応仁の乱を簡単にわかりやすく解説【乱のきっかけ・結果・影響をバッチリ理解する!】

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もぐたろう
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今回は、1467〜1477年までの11年間続いた応仁おうにんの乱について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 応仁の乱ってどんな内乱なの?
  • 応仁の乱はなぜ起きたの?時代背景を知りたい!
  • 応仁の乱の経過は?
  • 応仁の乱がその後の日本に与えた影響は?
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応仁の乱とは

応仁の乱は、当時有力一族だった斯波しば畠山はたけやま家督かとく争いに、将軍の後継問題がミックスして起きた争いです。

応仁の乱は、1467〜1477年もの長い間続き、日本全国を巻き込んだ大内乱となりました。

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応仁の乱が起きた時代背景

本題に入る前に、応仁の乱を理解する上でのキーポイントになる「単独相続」「室町幕府の弱体化」の2つの時代背景について紹介しておきます。

単独相続

鎌倉時代末期まで、武士たちの社会では一族のボス(家督かとく)が持っていた所領は、その子供たちや兄弟に分割相続されるのが常識でした。

・・・が、鎌倉時代末期になると、次第に分割相続の制度が崩壊していきます。

分割相続が崩壊すると、亡くなった家督の所領を次の家督が一人で総取りする単独相続が行われるようになります。

分割相続には、年代を重ねると一人一人の所領が小さくなるという致命的なデメリットがありましたが、一方で「所領を平等・公平に一族に分け与えられるので、一族内での紛争を避けることができた」という大きなメリットもありました。

室町時代に入って単独相続が行われると、所領はすべて次期家督が引き継ぐことになったので、一族内で家督をめぐる争いが起こりやすくなりました。

室町幕府の弱体化

各地で家督をめぐる争いが起こるようになると、その仲裁に入って争いを平和的に解決することが幕府の大事な仕事になっていきます。

・・・が、室町幕府は各地の争いを収めることができません。

というのも、朝廷が皇位をめぐって南朝と北朝に分裂し、激しく対立を始めたからです。(南北朝の対立

各地で家督争いをしていた人々は、争いを優位に運ぼうと南朝や北朝に協力するようになりますが、一方が北朝につけば反対派は南朝につく・・・という形で戦火が拡大。

1350年には、全国を巻き込んだ観応の擾乱にまで発展していきます。

紛争をコントロールしきれなくなった幕府は、各国の軍事・警備を担っていた守護に、徴税や紛争解決(使節遵行など)の権限を与えて一国の統治を守護に全任するようになっていきます。

※強大な権限を与えられてパワーアップした守護のことを守護大名と言います。

幕府の運営も将軍と守護大名の話し合いによって行われるようになって、守護大名が幕政に与える影響が大きくなりました。

三管領と四職

守護大名の中でも、特に将軍の側近的なポジションのことを管領と言います。

管領には、足利氏と血筋が近い有力一族だった細川ほそかわ畠山はたけやま斯波しばの3氏(三管領)が交代で任命されました。

守護大名には、幕府の本拠地である京都の警備を任される者もいました。

この重要な仕事を任されたのも一部の有力一族に限られ、山名やまな赤松あかまつ一色いっしき京極きょうごくの4氏(四職ししき)から任命されました。

もぐたろう
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応仁の乱の主役になるのも、ここに登場した三管領と四職たちになります。

・・・しかし、争いの絶えない領国の統治を任された守護大名もまた、単独相続による家督争いに悩まされている人たちの一人でした。

幕政に深く関与していた守護大名の家督争いは、単なる一族の争いにとどまらず、室町幕府をも巻き込むようになり、その結果起きたのが応仁の乱だったのです・・・。

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応仁の乱が起きたきっかけ

応仁の乱が起きたきっかけは、ここまで説明してきた武家たちの家督争いにありました。

将軍家(足利氏)

8代将軍の足利義政

応仁の乱当時、将軍は8代将軍の足利義政でした。

義政は、正室の日野富子ひのとみことの間になかなか男子が生まれなかったので、弟の足利義視あしかがよしみを次の将軍にする予定でした。

・・・ところが1465年、日野富子が念願の男子(足利義尚あしかがよしひさ)を出産します。

足利義政
足利義政

やっと男の子が産まれたぞ!

まずは弟の義視を将軍にして、義尚が成長したらその次の将軍になってもらおう!!

