今回は室町時代の初代将軍、足利尊氏についてわかりやすく丁寧に解説します。
鎌倉幕府の名門、足利氏
足利氏は、清和源氏の血を引く名門武家の1つでした。
下に清和源氏の簡単な系図を掲載しています。(クリック・タップすると拡大表示されます)
清和源氏の中で特に名門と言われているのは、源義家の子孫たちです。
足利尊氏は、その源義家の末裔の一人であり、1305年に生まれました。
義家の孫にあたる源義康が、足利荘という場所に住んでいたことから、名を「足利」と名乗るようになったのが足利氏の始まりです。(上の系図の赤い枠の部分です。)
このような高貴な血筋に加え、足利氏は鎌倉幕府の権力者だった北条氏とも密接な関係を持っていました。
足利氏の当主は政略婚により、代々、北条氏の女性を正室としました。これは北条氏に睨まれて一族が滅びることを防ぐためでした。
足利尊氏の正室は、赤橋登子という女性。赤橋氏は北条氏の分家で、分家の中でも最も家柄の高い一族でした。
この、政略婚によって足利氏は比較的安定的な生活を送ることができました。
足利尊氏、鎌倉幕府を裏切る
とはいえ、北条氏との政略婚はあくまで一族を守るための行動。足利尊氏は、こんなわだかまりを持っていました。
鎌倉幕府は、源氏の源頼朝によって創設された。
それなのに、今は平氏の血を引く北条氏が鎌倉幕府を支配し、私利私欲を尽くしている。
この悪政を終わらせるため、源氏が平氏を滅ぼした源平合戦の時のように、源氏が立ち上がるべきではないか・・・。
しかし、足利尊氏が最優先すべきは、一族を守ること。安易に行動は起こせません。北条氏に睨まれたら瞬殺されてしまいますからね・・・。
ところが、源氏に代わって鎌倉幕府に喧嘩を売った人物が現れます。それが、有名な後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府が皇位継承に介入して自分をのけ者扱いすることに我慢できず、1331年、鎌倉幕府に不満を持つ者を集めて挙兵します。(この戦いのことを元弘の乱と言います)
この時、足利尊氏は鎌倉幕府から「敵のエース、楠木正成を討ってくれ!」と要請を受けますが、尊氏は父の喪中を理由にこれを一度断ります。しかし、幕府の強引な要請にしぶしぶ戦いに参加。
楠木正成が鬼神の如き活躍をした赤坂城の戦いに参戦し、勝利を納めています。
赤坂城の戦いの後、尊氏は関東の足利荘に戻りますが、喪中にも関わらず強引に派兵命令をした鎌倉幕府に不満を持つようになります。
戦いは、圧倒的兵力を持つ鎌倉幕府の勝利に終わります。そして敗北した後醍醐天皇は、隠岐島に流されてしまいました。
・・・しかし、戦いはこれだけでは終わりません。後醍醐天皇軍がここから常軌を逸した圧倒的粘りを発揮するからです。
1333年2月、後醍醐天皇は隠岐島を抜け出し、再び鎌倉幕府に対して挙兵。後醍醐天皇軍のエースだった楠木正成・護良親王たちもこれに参戦し、再び戦いが起こります。
楠木正成は、千早城の籠城戦で歴史に残る天才的な活躍をします。少ない兵で、鎌倉幕府の兵たちを存分に苦しめました。
前回(1331年)のように簡単に決着がつかず、こう着状態が続きます。
足利尊氏は病気を理由に出兵を拒否しましたが、またもや認められず、しぶしぶ出兵。おまけに、人質として正室の赤橋登子とその息子(後の2代目室町幕府将軍となる足利義詮)を鎌倉へ預けることになります。
足利尊氏はこの時、後醍醐天皇からの誘いを受け、鎌倉幕府への寝返りを決意します。楠木正成の活躍などで、鎌倉幕府が苦戦していることも尊氏の決断を後押ししたものと思われます。
機は熟した。今こそ源氏が立ち上がる時ぞ!!
天皇を北条氏の魔の手から守るのだ!!!!
