面白いほどわかる山名宗全!その生涯を簡単に徹底解説【西軍大将にして細川勝元のライバル!力で先例をぶち壊した実力派】

山名宗全のアイキャッチ画像
この記事の目次 15項目はじめに
  1. 山名宗全(山名持豊)とは?読み方と2つの名前
  2. 山名氏の家柄と「六分の一殿」の由来
  3. 山名宗全の若き日と山名氏の再興
  4. 細川勝元 vs 山名持豊(宗全)の対立と応仁の乱の始まり
  5. 「赤入道」の異名と山名宗全の人柄
  6. 応仁の乱の経過と西軍大将としての山名宗全
  7. 山名宗全の晩年・死因と応仁の乱への影響
  8. 山名宗全の子孫と家紋(現代まで続く山名家)
    1. 戦国〜江戸時代の山名家
    2. 明治以降の山名家
    3. 山名氏の家紋
  9. テストに出るポイント
  10. 山名宗全・応仁の乱についてもっと詳しく知りたい人へ
  11. 山名宗全についてよくある質問
  12. まとめ:山名宗全(山名持豊)の生涯

もぐたろう
もぐたろう

今回は山名宗全(山名持豊)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!応仁の乱の西軍大将として有名だけど、子孫や家紋、細川勝元との関係まで全部まとめて見ていこう。

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【室町時代】まとめ|足利義満・応仁の乱・惣村と土一揆・室町文化【高校日本史・日本史探究】YouTubeで見る

この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 山名宗全(山名持豊)とは何者か・読み方と2つの名前の使い分け
  • 六分の一殿と呼ばれた理由(11か国を支配した山名氏の勢力)
  • 細川勝元との関係と応仁の乱の西軍大将になった経緯
  • 山名宗全の死因・晩年と応仁の乱の行方
  • 山名宗全の子孫・家紋(現代に続く子孫の話)

応仁の乱を起こした”戦犯”——。山名宗全と聞くと、そんな悪いイメージを持つ人も多いかもしれません。

でも実は、山名宗全は壊滅寸前まで追い込まれた一族をたった一代で再興させた室町時代きっての実力者であり、晩年は乱の収束のために和平を模索し続けた人物でもありました。

この記事では、そんな山名宗全やまなそうぜん(本名:山名持豊やまなもちとよ)の生涯を、「読み方」「六分の一殿の由来」「細川勝元との関係」「死因」「子孫と家紋」まで、まるっと解説していきます。

山名宗全とは?3行でわかるまとめ

・山名宗全(法号)=山名持豊(本名)。室町時代の守護大名で、没落しかけた山名氏を一代で再興させた人物。
・最盛期には全国66か国のうち9〜11か国の守護を兼ね、「六分の一殿」と呼ばれるほどの勢力を誇った。
・応仁の乱(1467年)で西軍の総大将を務め、乱のさなかの1473年に病死。享年70歳。

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山名宗全(山名持豊)とは?読み方と2つの名前

山名宗全の読み方は「やまなそうぜん」。一方、本名は「やまなもちとよ(山名持豊)」と読みます。教科書や歴史書では「宗全」の名前が一般的ですが、生前の彼を呼ぶときは「持豊」が正しい呼び方でした。

「宗全」というのは出家したあとに名乗った法号ほうごう(仏教徒としての名前)。生まれたときから死ぬまで使い続けた本名(実名)は「持豊」のほうです。

なぜ「宗全」と「持豊」の2つの名前があるの?

武士の世界では、出家して仏門に入っても俗世の権力をそのまま持ち続けることがよくありました。これを「入道(にゅうどう)」と呼びます。山名持豊も嘉吉の変(1441年)後の1442年ごろに出家してまず「宗峯(宗峰)」と名乗り、のちの長禄年間(1457〜1460年ごろ)に「宗全」へと改めています。引退したわけではなく、亡くなるまで山名氏の実権を握り続けました。

後世の歴史書では出家後の名前である「宗全」のほうがよく使われるようになり、教科書でも「山名宗全」が一般的になっています。どちらで呼んでも同じ人物だと覚えておけばOKです。

山名宗全
山名宗全(持豊)

わしは山名持豊。出家してからは「宗全」と名乗っておる。教科書の「山名宗全」はわしのことじゃ!

