今回は、江戸時代の3大改革の1つ天保の改革について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
天保の改革とは
天保の改革とは、12代将軍の徳川家慶の頃、老中の水野忠邦が中心となって行った幕政の大改革のことを言います。
改革が行われたのは、1841年〜1843年のわずか2年。
当時の年号「天保」にちなんで、天保の改革と名付けられました。
天保の改革が行われた背景〜内憂外患〜
天保の改革が行われた背景は、教科書なんかではよく『内憂外患』という言葉でまとめられています。
・・・内憂外患ってなに?
内憂外患って言うのは、
国内では憂うこと(心配事)が多く、外交面でも患うことが絶えない状況のこと。
つまり、内も外も問題だらけって状況のことを内憂外患って言います。
その内憂外患っていうのは、具体的にどんな問題だったのかしら?
内憂っていうのは、財政難や治安悪化こと。
外患は、鎖国中の日本に次々と外国船がやってくる外交問題のことを指します。
それぞれ、どんな状況だったのか、詳しく解説していくね!
内憂(財政難&治安悪化)
江戸幕府は、昔からずーっと財政難と治安悪化に悩まされ続けていました。
天保の改革が行われる約50年前、この問題を解決しようと大きな改革が行われました。
・・・、それが寛政の改革(1787年〜1793年)です。
寛政の改革で状況は一時的に改善こそしたものの、改革の主導者だった松平定信が失脚すると状況は少しずつ元の戻ってしまいました。
しばらくは落ち着いた状況が続きましたが、1832年から始まった天明の大飢饉によって、問題が一気に表面化。
生活に困った人々が各地で百姓一揆・打ちこわしを起こすようになりますが、財政状況が苦しい幕府や諸藩は対策を打ち出すことができません。
そんな中、大事件が起こります。
1837年、何もしない幕府に失望した大塩平八郎という人物が大阪で大反乱を起こしたのです。(大塩の乱)
反乱そのものはすぐに鎮圧されました。・・・が、反乱のリーダーとなった大塩平八郎が幕府の元役人だったことは、幕府に大きなショックを与えました。
ヤベェ・・・。民衆だけじゃなくて、ついに元役人まで暴動を起こしやがった。
これを放っておけば、いずれ役人にも謀反を起こす者が現れ、幕府は崩壊してしまう・・・!
こうして、幕府の立て直しと治安の安定が急務となっていきました。
外患(外交問題)
幕府は当時、外交面でも大きな問題を抱えていました。
何が問題だったかというと、1800年頃から、鎖国中の日本にロシア・イギリス・アメリカなどの船が次々とやってきて、たびたびトラブルが起こるようになったのです。
幕府は異国船打払令(1825年)を出して、許可なくやってくる船を攻撃することにしました。
・・・が、外国との関わり方には幕府内でもさまざまな意見があり、幕府は続々とやってくる外国船に頭を悩まされていました。
水野忠邦「俺が江戸幕府を建て直してやんよ!!」
内憂外患で苦しんでいたとき、改革者として登場したのが、老中の水野忠邦でした。
水野忠邦は、大塩の乱やモリソン号事件を見て、幕府の改革を望んでいましたが、すぐに改革を行うことはできませんでした。
・・・なぜなら、当時は大御所(元将軍)である徳川家斉が政治の実権を握り(大御所政治)、変革を拒んでいたからです。
徳川家斉は、息子の家慶を将軍(12代目)にして、元将軍&父親の立場から政治の実権を握ったんだ。
転機になったのは1841年。徳川家斉が死去して、権力が将軍家慶の元に戻ってきたのです。
ようやく自由に政治を行える・・・!
このままでは幕政は行き詰まり江戸幕府は崩壊する。水野よ、改革を任せたぞ!
ははっ!
こうして始まったのが天保の改革でした。
天保の改革の内容
水野忠邦が打ち出した政策は、こんな感じでした。
政策①:人返しの法(江戸に住む貧困者を減らす)
政策②:株仲間の解散(物価を下げる)
政策③:厳しい倹約令(物価下落&財政難対策)
政策④:三方領知替え&天保の薪水給与令()
政策⑤:上地令(財政難対策)
1つ1つ丁寧に解説していくね!
政策①:人返しの法(江戸に住む貧困者を減らす)
当時、地方から多くの貧しい人々が江戸にやってきたため、農村の過疎化と江戸の人口増が大きな問題となっていました。
地方の人々は、重い年貢に耐えきれず農地を捨て、働き先を探すため都会(江戸や大阪)にやってきました。
※今でも問題になっている地方の過疎化と東京の一極集中は、江戸時代にも起きていたのです。
江戸に貧しい人たちが集まるから治安が悪化する。
・・・ならば、貧しい人々を地方へ返してしまえば良いのでは・・・!?
と考えた幕府は、貧しい人たちを地方の農村へ返してしまう人返しの法という法令を出しました。
人返しの法の内容は主に2点。
これからは、地元の許可がないと江戸に来るのは禁止!
すでに江戸にいる浮浪者たちは強制送還!
さらに、人返しの法をしっかりと運用するため、江戸の人別改め(人口の調査)を強化。違法に江戸に来る者たちを厳しくチェックしました。
政策②:株仲間の解散(物価を下げる)
人々が暴動を起こすもう1つの背景として、物価の上昇がありました。
みんな給料は上がらないのに物価だけ上がって、生活に苦しんでいる。
物価上昇を防げば人々の生活は楽になり、暴動も起こりにくくなるはず!
当時は、江戸へ入ってくる商品の量が年々減っていて、これが物価上昇を招く大きな問題となっていました。
水野忠邦は、江戸に商品が入ってこない原因が株仲間にあると考えました。
株仲間は、自分たちの商品を高く売るためわざと販売量を減らして、プレミアム感を出しているに違いない!!
