奪還した後も京に帰らず、独断で家臣に恩賞を分配し始めたのです。「天皇の許可を得ずに武士に土地を分け与える」──これは、建武の新政の根幹を否定する行為でした。
怒った後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命じます。こうして尊氏と後醍醐天皇の全面戦争が始まります──それは、日本史上類を見ない「南北朝の時代」の幕開けでした。

これって完全に「反逆」じゃない…?尊氏、攻めるなあ。

でもね、これは尊氏一人の判断というより、弟の直義や周りの武士たちが「もうやるしかない!」と背中を押した側面も大きいんだ。次の章でくわしく見ていこう。
足利尊氏VS後醍醐天皇――南北朝の始まり
■ 弟・直義と武士たちの後押し
鎌倉を奪還した後、尊氏が京に帰らず独断で恩賞を配り始めた背景には、弟・足利直義の強い後押しがありました。
直義は兄の軍事行動を支える実務担当として、鎌倉に残って武士たちの所領安堵(土地の権利確認)を次々と処理していました。現場を担う直義の目には、武士たちの不満が限界に達しているのは明らかでした。そこで直義は、「もうここで武家政権を立てるしかない」と尊氏に進言したとされています。
さらに鎌倉に集まった武士たちも、建武の新政に見切りをつけて足利軍への合流を次々と決意。「尊氏が旗を掲げるなら命を懸ける」という武士が続出しました。こうした「直義の実務的判断」と「武士たちの下からの圧力」が重なり、尊氏の独立行動は一個人の謀反を超えた、武士社会全体の意思表示となっていきます。
1335年末、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命令。建武新政府軍と足利軍の全面戦争が始まります。最初は新田軍に押されて九州まで敗走した尊氏でしたが、そこから劇的に巻き返します。
そしてついに迎えるのが、日本史教科書にも必ず登場する湊川の戦い──楠木正成、最期の戦いです。
■ 湊川の戦い(1336年)楠木正成の最期
1336年5月、尊氏は九州で集めた大軍勢を率いて京へ攻め上ります。これを迎え撃ったのが、後醍醐天皇方の楠木正成と新田義貞の連合軍。決戦の地は摂津国の湊川(現在の神戸市)でした。
戦いは尊氏軍の圧勝。新田軍は撤退し、楠木正成は弟・正季(まさすえ)とともに「七生報国」──「七度生まれ変わってもこの国に報いる」と誓って自害しました。これは『太平記』屈指の名場面として、現代まで語り継がれています。

■ 南朝(吉野)と北朝(京)の分立
湊川の戦いに勝利した尊氏は京に入り、光明天皇を即位させて新たな朝廷(北朝)を立てます。一方、敗れた後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、自分が正統な天皇であると主張して新たな朝廷(南朝)を立てます。
こうして「南北朝時代」が幕を開けました。日本に天皇が2人いる、世界史的にも珍しい事態です。この分裂は約60年も続き、最終的に統一されるのは尊氏の孫・足利義満の時代(1392年)になります。
■ 建武式目の制定と武家政権の理念
1336年11月、尊氏は新たな武家政権の基本方針として建武式目を制定します。これは法律というより「政治の心がまえ」をまとめた17条の文書でした。
主な内容は、こんなものです。
- 幕府を鎌倉ではなく京に置く(朝廷との連携重視)
- 倹約に努め、ぜいたくを禁じる(鎌倉幕府末期の反省)
- 賄賂や私情で政治を曲げない(公平な裁判)
- 御家人の所領は公平に保護する(建武の新政の反省)
建武式目は、その後の室町幕府の基本方針となります。鎌倉幕府の御成敗式目とともに、武家政権の二大基本法として教科書にも必ず登場する重要史料です。

尊氏め、許さぬ……。京を譲っても朕の魂は屈せぬぞ。吉野にて新たな朝廷を立て、必ずや京を取り戻してくれよう!