山名宗全(持豊)は、応永11年(1404年)に生まれ、文明5年(1473年)に70歳で亡くなった室町時代中期の守護大名しゅごだいみょうです。父は山名時熙(やまなときひろ)で、山名氏の本流に生まれました。

山名持豊(宗全)の肖像画
山名持豊(宗全)の肖像/出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

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山名氏の家柄と「六分の一殿」の由来

山名氏は、もともとは清和源氏(せいわげんじ)新田流の名門です。足利義満に仕えていた南北朝時代に勢力を急拡大し、室町幕府の有力守護大名のひとつにのし上がりました。

その勢いがあまりに強くなったため、山名氏は「六分の一殿」というスケールの大きい異名で呼ばれるようになります。

「六分の一殿」ってどういう意味?

当時の日本は全国で66か国に分けられていました(六十六国)。山名氏は最盛期に11か国の守護をひとりで兼ねており、その割合は11÷66=約6分の1。そこから「六分の一殿」と呼ばれるようになったのです。

「六分の一」と聞くと少なく感じますが、ひとつの家が国の6分の1を持っているのは異常事態。室町幕府にとって山名氏は明らかに「強くなりすぎた家臣」でした。

あゆみ
あゆみ

11か国を支配って、現代でいうとどのくらいすごいことなんですか?

もぐたろう
もぐたろう

今でいうと「47都道府県のうち、8県分くらいをひとつの家が独占しているイメージ」だね!しかも今の県と違って、当時の守護は税金や兵隊まで自前で動かせる超強力なポジションだったよ。

あまりに大きな勢力を持ったがゆえに、山名氏は将軍に警戒され、宗全が生まれる前に一度大きく没落します。それが、明徳の乱(1391年)です。

このとき、3代将軍・足利義満は山名一族の内部対立をたくみに利用して山名氏を挑発。挙兵した山名氏清(うじきよ)らを討伐し、山名氏が持っていた11か国の守護職を一気に3か国まで削り取りました。山名氏は壊滅寸前まで追い込まれてしまったのです。

📌 明徳の乱(1391年):足利義満が山名氏の内紛を利用して山名一族を挑発・挙兵させ、討伐した事件。山名氏は11か国から3か国へ縮小し、一時的に没落した。宗全はこの没落後の山名家に生まれ、家を再興させる宿命を背負うことになる。

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山名宗全の若き日と山名氏の再興

1404年に生まれた山名持豊(宗全)は、父・時熙の後を継ぎ、若くして但馬(たじま)・備後(びんご)・安芸(あき)などの守護を任されました。但馬国は現在の兵庫県北部にあたり、山名氏の本拠地として有名です。

持豊が頭角を現すきっかけになったのが、嘉吉の変(嘉吉の乱)でした。

嘉吉の変(1441年):山名持豊が一気に出世した転機

1441年、6代将軍・足利義教が、播磨守護の赤松満祐あかまつみつすけに自邸へ招かれたうえで暗殺されるという衝撃の事件が起こります。これが「嘉吉の変」です。

幕府は赤松氏討伐軍を派遣。このとき、討伐軍の主力として赤松氏を追い詰めたのが山名持豊でした。功績を認められた持豊は、赤松氏の本拠地だった播磨を恩賞として与えられます。さらに一族の教之が備前、教清が美作の守護職を得ており、山名一族全体として3か国分の勢力を取り戻しました。

これによって山名氏は明徳の乱からの没落を完全に脱出。父祖の代に失った勢力を、たった一代で取り戻すことになりました。

山名宗全
山名宗全(持豊)

赤松め、よくも上様(将軍)を…!この機を逃さず山名家の力を取り戻すのじゃ!

