
今回は徳川家斉について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!何をした将軍なのか、子供は本当に何人いたのか、「オットセイ将軍」というあだ名は本当なのか、将軍を辞めたあとも握り続けた実権、そして次の時代へのつながりまで、順番に見ていこう。「子だくさんの浪費将軍」と思っている人ほど、ぜひ最後まで読んでみてね!
この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版社『詳説日本史』準拠
定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
江戸幕府の11代将軍・徳川家斉といえば、「子だくさん」「ぜいたく好き」「オットセイ将軍」といったイメージが先に立つかもしれません。
でも実は、家斉は1787年から1837年まで約50年も将軍の座にとどまり、厳しい改革を進めた老中を退けたあとも、幕府の人事を握り続けた「長く権力を保った将軍」でした。
ただ、その長さこそが、飢饉・外国船・財政難という次の時代の危機を抱え込む結果にもつながっていきます。この記事では、家斉の生涯を「改革の時代」「自ら政治を動かした時代」「将軍を退いた後」の3つに分けて、何をした人なのかを整理していきます。
徳川家斉とは?何をした人かを3行で整理
- 将軍家の分家・一橋家に生まれ、数え15歳(満13歳)で江戸幕府の11代将軍になった人物(1773〜1841年)。将軍在職は1787〜1837年の約50年で、歴代最長です。
- 前半は松平定信に寛政の改革を任せ、定信を退けたあとは自ら人事を握って政治を動かしました。その間、江戸では町人文化が大きく花開きます。
- 子女は50人を超えるとされ、将軍を退いたあとも亡くなるまで実権を握りました。その評価は、今も分かれています。
徳川家斉は、江戸幕府の11代将軍です。1773年に生まれ、1841年に亡くなりました。

家斉の生涯は、大きく3つの時期に分けると見通しがよくなります。1つめは、就任直後の1787年から1793年まで、厳しい改革を任された老中が政治を主導した時期です。
2つめは、その老中を退けた家斉が、自分の側近を使って政治を動かした時期。3つめは、1837年に将軍職を息子に譲ったあとも、1841年に亡くなるまで実権を手放さなかった時期です。
📝 この記事の年齢は、当時の数え方である数え年(生まれた年を1歳とし、正月を迎えるごとに1歳ずつ加える数え方)で書いています。満年齢はこれより1〜2歳少なくなり、たとえば将軍就任は数え15歳、満13歳です。

子供が53人いたって聞いたことがあるけど、本当なの? ドラマの『べらぼう』にも出てきた将軍だよね?

子供の数は資料によって違っていて、ひとつに決まっていないんだ。くわしくは後半の章で整理するね。ただ、家斉は「子だくさんなだけの将軍」じゃなかったんだよ。ざっくり言うと、会社のトップに長いあいだ座り続けて、人事をがっちり握っていた社長みたいな人。まずは、そもそもなぜ将軍になれたのかから見ていこう!
一橋家から将軍家へ〜数え15歳で11代将軍に
一橋治済の長男として生まれる
家斉は1773年、一橋家の当主・一橋治済の長男として生まれました。幼いころの名前は豊千代といいます。
一橋家は、御三卿と呼ばれる家のひとつです。御三卿とは、8代将軍・徳川吉宗の子や孫を初代として立てられた田安・一橋・清水の3家のこと。将軍家に跡継ぎがいないとき、後継ぎを出す役割を期待されていました。

