嘉吉の変(嘉吉の乱)わかりやすく解説|将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐の決断

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嘉吉の変をわかりやすく解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は室町時代の大事件「嘉吉かきつの変」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!将軍が家臣に殺された前代未聞の事件——なぜ起きたのか、その後どうなったのか、一緒に見ていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 嘉吉の変(嘉吉の乱)とは何か(1441年に起きた将軍暗殺事件の全体像)
  • くじ引き将軍・足利義教(なぜくじ引きで選ばれ、なぜ「万人恐怖」と呼ばれたか)
  • 赤松満祐が義教を暗殺した理由(事件の動機と背景)
  • 嘉吉の変の経過と影響(事件当日の出来事・その後の赤松討伐)
  • 将軍権力の失墜と応仁の乱への道(嘉吉の変が室町幕府を弱体化させた構造)

実は、足利義教あしかがよしのりは「ただの暴君」ではなく、室町幕府で唯一「将軍独裁」を実現しかけた改革者でした。

強くなりすぎた将軍——だからこそ、守護大名しゅごだいみょうたちは恐れ、ついに暗殺という手段を選んだのです。

弱い将軍では幕府は崩れていく、強い将軍でも恐怖で崩れていく——嘉吉の変はその矛盾を鮮やかに示した事件でした。

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嘉吉の変(嘉吉の乱)とは?わかりやすく3行で解説

嘉吉の変とは?3行まとめ

嘉吉の変とは、1441年6月24日、室町幕府6代将軍・足利義教が、守護大名・赤松満祐あかまつみつすけに暗殺された事件のこと。
② 義教の強引な政治に追い詰められた満祐が、自邸の宴に将軍を招き、その場で殺害しました。
③ 将軍が家臣に暗殺された前代未聞の事件で、室町幕府の権威は大きく傷つき、のちの応仁の乱へとつながる引き金になりました。

「嘉吉の変」と「嘉吉の乱」——2つの呼び名を見たことがある人もいるはずです。じつはこの2つ、指す範囲が少しだけ違います。

厳密に言えば、「変」は将軍が暗殺された事件そのもの。「乱」は、そのあとの幕府による赤松討伐や、混乱の中で起きた土一揆まで含めた騒乱全体を指します。ただ、現在は教科書でも「嘉吉の変」「嘉吉の乱」の両方が混用されているのが実情です。

ゆうき
ゆうき

テストで「嘉吉の変」「嘉吉の乱」、どっちで書けばいいの?

もぐたろう
もぐたろう

どっちでも大丈夫だよ!山川の教科書では「嘉吉の変」、用語集や入試問題では「嘉吉の乱」もよく使われる。迷ったら「嘉吉の変」で書いておけば無難だね。

ちなみに「嘉吉」というのは元号で、1441年から1444年までの期間を指します。事件が起きた年(1441年)の元号がそのまま事件名になっているわけですね。

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くじ引きで選ばれた将軍・足利義教

足利義教の肖像画
足利義教(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

事件の主役の1人、6代将軍・足利義教は、ちょっと変わった経歴の持ち主でした。なんと、くじ引きで将軍に選ばれたのです。

4代将軍・足利義持あしかがよしもちには跡継ぎがいませんでした。義持は危篤になっても後継者を指名せず、「自分の死後、家臣たちでくじを引いて決めなさい」と言い残します。

そこで1428年、義持の死後に石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうでくじ引きが行われ、義持の弟である4人の候補者の中から義円(のちの義教)が選ばれました。義教は当時、青蓮院しょうれんいんという寺の住職をしていたのですが、まさかの「お坊さんから将軍へ」の大転身です。

あゆみ
あゆみ

くじ引きで将軍が決まるって、なんか不思議じゃない?神様任せってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そのとおり!「神様に決めてもらう」っていう発想なんだ。石清水八幡宮は武家の守護神だから、そこで引いたくじは「神意」として誰も文句が言えない——っていう、ある意味でめちゃくちゃ政治的なやり方だったんだよ。

くじ引きは八百長だった?