ちなみに「南北朝のどっちが正統か」は今も議論があるけど、明治政府が「南朝(後醍醐天皇側)が正統」と決めたから、現在の天皇の代数も南朝でカウントされているよ。
南朝と北朝の対立構造ができあがり、いよいよ尊氏は新たな武家政権──室町幕府を開く段階に入ります。
室町幕府、始まる!
1338年8月、足利尊氏はついに征夷大将軍に任命されます。任命したのは、北朝の光明天皇。こうして約240年続く室町幕府が誕生しました。
鎌倉幕府が滅亡してから、わずか5年。激動の時代を駆け抜けた尊氏が、ついに念願の武家政権の頂点に立った瞬間でした。
■ 征夷大将軍に就任(1338年)
1338年の征夷大将軍就任は、日本史の大きな転換点です。これ以降、京都を本拠とする武家政権が約240年(〜1573年)にわたって続いていきます。
幕府が京に置かれた点が、鎌倉幕府との大きな違い。京の室町に幕府の御所が置かれたことから「室町幕府」と呼ばれます(命名されたのは3代義満の時代)。京は朝廷のおひざ元なので、武家と公家が日常的に交わる文化が花開いていきます。
■ 弟・直義との二頭政治
初期の室町幕府は、尊氏一人の独裁ではなく、弟・足利直義との「二頭政治」でスタートしました。
役割分担はこうです。
- 尊氏:武士への恩賞分配・軍事指揮(武断的なまとめ役)
- 直義:裁判・行政・所領安堵(文治的な実務)
兄弟のコンビネーションで幕府の基礎を築いていきました。しかしこの二頭体制が、のちに観応の擾乱という骨肉の争いの火種になります(くわしくは後の章で)。
■ 安国寺利生塔の建立――仏教への帰依
尊氏が将軍として行った政策のなかで、ぜひ覚えてほしいのが安国寺利生塔の建立です。
これは、夢窓疎石の進言にもとづいて全国66か国2島(一国一か所)に建立された寺と塔のこと。鎌倉幕府末期から南北朝動乱で亡くなった人々の霊を弔(とむら)うことが目的でした。敵味方を区別せず、南朝側で亡くなった武士の供養も行ったのが尊氏らしいところです。
また同じ目的で、1339年には京都・嵐山に天龍寺を創建。後醍醐天皇が亡くなった直後、その菩提(ぼだい)を弔うために建てられた寺です。かつて自分が敵として戦った天皇のために、巨大な寺を建てる──このあたりに、尊氏の人間味あふれる心情がにじみ出ています。


敵だった後醍醐天皇のために天龍寺を建てるなんて…。「反逆者」のイメージと全然違うのね。

そう、ここが尊氏の人間味あふれるところだよ。「敵を敵としてだけ見ない」性格が、武士たちの絶大な人望につながったんだね。
こうして始まった室町幕府ですが、安定するまでにはまだまだ波乱がありました。次の章では、尊氏ならではの面白いエピソード・逸話を一気に紹介していきます。
足利尊氏の面白いエピソード・逸話
ここからは、教科書ではなかなか語られない足利尊氏の人間味あふれるエピソードを紹介していきます。「裏切り者」のイメージが強い尊氏ですが、実際の人柄は驚くほど大らかで愛されキャラだったことが、当時の記録からよくわかります。武士たちが命がけで尊氏についていった理由が見えてくるはずです。
■ 財宝を「中身も見ずに」家来に配ってしまう太っ腹ぶり
尊氏のエピソードでもっとも有名なのが、「ほうびを中身も見ずに配ってしまう」という話です。『梅松論』という当時の軍記物に、こんな逸話が残されています。
合戦に勝って戦利品の財宝が山のように届くと、尊氏は中身を確認しようともせず、「これは誰々に」「あれは誰々に」とその場でどんどん家来たちに配ってしまったといいます。あまりの気前よさに、まわりの家来たちのほうが心配して止めようとしたほどでした。

ほうびは中身も見ずに家来に配ってしまうよ。お金は天下のまわりもの。みんなが喜んでくれるならそれでいいんだ!