1333年4月、足利尊氏は鎌倉幕府の京都の拠点だった六波羅探題を奇襲し、これを滅ぼします。
そしてこれと同時に、同じく源氏の血を引く新田義貞が関東地方で鎌倉幕府に対して挙兵。
新田義貞は、足利尊氏の人質として関東に残された息子(足利義詮)と共に鎌倉に攻め込みます。この攻撃により北条氏は滅び、鎌倉幕府は滅亡することになります。
足利尊氏と建武の新政
鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は、幕府に頼らずに天皇が主導する政治「建武の新政」を開始します。
後醍醐天皇は、建武の新政を邪魔しかねない鎌倉幕府に代わる新しい幕府の登場を強く恐れました。
そのため後醍醐天皇は、貴族たちを優遇し、元弘の乱で活躍した武家の人たちには必要最低限の恩賞しか与えませんでした。しかし、元弘の乱の功労者は間違いなく武家のはずです。こうして、武家たちは建武の新政に強い不満を持つようになります。
武家の中でもNO1の活躍と認められていた足利尊氏ですら、建武の新政で要職に就くことはありませんでした。
武家を軽んじる建武の新政を、人々は皮肉を込めて「尊氏なし」と呼ぶようになります。「あれほど活躍した足利尊氏ですら軽んじられているのが、建武の新政だよ」ってことを皮肉っているわけです。
おまけに、後醍醐天皇は新しい政治と称して、武家の習慣(御成敗式目など)を無視する政策を次々と実施。さらには、賄賂まみれで政治の腐敗まで起こるようになり、多くの人々から批判を浴びるようになります。
足利尊氏と中先代の乱
建武の新政への批判の嵐を虎視眈々と静観していた人物の中に、北条時行という人物がいました。
北条時行は、新田義貞の鎌倉攻めで滅びた北条氏の生き残り。信濃に潜んで、北条氏の復興チャンスを狙っていました。
そして、1335年7月、建武の新政が多くの批判を浴びているのを見て、「今こそチャンス!」と考えた北条時行が挙兵。(これを中先代の乱と言います)
北条時行は建武の新政に不満を持つ人々の協力を得て快進撃を続け、なんと鎌倉を奪取に成功します。
この事態を受けて、足利尊氏は後醍醐天皇にこんなお願いをします。
お願いします。中先代の乱鎮圧のため、私を征夷大将軍に命じてもらえないでしょうか。
(鎌倉には、大事な弟(足利直義)と息子(足利義詮)がいるのだ。なんとしても乱を鎮めなければ・・・!!!)
しかし、後醍醐天皇はこれを断ります。
それはならぬ。他の者から人選する。
足利尊氏は、武家の中でNO1の影響力を持つ男。
乱を鎮圧してこれ以上の名声を上げれば、関東に新しい幕府を作ってしまうかもしれない。
建武の新政が批判を受けている中、足利尊氏を関東に送り込むのは危険すぎる・・・。
それでも、家族を救いたい足利尊氏は、後醍醐天皇の命令を無視して、勝手に関東に攻め込みます。
足利尊氏が関東に到着すると、形勢は少しずつ逆転し、中先代の乱は鎮圧されることになります。
足利尊氏VS後醍醐天皇
中先代の乱を鎮圧すると、京にいる後醍醐天皇からこんなお達しがやってきます。
私の命令を無視して関東に向かったことは良くないけど、ひとまず、乱の鎮圧ありがとう!
仕事が終わったら、早く帰ってくるんだぞ。
絶対に、勝手に人々に恩賞とか与えたらダメだぞ。それは私の仕事だから、あとは私に任せなさい。
後醍醐天皇は、足利尊氏が人々に勝手に恩賞を与えることで、御恩と奉公の関係により新しい幕府が樹立することを恐れたのです。
しかし、足利尊氏はこれを無視します。
いやいや・・・、みんな建武の新政を信じてないから、俺のところに恩賞を求めにやってくるんですよ。
後醍醐天皇の命令にはもちろん従いたい。逆らうつもりはない。でも、武家にとって恩賞は一族の存亡に関わるとても大事なもの。
申し訳ないけど、私は一緒に戦ってくれた人々の声を無視することはできない。
この勝手な行動に後醍醐天皇はブチ切れます。
そうやって、関東に新しい武家政権(幕府)を樹立するつもりなのだろう。
わかった。ならば、実力行使で尊氏を止めさせてもらう!!
こうして、後醍醐天皇は鎌倉にいる足利尊氏を討つため、新田義貞を送り込みます。(この戦いを延元の乱と言います)
戦いの余波は九州にまでおよび、1336年の湊川の戦いによって足利尊氏の勝利に終わります。
戦いの詳細はここでは触れませんが、年表で簡単に経過をまとめておきます。
- 1335年7月
- 1335年12月
足利尊氏VS新田義貞
- 1336年1~2月足利尊氏、京を制圧。その後、戦闘に敗れて九州へ敗走
- 1336年3月
足利尊氏、九州で勝利。
- 1336年6月
足利尊氏VS楠木正成・新田義貞
室町幕府、始まる!
