今回は、応仁の乱で活躍した山名宗全についてわかりやすく丁寧に解説します。
波乱万丈!山名一族の歴史
山名宗全の属する山名氏というのは、非常に浮き沈みの激しい歴史を歩んできました。
山名宗全の話に入る前に、山名氏というのがどんな一族なのか簡単に紹介しておきます。
山名氏はもともと清和源氏の血筋を持ち、新田義貞で有名な新田氏から派生した一族でした。
南北朝時代に足利尊氏VS後醍醐天皇の戦いが始まると、新田義貞は後醍醐天皇に味方しますが、山名氏は足利尊氏に味方しました。
その縁もあり、室町幕府では伯耆国(鳥取県あたり)を与えられた守護大名となりました。
1350年に観応の擾乱が起こって南朝と室町幕府が戦います。南朝が九州で勢力を拡大すると、九州と京の間にある中国地方が戦局を左右する重要拠点となりました。
山名氏も領国の重要性を理解しており、この地理的条件を一族繁栄のために利用します。その時々の情勢を見て、時に南朝に味方し時には幕府に味方することで、双方から恩賞を引き出そうと考えたのです。
この山名氏の作戦は大成功します。2代将軍の足利義詮の時代になると、南朝に加担していた山名氏を幕府側に引き込む条件として、義詮は山名氏に広大な所領を与えました。
この結果、日本全国にある66国のうち、一族だけで11カ国の守護を独占することになります。つまり、日本の1/6が山名氏の所領になったわけです。
南北朝の動乱を利用して一気に大勢力となった山名氏は日本の1/6を支配したことから「六分の一殿」という異名を持つまでに成長します。
3代将軍の足利義満の時代になると、強くなりすぎた山名氏は警戒されるようになります。1391年、足利義満の謀略によって山名氏が明徳の乱で敗れると、山名氏の所領は11国からわずか3国に激減。盛者必衰とはまさにこのことですね。
勢いを失った山名氏には冬の時代が到来し、そんな時代に山名宗全は生まれることになりました。(冬と言っても3国の所領を持っているだけで凄いんですけどね!)
山名氏を再興させた山名宗全
1404年、山名宗全は山名時熙の三男として生まれます。
ちなみに、「宗全」っていうのは出家後の名前。1460年ぐらいまでは山名持豊と呼ばれていました。
この記事では山名宗全という表現で統一します!
山名宗全は三男だったので、当初は家督を継ぐ予定はありませんでした。ところが1420年に長男が亡くなると、次男の持熙と三男の宗全は家督をめぐって対立するようになります。
1433年、家督争いに勝利した山名宗全が山名氏の家督を受け継ぎます。1437年には家督争いに敗れた次男の持熙が挙兵して山名宗全に攻め込みますが、これを返り討ちにして山名氏の家督を盤石なものにしました。
父の時熙、そして山名宗全の代で山名氏は再興を遂げることになります。
父の時熙の代には、将軍家に仕えた功績が認められて山名氏は7国の支配を認められるまでに復活。
さらに山名宗全の代になると、山名氏完全復活のきっかけとなる大事件が起こります。
1441年に起こった嘉吉の変という事件です。
1441年、6代将軍の足利義教が赤松満祐に暗殺されてしまいます。突然の将軍の死に多くの者が動揺する中、山名宗全はこれを山名氏復興の大チャンスと考えました。
山名宗全「これって赤松氏を討伐して、その所領を奪う大チャンスじゃねーか!!」
赤松満祐が支配していた播磨や美作という国は、もともと山名氏が所領でした。しかし、1391年の明徳の乱で山名氏が没落した後、赤松氏がその所領を奪った・・・という経緯があります。
なので、山名宗全にとって嘉吉の変は旧領を回復させる絶好の大チャンスに見えたのです。
こうして山名宗全は、赤松氏の討伐を開始。そして、赤松氏の討伐を終えると山名宗全はその所領を奪い返し10国を支配する大勢力へと復活しました。
山名宗全と細川勝元
こうして再興を遂げた山名氏ですが、山名宗全は中国地方に所領を持っていたため隣接する、