御三卿って、御三家とは別のものなの? 授業で名前だけ聞いた気がするんだけど…

別ものだよ!尾張・紀伊・水戸の御三家は、家康の息子たちから始まった大名家で、それぞれ自分の藩を持っているんだ。一方の御三卿は、自分の城や藩を持たず、江戸城の中に屋敷を与えられた将軍家の「身内」なんだよ。ざっくり言えば、本家に跡継ぎがいないときのための「スペアの分家」ってイメージに近いね。
10代将軍・家治の養子になるまで
そのころの将軍は、10代の徳川家治です。家治には跡継ぎの家基がいましたが、1779年、まだ若いうちに急に亡くなってしまいます。
将軍家に後継ぎがいなくなったため、1781年、一橋家の豊千代が家治の養子に選ばれました。これがのちの家斉です。家基の急死をめぐっては後世さまざまな噂も語られましたが、それを裏づける確かな史料はありません。
このころ幕府の政治を動かしていたのは、老中の田沼意次でした。しかし天明の大飢饉で社会が混乱するなか、1786年に家治が亡くなり、その前後に意次も老中を辞めさせられます。
こうして1787年、家斉は数え15歳(満13歳)で11代将軍に就任しました。
とはいえ、13歳の少年がいきなり政治を取り仕切れるわけではありません。実際の政治は老中たちが担い、将軍はその上に立つという形でのスタートでした。では、その老中たちを率いたのは誰だったのでしょうか。次の章では、家斉の就任直後の政治を見ていきます。
寛政の改革と松平定信の罷免
定信の起用と寛政の改革の始まり
1787年、白河藩主の松平定信が老中首座に就きました。老中首座とは、何人かいる老中の中の筆頭のこと。今でいえば、首相に近い立場です。
定信は8代将軍吉宗の孫にあたり、賄賂が目立った田沼時代の政治を引き締めようとしました。こうして始まったのが寛政の改革です。
改革のねらいは、飢饉で荒れた農村を立て直し、幕府の財政を引き締めることでした。飢饉に備えた米の蓄え、倹約令、旗本・御家人の借金の帳消しなど、その中身は多岐にわたります。
出版や風俗への取り締まりも厳しくなりました。1791年には、本屋の蔦屋重三郎が処罰を受けたことでも知られています。

寛政の改革って、家斉が始めたの? それとも定信?

改革を進めたのは定信だよ。将軍は家斉だけど、まだ10代半ばの少年だったから、実務は老中首座の定信にまかされていたんだ。「将軍が任命して、老中が実際の政治を動かす」という形だね。田沼時代のゆるんだ政治への反省から、まじめで厳しい政治に切りかえた、とイメージするとわかりやすいよ。
定信はなぜ罷免されたのか
ところが1793年、定信は老中を退くことになります。その直接の理由ははっきりせず、いくつかの説があります。
よく挙げられるのが、尊号一件と呼ばれる朝廷との対立です。光格天皇が実の父に上皇と同じ称号を贈ろうとしたのに対し、定信はこれを認めませんでした。
同じころ、家斉は実父の治済に、将軍を退いた人に与えられる「大御所」の称号を贈ろうとしていたとされます。定信はこれにも反対したため、家斉や治済との関係が冷え込んだ、という見方があります。
このほか、厳しすぎる改革への反発が広がっていたことや、成長した家斉が自分で政治を動かしたくなったことも理由に挙げられます。罷免の原因を一つに決めることはできない、というのが実情です。なお、ここでの「大御所」は称号をめぐる話で、のちに家斉自身が将軍職を譲ったあとの時代とは別の話です。

定信の政治がまじめなのはわかる。でも、何から何まで倹約、倹約……。正直、ちょっと窮屈だったんだよなあ。
定信が去ったあと、家斉はどのように政治を動かしていったのでしょうか。次の章では、家斉が自ら人事を握った時代を見ていきます。
親政の時代〜水野忠成と文政の改鋳
寛政の遺老から人事の転換へ
定信が退いたあとも、すぐに政治の方針が変わったわけではありません。定信とともに改革を担った松平信明らの老中が残り、引き締めの路線をしばらく引き継ぎました。彼らは「寛政の遺老」と呼ばれます。
しかし、信明が1817年に亡くなると流れが変わります。家斉は自分の身近に仕えてきた側近を重く用いるようになり、中でも水野忠成が老中として幕政の中心に立ちました。
忠成は家斉の意向に沿って政治を進めましたが、その一方で賄賂が横行したとされ、「田沼時代に逆戻りした」と批判されることもあります。当時、「水の出て もとの田沼と なりにけり」という句が詠まれたと伝えられ、忠成が亡くなる1834年まで、この体制が続きました。
文政の改鋳と太政大臣就任
家斉の時代、幕府の財政は苦しくなる一方でした。大奥の出費や、たくさんの子女の嫁入り・養子入りにかかる費用もかさんだとされます。
そこで忠成のもとで行われたのが、文政の改鋳です。文政年間(1818〜1830年)に入った1818年から、金貨や銀貨に含まれる金・銀の割合を減らして作り直し、その差額を幕府の収入にしました。改鋳は、そののちの天保年間にかけても何度か繰り返されています。
改鋳で世の中に出回るお金が増えたことは、景気を刺激して町人文化の盛り上がりを支えたとも、物価の上昇を招いたとも指摘されています。
1827年には、家斉は将軍のまま、朝廷の官職の最高位である太政大臣に任じられました。人事とお金の両方を握り、さらに朝廷からの高い位も得て、家斉の権力はゆるぎないものになっていきます。

賄賂政治って、田沼時代と同じことなの? 悪いイメージしかないけど、実際はどうだったのかしら?

