鎖国とは?簡単にわかりやすく解説!【時代背景・流れを理解しよう!年表付!】

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出島
もぐたろう
もぐたろう

今回は、江戸時代に行われた鎖国について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 鎖国ってそもそもなに?
  • なぜ鎖国が行われたの?
  • 鎖国中の日本は、どんな交易を行なっていたの?
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鎖国とは

鎖国っていうのは、外国との交流・貿易を厳しく制限した江戸幕府の政策のことを言います。

制限ってことは、外国との関係を完全にシャットアウトしたわけじゃないんだね?

もぐたろう
もぐたろう

そのとおりだよ!

あくまで「制限」なので、鎖国状態でも一部の国とは交流・貿易は続いていました。

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鎖国の目的

江戸幕府が鎖国を行った理由は大きく2つあります。

キリスト教が日本に広まるのを防ぐため

貿易による利益を幕府が独占するため

です。

それぞれ、詳しく解説していきます!

鎖国の理由その1:キリスト教の布教を防ぐ

キリスト教が日本に伝わったのは戦国時代でした。

当時、キリスト教は大きくカトリックとプロテスタントの2派に分かれていました。

ヨーロッパで劣勢だったカトリックは、新天地を求めて世界各国で布教活動を行なっていて、そのために日本にやってきたのがあの有名なフランシスコ=ザビエルです。

フランシスコ=ザビエル
キリスト教布教のきっかけとなったフランシスコ=ザビエル

当初、日本はキリスト教を受け入れていました。

というのも、カトリックを日本に広めようとやってくるスペイン・ポルトガル船との貿易(南蛮なんばん貿易)がめちゃくちゃもうかるからです。

しかし、キリスト教は人々の予想を超えて広く布教され、次に掲げるような大きな外交問題にまで発展していきました。

キリシタン大名の大村純忠おおむらすみただが、長崎をイエズス会に寄進してしまった

大村純忠
キリシタン大名だった大村純忠
もぐたろう
もぐたろう

大村純忠は、長崎周辺を支配していた弱小大名で、自分の領地を守るため長崎をイエズス会に寄進し、その代わりとしてポルトガルの力を借りようとしたと言われています。

スペイン・ポルトガルが、日本人を奴隷としてインドへ輸出していた

キリスト教徒が神社仏閣を破壊し、僧侶を迫害し始めた

1587年、当時天下人であった豊臣秀吉とよとみひでよしは事態を重く受け止め、キリスト教の布教を防ぐため、宣教師たちを日本から追放するバテレン追放令を出しました。

ただ、バテレン追放令は、あくまで宣教師を追放するだけの政策です。

南蛮貿易はそのまま続けられ、貿易船に乗って密かに入国する宣教師も多かったため、その効果はイマイチでした。

もぐたろう
もぐたろう

南蛮貿易がめちゃくちゃ儲かっていたから、豊臣秀吉はキリスト教を封じたいと思っていても、船の往来まで禁止することはしなかったんだ。

「キリスト教は邪魔だけど貿易は続けたい」という状況は、江戸時代になっても続きました。

鎖国の理由その2:貿易の利益を幕府が独占する

もう1つ鎖国の理由は、貿易の利益を幕府が独占するためです。

貿易を特定の場所・国に限定して、幕府が貿易を監視することで、貿易で得られた利益を幕府で独占することができました。

これは単に、幕府が金儲けに走った・・・という話だけではありません。

もし、自由な貿易を許してしまうと、長崎や博多のような貿易が盛んな地域の大名たちが力を持つようになり、江戸幕府に反乱する可能性だってあります。

もっと言ってしまえば、裏でスペイン・ポルトガルが手を引いて大名たちに反乱を起こさせて、そのドサクサに紛れて日本の領土を侵略してしまうことだって考えられます。

なので、国防という観点からも(他大名に力をつけさせないため)幕府が貿易を独占することは重要なことだったのです。

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鎖国までの流れ

鎖国に向けた動きは1610年頃から強まり、1640年頃に鎖国体制が完成しました。

将軍の代でいうと、2代将軍の秀忠ひでただの頃から始まって、3代将軍の家光いえみつの頃に完成しました。

徳川家光(江戸幕府3代将軍)
鎖国体制を完成させた徳川家光

どのような流れで鎖国に至ったのか、時代の流れを確認しておきましょう!

