

今回は建武式目について、いつ・誰が・何のために作ったのか、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は建武式目は、「足利尊氏が作った法律」というイメージで覚えている人が多いのですが、実際に起草の中心となったのは弟の足利直義でした。
では、なぜ尊氏の名で出されたのでしょうか?そもそも建武式目は御成敗式目とどう違うのでしょうか?
この記事では、教科書ではあっさり触れられがちな建武式目を、制定の背景から17条の内容、御成敗式目との違いまで、ストーリーで一気に整理していきます。
建武式目とは?
① 建武式目は、1336年(建武3年)11月7日に足利尊氏の名で出された全17条の「施政方針」です。
② 御成敗式目のような「法律」ではなく、室町幕府の政治の心得・方針を示した文書です。
③ 実際に起草の中心となったのは尊氏の弟・足利直義で、是円(中原章賢)・真恵という法律家兄弟が答申をまとめました。

建武式目は、ひとことで言うと「室町幕府がこれからどんな政治をしていくか」を宣言した文書です。1336年に足利尊氏が天下を取った直後、室町幕府の出発点で出されました。
大事なポイントは、建武式目が「法律」ではないという点です。御成敗式目のように裁判の基準として使われるルール集ではなく、「これからの幕府はこういう方針でいきます」という政治の心得・宣言文に近いものでした。
「式目」とは、もともと「条目を箇条書きにしたもの」「決まりごとを並べた文書」を意味します。御成敗式目(1232年)の「式目」も、建武式目の「式目」も、同じ意味の言葉です。
つまり「式目」という名前だけで、その文書が法律なのか方針なのかは決まりません。内容を中身まで見て初めて、性格がわかるというわけです。

「方針」って、なんだか会社の経営方針みたいですね。法律より弱い気がするけど、そんなものをわざわざ作る意味があったのかしら?

いいところに気づいたね!実はその「経営方針」っていうイメージはかなり的確なんだ。当時の尊氏は、建武の新政に失敗した後醍醐天皇に代わって「武士のための政治をやるよ!」と世間にアピールする必要があった。だから法律よりも先に、「うちはこういう政治をします」という方針表明が大事だったんだよ。
当時の世の中は大混乱でした。鎌倉幕府が滅び、建武の新政も約3年で崩壊し、武士たちは「次は誰が政治を動かすのか」を不安げに見守っていました。
そんな中で出された建武式目は、武士たちに対して「新しい幕府はまっとうな政治をやりますよ」と宣言する公約集のような役割を果たしたのです。
建武式目はいつ・誰が作ったのか
建武式目が出されたのは1336年(建武3年)11月7日。場所は京都で、足利尊氏の名で発布されました。
ただし、ここで注意したいのが、「足利尊氏の名で出された」けれど、「足利尊氏が書いた」わけではないという点です。建武式目には、次のような独特の制定プロセスがありました。
制定の流れ:尊氏の諮問 → 法律家の答申 → 直義主導で完成
- ① 足利尊氏が「これからどんな政治をすべきか」を学者・僧侶8名に諮問する
- ② 諮問された8名(中原章賢こと是円、真恵兄弟など)が答申書をまとめる
- ③ その答申を、尊氏の弟・足利直義が中心となって整理し、17条にまとめる
- ④ 1336年11月7日、足利尊氏の名で公布される
つまり建武式目は、「複数の人の頭脳が合わさってできた答申書」という性格を持っています。一人の天才が書いた法典ではなく、ブレーンが集まってまとめた政治方針なのです。

ワシは戦と人付き合いの方が得意でな……。難しい政治の文章は弟の直義に任せておるのじゃ。鎌倉幕府の北条義時・北条泰時のような立派な政治を目指すぞ!
■制定の背景:建武の新政の崩壊
建武式目を理解するには、その直前に起こった建武の新政の失敗を知る必要があります。
1333年に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりました。しかし、この新政は公家を優遇しすぎて武士の不満を爆発させ、約3年で崩壊します。
武士たちの怒りを背に立ち上がったのが足利尊氏でした。尊氏は1336年に京都を制圧し、持明院統の光明天皇を擁立。後醍醐天皇は吉野へ逃れ、南北朝の対立が始まります。
こうして武力では天下を取った尊氏ですが、いま必要だったのは「これからの政治の方針を示すこと」でした。建武の新政との違いを明確にし、武士たちを安心させなければなりません。そこで出されたのが建武式目だったのです。