嘉吉の変のあとも、持豊は幕府内で着々と影響力を強めていきます。山名氏は最終的に8〜9か国の守護を兼ねるまでに復活し、ふたたび「六分の一殿」と呼ばれる地位を取り戻しました。

そして1466年、持豊は細川勝元と手を組み、当時の8代将軍・足利義政の側近を排除する政変を起こします。これが文正の政変(ぶんしょうのせいへん)です。

📌 文正の政変(1466年):将軍・足利義政の側近として権力を握っていた伊勢貞親(いせさだちか)らを、山名持豊と細川勝元が協力して追放した事件。これにより両者は幕府内で実質的な最高権力者になった。だが、共通の敵がいなくなった2人はやがて正面から衝突することになる——。

細川勝元 vs 山名持豊(宗全)の対立と応仁の乱の始まり

細川勝元と山名持豊(宗全)は、最初は決して仇敵ではありませんでした。文正の政変では協力しているし、勝元は持豊の養女(山名熙貴の娘)を妻に迎えており、義理の親子関係にもありました。

しかし、共通の敵がいなくなった2人は、将軍家・守護大名家の家督争いをきっかけに、急速に対立を深めていきます。

ゆうき
ゆうき

テストに出る「応仁の乱」って、なんで起きたの?山名と細川がケンカしたから?

もぐたろう
もぐたろう

ざっくり言うと「将軍家のあと継ぎ問題+守護大名の家督争い」が複雑にからみ合った結果だよ。そこに東軍リーダー・細川勝元と、西軍リーダー・山名宗全という2大勢力がついて、ついに全国規模の戦争になっちゃったんだ。

対立のきっかけは、大きく3つの「家督争い」が同時進行で起きたことでした。

東軍(細川勝元):斯波義敏/畠山政長を支持

西軍(山名宗全):斯波義廉/畠山義就を支持

管領家の斯波しば氏・畠山はたけやま氏の両家で家督争いが起こり、それぞれ勝元側と宗全側に真っ二つに分裂してしまいました。

畠山氏の家督争い 図解
斯波氏の家督争い 図解

とくに大きかったのが、足利義政の後継者問題です。義政は最初、子どもがいなかったので、弟の足利義視を後継者に指名しました。ところがそのあと、義政と日野富子のあいだに男子・義尚(よしひさ)が生まれたことから、「弟か、息子か」の後継者争いが勃発します。

当初は、義視と義尚いずれも東軍に属していましたが、途中で義視が西軍に寝返ったため、結果として将軍の後継者争いにまで発展してしまったのです。

応仁の乱における東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)の構成図
応仁の乱の東西両軍 構成図(1467年時点)

細川勝元の側からすれば、義父・宗全との対立は避けたかったはずです。それでも勝元は、東軍を束ねて山名宗全と正面から戦う道を選びました。一方の宗全も、山名一族の威信をかけて引き下がる気はありません。

山名宗全
山名宗全(持豊)

勝元め…。義理の親子であろうと、ここで引くわけにはいかぬ。山名の名にかけて、戦うしかあるまい!

そして、戦いの口火を切ったのは宗全自身でした。1467年(応仁元年)正月、宗全は管領家・畠山氏の家督争いに堂々と介入し、自分が推す畠山義就はたけやまよしなりに軍勢を貸し与えます。標的は、細川勝元が後ろ盾になっていた畠山政長はたけやままさながでした。

正月18日、みぞれまじりの烈風が吹きすさぶ朝——。追い詰められた政長は、自邸に火を放って京都・上御霊神社かみごりょうじんじゃの森に立てこもります。しかし宗全が送り込んだ大軍の前にあえなく敗れ、ほうほうの体で逃げ出しました。このわずか1日の小さな戦い「御霊合戦(ごりょうがっせん)」こそ、応仁の乱11年の事実上の第一戦だったのです。