じつはこのくじ引き、「最初から義教が選ばれるよう仕組まれていたのでは?」という説があります。

当時、幕府の実権を握っていた管領かんれい畠山満家はたけやまみついえらがくじ引きを取り仕切っており、自分たちにとって都合のよい候補を選ぶ細工をした可能性があるとされます。ただし確たる証拠はなく、あくまで「諸説あり」のレベルです。

こうして将軍になった義教ですが、彼には大きな弱点がありました。「自分はくじで選ばれただけ。本当に正統な将軍と認められているのか?」という不安です。

その不安を打ち消すように、義教は強引な政治を始めます。逆らう者は容赦なく処分し、寺社・公家・守護大名を片っ端から圧迫しました。あまりにも恐怖政治だったため、当時の公家・伏見宮貞成親王ふしみのみやさだふさしんのうは日記に「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」と記しています。

意味は——「みんなが恐れている。口に出してはいけない、口に出してはいけない」。義教を批判すれば即、首が飛ぶ時代だったのです。

足利義教
足利義教

将軍に逆らう者は、誰であろうと許さぬ。神に選ばれたこの儂わしこそが、室町幕府を立て直す唯一の存在なのだ。

実際、義教の政治には成果もありました。鎌倉公方の足利持氏を倒した永享の乱えいきょうのらん(1438年)で関東の反乱を鎮圧し、室町幕府の将軍権力を一度は復活させたのです。

しかし、この「強い将軍」路線こそが、守護大名たちにとっては最大の脅威でした。次の章では、なぜ赤松満祐がこの将軍を殺すという最後の手段に出たのか、その動機を掘り下げていきます。

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嘉吉の変が起きた理由——なぜ赤松満祐は将軍を殺したのか?

嘉吉の変の犯人・赤松満祐は、播磨はりま(現在の兵庫県南西部)・備前びぜん(岡山県東部)・美作みまさか(岡山県北部)の3か国を治める有力な守護大名でした。

赤松氏はもともと、初代将軍・足利尊氏あしかがたかうじを支えた名門。室町幕府の中でも「四職ししき」という最高クラスの家柄に数えられる名家でした。

ゆうき
ゆうき

そんなに偉い家柄なのに、なんで将軍を殺すなんてことに?

もぐたろう
もぐたろう

その「偉い家柄」だからこそ、義教にとっては目の上のたんこぶだったんだ。義教は赤松家の所領を削って、自分の側近に分け与えようとしていたんだよ。

義教の方針は、はっきりしていました。「強すぎる守護大名を弱体化させて、将軍に権力を集中させる」——これが彼の理想です。

そのターゲットになったのが赤松満祐でした。義教は赤松家の一族で、自分のお気に入りだった赤松貞村あかまつさだむらを重用し、満祐の播磨を貞村に与える話を進めていたとされます。

つまり満祐から見れば、「先祖代々の領地を将軍に取り上げられ、同じ赤松一族の貞村に渡される」という最悪のシナリオが現実味を帯びていたのです。

当時の史料には、義教が宴席で満祐に対し露骨に冷たい態度を取り、周囲の目の前で侮辱したとも伝えられています。「将軍に目をつけられた」という噂は京の町に広まり、他の守護大名たちも満祐に近づかなくなったといいます。孤立した満祐にとって、残された選択肢はどんどん狭まっていきました。

圧力①:所領没収の予兆 播磨を赤松貞村に与える話が進行

圧力②:隠居も認められず 身を引こうとしても義教に拒否された

圧力③:他の大名も粛清済み 逆らった守護はみんな殺されている

追い詰められた満祐は、いったん身を引こうと考えます。「自分が隠居して、家督を息子に譲れば義教の怒りも収まるはず」——そう考えて、義教に隠居を申し出ました。

ところが、義教はこれを拒否します。それどころか、満祐を京都の自邸に住まわせて監視下に置いたとされています。隠居すら許されず、いつ殺されるかわからない——満祐は完全に追い詰められました。

あゆみ
あゆみ

義教って本当に容赦ないのね……。満祐が殺されるかもしれないって、根拠はあったの?

