今回は、日本の歴史における「南北朝時代」と言う名の由来にもなった「南朝」と「北朝」が登場した経過や時代背景なんかについて紹介します。
この時代は、後醍醐天皇が一癖も二癖もある人物なおかげでなんだかゴチャゴチャした時代ですが、わかりやすく解説してみたいと思います。
【この記事の主役になる後醍醐天皇】
争い止まぬ天皇家〜大覚寺統と持明院統〜
南北朝時代というのは、天皇家が「南朝」と「北朝」に分裂してしまった時代のことを言います。細かい年代には諸説あるかもしれませんが、南北朝時代の始まりは一般的には1336年と言われています。
しかし、歴史をもう少し遡ってみると、実は天皇家の分裂は鎌倉時代末期から始まっていました。詳しくは以下の2つの記事を読んでいただけるとわかります。
過去の経緯を簡単に言ってしまうと・・・
という感じです。鎌倉時代末期になると、お家騒動を自力で解決できなくなるほどに天皇家は力を失っていたのでした。
この時分かれた2つの天皇家はそれぞれ大覚寺統(だいかくじとう)、持明院統(じみょういんとう)と言います。そしてこの交代制のことを両統迭立(りょうとうてつりつ)と言います。
大覚寺統・持明院統「俺の血筋が正統な天皇家やで!!」
ところがこの交代案、上手くいきません。両者ともにこんなことを考えます。
大覚寺統・持明院統「俺の家が正統な血筋なのに交代制おかしい!いずれ俺の家で一本化したろ」
・・・が、交代制をぶち壊そうとすると権力を握っていた鎌倉幕府が「めんどくせーから俺の言うことを聞け!!」と介入してくるので中々実行することはできません。
ところが、幕府の反対を押し切ってこれを実行してしまった男がいます。それこそがこの記事の主役の後醍醐天皇。後醍醐天皇は挙兵して鎌倉幕府を滅ぼし、本当に交代制を廃止してしまいます。この時の一連の戦争のことを「元弘の乱」って言います。詳細は以下の記事で紹介しています。
後醍醐天皇は大覚寺統の人間だったので、これで天皇家は大覚寺統で統一されてめでたしめでたし・・・となるかと思いきや、全然そんな風にはなりませんでした。
なぜかというと、天皇親政の政治をしたい後醍醐天皇と、鎌倉幕府に変わる新しい武家政権を創設したい足利尊氏が対立するようになったからです。後醍醐天皇が目指した政治は「建武の新政」と呼ばれるもので、以下の記事で詳しく紹介しています。
これは不利に立たされていた持明院統にとっては、千載一遇の大チャンスでした。
持明院統「まだだ、まだ終わらんよ!!(足利尊氏と組めばワンチャンある!)」
こうして後醍醐天皇(大覚寺統)VS足利尊氏・持明院統で再び戦いが起こるも、次は足利尊氏・持明院統の大勝利。持明院統の時代がやってきます。
ちなみに、この時の戦いで有名な戦いが湊川(みなとがわ)の戦い。楠木正成がめっちゃカッコイイ戦いなので、気になる方は以下の記事も読んでみてほしいです。
南朝と北朝の登場
敗北した後醍醐天皇は、京にいることすらできなくなり比叡山に避難します。1336年の夏頃のお話です。
1336年10月、足利尊氏は、比叡山の首根っこである近江を抑えて軍事圧力をかけつつ、後醍醐天皇と交渉を進めます。
足利尊氏「最近さ、持明院統の天皇を即位させたんだよね。でも天皇が持つべき三種の神器が無くて困ってるんだ。後醍醐天皇がもってるんでしょ?それ返してよ。」(ダメだと言ったら、近江から比叡山に運ばれる食料全部止めることもできるんだよ??)
後醍醐天皇「・・・わかった。」
こうして、持明院統の圧倒的勝利・・・に見えましたがこれでもまだ話は終わりません。ちなみにこの時に即位した持明院統側の天皇は光明天皇(こうみょうてんのう)と言います。
完全に敗北した大覚寺統ですが、それでも後醍醐天皇は諦めません。1336年12月、密かに吉野へと逃げ、この地で高らかに「大覚寺統が正統だ!」と宣言し、持明院統の天皇即位を全否定。
こうして、両統迭立の天皇交代制から、両統の天皇が同時に存在する(後醍醐天皇と光明天皇)状態へと状況はさらに複雑になります。
後醍醐天皇は、そもそも最初から足利尊氏と交渉するつもりなどなく、尊氏には偽物の三種の神器を渡していたと言われています。凄い執念!
そして、
と呼びます。
以上が、「南朝」「北朝」が始まった理由・背景となります。まとめると
南北朝時代のその後
吉野に「南朝」を創設したことで始まった南北朝時代。余談ですが、その後の話をザックリとだけしておきます。
結論から言うと、これまで話してきたグダグダな感じがさらに複雑化してカオスな世の中になってしまいます。
南北朝時代以前の戦いの構図は、基本的に足利尊氏・持明院統VS大覚寺統でした。しかし、南北朝時代になるとこの構図に室町幕府内部の権力争いが加わります。
室町幕府内の権力争いで不利に立った足利直義(あしかがただよし。尊氏の弟)は、南朝に味方し、足利尊氏に対抗します。足利尊氏・持明院統(北朝)VS足利直義・大覚寺統(南朝)と言う構図です。
さらに南朝の優勢と見るや、足利尊氏は不利な条件を飲んで南朝に味方します。南朝と足利直義の内部分裂を図るためです。この作戦は成功して足利直義は命を落とします。
足利尊氏が南朝に味方したことで、持明院統(北朝)VS大覚寺統(南朝)・足利尊氏・足利直義と言う状況が生まれます。尊氏を失った持明院統は全く力を持っておらず赤子も同然で、わずかな期間ですが南朝で皇統が統一されることになります。これを正平一統(しょうへいいっとう)と言い、1351年(正平6年)のわずか数ヶ月の間だけですが、南朝完全勝利の期間がありました。
しかし、足利尊氏は直義を倒すために南朝に味方しただけで、直義が亡くなった後、再び南朝と足利尊氏は対立し、戦いの構図は足利尊氏・持明院統(北朝)VS大覚寺統(南朝)に。
その後も、何かあるごとに人々は南朝派と北朝派に分かれ争いが続き、1392年、室町幕府三代将軍の足利義満の時代にようやく南朝と北朝は北朝へ統一されることになります。
と言った感じで南朝と北朝の争いは、室町幕府内の権力争いにも利用され混迷を極めます。なぜこんなグダグダなのかと言うと、人々をまとめる強大な権力を持ったリーダーが現れなかったから。技術の進歩や経済の発展で庶民の影響力が強くなり、並大抵の権力では人々を抑えきれなくなったのです。南北朝時代の後、強大な権力で人々を統制した平和な世が訪れるのは徳川家康の開いた江戸幕府を待たねばなりません。
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