もぐたろう
もぐたろう

このときの細川勝元は、まだ表向きは動かず様子見だったんだ。だから第一ラウンドは宗全サイドの完勝。でも、ここで勝元が黙っているはずもなく…この小競り合いが、京都を11年も焼く大戦争にふくれ上がっちゃうんだよ。

こうして1467年、ついに細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が京都で全面衝突。応仁の乱が始まります。宗全は京都の西側(現在の上京区周辺)に陣を構え、そこから西軍の総大将として指揮を取りました。

📌 「西陣織」の由来は山名宗全?:京都の高級織物「西陣織」の地名は、応仁の乱で山名宗全の西軍が陣を張った場所に由来します。乱が終わったあと、戦火で散っていた織物職人たちが旧西軍陣地跡に戻って織物業を再興。これが「西陣織」のブランドの始まりになったと言われています。

「赤入道」の異名と山名宗全の人柄

山名宗全には、もうひとつ有名な異名があります。それが「赤入道(あかにゅうどう)」です。

これは宗全の外見的な特徴に由来する呼び名で、当時の記録には「色赤くして大頭」だったと書かれています。赤ら顔で、頭が大きく、がっしりとした体格の入道(出家者)だったから「赤入道」というわけです。

ゆうき
ゆうき

「赤入道」ってあだ名、すごく怖そう…。実際の宗全はどんな性格の人だったの?

もぐたろう
もぐたろう

豪快で、ハッキリものを言うタイプだったみたいだよ。「先例なんてどうでもいい、今の力で決めるべき」みたいな実力主義者で、当時の貴族には嫌われがちだったみたいだね。

宗全の豪放な性格を象徴する有名なエピソードがあります。ある日、公家が「これは先例にない」と政治判断にケチをつけたとき、宗全はこう言い返したと伝えられています——「先例先例とは何事か。例とは、その時代の人間がこれからつくっていくものだ」と。

山名宗全
山名宗全(持豊)

「先例にない」「先例にない」とうるさいやつめ!その先例とやらも、もとはわしらと同じ生身の人間がつくったものではないか。時代を動かすのは、今を生きるわしらの力じゃ!

この発言は、貴族中心の古い秩序を引きずる京都社会のなかで、力ある守護大名が新しい時代を作ろうとする宣言のようなものでした。応仁の乱以降、日本社会が一気に「下剋上」「実力主義」へと進んでいく流れを、宗全が先取りしていたとも言えます。

一方で、宗全は身内や家臣に対しては情に厚く、信頼を裏切らないタイプの武将でもありました。山名一族を一代で再興できた背景には、こうした人柄も大きく影響していたと考えられています。

応仁の乱の経過と西軍大将としての山名宗全

1467年に始まった応仁の乱は、当初こそ「すぐ決着するだろう」と思われていました。ところが、山名宗全と細川勝元のどちらも譲らないまま、戦いは長期化していきます。

1468年には、かつて将軍後継者として指名されていた足利義視が東軍を離脱して西軍に合流(応仁2年11月)。宗全はこの義視を「西の将軍」のように担ぎ上げ、京都に「もうひとつの幕府」のような体制をつくり上げました。

山名宗全
山名宗全(持豊)

義視様を旗印に、西の都をわしが守ろう。細川勝元には絶対に屈せぬ!

戦況は一進一退。両軍とも合計10万を超える兵を投入したとされ、京都は文字通り焼け野原になりました。応仁の乱が「日本史最悪の都市破壊」と呼ばれるゆえんです。

あゆみ
あゆみ

そんなに大規模な戦いの真ん中で、肝心の将軍・足利義政さんは何をしてたんですか?

