応永の外寇とは?朝鮮が対馬を攻めた理由・経緯・結果をわかりやすく解説

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応永の外寇とは?朝鮮が対馬を攻めた理由・経緯・結果をわかりやすく解説

もぐたろう
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今回は応永の外寇おうえいのがいこうについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!元寇と並ぶ「外国から日本が攻められた事件」として、テストでも教養としても大切なポイントなんだ。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 応永の外寇とは何か(1419年に朝鮮軍が対馬を攻めた事件)
  • なぜ朝鮮は対馬を攻めたのか(倭寇問題・宗氏の代替わり・朝鮮国内事情)
  • 応永の外寇の経過(朝鮮軍227隻の上陸・糠岳の戦い・宗貞盛の反撃)
  • 元寇との違い(「日本が外から攻められた2大事件」を整理)
  • その後の日朝関係(嘉吉条約まで・宗氏の通交権独占)

「日本が外国の軍隊に攻め込まれた事件」と聞いて、何を思い浮かべますか?多くの人が真っ先に挙げるのは元寇(蒙古襲来)でしょう。

でも実は、その元寇から約140年後室町時代にも、日本は外国の大軍に攻め込まれていたのです。それが応永の外寇元寇と並ぶ「外寇」でありながら、教科書ではほんの数行しか触れられない――。けれどテストではしっかり問われる、まさに「隠れた超重要事件」なんです。

この記事では、応永の外寇の原因・経緯・結果を中学生でも読めるようにストーリーで整理しつつ、元寇との違いやテスト頻出ポイント、その後の嘉吉条約までを一気にカバーしていきます。

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応永の外寇とは?

3行でわかる!応永の外寇まとめ
  • 1419年(応永26年)李氏朝鮮りしちょうせんが兵船227隻・約17,000人で対馬つしまを攻撃した事件
  • 倭寇(日本の海賊集団)の取り締まりを名目に、朝鮮が先制攻撃をしかけた
  • 対馬守護・宗貞盛そうさだもりが防戦し朝鮮軍は撤退。のちに嘉吉条約(1443年)で日朝貿易が安定化した

応永の外寇とは、1419年(応永26年)の夏、李氏朝鮮の軍勢が対馬に侵攻した事件のことです。「応永」は当時の日本の元号(応永年間)、「外寇」は「外国からの侵攻」を意味します。

侵攻軍の規模は、兵船227隻・兵員約17,000人。司令官は朝鮮の名将李従茂りじゅうもでした。一方、迎え撃つ日本側は対馬を治める宗氏のみ。兵力は数百騎程度とされ、まさに圧倒的な戦力差での戦いとなりました。

ゆうき
ゆうき

テスト前なんだけど、「外寇」ってどういう意味?元寇と同じような感じ?

もぐたろう
もぐたろう

「外寇」っていうのは「外国から武力で侵入してくること」のこと。「外」=外国、「寇」=武力侵入って意味だよ。元寇はモンゴル帝国(元)が攻めてきた事件、応永の外寇は朝鮮(李氏朝鮮)が攻めてきた事件。日本史上「外から攻められた2大事件」って覚えると整理しやすいよ!

対馬は日本本土と朝鮮半島の中間に浮かぶ島で、両国を結ぶ海上交通の要衝です。古くから日朝交流の窓口でもあり、同時に倭寇の根拠地の一つでもありました。この立地こそが、応永の外寇で対馬が標的になった最大の理由なのです。

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なぜ朝鮮は対馬を攻めたのか

応永の外寇の原因は「朝鮮が突然攻めてきた」ではなく、倭寇問題・対馬の代替わり・朝鮮国内事情という3つの要素が重なった結果でした。順番にひも解いていきます。

■ 倭寇とは何か――応永の外寇の前提知識

倭寇とは、14〜16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸を襲撃した日本人を中心とする海賊集団のことです。特に14世紀後半〜15世紀前半の倭寇は「前期倭寇」と呼ばれ、対馬・壱岐・松浦地方を根拠地としていました。