江戸時代初期の外交

初期の江戸幕府は、「キリスト教は邪魔だけど貿易は続けたい」という豊臣秀吉のスタンスを引き継ぎます。

1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後ぶんご(今の大分県)に漂流すると、江戸幕府は船に乗っていたオランダ人ヤン=ヨーステン、イギリス人ウィリアム=アダムスと接触。

ウィリアム=アダムス
ウィリアム=アダムスが徳川家康と会っている様子

その後、話はとんとん拍子に進み、江戸幕府は1609年にオランダ1613年にイギリスとの通商を許可し、平戸ひらど商館しょうかんを置くことを認めました。

※商館:交易の拠点となる諸外国専用の施設のこと

日本との貿易をめぐる争い

日本が新たに貿易相手と認めたオランダ・イギリスはプロテスタントを信仰する国であり、もともと日本と交易していたカトリック信仰国のスペイン・ポルトガルとはライバル関係にありました。

平戸にはすでにスペイン・ポルトガルの商館が置かれていたので、新たにオランダ・イギリスの商館が設置されると、日本との貿易権をめぐって各国の争いが激化していきました。

また、江戸幕府は、ヨーロッパだけではなく近隣諸国である、朝鮮、琉球王国、蝦夷地えぞち、中国との交易も積極的に行いました。(詳しい話は後で解説します。)

※中国は海禁政策行っていたため、国としての交流はありませんでしたが、日本と中国の間で民間船による交流が続いていました。

江戸幕府は、積極的に交易を求めていた一方、キリスト教弾圧も強めました。

1612年には幕府直轄領に対して禁教令きんきょうれいを出して、その翌年(1613年)には禁教令を全国に拡大。

1614年には、さっそく禁教令が適用され、高山右近たかやまうこんら約300人のキリスト教徒たちがマニラ(今のフィリピンの首都)に追放されました。

高山右近
マニラに追放された高山右近。追放先のマニラでその生涯を終えました。
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鎖国体制の完成

貿易に積極的だった大御所おおごしょの徳川家康が1616年に亡くなると、幕府は方針を転換し、キリスト教対策のためヨーロッパ諸国に対して厳しい貿易制限を行うようになります。     

もぐたろう
もぐたろう

禁教令を出しても、宣教師の密航を防がない限りキリスト教の布教を防ぐことはできず、そのためにはヨーロッパからの船の往来をストップさせる必要があったのです。

1616年、幕府は中国(明)船を除き、外国船の寄港地を長崎・平戸に制限し、それ以外の港に外国船が入港すること禁じました。

さらに1622年、幕府は長崎にて宣教師・キリスト教信徒ら55人の処刑を断行。(元和げんな大殉教だいじゅんきょう

江戸幕府
江戸幕府

ってかさ、イエズス会の宣教師を大量に密航させるスペイン船ともう貿易する必要なくね?

オランダとかポルトガルもいるし、スペインなんてもう必要ねーじゃん。

と言う話になり、1624年、幕府はスペイン船の来航を全面禁止することを決定しました。

さらにその前年の1623年には、イギリスが日本との貿易権をめぐるオランダとの争いに敗北。平戸の商館を閉鎖して、日本からの撤退を決めました。

幕府の貿易制限の強化はこれだけでは終わりません。

1633年、幕府は日本船の海外渡航を奉書船ほうしょせんのみに制限。

朱印船と奉書船

もともと江戸幕府は、将軍の名前で発行された朱印状を持った船(朱印船しゅいんせん)にしか貿易を認めていませんでした。

貿易制限を強化するなら、本当は朱印状を取り消してしまうのが手っ取り早いのですが、実は朱印状は一度発行されると取り消すことができませんでした・・・というのも、将軍の名前で発行した書類を簡単に「はい取り消しね!」とすることはできなかったからです。

そこで!朱印状を取り消さずに貿易制限を強化できるように発案されたのが奉書です。

奉書とは、老中の名前で発行された渡航許可証のこと。「朱印状だけじゃなくて奉書も持った船(奉書船)じゃないと海外渡航できねーから!」って仕組みにすることで、幕府は将軍が発行した朱印状を取り消すことなく、渡航制限の強化を図ることに成功したのです。