湊川の戦いで勝利した足利尊氏は京都に入り、後醍醐天皇に疎んじられていた光厳上皇の弟を光明天皇として即位させます。
一方、戦いに敗れた後醍醐天皇は捕らえられ、花山院という場所に幽閉されました。
ところが、1336年12月に後醍醐天皇は幽閉先から脱走。奈良県の吉野に逃げ出し、新しい朝廷を開きます。
こうして、天皇家はメチャクチャになってしまいました。
京の朝廷には光明天皇がいるのに、吉野にも朝廷があって後醍醐天皇が君臨しています。
こうして京と吉野に朝廷が分裂してしまったこの時代のことを南北朝時代と言います。位置関係的に、京の朝廷を「北朝」、吉野の朝廷を「南朝」と呼びました。
後醍醐天皇が吉野に脱走したのと同じ1336年12月、足利尊氏は自らの政治方針を示した建武式目を発表。南北朝の分裂で政治情勢が混乱する中、人々の心を掴もうとしたのです。
南朝の後醍醐天皇は、北朝を潰そうと京へ攻め込みました。南朝のエース、北畠顕家や新田義貞が善戦しますが、足利尊氏には敵いません。
北畠・新田の両エースが戦死して南朝の勢力が衰えると、1338年、足利尊氏は光明天皇の了承を得て、京都に幕府を開きます。
拠点となったのは京の室町と呼ばれる場所。そのため、新しい幕府は「室町幕府」と呼ばれるようになりました。こうして室町幕府の初代将軍が足利尊氏となりました。
弟との骨肉の戦い、観応の擾乱
1339年に後醍醐天皇が亡くなると、南朝はさらに弱体化し、平和の世があと少しのところまで見えてきました。
・・・が、残念ながらまた新たな戦乱の火種が生まれてしまいます。その発端となったのは、室町幕府内での権力争いです。
室町幕府で内政担当だった足利直義(尊氏の弟)と、軍事担当だった高師直が対立を深めてしまったのです。
足利直義と高師直の関係は、「軍事担当の高師直が各地で略奪行為をすると、内政担当の直義のところへ苦情が入る」という感じだったので、両者の対立は起こるべくして起こりました。
1349年、両者の対立が表面化します。足利直義が高師直を闇討ちしようとしたのです。しかし、この闇討ちは失敗。逆に足利直義は高師直から反撃を受け、命は助かったものの室町幕府から失脚してしまいます。
1350年10月、挽回のチャンス狙う足利直義は、南朝との連携を模索します。
足利直義「南朝さん、室町幕府のこと潰したいと思ってるよね?私も室町幕府の高師直を潰したいんだけど、協力しない?」
南朝は直義の提案を受け入れ、南朝と直義が結びついてしまいます。弱体化の一途をたどっていた南朝は、これにより息を吹き返してしまいました。
こうして、南朝VS北朝だったのが、南朝・足利直義VS北朝・高師直となり、全国を巻き込んだ大戦乱に発展します。これを観応の擾乱と言います。
足利尊氏は、当初は二人の争いを静観していました。ところが、九州で足利直冬という人物が南朝に味方して挙兵したことで態度を一変。この戦乱を終わらせようと、自ら立ち上がります。
1351年には高師直、1352年には足利直義が戦いに敗れ亡くなります。しかし、戦いの火種となった2人が亡くなっても、戦いは終わりません。
南朝と北朝は対立を続けているし、九州では足利直冬が尊氏に反旗を翻しています。
その後も各地で戦乱が続き、足利尊氏もこれに参戦しますが、1358年、足利直冬との戦いで受けた傷が悪化し、その生涯を終えました。54才でした。
足利尊氏の年表まとめ
最後に、本当に簡易的なものですが年表形式で足利尊氏の生涯をまとめておきます。
- 1305年足利尊氏、生まれる
- 1331年元弘の乱で楠木正成と戦う
- 1333年鎌倉幕府を裏切り、六波羅探題を攻め落とす
同年、鎌倉幕府が滅びて、後醍醐天皇による建武の新政が始まる
- 1335年後醍醐天皇と戦うことに
中先代の乱の戦後処理を巡って、後醍醐天皇とトラブってしまいました。
- 1336年足利尊氏、湊川の戦いに勝利
後醍醐天皇軍を破り、京に室町幕府を開く。
同年12月、朝廷が北朝と南朝に分裂。南北朝時代が始まる。
- 1350年観応の擾乱が起こる
足利尊氏は、信頼厚い弟と戦う羽目に・・・。
- 1358年足利尊氏、亡くなる
戦闘で受けた傷が悪化し、命を落とす。
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