もぐたろう
もぐたろう

義政は「戦いはもう知らん、わしは趣味の世界に逃げる」って感じで、東山に銀閣寺を建てて文化人生活に没頭しちゃうんだよね…。これも応仁の乱が長引いた大きな要因のひとつだよ。

足利義政は政治への興味を失い、東山に山荘(のちの銀閣寺)を建てて作庭や能楽に没頭。乱を止めるリーダーシップを発揮できないまま、京都の街は焼け続けました。皮肉なことに、この東山での趣味三昧のなかから、のちに日本を代表する東山文化が花開くことになります。

足利義政が建てた銀閣寺(観音殿)
戦乱のさなか、足利義政が東山に建てた銀閣寺(観音殿)。政治を投げ出した将軍の「逃避先」でもあった/出典:Wikimedia Commons(CC0)

戦いは、地方の守護大名たちも次々参戦して全国規模に拡大。山名氏の本拠地である但馬たじまからも援軍が京都に送られ続け、戦争は完全に泥沼化していきます。

1470年代に入ると、宗全自身も「もはやこの戦いに勝者はいない」と気づきはじめていたようです。彼は晩年、細川勝元との和平交渉を水面下で進めようとしていた——そんな話は、次の章で詳しく見ていきます。

山名宗全の晩年・死因と応仁の乱への影響

京都を焦土にしながら何年も続いた戦いは、宗全の心にも限界をもたらしていきます。1470年代に入ると、彼は本気で和睦の道をさぐり始めました。

1472年ごろ、宗全は細川勝元との和平交渉を水面下で進めていたと伝えられています。「もはやこの戦いに勝者はいない。我が一族のためにも、ここで止めねば」——そんな思いがあったのでしょう。しかし交渉はまとまらず、両軍とも引くに引けない状態が続きました。

山名宗全
山名宗全(持豊)

この乱は、わしが生きているうちには終わらぬかもしれぬ…。一族の行く末だけは、なんとしても守らねば——。

そして1473年(文明5年)3月18日、山名宗全は京都の自邸で病死します。享年70歳。死因については「病死」とだけ伝わっており、具体的な病名は史料に残っていません。一説に切腹を試みたという話もありますが、これは伝承の域を出ません。

あゆみ
あゆみ

大将がいなくなったら、応仁の乱はそこで終わったんですか?

もぐたろう
もぐたろう

それが、終わらなかったんだよね…。しかも宗全が死んだ2か月後の同じ1473年5月、なんと東軍の細川勝元まで急死してしまうんだ。2大ライバルが立て続けに消えても、乱は1477年まで続いてしまったんだよ。

📌 1473年は応仁の乱の「W大将死亡の年」:山名宗全(西軍大将)が3月18日に死去。その2か月後の5月11日に、東軍大将の細川勝元も44歳の若さで急死。それでも乱は止まらず、1477年(文明9年)まで続いた——これが応仁の乱の不思議なところです。

結局、応仁の乱は誰の勝利でもないまま、両軍の兵士が疲れ果てて自然消滅するように終わりました。しかし戦いの中で守護大名の権威は地に落ち、各地で家臣が主君を倒す「下剋上(げこくじょう)」の時代——戦国時代へとなだれ込んでいきます。じっさい、乱が終わった京都の南では、武士たちを実力で追い出した農民・国人が8年間も自治をおこなう山城国一揆まで起こりました。宗全たち守護大名が燃やし合った時代の「次」は、もう静かに始まっていたのです。

「先例なんかどうでもいい、力で決めるのだ」と言い切った山名宗全は、ある意味で戦国時代の幕を開けた人物だったのかもしれません。

山名宗全の子孫と家紋(現代まで続く山名家)

山名宗全の死後、山名一族はどうなったのか。実は子孫は戦国時代を経て江戸時代に大名として復活し、明治以降は華族として現代まで続いています。

ゆうき
ゆうき

山名宗全の子孫って、今も本当に残ってるの?