さらに2年後の1635年には、日本人の海外渡航・在外日本人の帰国を全面禁止となり、これまで九州各地での貿易が許されていた中国船の寄港地も長崎のみに限定されました。

※日本人の渡航が全面禁止されたことで、奉書船の仕組みも自然消滅しました。(全面禁止なので奉書があってももはや意味がないため)

1637年、幕府が危惧していた最悪の事態が起こります。九州でキリシタンたちによる大規模な一揆(島原の乱)が起きたのです。

江戸幕府
江戸幕府

こうなったらイエズス会と繋がってる国とはすべて国交断絶だ!

大目に見ていたポルトガルも絶交だ!

今後はオランダとさえ貿易できればOK!

1639年、幕府はスペインに続き、ポルトガル船の来航を禁止

さらに幕府は、ヨーロッパ唯一の貿易相手となったオランダに対しても厳しい制約を設けました。

1641年、幕府はオランダ船の往来を長崎に制限し、もともと平戸にあったオランダ商館を長崎にある外国人隔離用エリアの出島でじまへと移転させ、厳しい監視下に置きました。

外国人隔離用の人工島「出島」

出島とは、1634年に造られた日本初の人工島のことを言います。

もともとは、キリスト教の布教を防ぐため日本にやってきたポルトガル人を隔離するための島でしたが、1639年にポルトガル船の来航が禁止されると出島に空きが出たので、1641年にオランダ向けに転用されました。

オランダは、幕府がキリスト教を嫌っていることを理解していて、日本と貿易による利益のみを欲していたので、商館の出島への移転に反対することはありませんでした。

出島
陸地との通路は橋一本のみ。外国人は許可がなければ出島から出ることはできなかった。
外国人を隔離するために築造された出島の様子
遠目から見た出島の様子

このオランダ商館の出島への移転をもって、日本の鎖国体制は完成しました。

ここまでの話をまとめます。

冒頭で説明したように、鎖国と言っても完全に諸外国との交流をシャットアウトしたわけではなく、あくまで厳しい貿易制限を行っただけです。

鎖国の結果、諸外国との交易は、次の4拠点に制限されることになりました。

拠点貿易相手
長崎オランダ・中国
対馬藩朝鮮
薩摩藩琉球王国
松前まつまえ蝦夷地
鎖国中も異国・異民族と交流が続いた4つの窓口
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鎖国中の貿易の様子

4拠点(長崎・対馬・薩摩・松前)は、鎖国中の日本と外国の唯一の窓口ということで『四つの窓口』と呼ばれています。

この四つの窓口での具体的な交流の様子をまとめておきます。

長崎

オランダ

幕府は、オランダを単なる貿易相手ではなく、ヨーロッパの情報を得る貴重な情報源と考えていました。

なので幕府は、オランダ船に対してオランダ風説書という世界情勢をまとめたレポートの提出を義務付け、鎖国下でもある程度の世界情勢は把握することができていました。

中国

江戸時代初期の中国の王朝は明です。

明は、民間貿易を禁止する海禁政策と呼ばれる政策を行っていて、日本との貿易は基本的にNGでした。

そのため、明から日本にやってくる船は密輸船に限られ、日本と明との貿易は非公式に行われているのが現状でした。

・・・ところが、1616年に明の北部で新たにしんが建国され、1644年に明が滅亡。

その後、明の残党と清との間で動乱(明清交替みんしんこうたいの動乱)が続き、1680年代に入って情勢が安定してくると、清は海禁政策の撤廃を宣言。

すると、清から日本への輸出が爆増しました。

大人気だった中国産の生糸(シルク)