対馬・壱岐・松浦の位置と朝鮮半島との位置関係
対馬・壱岐・松浦は日本と朝鮮半島の中間に位置し、倭寇の根拠地でもあった

倭寇は朝鮮半島の沿岸を襲って米や人を奪い、ときに内陸部まで進撃することもあったとされます。建国まもない李氏朝鮮にとって、倭寇の被害は深刻な国家問題だったのです。

もぐたろう
もぐたろう

イメージで言うと、倭寇は「海から来る武装した略奪集団」。今で例えるなら、武装した海賊船団が船で押し寄せて、村ごと丸ごと持っていく感じ。朝鮮側からすれば「いつ来るかわからない厄災」だったんだ。だから「拠点である対馬を一気に叩いてしまえ!」という発想が生まれたわけだね。

■ 宗貞茂の死――対馬の取り締まりが緩む

対馬を治めていたのは宗氏です。当主だった宗貞茂そうさだしげは、朝鮮との良好な関係を築き、自ら倭寇の取り締まりに協力していました。「対馬で倭寇を抑える代わりに、朝鮮との貿易で利益を得る」という、win-winの関係を築いていたのです。

ところが1418年に宗貞茂が死去。跡を継いだ息子の宗貞盛は当時30代とされ(生年には諸説あり)、家督継承からまだ日が浅く、対馬の統制力は一気に弱まりました。すると倭寇の活動が再び活発化し、朝鮮の沿岸を脅かすようになります。

あゆみ
あゆみ

倭寇って海賊のことだよね?それなら、なんで朝鮮は日本本土じゃなくて対馬だけを攻めたの?

もぐたろう
もぐたろう

いい質問!朝鮮にとって対馬は「倭寇の巣窟」だったんだ。日本本土まで攻め込むのは現実的じゃない(補給線が伸びるし、室町幕府との全面戦争になる)。だから「海賊の本拠地である対馬だけをピンポイントで叩く」という限定的な作戦をとったんだよ。日本征服が目的じゃない、ってのが応永の外寇の重要ポイントなんだ。

■ 朝鮮の国内事情――上王・太宗の決断

同じころ、朝鮮国内でも大きな変化がありました。1418年、3代国王太宗テジョンが息子の世宗セジョンに王位を譲り、自らは「上王」として実権を握り続けていました。武断派として知られた太宗は、倭寇問題に強硬姿勢で臨むことを決意します。

倭寇の根拠地である対馬を一気に攻撃し、海賊の脅威を根絶やしにする」――それが太宗の判断でした。司令官には朝鮮の名将李従茂りじゅうもを任命。1419年6月、約227隻の大艦隊が朝鮮南部の港から出航したのです。

もぐたろう
もぐたろう

ちなみに当時の日本側、室町幕府の4代将軍は足利義満の子・足利義持。彼は父の代に始まった日明貿易(勘合貿易)を一時中止していて、対外姿勢が消極的。「倭寇の取り締まりはあくまで現地任せ」になりがちで、結果として倭寇が再活発化する一因になったんだ。

📌 背景のポイント整理:①倭寇被害の深刻化/②宗貞茂の死で対馬の取り締まり弱体化/③朝鮮・太宗の武断政策。この3つが重なって応永の外寇は起きた。

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応永の外寇の経過(1419年6〜7月)

では、応永の外寇は実際にどんな戦いだったのでしょうか。約2週間の出来事を時系列で見ていきます。

応永の外寇・経過タイムライン
  • 1419年6月20日
    朝鮮軍(兵船227隻・約17,000人)が対馬に上陸
  • 6月下旬
    糠岳の戦い:宗貞盛軍が反撃。朝鮮左軍が敗北
  • 7月3日
    朝鮮軍が対馬から撤退。応永の外寇が終結
  • 1419年秋〜
    宗貞盛が朝鮮に使者を送り、和平交渉が始まる

■ 朝鮮軍227隻が対馬に上陸

1419年6月20日、朝鮮の大艦隊が対馬の浅茅湾あそうわんに上陸しました。兵船227隻、兵員約17,000人という規模は、当時の朝鮮としても破格の動員でした。司令官・李従茂は上陸後、湾内の倭寇船を焼き払い、家屋を焼き、捕虜となっていた中国人らを救出したと記録されています。

一方の対馬側は、まったくの不意打ち。当主・宗貞盛はまだ若く、兵力も限られていました。一説には、対馬全土で動員できた兵は数百騎規模だったとされ、戦力差は圧倒的でした。それでも宗貞盛は逃げることなく、島の守備に徹します。