四国・畿内に所領を持っていた細川氏
周防・長門(今の山口県付近)と九州北部に所領を持っていた大内氏
と密接な関係を持つようになります。
山名宗全は当初、所領の安定統治のため細川勝元・大内政弘と平和を望みました。
細川氏と大内氏は勘合貿易の利権をめぐって争っていたので、新しい敵を増やしたくない細川・大内の両氏も山名氏と思惑が一致。細川・大内との友好関係の構築は、スムーズに進みました。
1447年には、山名宗全は娘を細川勝元の正室とし、細川氏との関係を深めました。
大内氏は、大内政弘の母が山名宗全の女(養女)だったので、大内氏と山名氏は既に血縁関係を持っていました。
1454年には細川勝元と山名宗全は協力して、畠山氏に家督争いを起こさせてその勢力を削ぐことにも成功しています。
当時、畠山氏は三管領のひとりとして強大な力を持っていました。しかし、細川・山名によって誘発された家督争いで没落。幕政の手綱は細川勝元と山名宗全が握ることになります。
・・・しかし、こうなると次は幕政をめぐって2人はライバル関係へ。1460年頃から細川勝元・山名宗全の関係はどんどん悪化していきます。
ちなみに、これらの出来事は偶然起こったわけではありません。
細川勝元が赤松氏を支援したのは山名宗全を牽制するためだし、斯波・畠山の家督争いで細川・山名が対立したのも、細川勝元が片方に加担すれば、もう片方が勝元を嫌っている山名宗全に接近したからです。
こうして、斯波・畠山の家督争いを巻き込む形で、細川勝元と山名宗全の対立は決定的なものとなります。
応仁の乱へ・・・
1466年当時、細川勝元と山名宗全の対立は、斯波・畠山の家督争いもミックスされて次のような感じになっていました。
細川勝元派 | 山名宗全派 | |
斯波氏 | 斯波義敏 | 斯波義廉 |
畠山氏 | 畠山政長 | 畠山義就 |
さらに、
山名宗全を嫌う赤松氏が細川派閥へ
対細川で利害の一致した大内政弘は山名派閥へ
・・・と言った風に世の中全体が細川派閥と山名派閥に分かれるようになります。
最初は細川勝元と山名宗全の対立だったはずなのに、気付けば日本中を巻き込んだ大問題に発展してしまったのです。
1467年、この細川VS山名の対立が武力闘争に発展。すると、各地の細川派閥と山名派閥も戦い始めて、日本中を巻き込んだ大戦乱が起こりました。これが応仁の乱です。
きっかけは1467年1月、山名宗全が畠山氏の家督争いのためにクーデターを起こしたことです
当時、畠山氏の家督争いは、将軍の足利義政の支援を得ていた畠山政長が有利でした。
ところが、1466年に義政の側近中の側近だった伊勢貞親が失脚。右腕をもがれて政治力を失った義政を見て、山名宗全はこう思います。
山名宗全「伊勢貞親さえいなければ、足利義政を操るのは簡単だ。この隙を狙って、畠山義就を畠山氏の家督にしてやろう」
1467年1月、山名宗全は自宅に畠山義就と足利義政を招いて宴会を開くと、義政に迫って畠山義就が畠山氏の家督になることを認めさせました。
伊勢貞親さえいれば、こんなこと認めないのに・・・!
山名宗全は、義政の正室である日野富子とも親密な関係だったので、日野富子を通じての根回しもあったのかもしれません。
義政の急な方針転換に一番ブチ切れたのは、もちろん家督の座を奪われた畠山政長です。
畠山義就と足利義政が山名宗全の家に招かれた時点で、政長は嫌な予感を持っていましたが、その嫌な予感は見事に的中してしまいました・・・。
畠山政長「義就め、卑怯な手を使いやがって。そっちがそうくるなら、俺は力でお前をぶっ倒す」
同月(1467年1月)、義就と政長は京の上御霊神社と言う場所でバトルを開始。
山名宗全は畠山義就に、細川勝元は畠山政長に加勢しようとしますが、ここで将軍の足利義政からストップ命令が出されます。
義就VS政長の戦いにだれも加勢してはならぬ!
