今回は、室町幕府の3代目将軍である足利義満についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
2代目の義詮から3代目の義満へ
1358年、足利義満は2代目室町幕府将軍の足利義詮の子として産まれます。
1358年は、初代将軍の足利尊氏が亡くなった年でもあります。ややこしいので時系列で整理しておきます。
- 1358年4月足利尊氏、亡くなる
- 1358年8月足利義満、生まれる
- 1358年12月足利義詮、2代目室町幕府将軍へ
足利義詮が将軍になった当時、室町幕府はカオスと化していました。
きっかけは、1350年に起こった観応の擾乱と呼ばれる幕府の内乱。戦いの中、不利に立たされた側が幕府を恨む南朝に寝返ったことで、幕府の有力者たちはこう思うようになってしまいました。
幕府に不満があったり、ムカつくことがあってももう我慢する必要ないわ。だって南朝に寝返って幕府と戦えばいいしな。
こうして、南朝との戦いに加え、幕府内の政争・裏切りが日常茶飯事の中、足利義詮は将軍になったのです。
足利義詮は苦しい立場にありながら、南朝との戦いを終わらせ、室町幕府を安定させるために全力を注ぎました。(足利義詮は暗愚だったという話もありますが・・・!)
しかし、これは道半ばに終わります。1367年、足利義詮が享年38歳の若さで亡くなってしまうからです。
この父の事業を受け継ぎ、三代目の将軍となったのが今回紹介する足利義満となります。
足利義満が自立するまで
足利義満は1368年、わずか10歳で将軍となります。
もちろん、10歳で将軍が務まるわけがないので、父の義詮は管領で腹心だった細川頼之に義満の補佐を任せます。
・・・つまり、足利義満が大人になるまでの間、室町幕府の実権は細川頼之が握っていたわけです。
細川頼之は、義詮の目指した「南朝との戦争終結」「幕府の安定化」のうち、前者「南朝との戦争終結」に力を注ぎました。
1369年、南朝の超絶エースだった楠木正儀(楠木正成の息子)を幕府側に寝返らせることに成功。
1370年には、南朝勢力の拠点となっていた九州地方を攻めるため、九州探題に今川了俊という人物を送り込み、九州攻略を本格化させました。
一方で、もう1つの「幕府の安定化」は失敗に終わります。なぜなら、細川頼之自身が政争によって失脚してしまうからです・・・。
1379年、事件は起こります。細川頼之が幕府の権力を握ることに不満を持っていた反細川勢力が、義満の家(花の御所)を兵で囲って脅しをかけてきたのです。
反細川勢力のボスは斯波義将という男。
足利義満どの。細川頼之に言われて、俺らの仲間の土岐頼康を討伐する命令を出したようですね。
私たちは、細将軍が若いのを良い事に、細川頼之が長年権力の座にいるのをこれ以上許すわけにはいきません。どうか、細川頼之をクビにしてください。
思っていた以上に反細川勢力の力は強そうだ。ここで斯波義将の要求を拒否したらどうなるか・・・。
ただ、細川頼之の権力が他の一族を比べて突出して強くなっているのは事実。
俺も20歳を過ぎて、権力を自分の手で握りたいと思っていたところ。そのためには、俺に色々と口出ししてくる細川頼之は確かに邪魔だ。
いっそ逆らわず、この事件を口実に細川頼之を失脚させるのもアリなのでは・・・!?
わかった。土岐氏討伐の話はなしだ。細川頼之をクビにする。
色々と察した細川頼之は、抵抗することなく地元の四国へと去ってしまいます。このクーデターのことを康暦の政変と言います。(マニアックなので覚える必要はありません。)
康暦の政変によって細川頼之が追放されると、いよいよ足利義満が主導する政治がスタートします。
足利義満の謀略
名実ともに幕府の権力を握った足利義満がまず実施したのは「幕府の安定化」でした。
足利義満は、幕府に歯向かう力を持っている有力一族の力を削ぐことにしました。
最初のターゲットは土岐氏。1387年に幕府創設の功労者でもある土岐頼康が亡くなると息子の土岐康行・満貞の間で家督争いが勃発。1390年、これに足利義満が介入します。
ここは、父の領地を二人で分けようよ。
康行には美濃と伊勢。満貞には尾張を与える。これは将軍命令だ。
土岐康行「は?俺が家督を継ぐんだから、所領は全部俺のものになるのが普通だろ。将軍がそう言うなら力づくで尾張国を奪ってやんよ。」
土岐満貞「助けて足利義満!康行に攻め込まれて負けそうなの!」
計画どおりww
こうやって家督争いを中途半端にすると、どっちかが我慢できずに実力行使してくる。そこを正当防衛で俺が叩くっていうのが作戦さ。
一族は家督争いでバラバラになってるから、強い一族でも勝つことが可能。俺、天才かな?