ゆうき
ゆうき

17,000人 vs 数百騎って、めちゃくちゃ差があるじゃん…!これって普通に勝てないやつでは?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ、普通なら絶望的。でも対馬は地形が複雑な島でね。山がちで谷も深く、大軍がまとまって動きにくい。さらに対馬の宗氏は地元の地理を知り尽くしている。次の章で出てくる「糠岳の戦い」では、その地の利を最大限に活かした奇襲で朝鮮軍を撃退するんだ。

■ 糠岳の戦いで宗貞盛が反撃

朝鮮軍は上陸後、対馬を南北に進撃しようとしました。しかし対馬の地形は険しく、進軍は思うように進みません。6月下旬、朝鮮軍の一部(左軍)が糠岳ぬかだけと呼ばれる山中で宗貞盛軍の奇襲を受けます。

これが糠岳の戦いです。地の利を活かした宗氏側の攻撃により、朝鮮左軍の将校4名が戦死、兵100数十人が討ち取られたと『朝鮮王朝実録』は記録しています。圧倒的な兵力差にもかかわらず、宗氏は局地戦で朝鮮軍に手痛い損害を与えたのです。

もぐたろう
もぐたろう

数百騎 vs 17,000人で局地戦に勝つ――これって、ちょっと信じられない数字だよね。地の利+奇襲+必死の覚悟。「島を守るのは俺たちしかいない」という対馬武士団の意地が、この戦いを決めたと言われているんだ。

■ 朝鮮軍の撤退

糠岳の戦いでの敗北に加え、朝鮮軍は食糧・水の補給にも苦しみました。対馬の地形は険しく、長期戦は不可能。さらに、台風シーズンが迫っていたことも撤退判断の理由とされています。

1419年7月3日、朝鮮軍は対馬から撤退。応永の外寇は、わずか約2週間で終結しました。朝鮮軍は当初予定していた「徹底的な殲滅戦」には至らず、対馬全域を制圧することもできませんでした。日本側の損害は数百人、朝鮮側の損害も数百人規模だったと伝わります。

📌 撤退理由は諸説あり:糠岳の敗戦・補給難・台風シーズン・対馬制圧の困難さなど複数の要因が指摘されています。「日本側が完勝した」というよりは「朝鮮側が長期戦を諦めて撤退した」というのが実態に近いとされます。

元寇と応永の外寇の違い

日本史で「外から攻められた事件」と言えば元寇と応永の外寇。この2つはセットでテストに出やすいので、違いを整理しておきましょう。

比較ポイント①:時代・相手国 元寇=鎌倉時代・モンゴル帝国 / 応永の外寇=室町時代・李氏朝鮮

比較ポイント②:規模・場所 元寇=九州北部まで迫った2度の大侵攻 / 応永の外寇=対馬島内にとどまり約2週間で終結

比較ポイント③:結果 元寇=撃退後も警戒継続(異国警固番役) / 応永の外寇=宗氏と朝鮮の交渉→嘉吉条約で日朝貿易再開

細かく比べたい人向けに、表形式でもまとめておきます。

比較項目元寇応永の外寇
発生年1274年・1281年1419年
時代鎌倉時代室町時代
侵攻勢力モンゴル帝国(元)+高麗李氏朝鮮
規模数万〜十数万人約17,000人
侵攻範囲対馬・壱岐・九州北部対馬島内
日本側の指揮鎌倉幕府(執権・北条時宗)対馬・宗氏(宗貞盛)
結果撃退(神風伝説)朝鮮軍が撤退→和平交渉
その後の関係緊張継続嘉吉条約で貿易再開

あゆみ
あゆみ

そういえば元寇も応永の外寇も、最初に攻められたのは対馬よね。対馬ってそんなに重要な島なの?