武士の世界では「ほうび=忠誠の証」だったから、これだけ気前よく配られたら家来は感動するよね。武士たちが命がけで尊氏についていった理由のひとつだよ!
■ 混乱した戦況で「花押を先に書いた」手紙
もう一つ有名なのが、「花押を先に書いた手紙」の話です。花押というのは、現代でいうサインのようなもの。本来は文章を書いたあと、最後にサインを入れるものですよね。
ところが尊氏は、戦況があまりに目まぐるしく動くため、白紙に先に花押だけを書いておいて、「あとは内容を埋めてくれ」と部下に渡していたといいます。家来からすれば、「ご褒美は何でも好きに書いていい」という白紙委任状が事前に渡されているようなもの。これも家来からの絶大な信頼につながりました。
📌 花押とは、本人を証明するためのデザインされたサイン。現代でいう実印+自筆署名のような重みがあった。これを白紙に先に書いてしまうのは、相当な太っ腹だった証拠。
■ 九州まで落ち延び「死にたい」と漏らした──弟に救われた再起の物語
あまり知られていないのが、1336年の九州落ちのエピソードです。新田義貞・楠木正成の連合軍に京を追われた尊氏は、弟・直義とともに船で九州まで敗走を余儀なくされました。このとき尊氏は深い絶望に沈み、「天下の武士はみな朝廷方に靡(なび)いてしまった。もはや私は命を絶つべきだろうか」と漏らしたと、『太平記』は記しています。
弟・直義は涙ながらに兄を説得します。「九州の武士たちはまだ我らを見捨てていない。ここで命を絶てば、皆を裏切ることになります」と。その言葉に奮起した尊氏は再起を決意。九州武士の力を結集し、わずか数か月で大軍を組み上げて東上を開始しました。そして迎えたのが、1336年5月の湊川の戦いでの劇的な逆転勝利です。

「どん底から立ち直れる将軍」──この九州落ちの逆転劇が、武士たちに「尊氏についていれば大丈夫」という絶大な安心感を与えたんだよね。単なる勇者じゃなく、折れても必ず立ち直る精神力の持ち主だったんだ。
■ 夢窓疎石が絶賛!「慈悲・勇気・無欲」の三徳の人物像
尊氏が深く帰依した禅僧・夢窓疎石は、尊氏のことを次のように評しています。
「将軍は慈悲・勇気・無欲の三徳を兼備した、前代未聞の名将である」(夢窓疎石『梅松論』ほか)
夢窓疎石は、後醍醐天皇からも足利尊氏からも厚く敬われた当代きっての高僧。その彼が、武士の頂点に立つ将軍を「慈悲・勇気・無欲のすべてを備えた人物」と評したのは異例のことです。夢窓疎石の助言によって、尊氏は天龍寺を建立し、戦死者の供養に尽くしました。
■ 「伝足利尊氏像(騎馬武者像)」は別人だった?肖像画の謎
歴史の教科書で長年「足利尊氏」として紹介されてきた、馬にまたがった甲冑姿の有名な肖像画。じつはこの絵について、現在では「別人ではないか」という説が有力になっています。

かつて教科書に載っていた騎馬武者像は、絵に描かれた家紋などから「高師直あるいはその子・師詮ではないか」とする説が現在では有力です。山川出版社の『詳説日本史』でも、現在この絵は「伝足利尊氏像」と表記され、明確に尊氏と断定する書き方はされていません。
1970年代以降の研究で、絵に描かれた馬具・刀装の家紋(輪違紋)が高一族のものと一致することなどから、「描かれているのは尊氏ではなく、高師直または師詮ではないか」とする説が出てきました。また絵の上部に息子・足利義詮の花押が書かれている点も別人説の根拠のひとつとされてきました。
ただし近年の修理報告で家紋部分が後世の補筆であることが判明し、高一族説の主な根拠が失われています。現在も学界で再検討が続いており、確定的な結論は出ていません。中学・高校の教科書では「伝足利尊氏像」と慎重に表記されることが多いので、テストでも気をつけたいポイントです。

えっ、教科書で見たあの絵が尊氏じゃないかもしれないの?じゃあ本物の尊氏の顔ってどんな感じだったのかしら…

京都・浄土寺に伝わる絵がもう一つの「尊氏像」候補なんだ。穏やかで聡明そうな顔で、太っ腹で愛されキャラだった尊氏のイメージにぴったりだよ。次の章では、そんな尊氏が一生の苦しみを抱えることになる、弟との骨肉の争いを見ていこう。