もぐたろう
もぐたろう

あったよ。義教はそれまでに、義教はそれまでに、土岐氏の有力者や一色義貫、さらに大覚寺義昭だいかくじぎしょうといった人物を次々に粛清していました。「次は俺の番かも」って思うのは当然の状況だったんだよ。

満祐に残された選択肢は2つでした。「黙って殺されるのを待つ」か、「先手を打って自分から動く」か。彼が選んだのは後者——将軍を自邸に呼び出し、その場で殺すという、前代未聞の決断でした。

次の章では、1441年6月24日、その運命の日に何が起きたのかを詳しく見ていきます。

嘉吉の変の経過——1441年6月24日、将軍が斬られた日

1441年6月24日。赤松満祐は、京都にあった自邸(西洞院二条にしのとういんにじょう付近)に将軍・足利義教を招きました。

名目は「結城合戦ゆうきがっせんの戦勝を祝う宴」。結城合戦というのは、義教が関東の反乱を鎮圧した戦いで、ちょうど勝利の祝賀ムードが続いている時期でした。

義教は何の疑いも持たず、管領・細川持之ほそかわもちゆき山名持豊(のちの宗全)ら、当時のトップクラスの守護大名たちを引き連れて満祐邸を訪れました。

事件の流れ①:赤松満祐が義教を自邸の宴に招待(1441年6月24日)

事件の流れ②:宴の途中、武士たちが乱入して義教を斬殺

事件の流れ③:満祐は領国・播磨へ逃走→幕府が討伐の準備へ

宴は和やかに進み、酒や舞、猿楽さるがくが披露されました。義教もすっかり気を許していたといいます。

ところが、宴もたけなわになった頃、満祐邸の馬が突然騒ぎ出します。義教が「何事だ?」と問うと、満祐の家臣・安積行秀あさかゆきひでらが太刀を抜いて屋敷に乱入。あっという間に義教を斬り殺してしまいました。

後世の研究では、この「馬の騒ぎ」はあらかじめ打ち合わせた殺害の合図だったとされています。屋敷に潜んでいた家臣たちは、馬の声を聞いた瞬間に一斉に動き出したのです。将軍一行は丸腰同然で宴席に臨んでいたため、抵抗する暇もなかったといいます。

もぐたろう
もぐたろう

義教の最期の言葉は、当時の公家・万里小路時房までのこうじときふさの日記『建内記けんないき』にこう書かれているよ。「将軍此のごとき犬死、古来その例を聞かざる事なり」——「将軍がこんな犬死をするなんて、過去に例がない」って意味だね。

同席していた管領・細川持之や山名持豊らは命からがら逃げ出しました。彼らは武装していなかったため、抵抗することもできなかったとされています。

義教の首を取った満祐は、ただちに京都を脱出。所領の播磨(兵庫県南西部)に向けて逃走しました。これでもう後戻りはできません。

ここで不思議なのが、幕府の反応の鈍さです。将軍が殺されたのに、幕府はすぐに追討軍を出すことができませんでした。理由は3つあります。

1つ目は、共謀者への疑心暗鬼。あれだけ堂々と将軍を殺せたのなら、満祐には味方がいるのではないか——他の守護大名も信用できない状態でした。

2つ目は、次期将軍が幼かったこと。義教の後継者となる息子の足利義勝あしかがよしかつは、わずか9歳。幕府の中心が空白になってしまったのです。

3つ目は、誰が義教の弔い合戦の指揮を取るかでもめたこと。功績を上げた者が幕府の主導権を握れるため、守護大名たちの間で駆け引きが起きました。

こうして幕府が右往左往している間に、満祐は播磨で籠城ろうじょうの準備を進めます。彼の運命がどう転んだのか——次の章で見ていきましょう。

嘉吉の変の後——赤松討伐と嘉吉の土一揆

山名持豊(宗全)の肖像
山名持豊(のちの宗全)。赤松討伐の主将を務めた(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

事件から数週間後、ようやく幕府は重い腰を上げます。赤松討伐の総大将に選ばれたのは、山名持豊(宗全)でした。

山名氏はもともと播磨の隣国・但馬たじまを治めており、赤松氏とは領地をめぐるライバル関係。「赤松を倒せば播磨を手に入れられる」——持豊にとって、これ以上ない好機だったのです。

山名持豊(宗全)
山名持豊(宗全)

幕府のために謀反人・赤松を成敗してみせる!播磨を取り戻す好機……いや、これは将軍の弔い合戦じゃ!