もぐたろう
もぐたろう

対馬は日本と朝鮮半島の中間にある「海の関所」みたいな島なんだ。朝鮮半島の釜山まで約50km、九州の博多まで約140km。日朝交流の窓口でもあり、軍事的にも超重要。攻め込む側からすれば最初の足場、守る側からすれば最前線。だから「外寇=まず対馬」になりやすいんだよ。

応永の外寇の結果と影響

応永の外寇は「短期間で終わった局地戦」のように見えますが、その後の日朝関係に与えた影響は大きなものでした。ここでは事件後の流れを整理します。

■ 宗氏に通交権が集中

朝鮮軍の撤退後、宗貞盛は朝鮮に使者を送り、和平交渉を始めました。朝鮮側も「対馬を制圧できなかった以上、これ以上戦っても得るものは少ない」と判断し、外交ルートでの解決にかじを切ります。

その結果、宗氏は「倭寇を取り締まる代わりに、朝鮮との貿易を独占できる立場」を獲得していきます。これが応永の外寇のもっとも大きな影響でした。対馬の宗氏は、以後200年以上にわたり日朝貿易の窓口として君臨することになります。

じつは、応永の外寇の直後から宗貞盛自ら書状をしたため、朝鮮へ謝罪の使者を送っています。「今後は倭寇を必ず取り締まる。友好関係を続けてほしい」――戦いが終わった直後にもかかわらず、したたかに外交の扉を叩いたのです。宗氏にとって朝鮮との貿易は島を養う「生命線」。この積極的な和平外交が、のちの嘉吉条約(1443年)への道を開きました。

■ 嘉吉条約(1443年)で日朝貿易が正常化

応永の外寇から約20年後の1443年、宗氏と朝鮮の間で嘉吉条約かきつじょうやくが結ばれます。別名「癸亥約条きがいやくじょう」とも呼ばれる、日朝貿易のルールを定めた条約です。

嘉吉条約のおもな内容は次の通りです。

  • 宗氏が朝鮮に派遣できる歳遣船(さいけんせん)を年50隻に制限
  • 宗氏に貿易の独占権を認める(他の日本人勢力は宗氏を通さないと貿易できない)
  • 朝鮮側は宗氏に米・大豆200石を「歳賜米豆」として与える

これによって、応永の外寇で揺らいだ日朝関係は「宗氏を窓口にした管理貿易」として再構築されました。応永の外寇は単なる戦争事件ではなく、日朝関係を再設計する転換点だったわけです。

📌 朝鮮側の呼称「己亥東征きがいとうせい:朝鮮では応永の外寇を「己亥東征」と呼びます。1419年の干支「己亥(きがい・つちのとい)」と、東(日本の方角)への遠征という意味です。日本史と朝鮮史で同じ事件でも呼び方が違うのは、立場の違いを反映していて興味深いポイントです。

もぐたろう
もぐたろう

このあと日朝関係は嘉吉条約をベースに安定するんだけど、1510年に対馬商人と朝鮮の関係が悪化して三浦の乱が発生。その後の壬申約条(1512年)で歳遣船数はさらに半減(25隻)に。応永の外寇→嘉吉条約→三浦の乱→壬申約条、という流れで日朝貿易は徐々に縮小していくんだ。最終的に文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)で完全に断絶することになるよ。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 1419年:応永の外寇が起きた年。「元寇=1274/1281」と混同しないこと
  • 李氏朝鮮:応永の外寇を起こした国。「元」ではない(元寇との取り違え注意)
  • 対馬・宗氏(宗貞盛):朝鮮軍を撃退した対馬守護。以降、日朝貿易の窓口に
  • 糠岳の戦い:宗貞盛軍が朝鮮左軍を撃破した決戦
  • 嘉吉条約(癸亥約条・1443年):応永の外寇後に締結。歳遣船50隻・宗氏の貿易独占を定めた

📌 暗記のコツ:①「外寇=外国からの侵入」を覚えれば元寇との関係が腑に落ちる。②応永の外寇(1419)→嘉吉条約(1443)はセットで覚える(約25年後に貿易ルール確定)。③相手国は朝鮮(モンゴル=元ではない)。「室町時代に対馬が攻められた→朝鮮」がすぐ言えればOK。

ゆうき
ゆうき

嘉吉条約って、テストでどんな感じで問われる?「応永の外寇とセットで」って覚え方でいいの?

もぐたろう
もぐたろう

その覚え方で完璧!高校日本史では「応永の外寇(1419)→嘉吉条約(1443)→三浦の乱(1510)→壬申約条(1512)」の流れで日朝関係の変遷が問われやすい。「応永=事件」「嘉吉=条約」と機能で分けて覚えるとブレないよ。中学レベルなら、まず「応永の外寇=1419年・朝鮮が対馬を攻めた」がスラスラ出ればOK!

