今回は、足利尊氏が室町幕府の方針を示した建武式目(けんむしきもく)について紹介します。
建武式目が制定された背景やその内容を知ることで、当時、足利尊氏がどのようなことを考えていたのか知ることができます。
皇統が分裂し、情勢が複雑化する中、足利尊氏はどのようなことを考えていたか。そんな視点から建武式目についてお話ししてみたいと思います。
建武式目が制定された背景
まずは、建武式目が制定された当時の時代背景を確認しておきます。
1335年、中先代の乱の鎮圧で関東にいた足利尊氏が、後醍醐天皇に対して挙兵をします。
この両者は、考え方の違いから対立し、争いに発展してしまったのです。その初戦となったのが、以下の記事で紹介している箱根・竹之下の戦い。
その後も、各地で後醍醐天皇VS足利尊氏の戦いは続き、1336年5月、湊川の戦いによって両者の雌雄が決します。結果は、足利尊氏の勝利に終わります。
戦いに勝利した足利尊氏は、その後まもなく京都に入京。
一方、尊氏を恐れた後醍醐天皇は京から比叡山に避難しますが、1336年10月、両者の間で和睦が成立し、後醍醐天皇は再び京へ戻ります。
和睦の際の詳しい交渉内容はわかっていませんが、おおむね大覚寺統と持明院統による両統迭立を復活させようとする内容だったのだろうと言われています。「大覚寺統・持明院統・両統迭立??????、何それ美味しいの?」って方は以下の記事も読んでみてください。
当時、足利尊氏は持明院統だった光厳天皇を支援しており、大覚寺統で自らの正統性を主張する後醍醐天皇とは対立関係にありました。この対立を両統迭立で収めましょうというわけです。(そもそも両統迭立に不満があって世が乱れたわけで、根本的な解決にはなっていないと個人的には思いますが・・・・)
1336年11月2日、光厳天皇の譲位を受けて即位していた光明天皇は後醍醐天皇から三種の神器を受け取り、正統な天皇として認められ、長い対立に束の間の終止符が打たれました。12月に後醍醐天皇が再び動き出すので本当に一瞬だけですが!!
そしてその5日後、建武式目が制定されました。戦乱と皇位継承問題が落ち着いて、いよいよ武家政権樹立を目指そうとしたタイミングでの制定です。このタイミングは、おそらく意図されたものでしょう。
建武式目の内容は大きく2つ
では、建武式目はどんな内容だったのでしょうか。内容は大きく2つ。
です。2に関しては、その詳細がさらに17条の項目に分かれて書かれています。
あと、勘違いしやすいのですが、建武式目は法律ではありません。あくまで施策方針を表明しているもので、その体裁はQ&A方式(問答方式)になっています。なので、上の2つの項目も疑問形になっていて、その答えの内容が室町幕府の方針と言えます。
まずは「1」の内容について見てみましょう。
建武式目の第1項「幕府は鎌倉に置くべきか?」
以下、内容を私なりに要約してみました。
「鎌倉の地は源頼朝が幕府を開いた縁起の良い土地であるが、鎌倉時代末期、北条氏の腐敗した政治により幕府は滅んでしまった。
この歴史を踏まえるに、幕府にとって重要なのは土地ではなく、人であり、政治の良し悪しである。
であるから、もし人々が望むのであれば、幕府を鎌倉に置くことも考えよう。」
つまりは、「土地よりも人が重要である」と言い、間接的に幕府を鎌倉ではなく京都に置くと言っているわけです。
次に「2」を見ていきます。
建武式目の第2項「どのような政治を目指すべきか?」
同じく私なりの要約となります。
「政治は、鎌倉時代の武家政権全盛期の善政を参考とするべきと考える。
質素倹約に努め、贅沢は禁止。賄賂や女・僧侶の政治介入を防ぎ、守護には人徳者で器量のある者を選ぶ。弱者の訴訟には耳を傾け、寺社の訴訟はその内容を踏まえ取捨選択する。
北条義時・泰時の時代、そして、古くは延喜・天暦の治を手本とし、全ての者がこの建武式目に書かれた行いを実践すれば、平和な世が訪れるであろう。」
とこんな感じです。(かなり端折ってます)
つまりは、足利尊氏は主に北条義時・泰時の時代を手本にしていたと言えそうです。
ここで北条義時・泰時の時代について少し触れておきます。
北条義時の時代
北条義時は、1221年に起こった承久の乱の総大将でした。承久の乱は、倒幕運動を企てる後鳥羽天皇に対して、北条義時が挙兵した事件です。
・・・これ、尊氏が後醍醐天皇と戦ったのと似ていると思いませんか?