建武の新政って建武式目と名前が似てるけど、関係あるんですか?テストでよく混乱しちゃうんです……。

名前が似てるのは「建武」って元号が同じだからなんだ。「建武の新政」は後醍醐天皇の政治(1333〜1336年)、「建武式目」はその後にできた足利尊氏の幕府の方針(1336年)。出した人がまったく逆だから注意してね!
■なぜ尊氏の名で出されたのか
では、実際に書いたのが直義なのに、なぜ建武式目は尊氏の名で出されたのでしょうか。これは室町幕府特有の「両頭政治」と呼ばれる仕組みで説明できます。
足利尊氏と直義の兄弟は、それぞれ役割を分担して幕府を運営していました。尊氏が将軍として軍事と人事(恩賞)を担当し、直義が政治と裁判を担当するという二人三脚体制です。

イメージとしては、尊氏が「会社の顔(社長)」で、直義が「実際に書類を作る実務責任者」って感じだね。だから建武式目は「社長=尊氏」の名前で出されたけど、書類を実際に作ったのは弟=直義というわけ。今でいう企業の経営方針発表に似てるよ!
この体制は、のちに兄弟間の対立(観応の擾乱)に発展し、室町幕府を大きく揺るがすことになりますが、建武式目が出された1336年の時点では、まだ兄弟の役割分担がうまく機能していた頃でした。
建武式目17条の内容
建武式目は全17条から成り、内容は大きく2つの部分に分かれます。前半は「幕府をどこに置くか」、後半は「武家政治の心得」です。
建武式目の2部構成
- 前半(幕府所在地の議論):幕府をどこに置くべきか(鎌倉か京都か)の論点整理
- 後半(武家政治の心得17ヶ条):倹約・暴力沙汰の禁止・賄賂禁止・守護の人選など、政治運営上の方針

ちなみに「17条」という数は、聖徳太子の「十七条憲法」を意識した可能性があると言われているんだ。実際、建武式目の中身も「役人としての心得」を並べる形式で、十七条憲法とよく似てるんだよ!
■主要条文の解説(現代語訳つき)
建武式目の中でも、特にテストや論述で問われる主要条文を、現代語訳と一緒に紹介していきます。
原文趣旨:建武の新政期には公家・武家ともに豪奢な生活に流れた。今後は質素倹約を旨とすべきである。
現代語訳:「贅沢な暮らしはやめて、武士らしく質素な生活を心がけよ」
原文趣旨:大勢で酒を飲み騒ぐこと、賭博・遊興にふけることを禁ずる。
現代語訳:「酒盛りで騒いだり、賭けごとや遊びにうつつを抜かしたりするな」
原文趣旨:政治の場における賄賂は、混乱の根源である。一切受け取ってはならない。
現代語訳:「賄賂をもらって裁きを曲げてはいけない。公正な政治を心がけよ」
原文趣旨:守護の人選には、政治の才能ある者を充てるべきである。
現代語訳:「守護は能力のある人を選んで任命しよう。コネや血筋だけで決めるな」
原文趣旨:身分が低く頼る者のいない者の訴えにも、必ず耳を傾けなければならない。
現代語訳:「身分の低い人や弱い立場の人の訴えも、ちゃんと聞いてあげよう」
📌 補足:建武式目の17条は、北条義時・北条泰時の時代の鎌倉幕府を「武家政治の理想像」として参照しており、随所に「義時・泰時の頃のように」という表現が登場します。つまり「鎌倉の良き時代に戻ろう」という保守的メッセージが、全体のトーンを支えています。