と義政は考えましたが、日野富子はそうは考えませんでした。

日野富子「義視を将軍にするなんてダメ!かわいい我が子が生まれたんだから、あなた(義政)の次の将軍は当然幼い義尚よ!!!」

日野富子は、我が子(義尚)を将軍にするため、支援者として山名氏のボスである山名宗全やまなそうぜんを頼るようになります。

山名宗全
山名宗全

一方、山名氏と日野富子の急接近に強い危機感を抱いていた人物もいました。

・・・、それが細川氏のボスだった細川勝元ほそかわかつもとです。

細川勝元
細川勝元

細川氏は守護大名の中でも幕府ナンバー1の実力者だったので、山名氏にナンバー1の座を奪われることを恐れたのです。

細川勝元
細川勝元

山名宗全をこれ以上調子に乗せるわけにはいかない・・・!

細川勝元は、義視を支援することで山名氏に対抗し、山名宗全との対立を深めていきました。

応仁の乱前夜の将軍職をめぐる対立

そして、山名宗全VS細川勝元の争いは、三管領の斯波・畠山の家督争いをも巻き込んでいくことになります・・・。

斯波氏

斯波氏は越前えちぜん国や尾張おわり国などの守護大名で、家督(ボス)は斯波義敏しばよしとしという人物でした。

斯波義敏

1459年、斯波義敏は足利義政から「関東の内乱を鎮圧するために出兵してくれ!」と命令を受けます。

※当時、関東地方では鎌倉公方かまくらくぼう(関東の統治を任された役職)の座をめぐって激しい争いが起きていました。(享徳きょうとくの乱

・・・が、義敏はこの命令を無視。義政の命令で集めた兵を越前国の内紛鎮圧に利用します。

足利義政
足利義政

私の命令を無視して、私利私欲のために兵を動かすとは何事だ!!

斯波義敏、お前なんてもうクビだ!!

義敏が守護大名をクビになった後、新たに守護大名になったのが斯波義廉しばよしかどという人物です。

しかし、クビになった義敏は諦めません。守護大名復帰を目指して幕府内で裏工作を始めたのです。

・・・こうして、義敏VS義廉による激しい家督争いが勃発しました。

斯波義廉は、母が山名の血筋だったこともあり山名宗全を頼るようになります。

一方の義敏は、山名と対立していた細川勝元に接近。

斯波氏の家督争いは、山名宗全VS細川勝元の争いに巻き込まれていくことになります。

畠山氏

当時、畠山氏のボスだったのは畠山持国もちくにという人物。

持国には男子がいなかったため、弟の持富もちとみに家督を継ぐ予定でした・・・が、1448年に息子(畠山義就よしなり)が出生。

持国は、後継者を弟(持富)から息子(義就)へと切り替えます。

・・・ところが、畠山氏の家臣の中には弟(持富)を後継者に望む声が多くあり、後継者めぐって畠山氏の内部で激しい対立が起こってしまいます。

1452年に持富、1455年に持国が亡くなり当事者たちがいなくなると、家督争いはそれぞれの子どもたち(持富→政長、持国→義就)に引き継がれました。

さらに、「これって畠山氏の力を削ぐチャンスじゃね!?」と考えた細川勝元と山名宗全が、畠山氏の家督争いに介入。

細川・山名は政長を支援していましたが、次期将軍候補をめぐって細川勝元と山名宗全が対立するようになると、

細川勝元は畠山義就と個人的にトラブっていたため、引き続き畠山政長を支援し、

一方の山名宗全は、細川勝元に対抗するため畠山義就を支援するようになりました。

応仁の乱前夜の対立状況
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応仁の乱、開戦

応仁の乱

1467年1月、畠山氏の家督争いに大きな進展があります。

山名宗全が、斯波義廉・畠山義就とともに兵を引き連れて、足利義政に対して圧力をかけ始めたのです。

山名宗全
山名宗全

今は畠山政長が慣例に任命されていますが、どうか政長をクビにして、次は斯波義廉を管領にしてください。

足利義政
足利義政

・・・お、おう。わかったぞ宗全よ。

(兵を引き連れて迫られたら断れるわけねーだろ・・・)

管領を突如として解任された畠山政長は、とうぜん納得がいきません。

畠山政長「クソっ!義就め!山名・斯波と組んで俺をはめやがったな!絶対ぶっ◯してやる!!」

ブチギレた畠山政長は義就を襲撃するため兵を集めて、京都の上御霊神社かみごりょうじんじゃという場所に布陣。

一方の畠山義就も、政長の動きを察知して同じく上御霊神社に陣を構えました。

1467年1月18日、ついに両者が衝突します。

・・・結果は、山名派の畠山義就の勝利。

政長は敗走し、細川勝元の邸宅ていたくに身を潜めました。

細川勝元
細川勝元

このままじゃ山名宗全にやられっぱなしだ。

こちらも反撃しなければ・・・!