1441年8月、山名持豊を中心とする幕府軍は播磨へ進軍。満祐は本拠地の城山城きのやまじょう(兵庫県たつの市)で籠城して抵抗しました。

しかし、多勢に無勢。9月10日、ついに城山城は陥落し、満祐は一族とともに自害して果てました。事件発生からおよそ2か月半、嘉吉の乱は終結します。

満祐が支配していた播磨・備前・美作の3か国は没収されました。播磨の大部分と備前・美作は山名氏が獲得し、播磨の一部(三郡)は赤松一族の赤松貞村あかまつさだむらに分け与えられました。山名氏はこれによって急速に勢力を拡大することになります。

ゆうき
ゆうき

これで一件落着……ってわけにはいかないんだよね?

もぐたろう
もぐたろう

そう、ここからが大変なんだ。将軍が殺されて幕府がガタガタになった隙を狙って、京都周辺で大規模な民衆反乱が起きるんだよ。それが「嘉吉の土一揆」だね。

事件と同じ1441年の8〜9月、京都周辺で大規模な土一揆が勃発します。これが嘉吉の土一揆(嘉吉の徳政一揆)です。

農民や馬借ばしゃく(運送業者)たちが「徳政令を出せ!借金を帳消しにしろ!」と要求して京都を取り囲みました。その数、数万人とも言われています。

将軍を失った幕府には、これを武力で鎮圧する余裕がありません。やむなく幕府は徳政令とくせいれいを発布——日本史上初めて、幕府が一揆に屈する形で徳政令を出す事態となりました。

「徳政令」というのは、借金を帳消しにする法令のこと。これまで幕府は徳政令の発布を渋ってきましたが、「将軍が殺され、幕府の権威が地に落ちた」というニュースが民衆を勢いづかせたわけです。

ちなみに赤松氏のその後ですが、嘉吉の変で赤松一族は壊滅状態になったものの、完全に滅亡したわけではありません。生き残った赤松一族は雌伏の時を過ごし、応仁の乱前後の混乱の中で再び所領の一部を取り戻すことになります(赤松家の再興については後の章で触れます)。

こうして嘉吉の変は、将軍暗殺→赤松討伐→嘉吉の土一揆→徳政令という連鎖反応を引き起こしました。次の章では、嘉吉の変が室町幕府に与えた長期的な影響——なぜこの事件が応仁の乱の引き金になったのかを見ていきます。

嘉吉の変が歴史に与えた影響——将軍権力の失墜と応仁の乱への道

嘉吉の変が室町幕府に与えた影響は、想像以上に大きなものでした。一言でいえば「将軍の権威が二度と回復できないレベルまで失墜した」のです。

義教の後継者として、息子の足利義勝あしかがよしかつが7代将軍に就きました。しかし、わずか9歳で就任した義勝は、その翌年(1443年)に病死してしまいます。在位わずか8か月という短さでした。

次に将軍となったのが、8代将軍・足利義政。1449年の就任時、彼はまだ14歳。「強い将軍」だった義教の路線は完全に途絶え、幕府の実権は管領・細川持之ほそかわもちゆきや、その後を継いだ細川勝元ら、有力守護大名による合議体制に逆戻りしました。

細川勝元
細川勝元。嘉吉の変後の権力空白を利用して台頭し、山名宗全との対立が応仁の乱を引き起こした(出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

あゆみ
あゆみ

嘉吉の変が応仁の乱につながるって、よく聞くわよね。どうやって繋がるの?

もぐたろう
もぐたろう

カギを握るのが、赤松討伐で大儲けした山名氏なんだ。「将軍が弱い」「ライバルの山名氏が強い」——この2つが重なって、細川氏と山名氏の対立が止められなくなる。これがそのまま応仁の乱の東軍(細川)vs西軍(山名)になるんだよ。

嘉吉の変は、3つの「ドミノ」を倒しました。1つずつ整理してみましょう。

ドミノ①:将軍権威の失墜 「将軍は家臣に殺されうる存在」という前例ができてしまった

ドミノ②:守護大名の力関係激変 赤松没落・山名急成長で勢力バランスが崩れる

ドミノ③:応仁の乱へ 山名 vs 細川の対立構造が固定化し、26年後に大乱が爆発

1つ目のドミノは「将軍は殺せる存在」という前例ができたこと。これは精神的な影響として大きく、以降の将軍は守護大名に対して以前のような強気の姿勢を取れなくなりました。