みなが加勢すれば、戦火が拡大して京は炎に包まれることになるだろう・・・。
政長を助けたいが、将軍がそう言うのなら仕方あるまい。
それに、確かに京の戦火を拡大させるのは良くないしな。
山名宗全「義政の命令?そんなの無視無視。あとから日野富子に頼めばどうでもなることだ。この混乱に乗じて俺は権力を手に入れる。まずは義就に加勢して政長をぶっ倒す!」
こうして、細川勝元からの支援を受けられず孤立した畠山政長は敗北。京から追い出されてしまいます。
細川勝元としては、将軍の命令に従い正しいことをしたはずなのに、結果的に協力関係にあった畠山政長を見捨てる結果となってしまいました。
「仲間を見捨てた」というレッテルを貼られ、メンツを傷つけられた細川勝元は憤慨します。
山名宗全め、お前のせいで私のメンツが丸潰れだ。
これを放っておけば、幕府での私の立場も危うくなる。
宗全よ、お前のことは絶対に許さないからな。覚悟しとけよ。
山名宗全は、畠山義就を畠山家の家督にするだけではなく、斯波義廉を管領に就任させることで、幕府の中枢を山名派で支配し、政治を牛耳ろうと考えます。
一方、これに憤慨した細川勝元が京に兵を集めてリベンジのチャンスを狙うと、それに対抗するため山名宗全も京に多くの兵を集め、京には不吉な気配が漂いました。
細川勝元VS山名宗全
1467年5月、細川勝元が動きます。
細川勝元の軍勢が、突如として花の御所(将軍の住処)を目指して進軍を開始。
そして、これを阻止しようとする山名宗全軍との間で戦闘が起こり、戦場となった京では多くの家々が焼け落ちました。
細川勝元は、花の御所の周辺を兵で包囲すると足利義政に迫ります。
将軍殿!どうか私に将軍家の旗を与えてくれませんでしょうか?
将軍を舐め切った悪賊の山名宗全を、将軍の名の下に成敗したいのです。
足利義政は悩みます。当時、義政は畠山義就を畠山家の家督と認めたことで、間接的に山名宗全を支持する立場にありました。
そんな状況で、細川勝元に旗を与えて正式に「山名宗全討伐」を命じることは山名宗全への完全な裏切り行為です。
おそらく、山名宗全と裏でつながっていた日野富子もこれに反対したはずです。
日野富子「あなた(義政)!これは細川と山名の私闘なの!将軍家が正式関わる問題ではないわ。細川勝元に将軍家の旗なんて与えたら絶対ダメ!」
・・・が、細川勝元の熱意と軍事力に屈して足利義政はこれを認めてしまいます。(義政自身、山名宗全よりも細川勝元を好いていたことも一因かもしれません)
・・・わかった。
細川勝元に将軍旗を与えよう。
こうして、山名宗全の討伐は幕府公認のものに。戦いは細川勝元の圧倒的有利に傾きます。
山名宗全「細川勝元よ、そうきたか。だが、俺には秘密兵器がある・・・!」
山名宗全は、対細川勝元のため共闘関係にあった大内政弘を援軍として招いていたのです。
1467年8月、大内政弘の大軍が到着すると、戦況は再び互角に。京での争いも激しさを増し、多くの家や寺院が焼け落ちました。
山名宗全「足利義視を味方にしたww」
戦力的には、細川勝元と互角かそれ以上となった山名宗全。しかし、1つだけ大事な問題がありました。
それは、「将軍(室町幕府)から正式に敵と認められてしまったこと」でした。「幕府の敵!」というレッテルは、味方の士気に深刻な影響を与え、謀略や政治交渉の際にも圧倒的に不利となります。
山名宗全「戦力は互角になったが、細川勝元が将軍旗を持っているのは厄介だ。なんとかならないだろうか・・・」
・・・こう思っていた矢先、幕府内の権力争いによって足利義政の弟である足利義視が失脚。
山名宗全「・・・ん?もしかして、政争に敗れた足利義視を招き入れれば、次期将軍の公認で細川勝元と戦えるのでは・・・!?」
命の危険を感じて幕府を抜け出した足利義視は、斯波義兼を頼りにして山名宗全側に味方することになります。
「幕府の敵!」とレッテルを貼られていた山名宗全は、足利義視を担ぎ出すことで細川勝元を攻める正当性をゲットして、正々堂々と細川勝元と戦えるようになりました。