OK!
反乱を起こした土岐康行は悪いやつ!倒すのに協力するよ!
こうして土岐康行は足利義満に敗北。土岐氏は力を失います。(この戦いを土岐康行の乱と言います)
1391年、次は山名氏の家督争いに介入。土岐氏の時と同じ要領で山名氏に争いを起こさせ、それに乗じて山名氏を没落させてしまいます。(明徳の乱)
どうやら、足利義満は人の心を手玉に取り、敵を嵌め込むことが得意だったようです。こうしているうちに、足利義満に逆らおうとする者は次第に少なくなっていきました。
南北朝の合体
父の代から続いた南朝対策にも大きな変化が見られます。長年の戦いで、さすがの南朝も勢いが落ちてきたのです。
1392年、土岐・山名と有力一族を弱体化させて幕府の運営が安定したタイミングを狙って、足利義満は分裂した南朝と北朝を1つに戻す交渉を開始します。
足利義満は、北朝と南朝の心理を手玉のように操る二枚舌外交で、この交渉を見事にまとめあげ、南北朝の合体(明徳の和約)が遂に達成されました。
詳細は以下の記事で解説していますので、ここでは省略します。
南北朝が合体した後、足利義満が二枚舌交渉で、約束を守るつもりがないことを知った南朝勢力の一部は、これにブチ切れて再び独自の朝廷を開いてしまいます。この朝廷のことを後南朝と言います。
足利義満の権力欲がヤバすぎる・・・
足利義満は、幕府の安定化のため将軍の権力強化も同時並行で進めます。具体的には、大きく仏教界・武家・朝廷の3つの世界で権力を掌握しました。
それぞれ、簡単に解説します。
五山十刹の制
足利義満は、数ある仏教宗派の中でも臨済宗を推すことを公言し、臨済宗の寺院に格付けを設けました。この寺院の格付けのことを五山十刹の制と言います。
格付けの第一位は相国寺。このお寺は義満が建てたお寺です。
*正確には、第一位の上に別格のお寺が存在します。
俺に逆らう奴は許さん。だからお寺の序列も俺の建てた相国寺がNO1に決まっている。
五山十刹の制は、義満の凄さをアピールする他に、圧倒的な経済力を背景に義満に逆らう可能性のあった比叡山への牽制の意味もありました。
三管領・四職の制度
義満は五山十刹のような序列を幕府内にも設けました。
まず、将軍の補佐役(室町幕府のNo.2)である管領には、細川・斯波・畠山の3氏しかなれないようにしました。この3氏を三管領と言います。
同じく、京の軍事や裁判を司る重要な部署「侍所」のトップには、一色・山名・赤松・京極の4氏しかなれない仕組みを設けます。この4氏は四職と呼ばれています。
こうして、
将軍:足利氏
三管領:細川・斯波・畠山
四職:一色・山名・赤松・京極
という、家柄に応じた身分秩序を幕府内に設けました。
実は、ここに登場した一族たちはすべて源氏の血筋。さらに、京極・赤松を除けば全てが清和源氏です。
足利義満は、三管領・四職を通じて武家の名門である清和源氏の頂点に立つのが自分であることアピールをしました。
さらに、血筋・家柄に応じて事前に役職を決めてしまうことで、幕府内での争いを未然に防ごうとする意図もあります。
足利義満の直属部隊「奉公衆」
有力守護たち(今登場した細川とか山名とか)が自立した強い力を持ち、将軍の言うことを簡単に聞いてくれなくなったので、足利義満は将軍直属の特別部隊を創設します。
この特別部隊のことを奉公衆と言います。奉公衆に選ばれた人は、将軍の持っている所領(御料所)の一部を与えられるほか、いくつかの特権が与えられました。
鎌倉時代にあった御恩と奉公に似た関係で、将軍と奉公衆は強固に結ばれ、たびたび足利義満を助けることになります。
自前の軍隊を持つことで、有力守護たちに舐められないようにしたわけです。
朝廷の最高役職、太政大臣になる
京で室町幕府と朝廷が共存するようになると、足利義満は朝廷が持つ京に関する様々な特権を奪っていきます。
その時に活躍したのが、先ほど紹介した四職が就任する侍所です。
朝廷は、南北朝の分裂のせいで弱体化しており、以前から京の警備など一部の仕事を侍所に代行してもらっていました。
侍所はその弱みにつけ込み、京の警察(軍事)に加え、裁判権や徴税権まで手中に収めます。
すると、同じく京にある朝廷は幕府に逆らうことができません。
京に朝廷の貴族たちよ。俺に逆らったらどうなるかわかってるな?