尊氏の意図は今となってはわかりませんが、北条義時を評価することで承久の乱を肯定し、後醍醐天皇との戦いをも正当化しようとしたのではないか?と思います。(個人的な意見です)
北条義時については、以下の記事で詳しく紹介しています。
北条泰時の時代
泰時は北条義時の息子に当たります。北条泰時は、鎌倉時代の武家政権の全盛期を築いた男であり、非常に評価の高い人物です。
特に有名なのが1232年に北条泰時が制定した御成敗式目(ごせいばいしきもく)
日本初の武家による武家のための法典がこの時に作られました。北条泰時は特に内政面で力を発揮し、比較的平和な時代を築くことに成功しています。また、武家・公家の双方から非常に評価されていた人物でもありました。
北条泰時を理想とすることは「後醍醐天皇との争いも終わり、私は再び平和な世を創りたい」という足利尊氏の意思の表れなのだろうと思います。
建武式目からわかるバサラの時代
建武式目では「倹約に努める」という部分で、婆娑羅(バサラ)という行いを強く禁じています。
バサラとは主に戦乱の中、実力で下からのし上がった者が、豪華絢爛な衣装や振る舞いで傍若無人な振る舞いをすることを言います。
これは今も昔も変わらない話ですが、新興勢力は既得権益層を強く嫌います。バサラの者たちもまた、特に公家や天皇など旧来の権威に対して強く反発し、社会問題化しつつありました。(なんとなく、現代でいうホリエモンのイメージがしっくりくる。)
なので、公家と武家の調和を目指す尊氏は何としてもバサラを防ぎたかったのです。公家と武家の調和は、建武式目の中で「北条義時・泰時時代」だけでなく、「延喜・天暦の治」も見本とすると言っているあたりからもわかります。延喜・天暦の治とは平安時代中期に天皇親政が順調に行われた頃を言います。詳しくは以下の記事を!
バサラは戦国時代で言う下克上の前身となる動きであり、世の中が大きく変わろうとしていたことを象徴しています。
建武式目は足利直義が作った説
以上、建武式目の内容について紹介しましたが、実は建武式目の内容は尊氏ではなく、弟の直義(ただよし)が作った説があります。
というのも、弟の足利直義は武家政権の再興に強い信念を持っていたと言われているからです。(幕府樹立のために後醍醐天皇に挙兵したのも尊氏ではなく、直義の意見だという説すらある。)
足利尊氏は感情的で情緒不安定な一面があった一方、弟の足利直義は冷静沈着な男で、室町幕府でも内政方面で力を発揮していました。
後にバサラ者たちは足利直義に強い不満を持つようになり、尊氏と直義が争うようになる(観応の擾乱)と尊氏側に加担し、直義を苦しめています。
さらに言えば、足利尊氏は1336年8月には「私はもう出家したい。だから、後のことは弟の直義に任せる!!」(超訳)なんて文書を残しており、尊氏のみで建武式目を制定したとはどうしても考えられません。(尊氏は意味不明な行動が多いので、この行動のみで心境を察することはできませんが・・・)
このような経過や直義の人柄から、程度は別としても建武式目の制定に直義が関与していたことはほぼ間違い無いと思います。
建武式目制定の後
建武式目の理念は素晴らしいですが、建武式目制定後の室町幕府は争いの連続でした。
まず、建武式目制定の翌月(1336年12月)、和平交渉をしていたはずの後醍醐天皇が密かに京を抜け出し、吉野にて自らの正統性を主張。
皇統は京の「北朝」と吉野の「南朝」に分かれ、再び争いが起こります。
1340年代になると南北朝の争いは落ち着きますが、次は室町幕府内でバサラ者を中心とした武闘派と、規律を重んじる直義派の間で内部闘争が勃発。
この内部闘争は観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれ、1349〜1352年にかけて、全国を巻き込んだ争いにまで発展しています。足利直義は観応の擾乱により命を落としています。
と、こんな感じで建武式目の理念も虚しく、室町幕府は樹立早々、混沌の渦中に巻きこまれてゆくのです。
建武式目まとめ
まとめると建武式目は「室町幕府を創設したので、その心意気を表明しよう」という意図で作られたもの。現代で言う、内閣総理大臣が就任した時の所信表明演説のイメージに近いです。
室町幕府の創設時期は諸説ありますが、一般的に建武式目の制定によって室町幕府は成立したと考えられています。つまり、室町幕府創設の第一歩こそが建武式目の制定だったのです。
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