応永の外寇についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

応永の外寇についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①倭寇ってそもそも何?から整理したいなら|定番の入門書でざっくり理解

②「倭寇って本当に日本人だったの?」に答えてくれる一冊|中国史の視点から読み解く

よくある質問(FAQ)

A. 倭寇の朝鮮沿岸への襲撃が深刻化し、その本拠地である対馬を一気に叩こうとした朝鮮の判断によります。さらに1418年に対馬守護・宗貞茂が亡くなり、後継の宗貞盛がまだ若くて取り締まりが緩んだこと、朝鮮の上王・太宗が武断的な政策を取ったことが重なって発生しました。

A. 対馬の宗貞盛軍が糠岳の戦いで朝鮮左軍に大打撃を与え、約2週間で朝鮮軍は撤退しました。「日本が完勝した」というよりは、「補給難・地形の険しさ・宗氏の抵抗で朝鮮軍が撤退した」というのが実態に近いです。ただし「対馬は守り抜いた」という意味では日本側の勝利と評価されることが多いです。

A. 時代・相手国・規模・結果が大きく異なります。元寇は鎌倉時代(1274/1281)にモンゴル帝国(元)が九州北部まで侵攻した大事件、応永の外寇は室町時代(1419)に李氏朝鮮が対馬のみを攻めた限定的な事件です。元寇後は日本と元の緊張が続きましたが、応永の外寇は嘉吉条約での日朝貿易再開につながりました。

A. 1443年に対馬の宗氏と李氏朝鮮の間で結ばれた、日朝貿易を定めた条約です。「癸亥約条(きがいやくじょう)」とも呼ばれます。宗氏の歳遣船を年50隻に制限する一方、宗氏に貿易の独占権を認める内容で、応永の外寇後に揺らいだ日朝関係を「管理貿易」として再構築しました。

A. 正しくありません。朝鮮軍の目的は「倭寇の根拠地である対馬の制圧・倭寇の壊滅」であり、日本本土の征服ではありませんでした。実際、戦闘は対馬島内に限定され、九州本土に攻め込むこともありませんでした。「外寇」と聞くと大規模な征服戦争を想像しがちですが、応永の外寇は対倭寇のための限定的な軍事作戦と理解するのが正確です。

A. 「外」は外国、「寇」は武力で侵入することを意味します。つまり「外国からの武力侵入」のこと。元寇も同じ「寇」の字を使い、こちらは「元(モンゴル帝国)からの寇」という意味です。日本史上、外国から武力侵入された主な事件は元寇と応永の外寇の2つに整理されます。

まとめ

応永の外寇のポイントまとめ
  • 1419年(応永26年)、李氏朝鮮が兵船227隻・約17,000人で対馬を攻撃した事件
  • 目的は倭寇の取り締まり。日本本土の征服ではなく対馬の制圧が狙いだった
  • 対馬守護・宗貞盛が糠岳の戦いで反撃し、朝鮮軍は約2週間で撤退
  • 日本史で「外国から攻められた事件」は元寇と応永の外寇の2つと整理される
  • 事件後、宗氏が日朝貿易の窓口となり、嘉吉条約(1443年)で関係が安定化

もぐたろう
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以上、応永の外寇のまとめでした!元寇と並ぶ「外から攻められた事件」として、テストでも教養としても大切なポイントだよ。倭寇・嘉吉条約・三浦の乱まで一連の流れで押さえると、室町時代の日朝関係がぐっと見えてくるはず。下の関連記事もあわせて読んでみてね!

応永の外寇・関連年表
  • 1392年
    李氏朝鮮が建国される
  • 14世紀後半〜
    倭寇が朝鮮半島・中国大陸沿岸で活発化
  • 1418年
    宗貞茂が死去。対馬守護の倭寇取り締まりが弱体化
  • 1419年6〜7月
    応永の外寇。朝鮮軍が対馬に侵攻するも宗貞盛が撃退
  • 1419年秋
    宗貞盛が朝鮮に使者派遣・和平交渉が始まる
  • 1443年
    嘉吉条約(癸亥約条)締結。宗氏の歳遣船50隻を確定
  • 1510年
    三浦の乱。対馬商人と朝鮮の関係が悪化

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』

参考文献

Wikipedia日本語版「応永の外寇」(2026年5月確認)
コトバンク「応永の外寇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「嘉吉条約」(日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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