変なことをすれば簡単に貴族たちを逮捕できるし、トラブルで裁判が起きても俺がその結果を左右できる。おまけに、朝廷は幕府の経済力に依存しているから、俺がお金の供給をストップすれば、お前たちは生活すらできなくなるんだぞ?ww
1394年、朝廷内に足利義満に逆える者がいなくなると、義満は朝廷の中の最高役職「太政大臣」に登りつめます。
金閣寺
こうして、朝廷・幕府・仏教の3つの分野で圧倒的頂点に立つとこれに満足したのか、足利義満は将軍位を息子の足利義持に譲り、その翌年(1395年)に出家してしまいます。
義持の背後で絶大な権力を持ち続けた義満は、京に北山殿と呼ばれる壮大な別荘を建て、そこを拠点に日本の政治を裏から牛耳りました。
北山殿の中には、金箔を塗りたくった豪華絢爛なお寺もありました。これが金閣寺です。まさに、圧倒的な権力・権威を持つ足利義満を象徴するような派手なお寺でした。
*今も京都に残っている金閣寺は、1950年頃に再建されたものです。
日明貿易
圧倒的な権力・権威を手に入れた足利義満が最後に欲したのは、莫大な富でした。
ちょうど金閣寺が建てられた1397年頃から、足利義満は、明との貿易権を独占してそこから莫大な利益を得ようと考えます。
貿易権を独占するには、明からの船が頻繁に寄港する太宰府を支配する必要があります。
太宰府は、昔に南朝対策で送り込んだ九州探題の今川了俊が支配していました。今川了俊が長年の九州探題の運営で絶大な権力を持っていたことを危険視した義満は、1395年、今川了俊をクビにして、自分の息のかかった別の人物を九州探題に就任させてしまいます。
・・・しかし、これだけでは明と貿易ができても、貿易を「独占」することはできません。なぜなら、今の山口県あたりで強大な力を持っていた大内義弘がすでに朝鮮や明と独自貿易を始めていたからです。
1397~1398年、足利義満は大内義弘を馬鹿にしたり軽んじる行為を繰り返して挑発した上で、「京に来い」と命令して義弘に揺さぶりをかけます。
大内義弘は、この義満の精神攻撃に激しく動揺します。
大内義弘「やべぇ。こんなに嫌われてる状態で京に来いってことは、行ったら確実に殺される・・・。かと言って、無視したら無視したで難癖つけて俺を滅ぼす作戦かもしれない・・・」
そして1399年、この状態に我慢しきれなくなった大内義弘は反乱を起こします。(応永の乱)
計画どおり・・・!
向こうからこっちに来てくれると戦いやすくて助かるわww
悪いが俺の奉公衆は強いぞ!!
この戦いで大内氏が没落すると、足利義満はいよいよ明との独占貿易を開始します。
1401年、義満は明に僧の祖阿と博多商人肥富を使者として派遣し、1404年になるといよいよ明との貿易(日明貿易)が始まります。
詳細は以下の記事で解説していますので、ここでは省略しています。
この貿易で足利義満は自らを「日本国王」と名乗りました。本来は、日本の国王は天皇です。
このことから、日本国王と名乗った足利義満は太政大臣では飽き足らず、天皇の座をも狙おうとしていたのでは?と言われることもあります。
常軌を逸した義満の権力欲を象徴するエピソードです。
権力・権威、そして巨万の富を得た足利義満は1408年にこの世を去ります。享年51歳でした。
足利義満は金閣寺を建てた人物として有名ですが、こうやって生涯を追っていくと、数々の実績を残しており、金閣寺抜きにして有名になるべくしてなった人物なんだなってことがわかると思います。
足利義満まとめ【年表付き】
最後に、足利義満の生涯を年表で簡単にまとめておきます。
- 1358年足利義満、生まれる
- 1368年10歳で三代将軍に就任
若き義満を細川頼之が支えた。
- 1379年康暦の政変
細川頼之が失脚。足利義満が自由に政治を行えるようになる。
- 1390年土岐康之の乱
土岐氏の家督争いを利用して、土岐氏を弱体化
- 1391年
山名氏の家督争いを利用して、山名氏を弱体化
- 1392年
足利義満の二枚舌交渉で南北朝が合体。しかし、義満の嘘っぱちにブチ切れた南朝勢力が再び分裂(後南朝へ)
- 1394年足利義満、太政大臣へ
朝廷を完全支配して逆らう者がいなくなると、太政大臣に就任。
- 1395年出家
裏で引き続き政治を牛耳っていた。
- 1397年金閣寺、完成!
隠居先の別荘である北山殿が完成。別荘には金閣寺も建てられました。
- 1399年
明との独占貿易の際に邪魔となる大内氏に反乱を起こさせ、弱体化させる。
- 1404年日明貿易、始まる
足利義満は権力・権威に続き、巨万の富を手に入れることに。
- 1408年足利義満、亡くなる
4代将軍で息子の足利義持に跡を託す。
コメント