細川勝元は山名宗全にリベンジするため、京に兵を集め始めます。

すると山名宗全も、細川に対抗するため、同じく京に兵を集めました。

細川勝元は室町幕府を本陣に、山名宗全は自分の館を本陣とし、両軍の陣営に続々と兵が集まりました。

両軍の陣地の位置関係から、細川陣営のことは東軍山名陣営のことは西軍と呼ばれています。

赤:西軍 青:東軍 緑:上御霊神社

1467年5月、一触即発いっしょくそくはつの状態だった両軍が衝突。

京都を主戦場として、激しい市街戦が繰り広げられることになりました。

こうして始まったのが応仁の乱です。

上御霊神社にある応仁の乱勃発地の石碑
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応仁の乱の経過

足利義政の立場はとても微妙なものでした。

というのも、義政自身は弟の義視を次期将軍にしたい細川勝元と利害が一致するものの、正室の日野富子が息子(義尚)を将軍にするため山名宗全と結びついていたからです。

1467年6月、悩んだ義政は細川勝元を支持することを決定。

この決定に日野富子は猛反対しましたが、細川勝元の政治圧力によって押し切られてしまいます。

義政は、細川勝元に対して山名宗全討伐を命じました。

もぐたろう
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もともと細川派VS山名派の私的な争いから始まった応仁の乱だけど、義政の介入によって、幕府VS幕府の敵という政治的な意味を帯びた戦いへと変化していったんだ。

幕府の敵になってしまった西軍は、東軍に寝返る者が続出して、次第に劣勢に立たされます。

大内政弘

1467年8月、事態が大きく動きます。

劣勢だった西軍の味方として、大内政弘おおうちまさひろが大軍を引き連れて京にやってきたのです。

大内政弘は、周防すおう長門ながと備前びぜん筑前ちくぜん(今でいう福岡と山口の2県)を支配していた守護大名。

大内氏は、日明貿易の主要港だった博多湾を支配していたため、貿易を通じて巨万の富を築き、圧倒的な力を手に入れていました。

大内氏は、貿易の利権をめぐって同じく瀬戸内海周辺に領国を持つ細川氏と争っていたため、細川勝元を倒そうと西軍に味方したのです。

もぐたろう
もぐたろう

強大な力を持っていた大内氏の動向は、その後も応仁の乱に大きな影響を与えることになるよ。

足利義視の西軍参戦

1468年になると東軍でも大きな動きが見られます。

東軍内では、次期将軍の座をめぐって義視VS義尚の対立が続いていました。

当初は細川勝元が日野富子ら義尚派を押さえ込んでいましたが、次第に義尚派が息を吹き返し、義視の排除を求めるようになります。

細川勝元
細川勝元

私の力ではもう義尚派を抑えきれず、このままでは東軍は内部崩壊してしまう。

こうなったら、義視を見捨てて義尚に次の将軍になってもらうしかあるまい・・・。

東軍内で孤立してしまった足利義視は、・・・なんと!西陣に寝返ります。

山名宗全
山名宗全

これで幕府の反逆者という西軍のレッテルを剥がすことができるぞ!

義視殿は、次期将軍になられるお方。邪魔する細川勝元を絶対に許すな!!

足利義視が寝返った後の対立構図

大内政弘の参戦、足利義視の寝返りによって西軍は勢いを回復し、応仁の乱は長期戦の様相を呈してきます。

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応仁の乱、終結へ・・・

戦いが長期化すると、戦火が京から地方へと飛び火していきます。

地方では単なる家督争いにとどまらず、守護大名が京に戦力を割いている隙を狙って守護大名に反旗を翻す者まで現れ、応仁の乱は全国的な内乱へと発展していきました。

寝返り工作

応仁の乱が長期戦になると、東軍では西軍の有力武将に対して寝返り工作を始めるようになります。

1471年、将軍の足利義政が、西軍でエース級の活躍をしていた斯波氏の家臣・朝倉孝景あさくらたかかげに対して、東軍へ寝返るよう誘いをかけます。

足利義政
足利義政

孝景よ、もし東軍に寝返ってくれるのなら、そなたを守護大名に任じ、斯波氏の領国だった越前を与えよう。

朝倉孝景
朝倉孝景

・・・マジで!?大出世できるなら、東軍に寝返るわ!!