もぐたろう
もぐたろう

残ってるよ!戦国時代に山名氏は一度ボロボロになるんだけど、江戸時代には但馬国の村岡藩主として復活して、明治には男爵にもなったんだ。家系は今もちゃんと続いているよ。

戦国〜江戸時代の山名家

宗全の死後、山名一族は応仁の乱の混乱と戦国の動乱で勢力を失い、家臣の但馬たじま守護代・垣屋氏らに実権を奪われていきます。最盛期の11か国どころか、本拠地の但馬さえも保つことができなくなりました。

江戸時代に入ると、宗全の子孫・山名豊国(やまなとよくに)が徳川家康に仕えて、但馬国の村岡(むらおか)藩主として家を再興します。石高6,700石と小さな旗本クラスでしたが、戦国を生き延びて「山名家」の名跡を守った形です。

明治以降の山名家

明治維新後、山名家は華族令により男爵に列せられます。「六分の一殿」と呼ばれた室町時代の大勢力と比べれば小さな家になりましたが、それでも宗全の血筋は途切れることなく明治・大正・昭和へと受け継がれました。

現代でも山名家の子孫は健在で、家伝の文書や宝物を伝える資料が時折公開されることがあります。応仁の乱で「歴史を動かした一族」が、いまも静かに続いている——これは日本史のロマンを感じる事実です。

山名氏の家紋

山名氏の家紋は、清和源氏の名門にふさわしい複数の意匠が伝わっています。代表的なものは次の2つです。

山名氏の代表家紋
  • 五七桐七葉根笹(ごしちのきり ななはねざさ):朝廷から下賜された格式の高い家紋。桐紋は皇室・将軍家ゆかりの紋で、それを許された名門の証です。
  • 糸輪二ツ引両(いとわふたつひきりょう):清和源氏・足利一族系の武家がよく用いる定番の家紋。山名氏が足利一門に連なる名門であることを示します。

山名氏の家紋・丸に二つ引両
山名氏が用いた引両紋の一例「丸に二つ引両」。横線(引両)は足利一門が好んだ意匠で、源氏の名門であることを示す/出典:Wikimedia Commons(CC0)

家紋は単なる飾りではなく、その家の出自と格式をひと目で示す「身分証」のようなもの。山名氏が清和源氏の名門であり、室町時代に最高クラスの家格を持っていたことを、家紋もきちんと物語っています。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたい山名宗全のポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 山名持豊(宗全)の本名と法号:本名「持豊(もちとよ)」、出家後の法号「宗全(そうぜん)」。同一人物。
  • 「六分の一殿」:日本66か国のうち11か国の守護を兼ねた山名氏の異名(最盛期)。
  • 嘉吉の変(1441年):将軍足利義教暗殺事件。赤松満祐討伐で山名宗全が功績を挙げ、出世のきっかけとなる。
  • 応仁の乱(1467年〜1477年)の西軍大将:東軍=細川勝元、西軍=山名宗全(持豊)のセットで暗記。
  • 1473年に宗全と勝元が相次いで死去:2大将が死んでも乱は終わらず、1477年まで続いた点が論述で問われやすい。

📌 暗記のコツ:「応仁の乱=東の細川(勝元)・西の山名(宗全)」をセットで覚える。「山名持豊=山名宗全」も同一人物として要注意。年号は「人の世むなしい(1467)応仁の乱」。

ゆうき
ゆうき

テストで応仁の乱が出るとき、一番確実に点が取れるのはどこ?

もぐたろう
もぐたろう

東軍=細川勝元、西軍=山名宗全(持豊)、1467年勃発・1477年終結——このセットが一番出やすいよ!山名持豊と宗全が同一人物だってことも、論述で書き分けられるように覚えておこうね。

山名宗全・応仁の乱についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

山名宗全・応仁の乱についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①応仁の乱の全体像をサクッとつかみたいなら|入門として最適な一冊

応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱

呉座 勇一 著|中央公論新社(中公新書)


②山名宗全その人を深く知りたいなら|生涯を丁寧に追った人物評伝

山名宗全

川岡 勉 著|吉川弘文館(人物叢書 新装版)

