今回は1457年に起こったアイヌと和人の戦いコシャマインの戦いについてわかりやすく丁寧に解説していきます。
アイヌと和人の関係
まずは、当時のアイヌと和人の関係を確認しておきます。
【アイヌ】
北海道の先住民族のこと
【和人】
北海道に移り住んだ本州の人々
北海道は当時、蝦夷ヶ島と呼ばれており本州に近い渡島地方(函館方面)では、古くからアイヌと本州の人々の間で交易が行われていました。
交易の重要な拠点となったのは十三湊と呼ばれる港。(今の青森県にあります)
鎌倉時代末期、十三湊を拠点にアイヌとの交易を行っていたのは、安東氏という一族でした。
【交易の内容】
蝦夷ヶ島→本州 | サケやコンブなど |
本州→蝦夷ヶ島 | 鉄製品重要、漆器、酒など |
特に鉄製品はアイヌにとって重要なものでした。アイヌは製鉄技術を持っておらず、鉄製品を本州からの輸入品に依存していたため、アイヌと安東氏の関係は、安東氏の方が上に立つことになります。
ところが室町時代の1454年、安東氏が南部氏という一族に敗北。敗北した安東氏は居場所を失い、新天地を目指して北海道の渡島地方(函館方面)へ移住することになります。
そして、北海道へ引っ越してきた安東一族と、前からそこに住んでいたアイヌの間で起こった争いがコシャマインの戦いです。
道南十二館
南部氏に追われて北海道へ拠点を移した安東氏ですが、先ほど説明したようにアイヌと安東氏では安東氏の方が立場が上です。(安東氏に逆らえば、アイヌにとって貴重な鉄が手に入らなくなる・・・!)
安東氏はこの立場を維持するため、もともとあった道南の12の館(砦)に武将を置き、アイヌや北海道に住む和人への支配力を強めていきます。この道南の12の館のことを略して道南十二館と言います。
当時の北海道というと、何もない未開拓の地・・・というイメージがありますが、実際は違います。道南十二館の1つである志苔館からは中国銭が見つかっていて、交易が盛んであり経済的にかなり栄えていたことがわかっています。
その交易の中心にいた安東氏も相当の力を持っていたはずです。
コシャマインの戦いが起こった理由
1456年春、安東氏の支配が強まる道南で事件は起こります。
アイヌの青年が志苔地方(今の函館市付近)で鍛冶屋をやっていた和人と口論になり、アイヌの青年が和人に殺されてしまったのです。
口論の原因は、マキリというアイヌ伝統の小刀でした。
あのー、鍛冶屋さん。このマキリなんだけど、この切れ味でこの値段はさすがに高すぎるよね・・・?
そう言われてもね〜。商売だし、値下げは厳しいかな!まぁ我慢してくれやww
(まぁ、アイヌは俺たち和人からしか鉄製品を買えないからな。文句を言っても、最後には高値で買ってくれるし楽勝すぎワロタww)
いつもいつも俺たちの足元ばかり見やがって・・・。
これ以上アイヌを馬鹿にするのもいい加減にしろよ!!
マジで、ブチ○してやる!!!!!!!
*上のアイヌは見た目はおっさんだけど青年だと思ってください。(画像が他にみつかりませんでした。ごめんなさい)
アイヌの青年が相手を殺すほど激怒したのは、おそらくこのマキリのトラブルだけが原因ではありません。
長い間続いていた和人による不平等な交易にアイヌの人々は不満を募らせており、その不満がマキリのトラブルをきっかけに爆発したのです。
さらに、この事件で不満を爆発させたのはアイヌの青年1人だけではありません。マキリ事件をきっかけに、渡島半島東部のアイヌのボス(首領)だったコシャマインまでもが和人に訴えるために立ち上がったのです。
コシャマインは、同じく和人に不満を持つアイヌたち集めて反撃の準備を進めます。
コシャマインの戦い
マキリ事件翌年の1457年5月、コシャマインは和人に対して反撃の狼煙を上げました。
アイヌたちは和人を次々と襲撃。小樽やむかわ方面まで広範囲に渡って戦闘が起こりました。(コシャマイン率いるアイヌは相当な規模だったことがわかります。)
一方、安東氏が道南十二館を構える道南(函館方面)でも、コシャマイン軍の破竹の勢いは止まらず、館を次々と攻め落とし、10もの館が攻め落とされることになります。
当時、安東氏本人はわけあって北海道を離れており、コシャマインとの戦いは安東氏に留守を任された部下たちによって行われていました。
残った館は茂別館と花沢館のみ。そのうち花沢館を任されていた蠣崎秀繁の下にいた武田信広という人物が、散り散りに敗北した和人たちを集め、反撃を開始。
以下のこれまでに登場した小樽・むかわ・茂別館・花沢館の位置関係をまとめておきます。
すると次第に形勢は逆転し、1458年になると武田信広率いる和人軍にコシャマインは討ち取られることになります。
和人とアイヌの約1年の大激戦は、和人の勝利で幕を閉じました。
コシャマインの戦いのその後
コシャマインの戦いでの和人の勝利によって、和人のアイヌ支配はより一層強まることになりました。
アイヌ支配の中心にいたのは、コシャマインの戦いの功労者である武田信広。コシャマインの戦いの後も、アイヌと和人の間で小競り合いが続きましたが、武田信広はこれも平定し、道南に確固たる地位を築くことになります。
さらに、武田信広は蠣崎氏と血縁関係があったため、信広を信頼していた蠣崎秀繁は、次の蠣崎氏の家督を武田信広に指名。こうして武田信広は、蠣崎信広と名乗るようになりました。
その後の日本は1467年に応仁の乱をきっかけに下克上の戦国時代に突入。すると1490年頃に蠣崎信広の上司だった安東氏が滅亡。安東氏が滅亡すると、道南地方の支配権は蠣崎氏が握るようになります。
さらに1599年、蠣崎氏は拠点を花沢館から松前という場所に移し、これに合わせて名を蠣崎氏から松前氏へと改名。
1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府が開かれると、松前氏は幕府から蝦夷ヶ島(北海道)南部の支配を認められ、この支配領地を松前藩と呼ぶことになります。
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