下克上の始まり

守護大名はもともと世襲制だったので、朝倉氏が守護大名になることは普通ならあり得ない話でした。

・・・が、朝倉孝景は、戦乱に乗じて自らの実力で守護大名の座を奪い取り、下剋上げこくじょうを果たしました。

もぐたろう
もぐたろう

朝倉孝景は、戦国時代によく見られる下剋上の先駆けだと言われているよ。

寝返り工作の結果、再び東軍が挽回。両軍ともに決め手を欠き、戦況はこう着状態となります。

終戦の気配

1473年、両軍の総大将だった細川勝元・山名宗全が亡くなり、

さらに1474年には、足利義政が将軍職を義尚に譲ったことで将軍の後継問題にも決着がつきました。

争いの火種となった問題が次々と解決していくと、次第に戦いの大義名分も失われ始め、終戦ムードが漂います・・・が、一方で争いを止められない事情を抱える人たちもいました。

斯波氏・畠山氏など家督をめぐって激しく対立している一族

足利義尚の将軍就任によって反逆者認定されてしまった足利義視

西軍の主力として活躍してしまったが故に、東軍に敗れれば処罰確実だった大内政弘

足利義政
足利義政

もうみんな戦いをやめるんだ!

義視は、罪を不問にしてやるから東軍と戦うのをやめよ!

大内政弘も、処罰は下さず、そなたの領国はしっかりと幕府が保障してやるから安心して降伏するんだ!

1477年、将軍になった足利義尚をサポートしていた義政の働きかけによって、足利義視・大内政弘が東軍に降伏。

両者の降伏を受けて、戦いを続けていた西軍の畠山義就・斯波義廉も「義視・政弘なしでは勝ち目はない・・・」と判断し、自分たちの領国へと帰っていきました。

こうして、10年続いた応仁の乱はようやく終結することになります。

主戦場となった京は荒廃し、多くの文化財が応仁の乱の際に焼失したと言われています。

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応仁の乱のその後

応仁の乱そのものは終結しましたが、各地では相変わらず家督争いや守護大名への反乱が続き、国内は不安定な情勢が続きます。

もともと室町幕府の政策は、守護大名たちの話し合いによって決められていたので、守護大名たちは領国の統治を家臣(守護代)に任せて、自らは京に館を構えていることが室町時代の常識でした。

もぐたろう
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応仁の乱の主戦場も京になったのも、京に守護大名たちが集まっていたからなんだ。

・・・ところが、応仁の乱によって各地での争いが激化すると、守護代に領国の統治を任せきれなくなり、守護大名たちは自らの領国に拠点を置くようになります。

すると、幕府と守護大名の関係は希薄となり、守護大名たちは幕府に頼らず、実力で領国を統治するようになっていきました。

もぐたろう
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幕府の権威に頼らず、実力で領国を治めるようになった人たちのことを、日本史では戦国大名と呼んでいるよ。

没落していく守護大名

実力がすべての弱肉強食の時代になると、実力のない守護大名は次々と淘汰とうたされ、勝ち残った強者のみが領国を手に入れることができたのです。まさに下剋上の時代の到来です。

そして、この争いに勝ち残った強者たちこそが、織田、毛利、徳川などの有名な武将たちであり、応仁の乱の後、日本は戦国時代の幕開けを迎えることになります。

※応仁の乱で活躍した細川・山名・斯波・畠山の名前が戦国時代になると突然消えるのは、その多くが没落していったからです。

国一揆・一向一揆

騒乱が終わらない地域の中には、農民たちが「俺たちが争いを終わらせ、この地域を守る!」と、一揆を起こすこともありました。(国一揆くにいっき

特に有名なのが1485年に起きた山城やましろの国一揆です。

山城国の守護だった畠山氏は、応仁の乱の後も争いを続けていましたが、これに見かねた農民たちが蜂起ほうきし、畠山氏を追放。山城国はしばらくの間、一揆の人々によって統治されることになりました。

1488年、加賀国でも似たような出来事が起こります。

加賀国では浄土真宗の門徒が中心となり一揆を起こし、守護の富樫政親とがしまさちかを追放。(加賀の一向一揆

※浄土真宗は一向宗とも呼ばれていて、一向宗の人々が起こした一揆なので国一揆ではなく一向一揆と言います。

その後は、浄土宗の本願寺が加賀国を実質支配し、その支配は本願寺が織田信長に敗れるまで続きました。

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応仁の乱の年表まとめ

応仁の乱年表まとめ
  • 1467年1月
    上御霊神社の戦い

    畠山氏による紛争が勃発。応仁の乱の始まり。

  • 1467年5月
    山名宗全VS細川勝元

    上御霊神社の戦いで敗北した畠山政長を支援していた細川勝元が山名宗全へ攻撃を開始。

    京を主戦場に本格的な戦いが始まる。

  • 1467年8月
    大内政弘、西軍に参戦。
  • 1468年
    足利義視が西軍に寝返る。
  • 1471年
    西軍のエース、朝倉孝景が東軍に寝返る。
  • 1473年
    細川勝元・山名宗全が亡くなる。
  • 1474年
    足利義尚が将軍になる。
  • 1477年
    足利義視覚・大内政弘が東軍に降伏。応仁の乱が終わる
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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