
今回は旗本と御家人の違いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ! 2つを分けたものは何だったのか、家の暮らしを支える禄高や仕事はどう違ったのか。
幕末に活躍した2人の例や、鎌倉時代の御家人との違い、幕末から明治にかけてのその後まで、順番に見ていこう!
この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
山川出版社『詳説日本史』準拠
「旗本は禄が多くて偉い武士、御家人は貧しい下っ端」——そんなイメージを持っていませんか? 実は、2つを分けた決め手は禄の多さではなく、「将軍に直接会えるかどうか」という一点でした。
禄高は2つの間で重なり合っていて、旗本にも禄のごく少ない家があり、御家人にもそれなりの禄を受ける家がありました。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で主人公として描かれる小栗忠順も旗本の一人ですが、同じ幕末に活躍した勝海舟とは、家の禄も出世の道のりもまるで違います。
この記事では、旗本と御家人の違いを「身分・収入・仕事」の3つの軸に分けて、わかりやすく解説します。
旗本と御家人の違いとは?将軍に会えるかどうかが分かれ目
- 旗本も御家人も、江戸幕府の将軍に直接仕えた、石高1万石未満の家臣です。
- 分かれ目は、将軍に拝謁できる御目見以上か(旗本)、以下か(御家人)です。
- 禄高だけでは区別できず(2つの禄高は重なり合う)、仕事や暮らしは役職と家ごとに違いました。
結論から言うと、将軍に会う資格がある家臣が旗本、その資格がない家臣が御家人です。将軍に拝謁することを御目見といい、その資格がある旗本は「御目見以上」、資格がない御家人は「御目見以下」と呼ばれました。
「将軍に直接仕える」は、誰の家臣かという話です。「御目見」は将軍に会う資格の話なので、御家人も将軍直属の家臣であることに変わりはありません。また、旗本がみな日常的に将軍と顔を合わせていた、という意味でもありません。
人数は、18世紀ごろで旗本がおよそ5,200人、御家人がおよそ17,000人とされます(時期や資料によって数字は異なります)。数のうえでは、御家人のほうがずっと多かったことになります。
では、どちらが偉いのでしょうか。家の格式のうえでは旗本が上とされます。ただし、禄の多さや仕事の中身、暮らしぶりは家ごとに大きく違い、「旗本だから豊か」とは言い切れません。

旗本と御家人って、どっちが将軍に会えるんだっけ?

会えるのは旗本、会えないのは御家人だよ!
禄の多い少ないで分かれるわけじゃない、っていうのも大事なポイントなんだ。
旗本と御家人の違いは、次の3つの軸に分けると整理しやすくなります。身分(将軍に会えるか)は旗本・御家人それぞれの章で、収入(禄)は禄の仕組みの章で、仕事(役職)は役職と出世の章で、順にくわしく見ていきます。
幕臣・直参・大名・陪臣の違い〜幕府の家臣団を整理する
旗本・御家人を理解するには、まず将軍を頂点とする家臣団の全体像を押さえておくのが近道です。ここでは、よく出てくる呼び名を一つずつ整理していきます。
江戸幕府の将軍に直接仕える家臣を直参といいます。一般に直参といえば、旗本と御家人を指すことが多い言葉です。
一方の幕臣は、「幕府に仕える家臣」を広く指す呼び名です。直参とほぼ同じ意味で使われることが多いものの、資料によって指す範囲に幅があります。
将軍に直接仕える武士のうち、石高が1万石以上の者は大名と呼ばれました。大名は自分の領地(藩)を治め、武家諸法度によって統制され、参勤交代で江戸と領地を行き来しています。
これに対して、1万石未満の直参が旗本と御家人です。旗本・御家人は原則として江戸に屋敷を構え、将軍のおひざもとで仕えました。
直参の始まりは、徳川家康が三河の時代から従えてきた家臣団にさかのぼるとされます。江戸幕府が開かれると、彼らが将軍直属の家臣として組織されていきました。
そして、大名に仕える家臣は、将軍から見ると「家臣の家臣」にあたります。これを陪臣(又家来)と呼びます。

時代劇や幕末の話で、よく「幕臣」って聞くわよね。旗本とか御家人とは別の言葉なの?