2つ目のドミノは、守護大名の勢力バランスの激変です。嘉吉の変で赤松氏が没落し、播磨・備前・美作の3か国を含む約10か国の守護を兼ねる超大物に成長した山名氏は、「六分の一殿ろくぶんのいちどの」と呼ばれるほどの勢力を誇りました(六分の一とは、日本全国の守護の約6分の1を山名氏が握ったことを意味します)。

これに警戒したのが、もう一人の有力守護大名・細川氏でした。細川勝元山名持豊(宗全)は、当初は協力関係にあったものの、勢力が拮抗するにつれて対立が深まっていきます。

そして3つ目のドミノが、ついに倒れます。嘉吉の変から26年後の1467年、細川勝元の率いる東軍と山名宗全の率いる西軍が、京都を舞台に激突——応仁の乱の勃発です。

つまり嘉吉の変は、応仁の乱の「直接の原因」ではないものの、応仁の乱を準備した最大の事件だったといえます。「強い将軍が独裁すると暗殺される」「弱い将軍だと守護大名同士が争う」——どちらに転んでも幕府は壊れていく、という構造的な矛盾を、嘉吉の変は鮮明に浮き彫りにしたのです。

余談ですが、滅亡寸前まで追い込まれた赤松氏も、その後ひっそりと復活します。1458年、赤松一族の遺臣たちが、後南朝(吉野に逃れていた南朝の残党)から「三種の神器さんしゅのじんぎ」の一つ・神璽しんじを奪い返す功績を上げ、その褒美として加賀半国の守護に復帰したのです。その後、応仁の乱では東軍に味方して旧領の播磨を取り戻し、戦国時代まで生き延びました。

次の章では、ここまでの話の中でテストに頻出するポイントを整理していきます。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 嘉吉の変(1441年):6代将軍・足利義教が、守護大名・赤松満祐に暗殺された事件
  • 足利義教:くじ引きで選ばれた室町幕府6代将軍。「万人恐怖」と呼ばれた強権政治で知られる
  • 赤松満祐:播磨・備前・美作の守護大名(四職の一つ)。義教の圧力に追い詰められ暗殺を実行
  • 嘉吉の土一揆(1441年):嘉吉の変直後に起きた徳政令を求める土一揆。幕府が初めて一揆に屈して徳政令を発布
  • 嘉吉の変の影響:将軍権力の大幅な弱体化→山名氏の急成長→細川氏との対立→応仁の乱(1467年)へとつながる流れ
  • 後継者:7代将軍・足利義勝(9歳で就任・在位わずか8か月で病死)→8代将軍・足利義政(応仁の乱を招く)

📌 暗記のコツ:「嘉吉の変」は「1441年 / 足利義教 / 赤松満祐」の3点セットで覚える。「嘉吉の変→将軍権力失墜→応仁の乱」の流れは論述頻出。同じ1441年に起きた「嘉吉の土一揆(徳政一揆)」とセットで聞かれることが多い。

ゆうき
ゆうき

テストで一番大事なのってどこ?

もぐたろう
もぐたろう

「嘉吉の変=1441年=足利義教が赤松満祐に暗殺」が最重要!次に「嘉吉の土一揆で初めて幕府が徳政令を出した」「将軍権力が失墜して応仁の乱につながる」も覚えておこう!

嘉吉の変・足利義教についてもっと詳しく知りたい人へ

もぐたろう
もぐたろう

嘉吉の変や足利義教についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①嘉吉の変の全貌をしっかり押さえたいなら|専門家による決定版新書

嘉吉の乱 ――室町幕府を変えた将軍暗殺

渡邊大門 著|筑摩書房(ちくま新書)


②くじ引きで選ばれた足利義教の謎を深掘りしたいなら|今谷明の名著

籤引き将軍足利義教

今谷明 著|講談社(講談社選書メチエ)

よくある質問(FAQ)