日本は昔から中国産の生糸を大量に輸入していて、明が海禁政策を敷いている間は、オランダなどを通じて中国産の生糸をゲットしていました。

清が海禁政策を解いたことで、日本は中国から直接生糸を大量輸入できるようになったのです。

もぐたろう
もぐたろう

大量に輸入された生糸は、西陣織にしじんおりなどに用いられていたよ。

1685年、幕府は輸入品の対価として支払っている銀貨の流出を恐れて、オランダ・清に対して輸入量の制限を設けました。

さらに1688年、中国人が大量に長崎にやってくるようになったため、中国人が変なことをしないよう、出島の中国人バージョンとして唐人屋敷とうじんやしきを設けました。

貿易のためにやってきた中国人は、唐人屋敷からの出入りを厳しく監視され、行動に一定の制限が課せられました。

※ただし、出島のオランダ人よりは監視の目が緩かったと言われています。

唐人屋敷
唐人屋敷。周囲に塀が設けられている。

対馬

対馬藩では、藩主のそうを通じて朝鮮との交易が盛んでした。

朝鮮と日本の関係は、文禄・慶長の役(1592年〜1598年)で悪化していましたが、宗氏が仲介役となり、1609年に朝鮮と対馬藩の間で己酉約条きゆうやくじょうが結ばれ、朝鮮との交流が再開しました。

対馬藩は耕地に恵まれない貧しい土地が多かったため、幕府は宗氏に朝鮮との貿易権を独占させ、宗氏は貿易から得た利益によって藩の統治を行なっていました。

朝鮮と日本は単なる貿易相手ではなく、釜山に倭館わかんが設置されたり、朝鮮から日本へ朝鮮通信使と呼ばれる使節団が数回派遣されたりと、国と国との公式な関係(国交)がありました。

朝鮮通信使
朝鮮通信使の行列

薩摩

薩摩藩は、琉球王国に石高制を取り入れたり、貿易権を掌握したりして、琉球王国を藩の支配下に置きました。

もぐたろう
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琉球王国は、薩摩藩の支配を受けていた一方、中国と朝貢関係(君主と臣下の関係)を結んでいて、日本と中国から2重の支配を受けていました。

琉球王国は江戸幕府に対して忠誠を示すため、

琉球王国の国王が代わった時は謝恩使しゃおんしを、

幕府の将軍が代わった時は慶賀使けいがしを、幕府に派遣しました。

琉球王国から派遣された謝恩使一行
薩摩藩から江戸に向かう謝恩使の様子

松前

松前藩は、寒冷地で稲の収穫が見込めないため、幕府からアイヌとの貿易独占権を認められ、貿易から得た利益で藩を統治していました。

もぐたろう
もぐたろう

対馬藩が、朝鮮との貿易独占権を認められたのと同じような理由だね!

松前藩は、家臣にアイヌとの交易権を与える商場知行制という制度で藩の統治をしていましたが、1669年に起きたアイヌの反乱(シャクシャインの乱)を鎮圧した後は、家臣ではなく商人の貿易を丸投げする場所請負制度を取り入れました。

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鎖国の終わり【開国】

「4つの窓口」による鎖国体制は、1800年頃から体制の限界が見え始めてきます。

というのも、

北の隣国ロシア

産業革命で世界最強の国になったイギリス

アメリカ独立戦争に勝利して独立国となったアメリカ

などの強国たちが、たびたび日本に接近してくるようになったからです。

1853年、ペリーが日本にやってきて開国を迫り、その翌年(1854年)に日米和親条約が結ばれ、約200年続いた鎖国政策は終わりを告げることになります。

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鎖国政策のまとめ【年表】

最後にここまで紹介してきた鎖国政策の流れを年表でまとめておきます!

鎖国政策までの流れ【年表まとめ】
  • 1600年
    リーフデ号が日本へ漂流
  • 1609年
    オランダとの貿易がスタート
  • 1612年
    幕府、直轄領に禁教令を出す。(1613年に全国に拡大)
  • 1613年
    イギリスとの貿易がスタート
  • 1614年
    禁教令により、高山右近らが海外追放される
  • 1616年
    中国船を除き、外国船の来航を平戸・長崎に制限
  • 1622年
    長崎でキリスト教徒が大量処刑される(元和の大殉教)
  • 1623年
    イギリス、オランダに敗れ日本との貿易から撤退
  • 1624年
    スペイン船の来航を禁止
  • 1633年
    奉書船以外の海外渡航を禁止
  • 1635年
    日本人の海外渡航を全面禁止。中国船の寄港地も長崎のみに。
  • 1637年
    島原の乱
  • 1639年
    ポルトガル戦の来航を禁止
  • 1641年
    オランダ商館を出島に移転(鎖国体制の完成!)
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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