そんなセコいことをする株仲間なんて解散だ!!
と、水野忠邦は株仲間を解散させてしまいました。
・・・しかし、株仲間を解散しても物価が下がることはありませんでした。
なぜなら、そもそも株仲間のところに届く商品すら減っていたからです。
江戸に届く商品が減った真の原因は、「江戸じゃなくても物が売れるようになったから」でした。
日本の経済が発展するにつれ、地方でも商品の消費量が増えるようになり、さらに株仲間に入らず好き勝手に商売する者も増え続け、その分だけ株仲間によって江戸に送られる商品が減っていたのです。
結局、株仲間の解散に効果はなく、むしろ商品の価格・供給を安定させてくれていた株仲間が消えたことで、江戸ではなおさら商品量が不安定になって混乱を招く結果となりました。
政策③:厳しい倹約令(物価下落&財政難対策)
水野忠邦は、将軍・民衆と問わず、江戸に住む人々に厳しい倹約令を出しました。
ぜいたく品を禁止して、人々には最低限度の生活に必要なお金しか使わないよう命令したのです。
みんなが倹約して物を買わなくなれば、物価は上がらなくなるし、幕府も役人たちのお給料を上げなくて済むので財政的にもメリットがありました。
倹約令は、享保の改革・寛政の改革でも行われた改革の定番でしたが、水野忠邦による倹約令はこれまでにないほど厳しいものでした。
民衆の娯楽であった江戸の寄席(落語などを行う舞台)を211件→15件に減らして、
江戸の各地にあった歌舞伎座を浅草のはずれに移転させ、
当時ブームだった人情本(恋愛小説)の有名作家だった為永春水を処罰する・・・、など人々から次々と娯楽を奪ったため、民衆の不満を高める結果となりました。
政策④:三方領知替え&天保の薪水給与令(外国船対策)
水野忠邦は、許可なくやってくる外国船への対策も忘れていません。
三方領知替え
外国船がたくさんやってくるようになると、幕府は海岸の防衛を強化しました。
・・・が、その代償として、防衛を任された藩は重い財政負担を背負うことになりました。
当時、相模湾あたりの防衛を任されていた川越藩の藩主は、海岸防衛の重い負担に限界を感じ、統治する藩の変更(転封)を幕府に訴えます。
幕府はこの訴えを聞き入れ、川越藩・庄内藩・長岡藩の藩主を次のように変更することにしました。
・・・が、庄内藩の農民たちが「今の藩主の方がいいから転封は嫌だ!」とこれに大反対。最終的に転封は失敗に終わりました。
この失敗に終わった3藩の転封のことを、歴史の用語で三方領知替えと言います。
天保の薪水給与令
水野忠邦は、異国船打払令の見直しも行います。
きっかけは1840年に起きたアヘン戦争でした。アヘン戦争は、アヘンをめぐって起こったイギリスVS清の戦争。
いずれも大国でしたが1842年、イギリスが清をボコボコにしてアヘン戦争に勝利しました。
・・・はっ!?
大国の清に勝つような相手(イギリス)に喧嘩売っても勝てるわけないやんけ・・・。
同年(1842年)、水野忠邦は天保の薪水給与令を出して、遭難した船に限って日本にやってきても水や薪をあげて助けてあげることにしました。
政策⑤:上地令じょうちれい(財政難対策)
水野忠邦は、幕府の財政を立て直しと外国船対策の一挙両得の策として、上地令という法令を出しました。
上地令は、「江戸・大阪の周辺地をすべて幕府の直轄領にするから、江戸・大阪周辺に領地を持っている各藩は、領地を幕府に譲ってね!代わりの領地をあげるね!」っていう法令です。
新たな領地からゲットできる年貢で財政を立て直し、さらに外国との争いに備えて江戸・大阪の防衛を強化しようという目論みでした。
・・・が、この目論みは、諸大名からの猛反対によって失敗に終わります。
領地替えは、そんな簡単な話じゃない!知らない土地・民を統治するのは藩だって大変なんだぞ!そんな提案、断固として反対する!!
他にも農地を増やしたりするため、昔に田沼意次がチャレンジして失敗した印旛沼の干拓工事にも再チャレンジしましたが、これもうまくいきませんでした。
天保の改革の終わり
・・・、結論から言うと天保の改革は失敗に終わりました。
厳しい倹約令は民衆の幕府への不満を高める結果となり、三方領知替え・上地令も諸藩の反対で失敗。
人返しの法の効果もイマイチで、株仲間の解散はかえって江戸に混乱を招いてしまいました。
そして、天保の改革にトドメを刺したのが1843年に出された上地令の失敗でした。
上地令が廃止に追い込まれると、水野忠邦はその責任を取る形で老中をクビとなり、天保の改革はわずか2年(1841年〜43年)で終わりました。
天保の改革が幕政に与えた影響
天保の改革の失敗は、幕府の権威を大きく失墜させました。
特に三方領知替え・上地令は、大名・民衆の反対の声に幕府が勝てなかった・・・という意味で幕府の権威を大きな傷を付けました。
初代将軍の徳川家康の時代なら、将軍の命令は絶対で、簡単に逆らえませんでした。
・・・しかし、幕政の長年による停滞によって、大名が激しく抵抗できてしまうほど、将軍の権威は失墜していたのです。
天保の改革以降も、幕府の権威が回復することはありませんでした。
逆に天皇の影響力が強まり、幕末の明治維新(江戸幕府を滅ぼして天皇中心の国づくりを目指す動き)へとつながっていきます。
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