評価は分かれているんだ。賄賂が多くて政治がゆるんだという批判がある一方で、お金をたくさん世の中に回したことで、商売や文化が元気になった面もあると言われているよ。改鋳は、ざっくり言えば「中身を薄めたお金をたくさん作って、差額で赤字の穴を埋めた」ようなもの。目先の財政は助かるけど、長い目で見ると物価が上がりやすくなる、というわけだね。
こうして家斉は、長い政権を保ちました。次の章では、家斉の「家庭の顔」ともいえる子供たちに目を向けます。
子供は何人?「オットセイ将軍」の俗称と縁組政策
子女の数は「50人を超える」〜数字がぶれる理由
家斉の子供の数は、50人を超えるとされています。山川出版社の日本史小辞典をはじめ辞典類では55人とするものが多く、ほかに53人(男子26人・女子27人)とする資料もあります。
数字がそろわないのは、生まれてすぐ亡くなった子や死産の子を数に入れるかどうかが、資料によって違うためと考えられます。当時は幼くして亡くなる子が多く、成人まで育ったのは約28人とされています。
側室の数も、40人ほどいたとする辞典がある一方、そのうち子を生んだのは16人ほどとされ、数え方によって大きく変わります。はっきりした数は分かっていません。

結局、子供は何人で、側室は何人だったの? 数字がバラバラで混乱しちゃう…

数え方しだいで変わるから、ひとつの正解を決めるのは難しいんだ。覚えておくなら「子供は50人を超える」で十分だよ。側室の数は資料による差が大きいから、無理に数字で覚えなくて大丈夫!
「オットセイ将軍」と呼ばれる理由
家斉は「オットセイ将軍」というあだ名で呼ばれることがあります。オットセイ(漢字では膃肭臍)は、1頭のオスがたくさんのメスと群れを作る動物で、昔はその体の一部から作った薬が精力剤として重んじられていました。
子だくさんだった家斉が、このオットセイの薬を飲んでいた――というのが、あだ名の由来としてよく語られる話です。
ただし、家斉が実際にそうした薬を飲んでいたことが同時代の確かな史料で裏づけられているかははっきりせず、呼び名がいつ・誰によって広まったのかもわかっていません。「子だくさんの将軍」というイメージから生まれた後世の俗称と考えておくのが安全です。
子女の嫁ぎ先・養子先と縁組政策
たくさん生まれた子供たちは、成長すると各地の大名家へ嫁いだり、養子として入ったりしました。将軍家と大名家を血縁で結びつけるこうした縁組には、幕府の支配を固めるねらいがあったという見方があります。
その一方で、将軍の子を迎える大名家は、屋敷の整備や家来の待遇などで大きな出費を強いられたとも指摘されています。
将軍家を継いだのは次男の徳川家慶で、のちの12代将軍です。さらに家慶の子で13代将軍となる徳川家定は、家斉の孫にあたります。

東京大学の赤門って、家斉の娘がお嫁に行ったことと関係があるって本当?

そう言われているよ!家斉の娘の溶姫が加賀藩の前田家にお嫁入りしたとき、それを迎えるために建てられた門とされているんだ。今の東京大学本郷キャンパスは、もともと前田家の江戸屋敷があった場所なんだよ。
将軍の娘を迎える大名家では、娘の住まいの門を朱塗りにするのがならわしだったとされ、こうした門は御守殿門と呼ばれます。溶姫は1827年、前田利家を祖とする加賀藩前田家の当主・前田斉泰に嫁ぎ、その際に建てられた門が現在の赤門だとされています。

家斉の長い在職期間は、江戸の町に大きな文化の花が咲いた時代でもありました。次の章で見ていきましょう。
化政文化が花開いた江戸
文化・文政期に栄えた町人文化
家斉が将軍だった時代の後半、江戸では町人を担い手とする文化が大きく花開きました。これを化政文化といいます。