大内政弘・足利義視の西軍参戦によって、戦況は西軍の優勢へと変わっていきました。
しかし、1471年になると西軍の主力だった朝倉孝景が、細川勝元の暗躍によって東軍に寝返り、再び東軍が優勢となります。
山名宗全、応仁の乱終結前に亡くなる
東軍・西軍共にシーソーゲームのような互角の戦いを続けていると、次第に地方で反乱が起こるようになります。
理由は複雑ですが、簡単に言うと「守護大名たちが京で戦っていて、自国の守りが手薄になっていたから」です。
もともと守護大名に不満を持っていた民衆たちや、混乱に乗じて下克上を狙う者たちが各地で挙兵したのです。
こうして自国の平和が脅かされ始めると、守護大名も京で戦っている場合ではなくなってきます。
京で戦う守護大名一同「京で戦っている場合じゃねーぞ。早く地元に戻らないと下克上されて人生終了するかもしれない(涙)」
1472年、東西両軍に厭戦ムードが漂うと細川勝元は山名宗全に対して和睦の提案をします。
朝倉孝景が東軍に寝返って以降、応仁の乱は東軍有利に進んでいました。
そこで細川勝元は、自分が優位な状態で戦争を終わらそうと考えたわけです。
西軍内でも和睦の声が高まりますが、山名宗全は和睦を頑なに拒否しました。
そして、西軍の中でも和睦派と徹底抗戦派で意見が分かれていた1473年3月、山名宗全は病によって命を落としました。享年77歳でした。
その2ヶ月後の1473年5月、山名宗全のライバルだった細川勝元も享年44歳この世を去ります。
両軍の総大将が亡くなることで和睦交渉は進展し、一部の人たちは戦いをやめました。・・・が、一部の者は戦いを続け、応仁の乱は1677年まで続くことになります。
山名宗全の人柄
山名宗全は、家督争いを勝ち抜いた時から常に自分の実力で勝利を掴み取ってきました。
山名宗全は軍事を得意とし、近隣諸国とは血縁関係を結ぶことで無用な戦いを防ぎ、領国の経営に専念してきました。
そんな経緯から実力主義者であり、公家に対してこんなことを言った・・・という逸話も残されています。(事実かどうかは不明)
公家はいつも先例の話をするが、これはよくない。
「例」は「時」に改めるべきだ。そもそも先例というのも、ある時に行われたことが先例になっただけである。
先例にこだわるあまりに、時勢を見失うのはよろしくない。
そもそも、なぜ私のような者が高貴なあなたと普通に会話できているのでしょうか。
先例?違いますよね。これこそが時勢の流れなのです。
これからは、「例」という言葉を使わないようにしていただきたい。
山名宗全は当時、顔が赤かったことから「赤入道」の異名を持ち、同年代に生きた一休宗純は、武勇に長けた山名宗全のことを毘沙門天の生まれ変わり・・・とも言っています。
既存の社会の仕組みや考え方を自分の実力でぶち壊す。先例に重きを置く貴族たちからみれば山名宗全は異端児だったに違いありません。
山名宗全まとめ【年表付き】
- 1404年山名宗全、生まれる
- 1433年山名一族の家督を継ぐ
- 1441年嘉吉の変が起こる
犯人の赤松氏を討伐して、赤松氏の所領を奪うことに成功。
- 1447年娘を細川勝元の正室にする
- 1454年細川勝元と協力して畠山氏の家督争いに介入
三管領の1氏だった畠山氏の弱体化が狙い
- 1460年頃細川勝元が強くなりすぎた山名宗全を警戒し始める
- 1466年畠山氏・斯波氏の家督争いを通じて細川勝元と山名宗全が対立
- 1467年応仁の乱
序盤は将軍の足利義政を味方に引き入れた細川勝元が優勢
- 1468年山名宗全、足利義視を担ぎ出す
- 1472年細川勝元、山名宗全に和睦を提案するも拒否される
- 1473年山名宗全、亡くなる
同年に細川勝元も亡くなり、和睦交渉が実現。
しかし、一部の勢力がその後も戦いを続け、1477年まで応仁の乱が続く
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