山名宗全についてよくある質問

室町時代の守護大名で、没落していた山名氏を一代で再興させた人物です。最盛期には全国66か国のうち11か国の守護を兼ね、「六分の一殿」と呼ばれました。応仁の乱(1467年)では西軍の総大将を務め、東軍の細川勝元と全国を二分する戦いを繰り広げました。

「やまなそうぜん」と読みます。本名は「山名持豊(やまなもちとよ)」で、晩年に出家した際に法号として「宗全」を名乗りました。同時代の史料には「持豊」、後世の歴史書や教科書には「宗全」が使われることが多いですが、どちらで呼んでも同一人物です。

将軍家(足利義政)の後継者問題と、有力守護大名(畠山氏・斯波氏)の家督争いが複雑に絡み合ったことが原因です。義政の弟・義視を支持する細川勝元と、義政の子・義尚を支持する日野富子・山名宗全が対立し、両陣営が東軍・西軍にまとまって全国規模の戦争に発展しました。

細川勝元は応仁の乱の東軍大将で管領(将軍補佐役)。山名宗全は西軍大将で四職(侍所長官)家の出身です。当初は協力関係にあり、勝元は宗全の養女(山名熙貴の娘)を妻に迎えるほどの義理の親子関係でしたが、将軍家後継問題で対立して戦いました。両者とも1473年に相次いで死去しています。

1473年(文明5年)3月18日、応仁の乱の最中に病死しました。享年70歳。具体的な病名は史料に残っていません。一説に切腹未遂があったとも伝わりますが、これは伝承の域を出ません。宗全の死去から2か月後の同年5月には、東軍大将の細川勝元も死去しています。

はい、現代まで続いています。江戸時代は但馬国村岡藩主(6,700石)として家を保ち、明治維新後は華族令で男爵に列せられました。「六分の一殿」と呼ばれた最盛期からは規模を縮めたものの、宗全の血筋は途切れることなく続いています。

まとめ:山名宗全(山名持豊)の生涯

山名宗全のポイントまとめ
  • 山名宗全(法号)=山名持豊(本名)、1404〜1473年の室町時代の守護大名
  • 「六分の一殿」:66か国のうち11か国を兼ねた山名氏の異名(最盛期)
  • 嘉吉の変(1441年)での赤松氏討伐で頭角を現し、没落していた山名氏を一代で再興
  • 応仁の乱(1467〜1477年)で西軍の総大将を務め、細川勝元の東軍と激突
  • 晩年は和平を模索したが実らず、1473年に病死(享年70)。乱は1477年まで続いた
  • 子孫は江戸時代に村岡藩主・明治には男爵として続き、家紋は「五七桐七葉根笹」「糸輪二ツ引両」など

山名宗全(持豊)の年表
  • 1404年
    山名時熙の子として生まれる(本名・持豊)
  • 1433年
    父・時熙の死を受けて山名氏の家督を継ぐ
  • 1441年
    嘉吉の変で赤松満祐を討伐。出世の転機となる
  • 1441〜1460年代
    守護国を増やし山名氏を再興。「六分の一殿」と呼ばれる
  • 1442年〜1460年代
    出家して宗峯(のちに宗全)と号す
  • 1466年
    文正の政変。細川勝元と協力して将軍近臣を排除
  • 1467年
    応仁の乱勃発。西軍の総大将として参戦
  • 1473年
    3月18日、京都で病死。享年70歳。同年5月に細川勝元も死去
  • 1477年
    応仁の乱、自然消滅のように終結。戦国時代へ

もぐたろう
もぐたろう

以上、山名宗全(山名持豊)のまとめでした!応仁の乱や室町幕府の政治についてもっと詳しく知りたい人は、下の関連記事もあわせて読んでみてください。

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「山名宗全」「山名持豊」「応仁の乱」「山名氏」「明徳の乱」「嘉吉の乱」「細川勝元」「足利義視」「村岡藩」(2026年5月確認)
コトバンク「山名宗全」「山名持豊」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』

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もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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室町時代