「化政」とは、文化(1804〜1818年)と文政(1818〜1830年)という2つの元号から1字ずつ取った呼び名です。家斉の将軍在職(1787〜1837年)は、この時期をすっぽり含んでいます。
この時代の文化を支えたのは、商売で豊かになった江戸の町人たちでした。家斉自身が文化を育てたというより、家斉の長い在職がもたらした比較的安定した時代に、町人の文化が育ったと考えるとよいでしょう。
代表的な人物と作品
読み物の分野では、十返舎一九が、弥次さん・喜多さんの珍道中を描いた『東海道中膝栗毛』で大人気となりました。
また曲亭馬琴は、8人の若者「八犬士」が活躍する長編『南総里見八犬伝』を書き続けています。
浮世絵では、葛飾北斎が『冨嶽三十六景』で富士山をさまざまな角度から描き、歌川広重は『東海道五十三次』で街道の風景を描きました。
その少し前、寛政のころには、美人画の喜多川歌麿が人気を集めていました。旅や名所への関心が高まり、庶民が楽しむ読み物や錦絵が大量に出回ったことが、この時代の大きな特徴です。

北斎や広重って、家斉の時代の人だったんだ! 歌麿とは活躍した時期が違うの?

少しずれているんだ。歌麿が人気の絶頂にいたのは、寛政の改革のころ。そのあと、文化・文政のころから北斎が、さらに少し遅れて広重が活躍していくんだよ。江戸のポップカルチャーの主役が、次の世代に入れ替わっていったイメージだね。家斉の長い在職期間のあいだに、そんな世代交代まで起きていたんだ。
江戸の町が文化でにぎわう一方、日本の海の外からは新しい波が押し寄せていました。次の章では、家斉の時代に起きた外国船の接近を見ていきます。
揺らぎ始めた海防〜フェートン号事件から異国船打払令へ
北方からの接近〜ラクスマンからゴローニン事件へ
家斉が将軍になってまもなく、北の海にはロシアの船が姿を見せるようになります。
1792年、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、日本との通商を求めました。幕府はその場での交渉に応じず、1804年にはレザノフが長崎に来航しますが、このときも通商を断っています。
通商を断られたロシア側は、その後、樺太や択捉島の日本の拠点を襲い、緊張が一気に高まりました。1811年には、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローニンが捕らえられるゴローニン事件も起きています。
北方への関心が高まるなか、伊能忠敬が1800年に蝦夷地の測量を始めたのも、家斉の時代のできごとです。
フェートン号事件と異国船打払令
外国船の問題は、北の海だけではありませんでした。鎖国のもとで外国との窓口を限っていた幕府に、1808年、大きな衝撃が走ります。イギリスの軍艦が長崎の港に侵入したフェートン号事件です。
当時イギリスと敵対していたオランダの船を捕らえようとしたフェートン号は、オランダ商館員を人質にとり、食料や水を要求しました。長崎奉行の松平康英は十分な対応ができず、責任をとって自害しています。
その後もイギリスなどの船が日本の沿岸にたびたび現れたため、幕府は1825年に異国船打払令を出しました。清とオランダ以外の外国船が近づいたら、ためらわずに打ち払えという命令で、無二念打払令とも呼ばれます。
この命令は、家斉が亡くなった1841年の翌年、1842年に、遭難した外国船には燃料や水を与える方針(天保の薪水給与令)へ改められるまで続きました。

打払令って、外国船を見つけたらすぐ大砲で撃つっていう決まりなの? 授業ではなんとなく覚えただけで…

命令の文面は、まさにそういう中身なんだ。「二念なく(ためらわずに)打ち払え」と命じていたんだよ。ざっくり言えば、「迷わず追い返せ」という強気の方針だね。ただ、実際に船が来たときにどう対応したかは、事件ごとに見ていく必要があるよ。この強気な姿勢が、のちに大きな問題を引き起こすことになるんだ。
江戸の町が文化に沸く一方で、海の外からの圧力は少しずつ強まっていきました。そんななか、家斉の時代は最後の局面を迎えます。次の章では、家斉が将軍職を譲ったあとの時代を見ていきます。
大御所時代〜譲位しても実権を握り続けた理由
1837年の譲位と「大御所」
1837年、家斉は将軍職を次男の家慶に譲りました。将軍を退いた前の将軍は「大御所」と呼ばれます。かつて徳川家康も、将軍職を徳川秀忠に譲ったあと、大御所として政治に関わっていました。
ところが家斉は、江戸城の西の丸に移ったあとも政治の実権を手放しませんでした。家慶が12代将軍になっても、大事なことは大御所の家斉が決める、という状態が続いたのです。
家斉が大御所だったのは、この1837年から亡くなる1841年までの約4年間です。ところが歴史用語の大御所時代は、この4年間だけを指すわけではありません。将軍を退いても実権を握り続けた家斉の姿から、家斉の長い治世、とくに寛政の改革と天保の改革のあいだの文化・文政期を中心とする時代を、まとめて大御所時代と呼ぶのです。どこからどこまでを含めるかは、辞典によって幅があります。