弟との骨肉の戦い、観応の擾乱
室町幕府を開いた尊氏でしたが、その後に待っていたのは身内同士の血みどろの内戦でした。実弟の足利直義と、執事の高師直。両者の対立から、1350年に観応の擾乱と呼ばれる大混乱がはじまります。
この内戦は1352年まで足かけ3年にわたり、室町幕府は成立直後にしてバラバラに崩壊しそうになりました。なにより尊氏にとってつらかったのは、敵となったのが幼いころから二人で支え合ってきた実の弟だったことです。
■ 高師直 vs 足利直義──幕府を二分する対立
観応の擾乱の発端は、室町幕府内部の「武断派」と「文治派」の対立でした。執事の高師直は新興武士を束ねる武断派の代表。一方、弟の直義は伝統的な秩序や法律を重んじる文治派の中心人物でした。
両者の方針はことごとくぶつかり、1349年には師直が直義の屋敷を取り囲んで失脚させる事件が起こります。直義はやむをえず出家しますが、これで終わらないのが歴史の恐ろしいところ。怒った直義派は南朝と手を結び、兄・尊氏に反旗を翻すのです。

えっ、兄弟で戦うの?しかも敵だった南朝と組んで!?ややこしすぎて頭がこんがらがってきた…

そうなんだ、観応の擾乱は南北朝時代の「複雑さ」を象徴する事件なんだ。兄が南朝についたり、弟が南朝についたり、敵味方がぐちゃぐちゃに入れ替わる!テストで出るのは「1350〜52年・観応の擾乱・足利直義 vs 高師直」のセットだよ。
■ 直義を毒殺?尊氏が背負った一生の悔い
1351年、ついに尊氏自身が動きます。南朝と一時的に和睦して直義を討つという「正平の一統」と呼ばれる大胆な策をとり、高師直を犠牲にしながら直義派と戦いました。やがて1352年、捕らえた直義を鎌倉に幽閉。その直後の2月、直義は突然急死します。
※『太平記』には「毒殺された」と書かれていますが、これは伝承であり史実かどうかは確認できません。
観応の擾乱は1352年に一応の終結を見ますが、混乱の余波は長く続き、南北朝の動乱を50年以上長引かせる原因になりました。次の章では、その後の尊氏──戦傷に苦しみながら迎える最期を見ていきましょう。

後醍醐天皇にも、弟にも、申し訳ないことをした…。わたしは将軍の器ではなかったのかもしれぬ。
足利尊氏の死因と最期(1358年)
観応の擾乱で最愛の弟を失った尊氏ですが、その後も南朝との戦いは続きました。晩年の尊氏は戦傷の悪化に苦しみながら、それでも武家の棟梁としての務めを果たし続けます。そして1358年(延文3年)、ついにその波乱の生涯に幕を下ろしました。
■ 背の腫物が悪化し54歳で死去
当時の記録によれば、尊氏の死因は背中にできた腫物とされています。腫物とは、現代でいう悪性腫瘍や深刻な化膿性の炎症のこと。長年の戦いで負った傷が悪化したとも言われています。
1358年4月30日、京都・二条万里小路の邸にて死去。享年54歳でした。遺骸は京都の等持院に葬られ、現在も尊氏の木像が安置されています。
📌 等持院:京都市北区にある臨済宗の寺院。足利尊氏が創建し、足利将軍家の菩提寺となった。歴代将軍の木像が並ぶ「霊光殿」が見どころで、修学旅行や歴史好きの観光地として人気がある。
■ 後醍醐天皇の呪い?──尊氏の死を語る伝説
尊氏の死をめぐっては、ひとつ有名な伝説があります。それは「後醍醐天皇の怨念に呪われて死んだ」というものです。
後醍醐天皇は1339年、吉野で「玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」(私の骨はたとえ吉野の苔に埋もれても、魂はいつも京の都を望み続ける)と言い残して崩御したと伝わります。尊氏はその怨念を恐れて天龍寺を建立し、戦死者と後醍醐天皇の冥福を祈ったといわれます。
もちろん「呪い」というのは伝説であり、史実かどうかは定かではありません。ただ、尊氏自身が後醍醐天皇への深い罪悪感を抱き続けていたことは確かで、晩年の彼が出家を願い、禅宗に深く帰依した背景には、こうした「裏切ってしまった主君への悔恨」があったとも言われています。
■ 足利氏のその後──義詮・義満へ続く血脈
尊氏の死後、室町幕府は息子の足利義詮(2代将軍)、孫の足利義満(3代将軍)へと引き継がれていきます。とくに義満の時代になると、長く続いた南北朝の動乱は1392年についに統一され、室町幕府は安定期を迎えました。
尊氏が蒔いた室町幕府の種が、ようやく花を咲かせたのは孫の代になってから。そう考えると、尊氏という人物は「乱世の中で時代を変えた将軍」であると同時に、「孫の代に実る種を蒔いた男」でもあったのです。次の章では、ここまで学んだ尊氏の生涯を、テスト対策の視点でぎゅっとまとめます。
テストに出るポイント
ここからは、定期テスト・共通テスト・大学入試で押さえておきたい足利尊氏のポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使えるよう、年号と用語をぎゅっと凝縮しました。
📌 暗記のコツ:1333年(鎌倉幕府滅亡)→1336年(南北朝分立)→1338年(室町幕府成立)の「33・36・38」3点セットで覚えるのが鉄則。「一味さんざん(1333)、いざ見ろ南北(1336)、いざ闇(1338)開幕」などの語呂で年号を結びつけよう。