幕臣は、幕府に仕える家臣をまとめて呼ぶ言葉なんだ。その中心にいるのが旗本と御家人だよ。
会社でたとえると、大名は独立した子会社の社長、旗本と御家人は本社で働く社員、陪臣は子会社の社員…ってイメージに近いかな。もちろん完全に同じではないけど、全体像をつかむにはわかりやすいと思う!
📌 呼び名の整理:幕臣=幕府に仕える家臣の総称/直参=将軍に直接仕える家臣(主に旗本・御家人)/陪臣=大名などに仕える家臣。大名と旗本・御家人の境目は「1万石」です。なお、幕臣と直参の使い分けには資料によって幅があり、ほぼ同じ意味で使われることもあります。
つまり旗本・御家人は、この家臣団のなかで「将軍に直接仕える、1万石未満の層」にあたります。次の章からは、その中身を旗本・御家人の順に見ていきましょう。
旗本とは?将軍に会える上級の幕臣
旗本は、御目見以上の格式を持つ、1万石未満の直参です。もともと「旗本」とは、戦場で大将の旗のもとに控え、大将を守る武士たちを指す言葉でした。
旗本は御家人よりずっと数の少ない、直参の上級層です。町奉行や勘定奉行といった幕府の重要な役職や、将軍の身辺の警備を担う役職に就きました。役職の中身は、役職と出世の章でくわしく見ていきます。
暮らしの場は、江戸に与えられた屋敷です。禄の大きさは家によってまちまちで、数千石を持つ家もあれば、わずかな禄しかない家もあったとされます。最も大きな家は横田家の9,500石とされ、大名に迫る規模でした。

「旗本」って聞くと、立派な屋敷に住むお金持ちを想像しがちだよね。
でも、禄の少ない旗本もけっこういたんだ。このあたりは、禄の仕組みの章でもう少しくわしく見ていくよ。
徳川家の家臣団は、俗に旗本八万騎と呼ばれました。ただし、旗本本人が8万人いたわけではありません。
旗本はおよそ5,200人、御家人はおよそ17,000人とされ、両方を合わせても8万には届きません。8万という数は、旗本が軍役の決まりに従って抱えることになっていた家臣(陪臣)まで含めた数だとする説明がある一方、語呂のよい俗称とみる見方もあり、資料によって説明は異なります。
御家人とは?将軍に会えない実務の担い手
御家人は、御目見以下の格式の直参です。将軍に直接仕える家臣でありながら、将軍に拝謁することは許されていませんでした。数のうえでは、直参の大半を御家人が占めています。
御家人の多くは、幕府の実務を現場で支える役職に就きました。代表的なのが、町奉行所で江戸の治安や裁判の実務を担った与力・同心です。戦のときには、徒歩で戦う徒士として働くのが基本だったとされます。
江戸の町奉行所の与力・同心は、組ごとにまとまった屋敷地(組屋敷)に住んでいました。大坂にも町奉行所が置かれ、のちに乱を起こす大塩平八郎も、かつては大坂町奉行所の与力でした。
御家人の家には格付けがあり、代々受け継げる譜代、その中間にあたる二半場、原則として一代限りの抱席の3つに分かれていたとされます。
もっとも抱席も、原則は一代限りとはいえ、実際には子が跡を継ぐことが当たり前になっていった例が多かったとされます。決まりと実態がずれていくのも、江戸時代の身分制度の興味深いところです。