大御所時代って、結局どんな時代なの? 将軍じゃなくなったのに、政治をしていたってこと?

半分正解だよ!ざっくり言えば、社長を退いて会長になったのに、人事も大事な決定も会長がまだ握っている会社みたいなもの。肩書きは家慶が「将軍」でも、実際のボスは父の家斉だったんだ。ただ、授業で「大御所時代」と出てきたら、譲位後の4年間だけでなく、「寛政の改革と天保の改革のあいだの、家斉が長く権力を握った時代(文化・文政期が中心)」と覚えておこう。
なぜ家斉は実権を手放さなかったのか
家斉が譲位後も力を保てた理由として、まず挙げられるのが人事です。1793年に定信が退いてから1837年に譲位するまでの40年以上、家斉は自分に近い者を重く用いてきたため、幕府の要職には家斉の意向をくむ人々が多く残っていたとされます。
また、将軍とはいえ家慶は家斉の子であり、父の決定に表立って逆らうことは難しかったと考えられます。2人の関係については、うまくいっていなかったとも言われますが、はっきりしたことはわかっていません。
半世紀にわたって幕府の頂点に立ち続けた家斉にとって、権力は簡単に手放せるものではなかったのかもしれません。その一方で、この「二重の権力」の時代に、幕府は大きな事件に次々と見舞われることになります。
大塩平八郎の乱・モリソン号事件・蛮社の獄
譲位の直前、1837年2月には、大坂で大塩平八郎の乱が起こりました。数年続いた天保の大飢饉で苦しむ人々を見かねて、元大坂町奉行所の与力だった大塩が兵を挙げた反乱です。乱は半日ほどで鎮められましたが、幕府の元役人が反乱を起こしたことは、大きな衝撃を与えました。
同じ1837年には、日本人の漂流民を送り届けに来たアメリカの商船が、異国船打払令にもとづいて浦賀と山川で砲撃されるモリソン号事件も起きています。
この対応を批判した渡辺崋山や高野長英らの学者は、1839年に処罰されました。これが蛮社の獄です。飢饉と反乱、外国船、そして言論の取り締まり。いずれも、家斉が将軍職を譲る直前から大御所として実権を握っていた時期にかけてのできごとでした。
内と外の両方で揺れる幕府のなか、家斉の長い時代は終わりを迎えます。次の章では、家斉の最期と、その評価を見ていきましょう。
最期と評価〜悪政か、極盛か
最期と死因〜疝癪とされる
家斉は1841年の閏1月に亡くなりました。亡くなったのは閏1月7日(西暦1841年2月27日)で、その死が公表された(発喪)のは閏1月30日だったとされます。そのため、閏1月30日を亡くなった日とする資料もあります。
死因は、腹や胸が激しく痛む疝癪とされ、急性の胃腸炎や腹膜炎だったとする説もあります。ただし、いずれも記録からの推定です。
1773年に生まれ、1841年に亡くなった家斉は、数え69歳(満67歳)でした。
墓所は江戸の上野にある寛永寺です。亡くなったあとに贈られた名前(院号)は文恭院といいます。
評価〜悪政か、極盛か
家斉の時代には、厳しい見方が少なくありません。賄賂が横行したとされること、大奥の出費や子女の縁組の費用がかさんだこと、改鋳で目先の財政をしのいだことなどが、幕府の力を弱めたと指摘されています。
飢饉や外国船の接近といった新しい課題に、思い切った手を打てなかったという批判もあります。
一方で、約50年におよぶ長い政権のもとで大きな戦乱はなく、江戸の町人文化が花開きました。将軍のまま太政大臣にまで上ったことから、家斉の時代を幕府の権威が頂点に達した「極盛期」と見る考え方もあります。
つまり家斉は、長く権力を保ち、太平の世を続けた一方で、多くの課題を次の時代へ持ち越した将軍だったといえます。悪政か、極盛か。どちらか一方だけでは語りきれないところに、家斉という人物の面白さがあるのです。