法律じゃないのに、どうやってこれを武士たちに守らせたんですか?罰則がないと、ただのスローガンになっちゃいそう……。

そこが建武式目のキモなんだよ!建武式目はあくまで「方針」で、実際の裁判ルールは引き続き御成敗式目を使う仕組みだったんだ。建武式目は「幕府の理念」、御成敗式目は「具体的な法律」って役割分担になってたんだよ。
建武式目と御成敗式目の違い
ここからは、建武式目と御成敗式目の違いを、教科書・テストで問われやすい3つの軸で整理していきます。前提として、御成敗式目は1232年に北条泰時が制定した、武家社会のための法律です。

違い①:制定主体と目的
- 御成敗式目(1232年):執権・北条泰時主導。御家人同士の所領争いを裁くための裁判基準を確立する目的
- 建武式目(1336年):足利尊氏の名で発布、実質は足利直義主導。室町幕府の政治理念を示す目的
御成敗式目は「もめごとを公平に裁くためのルール」として作られたのに対し、建武式目は「これからどう政治をするか」の宣言文として作られました。スタートからして役割が違うのです。
違い②:法的性質
- 御成敗式目:実際に裁判で適用される「武家法」(成文法)。条文ごとに具体的な判断基準を示す
- 建武式目:裁判のルールではなく「施政方針」「政治の心得」。罰則規定はない
御成敗式目には「どんな場合に所領を取り上げる」「どんな罪にはどんな罰」という具体的なルールが書かれていました。一方、建武式目には「倹約せよ」「賄賂を止めよ」といった抽象的な心得が並びます。
違い③:その後の実効性と影響力
- 御成敗式目:鎌倉時代だけでなく室町時代・戦国大名の分国法にも影響を与えた、中世武家法の基本法典として長く参照された
- 建武式目:室町幕府の基本方針として機能。御成敗式目を補完する形で、室町時代の政治運営の指針となった
つまり室町時代の幕府では、「具体的な裁判ルール=御成敗式目」「政治の理念=建武式目」という2本立てで運用されていたのです。建武式目は御成敗式目を否定したわけではなく、むしろ「鎌倉幕府の北条義時・泰時の良き時代を見習おう」という方針を打ち出していました。

うわー、違いが複雑でテストで混乱しそう……。ひと言でいうと、どう覚えればいいですか?

ザックリ覚えるなら「御成敗式目=武家の六法全書/建武式目=武家の経営方針発表」って覚えるとイメージしやすいよ!御成敗式目は分厚いルールブック、建武式目は薄い社訓みたいな感じだね。
建武式目がその後の室町幕府に与えた影響
建武式目は1336年に発布された後、室町幕府の基本方針として長く機能しました。ただし、その後の幕府の歩みは、決して建武式目が描いた理想通りには進みませんでした。
■室町幕府の統治原則として
建武式目で示された「倹約」「賄賂禁止」「能力主義の人事」「弱者の訴訟も聞く」といった理念は、その後の室町幕府の政治姿勢の基準となりました。
裁判の場では引き続き御成敗式目が適用され、新しく必要になったルールは「式目追加」という形で追加されていきました。つまり建武式目は「政治の理念」を担当し、御成敗式目は「裁判の実務」を担当するという、両輪体制が出来上がったのです。
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、名実ともに室町幕府が成立します。建武式目はその直前に、幕府の「土台」となる方針を世に示した文書でした。
■建武式目の歴史的評価
建武式目には、歴史学的に見て次のような評価と限界があると言われています。
- 評価:建武の新政の失敗を踏まえ、「武家政権の正当性」を理念面から打ち出した点。鎌倉幕府の「義時・泰時の時代」を理想とすることで、武家政治の連続性をアピールできた
- 評価:「政務の器用を選ぶ」「弱者の訴訟を聞く」など、武家政治に道徳的な理念を持ち込んだ点で先進的
- 限界:あくまで「方針」であって法的拘束力が弱く、後の守護大名の暴走(守護領国制の進展)を止められなかった
- 限界:兄弟の役割分担(尊氏=軍事・直義=政治)は、のちに観応の擾乱(1350〜1352年)で破綻し、室町幕府は早くも内紛に苦しむことになる

結局、建武式目の理想は完全には実現しなかったんですね。でも、その「理想を示した」こと自体には意味があった、ということでしょうか?