テストで一番出やすいのって、どの年号?1333・1336・1338のうちどれを最優先で覚えればいい?

1338年(室町幕府成立)が最頻出!「征夷大将軍に任命された年=室町幕府の始まり」として中学・高校どちらでも頻出だよ。次に1336年(建武式目・南北朝分立)、その次が1333年(六波羅探題攻略)の順で覚えよう!
足利尊氏をもっと深く知るための本
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足利尊氏についてよくある質問
足利尊氏について、検索で多く寄せられる質問にお答えします。
足利尊氏は、室町幕府の初代将軍です。1333年に六波羅探題を攻めて鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の建武の新政に協力したあと、武士の不満を背景に反旗を翻しました。1338年に征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を開きました。南北朝時代を引き起こした人物としても知られています。
後醍醐天皇の建武の新政が、武士よりも公家を優遇する政治だったためです。鎌倉幕府を倒すために命を張った武士たちは、十分な恩賞を得られず不満を募らせました。1335年の中先代の乱を尊氏が独断で鎮圧したことが決定的な決裂となり、武士の不満を一身に背負って後醍醐天皇との戦いに突入していきました。
朗らかで太っ腹、戦場では勇猛な一方で、精神的には繊細で揺れやすい複雑な性格だったとされます。財宝を中身も見ずに家来に配ったり、白紙の手紙に先に花押を書いたりするほど気前がよく、武士から絶大な人望を集めました。禅僧・夢窓疎石からは「慈悲・勇気・無欲の三徳を兼備した将軍」と評価されています。
足利義満は、足利尊氏の孫にあたります。尊氏が室町幕府初代将軍、その息子・義詮が2代将軍、義詮の子・義満が3代将軍です。義満の時代に南北朝が統一(1392年)され、金閣寺の建立や日明貿易など、室町幕府の最盛期を迎えました。尊氏が蒔いた室町幕府という種が、孫の代になってようやく花開いたといえます。
1358年(延文3年)4月30日、54歳で死去しました。死因は背中にできた腫物で、長年の戦傷が悪化したものとも伝わります。京都の等持院に葬られ、現在も足利将軍家の菩提寺として参拝することができます。
1338年に、足利尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されたことで成立しました。これより前、1336年に建武式目を定めて武家政権の方針を示しています。幕府名の由来は、3代将軍・足利義満が京都の室町に「花の御所」を構えたことから「室町幕府」と呼ばれるようになりました。室町幕府は1573年に織田信長によって滅ぼされるまで約240年続きました。
足利尊氏の生涯まとめ
足利尊氏は、長らく「裏切り者」「悪役」のイメージで語られてきた将軍です。しかし実際には、武士から絶大な人望を集め、夢窓疎石から「慈悲・勇気・無欲の三徳を兼備」と評された、人間味あふれる将軍でした。後醍醐天皇との対立、弟・直義との骨肉の争い──そのすべてに悩み苦しみながらも、武士の世を立て直し、室町幕府という新しい時代を開いた人物。それが本当の足利尊氏の姿です。

以上、足利尊氏のまとめでした!「悪役」と思われがちな尊氏が、実はとっても人間くさい愛されキャラだったって伝わったかな?南北朝時代や室町幕府についてもっと知りたい人は、下の関連記事もあわせて読んでみてね!
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1358年背の腫物が悪化し54歳で死去・京都の等持院に葬られる
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「足利尊氏」(2026年5月確認)
コトバンク「足利尊氏」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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