評価は今も分かれているけど、50年も権力を保ったこと自体は、まぎれもない事実なんだ。「浪費家の子だくさん将軍」というイメージだけで終わらせず、良い面と悪い面の両方から見てみると、家斉の時代がぐっと立体的に見えてくるよ!
家斉の死が開いた時代〜家慶と天保の改革へ
家斉が亡くなると、幕府の政治は一気に動き出します。12代将軍の家慶は、老中首座の水野忠邦を中心に、1841年から天保の改革を始めさせました。
改革にあたって、家斉に近かった側近たちは次々と役職を退けられたとされます。大御所という「重し」が外れたことで、ようやく家慶と忠邦は自分たちの政治に取りかかれたわけです。
天保の改革は、家斉の時代にゆるんだとされる風紀を引き締め、傾いた財政を立て直すことをめざしました。家斉の長い治世が残した課題に向き合う改革だったともいえるでしょう。

家斉の次の将軍の家慶って、どんな人だったの? お父さんの影に隠れていたイメージがあるけど…

家慶は1837年に将軍になったけど、最初の数年は大御所の家斉が実権を握っていたから、なかなか自分の色を出せなかったんだ。家斉が亡くなってからは水野忠邦に改革を任せ、改革が行きづまって忠邦が失脚したころには、若い阿部正弘を老中に引き上げているよ。くわしくは家慶の記事で紹介しているから、あわせて読んでみてね!
ちなみに、家斉が生まれた一橋家からは、のちにもう一人の将軍が出ています。水戸家から一橋家に入った徳川慶喜で、江戸幕府最後の15代将軍となりました。
📺 2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、12代将軍・家慶の配役(宅麻伸さん)が発表されています。家斉はその父にあたる人物です。家斉の長い時代と、その後の天保の改革を押さえておくと、幕末前夜の流れがつかみやすくなります。
ここまでの流れを、試験で問われやすいポイントに絞って整理しておきましょう。
徳川家斉のテストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:改革と人物は「寛政=松平定信」「文政の改鋳=水野忠成」「天保=水野忠邦」の順にセットで覚えましょう。同じ「水野」でも、忠成(家斉の側近)と忠邦(天保の改革)は別人なので混同に注意。また、1837年は「大塩平八郎の乱・モリソン号事件・家慶の将軍就任」が重なる年として、まとめて押さえておくと便利です。

寛政の改革と天保の改革を、つい混ぜちゃう…。どうやって区別すればいい?

間に挟まる家斉の長い時代を目印にするといいよ!「寛政の改革(定信)→家斉の長期政権(文政の改鋳・大御所時代)→天保の改革(水野忠邦)」と一本の流れで覚えてみて。家斉の時代にゆるんだものを引き締め直したのが天保の改革、とつなげると、順番を取り違えにくくなるんだ。
徳川家斉についてもっと詳しく知りたい人へ