そうそう!建武式目のすごいところは、「武力で勝った後に、わざわざ理念を示した」こと。普通、戦いに勝った側は「俺たちが正義だ!」で済ませちゃうけど、尊氏たちは「正しい政治とは何か」を改めて宣言したんだ。これが、室町幕府が単なる軍事政権じゃなくて、ちゃんとした「公儀(公的な政府)」として認められる土台になったんだよ。
建武式目の理解を深めるおすすめ本

建武式目・南北朝時代・室町幕府についてもっと深く知りたい人におすすめの本を紹介するよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「建武の新政(後醍醐天皇)」と「建武式目(足利尊氏)」は名前は似ているが正反対の政権。「建武の新政=公家中心」「建武式目=武家中心」とセットで覚えると混乱しません。また、「御成敗式目(1232年・北条泰時)」とのペア問題が頻出です。

建武式目と御成敗式目、結局どっちがテストで出やすいんですか?

どっちもよく出るけど、最近は「2つの違いを答えなさい」という比較問題が増えてるよ。だから「制定者」「制定年」「法的性質」の3つの軸でセット暗記しておけば、どっちが来ても対応できる!「建武式目=1336年・尊氏・施政方針」「御成敗式目=1232年・北条泰時・武家法」の2行をスラスラ言えるようにしておこう。
よくある質問
A. 1336年11月7日に足利尊氏の名で発布された、室町幕府の施政方針です。全17条で構成され、「倹約」「賄賂禁止」「能力主義の人事」など、武家政治の心得が示されています。御成敗式目のような裁判の法律ではなく、政治の方針宣言にあたります。
A. 1336年(建武3年)11月7日に発布されました。形式上は足利尊氏の名で出されましたが、実際の起草は中原章賢(是円)・真恵兄弟ら8名の学者が答申し、それを尊氏の弟・足利直義が中心となって17条にまとめました。
A. 御成敗式目は1232年に北条泰時が制定した武家社会の「法律」で、裁判の基準として使われました。建武式目は1336年に足利尊氏の名で発布された「施政方針」で、政治の心得を示したものです。室町幕府では、裁判は引き続き御成敗式目を使い、政治理念は建武式目を参照するという両輪体制で運用されました。
A. 足利尊氏です。ただし、尊氏が正式に征夷大将軍に任じられたのは1338年で、建武式目が出された1336年の時点ではまだ将軍ではありませんでした。なお、実際に文書を取りまとめたのは弟の足利直義です。
A. 全17条です。聖徳太子の「十七条憲法」を意識した条数とも言われています。前半は「幕府をどこに置くか」に関する議論、後半は「武家政治の心得」を並べる構成になっています。
A. 建武の新政(後醍醐天皇の政治)が失敗したあと、新しく幕府を開いた足利尊氏が「自分たちはこういう政治をやる」と武士たちに方針を示すために作られました。武家政権の正当性を理念面から確立し、社会の動揺を鎮める目的があったとされています。
A. 「けんむしきもく」と読みます。元号の建武と、決まりを並べた文書を意味する式目を合わせた言葉です。
まとめ
-
1232年御成敗式目の制定(北条泰時)
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1333年鎌倉幕府の滅亡・建武の新政が始まる(後醍醐天皇)
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1334年元号「建武」が定まる
-
1336年建武式目の制定(11月7日)・南北朝の対立開始
-
1338年足利尊氏が征夷大将軍に任命される(室町幕府の本格成立)
-
1350年観応の擾乱(〜1352)・尊氏と直義の対立

以上、建武式目のまとめでした!「武家政権の理念って何だっけ?」と思ったらこの記事に戻ってきてね。下の関連記事もあわせて読むと、南北朝・室町幕府の流れがもっと立体的に見えてくるよ!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「建武式目」「足利尊氏」「足利直義」「建武の新政」「御成敗式目」「観応の擾乱」(2026年5月確認)
コトバンク「建武式目」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年5月確認)
Historist(山川出版社オンライン辞典)「建武式目」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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