厳密には、「変」は足利義教暗殺事件そのもの、「乱」はその後の幕府による赤松討伐や嘉吉の土一揆まで含めた騒乱全体を指します。ただし、現在の教科書や用語集では「嘉吉の変」「嘉吉の乱」のどちらも使われており、明確な使い分けはありません。山川出版社の教科書では「嘉吉の変」が用いられています。

義教の強権政治と粛清の多さから「すべての人が義教を恐れた」という意味です。具体的には、守護大名(土岐・一色・大覚寺義昭ら)の粛清、比叡山延暦寺への弾圧、公家への厳しい処分など、逆らう者を容赦なく罰する政治を行いました。当時の公家・伏見宮貞成親王が日記『看聞日記』に「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」と記したことが由来です。

義教の息子・足利義勝(9歳)が7代将軍に就任しましたが、わずか8か月で病死。次の8代将軍・足利義政も幼少で、幕府の実権は管領・細川氏ら有力守護大名による合議体制に逆戻りしました。将軍権威は大きく失墜し、その後の権力空白が応仁の乱(1467年)を引き起こす遠因となります。

義教の所領没収の圧力(播磨を赤松貞村に与える話)と、隠居を申し出ても拒否された状況が直接の理由とされます。当時すでに義教は土岐・一色など多くの守護大名を粛清しており、「次は自分の番」と判断した満祐が、反乱を起こして敗北するよりも先手を打って義教を排除する道を選んだと考えられています。

1441年6月24日、京都の赤松満祐邸(西洞院二条付近)で起きました。結城合戦の戦勝祝いの宴に招かれた将軍・足利義教が、宴の途中で赤松家の家臣によって斬殺されました。その後、満祐は領国の播磨(兵庫県南西部)に逃走し、同年9月10日に城山城で自害して終結しています。

1441年(嘉吉元年)の秋、京都周辺で起きた大規模な土一揆(民衆反乱)です。「嘉吉の徳政一揆」とも呼ばれます。農民・馬借(運送業者)らが徳政令(借金帳消し令)を要求して京都を包囲し、幕府はやむなく徳政令を発布しました。日本史上、幕府が一揆の要求に屈して徳政令を出した最初の事例です。嘉吉の変による将軍権威の失墜が、民衆を勢いづかせたとされます。

まとめ

嘉吉の変 年表
  • 1394年
    足利義教が3代将軍・足利義満の子として生まれる
  • 1428年
    4代将軍・義持の死後、石清水八幡宮のくじ引きで義教が後継者に決定
  • 1429年
    足利義教が6代将軍に正式就任。以後「万人恐怖」と呼ばれる強権政治を展開
  • 1438〜39年
    永享の乱で鎌倉公方・足利持氏を滅ぼし、義教の権力が頂点に達する
  • 1441年6月24日
    嘉吉の変——赤松満祐が宴に義教を招き暗殺。満祐は播磨へ逃走
  • 1441年8〜9月
    嘉吉の土一揆(徳政一揆)勃発。幕府は徳政令を発布(史上初、一揆の要求に屈しての発布)
  • 1441年9月10日
    山名持豊(宗全)の討伐軍に追い詰められた赤松満祐が城山城で自害。嘉吉の乱が終結

嘉吉の変のまとめ
  • 1441年6月24日、6代将軍・足利義教が守護大名・赤松満祐に暗殺された
  • くじ引きで選ばれた義教は「万人恐怖」と呼ばれる強権政治で守護大名を圧迫した
  • 追い詰められた赤松満祐が先手を打って義教を暗殺→播磨に逃走→山名持豊(宗全)らに討伐された
  • 事件直後に嘉吉の土一揆が勃発し、幕府は史上初めて徳政令を発布
  • 将軍権力が大幅に失墜し、山名 vs 細川の対立構造が固まり応仁の乱への道が開かれた

もぐたろう
もぐたろう

以上、嘉吉の変のまとめでした。室町幕府の崩壊が決定的になった瞬間ともいえる大事件だね。下の記事で「応仁の乱」「足利義政」「山名宗全」あたりもあわせて読むと、室町時代の流れがぐっと立体的に理解できるよ!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「嘉吉の乱」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「足利義教」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「足利義勝」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「山名宗全」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「嘉吉の徳政一揆」(2026年5月確認)
コトバンク「嘉吉の乱」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「赤松満祐」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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もぐたろう

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