家斉さんをもっと深く知りたい人向けに、3冊選んだよ!1冊は家斉を主役にした新書、1冊は三つの改革を見渡せる山川のリブレット、もう1冊は読み物として楽しめる歴史小説だね。
岡崎守恭さんの『遊王 徳川家斉』は、文春新書の一冊として2020年に出版されました。出版社の紹介では、50年も将軍の座にあった家斉の統治のしかたと魅力を解き明かす本とされ、「子だくさん」ばかりが取り上げられがちな家斉の見方を見直す内容です。
この記事で追った家斉の人物像を、一冊を通して読み深めたい方に向いています。
家斉を主役にした一冊で、50年の治世をじっくり読みたい人。「オットセイ将軍」のイメージ以外の家斉も知りたい人。
定期テスト前に要点だけを手早く確認したい人。新書とはいえ約220ページあるので、まず記事で全体像をつかんでから手に取るのがおすすめです。
藤田覚さんの『近世の三大改革』は、山川出版社の「日本史リブレット」の一冊(48番)で、2002年に出版されました。享保・寛政・天保の三つの改革をまとめて見渡せる、約100ページの小冊子です。
この記事の中心だった寛政の改革と、家斉の死後に始まる天保の改革を、享保の改革とあわせて比べながら整理したい方に向いています。
寛政の改革と天保の改革のつながりを、享保の改革もふくめて短時間で整理したい人。教科書の流れを一段深く読みたい高校生。
家斉の生涯や人柄を知りたい人。改革の全体像を扱う本で、家斉を主役にした本ではないので、人物像は①のほうが向いています。
佐藤雅美さんの『十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯』は、家斉を描いた歴史小説で、講談社文庫として2010年に出版されました。出版社の紹介では、寛政の改革から化政文化へ向かう時代を、水野忠成の貨幣改鋳などとともに描く作品とされています。
小説なので、人物の会話や心の動きには作者の創作がふくまれます。史実の確認には、この記事や①②のような解説書を使い、読み物として楽しむ一冊と考えてください。
家斉の時代を物語として味わいたい人。記事で出てきた寛政の改革や文政の改鋳の背景を、読み物で楽しみたい人。
史実だけを正確に確認したい人。約620ページと長く、フィクションをふくむため、テスト勉強の教材にはあまり向きません。
よくある質問(FAQ)
江戸幕府の11代将軍です。数え15歳で将軍となり、はじめは老中首座の松平定信に寛政の改革を任せました。定信が退いたあとは側近を用いて自ら政治を動かし、1837年に将軍職を家慶に譲ってからも、1841年に亡くなるまで実権を握り続けました。
50人を超えるとされています。辞典類では55人とするものが多く、ほかに53人(男子26人・女子27人)とする資料もあります。幼くして亡くなった子をどう数えるかで数字が変わるためと考えられます。
子だくさんだった家斉につけられた俗称です。オットセイから作った精力剤を家斉が飲んでいたから、という話がよく語られますが、同時代の確かな史料で裏づけられているかははっきりしません。後世のイメージから生まれた呼び名と考えておくのが安全です。
11代将軍・家斉の長い治世、とくに寛政の改革と天保の改革のあいだの文化・文政期を中心とする時代を指す呼び名です。家斉が1837年に将軍職を家慶に譲ったあとも、大御所として1841年に亡くなるまで実権を握り続けたことに由来します。どこまでを含めるかは辞典によって幅があります。
定信は1793年に老中を退きましたが、直接の理由ははっきりしておらず、諸説あります。朝廷との尊号一件をめぐる対立や、家斉が実父・治済に「大御所」の称号を贈ろうとしたことへの反対、厳しい改革への反発などが挙げられます。
腹や胸が激しく痛む疝癪だったとされ、急性の胃腸炎や腹膜炎とする説もありますが、いずれも推定です。亡くなったのは1841年閏1月7日で、死が公表されたのは閏1月30日だったとされます。
まとめ
徳川家斉は、一橋家から迎えられ、1787年から1837年まで約50年にわたって将軍の座にあった江戸幕府11代将軍です。はじめは松平定信の寛政の改革を見守り、定信が退いてからは自ら人事を握り、将軍を退いたあとも大御所として亡くなるまで実権を手放しませんでした。
「子だくさんの浪費将軍」というイメージの裏には、長く権力を保ち続けた政治家としての顔がありました。そしてその長い時代が残した課題が、天保の改革、さらには幕末へと引き継がれていったのです。
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1773年一橋治済の長男として生まれる(幼名は豊千代)
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1781年10代将軍・徳川家治の養子となる
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1787年11代将軍に就任。松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まる
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1793年松平定信が老中を退く
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1808年フェートン号事件が起こる
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1818年水野忠成が老中となり、文政の改鋳が始まる
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1825年異国船打払令を出す
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1827年将軍在職のまま太政大臣となる
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1837年大塩平八郎の乱・モリソン号事件。将軍職を家慶に譲り大御所となる
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1839年蛮社の獄
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1841年死去。家慶のもとで水野忠邦が天保の改革を始める

以上、徳川家斉のまとめでした。下の記事で家慶や天保の改革、松平定信、化政文化もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』・コトバンク(山川 日本史小辞典ほか)
コトバンク「徳川家斉」(山川 日本史小辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典ほか、2026年10月確認)
コトバンク「大御所時代」「水野忠成」「文政金銀」(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「徳川家斉」「大御所時代」「水野忠成」「阿部正弘」(2026年10月確認)
文京区公式サイト「赤門」(2026年10月確認)
NHK財団ステラnet・オリコンニュース『逆賊の幕臣』出演者発表記事(2026年10月確認)
山川出版社『詳説日本史』
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