時代劇に出てくる与力とか同心って、御家人のことなの? 同心は町を見回る刑事みたいなイメージなんだけど…。

そう、与力も同心も御家人の代表的な役職なんだ。与力が上役で、同心はその下で実際に町を回ったり、捜査をしたりする役人だよ。
今でいうと、与力が警察署の幹部、同心が現場の警察官ってイメージに近いかな。仕組みはだいぶ違うけど、ざっくりつかむにはちょうどいいたとえだと思う!
📌 補足:御家人の仕事は与力・同心だけではありません。幕府の財政を扱う勘定所や、土木工事を担う普請方など、幕府の事務や実務を支える部署にも、多くの御家人が勤めていたとされます。
ここまでで、身分の軸(将軍に会えるか)が見えてきました。ただ、旗本と御家人の実像をつかむには、それだけでは足りません。次の章では、収入にあたる禄の仕組みを見ていきます。
禄高だけでは身分は決まらない〜知行取と蔵米取の仕組み
禄とは、将軍から家臣に与えられる、暮らしや奉公を支える財源のことです。その規模を禄高と呼び、家に付いて代々受け継がれる禄を家禄といいます。
禄の受け取り方には、大きく2つの種類がありました。1つは、領地を与えられ、そこに住む百姓から年貢を受け取る知行取です。もう1つは、幕府の蔵に集められた年貢米から、決まった量の米を支給される蔵米取です。
知行取の禄高はふつう「石」で、蔵米取の禄高は「俵」などで表されました。旗本には知行取の家も蔵米取の家もあり、人数の割合は時期によって異なります。「旗本=知行取」とは言い切れません。一方、御家人はほとんどが蔵米取でした。
ここで、知行地の石高と、実際に入ってくる米の量を分けて考えてみましょう。石高は、土地の生産力を米の量に換算した基準です。知行取が収入として受け取るのは、その領地から徴収する年貢なので、「2,500石の家なら毎年2,500石の米を受け取る」という意味ではありません。
さらに、その収入から家族や家臣を養い、屋敷の維持や役目に伴う出費も賄いました。禄高は本人が自由に使えるお金の額ではなく、家全体を支える財源の規模なのです。

石と俵って何が違うの? 旗本は石で、御家人は俵なの?

石は米の量をはかる単位で、俵は米を詰めた俵の数で数える単位なんだ。ただ、知行地の「石高」と、支給される米の量は、そのまま同じ意味にはできないよ。
だから、「旗本=石、御家人=俵」と決めつけるのは危ないね。俵で禄をもらう旗本もたくさんいたんだ。まずは、知行取は「領地から年貢を受け取る」、蔵米取は「幕府から米などを支給される」という受け取り方の違いを押さえよう!
そして、ここが大切なポイントです。禄高は、旗本と御家人の間で重なり合っていました。旗本のなかにも禄のごく少ない家があり、御家人のなかにも比較的大きな禄を受けた家があったとされます。
つまり、禄の多い少ないでは旗本と御家人を区別できません。2つを分けたのは、あくまで御目見の有無(身分)なのです。
家禄は、当主が代わっても、原則として家とともに受け継がれました。家督を継ぐとは、家の当主となり、その家名や禄、家を支える責任を引き継ぐことです。実子だけでなく、養子が継ぐ場合もありました。
ただし、旗本の家を継いだからといって、自動的に町奉行や勘定奉行になるわけではありません。家督を継ぐことと、幕府の役職に任命されることは別です。そのため、禄の少ない家の当主が重い役職に就くと、家禄だけでは必要な出費を賄いきれないことがありました。
そこで、役職の基準に足りない分を在職中だけ補う仕組みが設けられました。これは次の章で見ていきます。
旗本・御家人の役職と出世〜役方・番方と足高の制
3つ目の軸は仕事、つまり役職です。身分・家禄・役職は分けて考えると整理しやすいものの、互いに無関係だったわけではありません。就ける役職には身分や家格・家禄が関係し、そのうえで本人の能力や経歴、任命の機会も影響しました。
幕府の役職は、大きく役方と番方に分かれます。役方は行政・財政・裁判などを担う事務方、番方は江戸城や将軍の警備を担う武官のことです。
旗本が就いた役方の代表が、町奉行・勘定奉行などの奉行職や、旗本・御家人の監察にあたる目付です。番方には、書院番や小姓組など、将軍の身辺を守る役職がありました。
一方、御家人は与力・同心のほか、徒歩で将軍の行列を警護する御徒などの役職に就きました。とはいえ、役職の数は旗本・御家人の人数よりずっと少なく、役職に就けない無役の家も多かったとされます。
📌 奉行は役職であって身分ではない:町奉行や勘定奉行は、旗本が任命される役職の名前です。「奉行」という身分があったわけではありません。なお、同じ三奉行でも、寺社奉行は大名が就く役職でした。
では、禄の少ない家の人が、町奉行のような重い役職に就いたらどうなるのでしょうか。役職には相応の格式や出費が求められるため、家の禄だけでは務まらないことがあります。
この問題に応えたのが足高の制です。1723年(享保8年)、徳川吉宗が進めた享保の改革のなかで定められました。
足高の制では、役職ごとに基準となる石高(役高)を定めました。役高は、その役職を務めるための家禄の基準です。家禄が役高に足りない人がその役職に就くと、在職中に限って不足分を支給したのです。
仮に、役高1,000石の役職に家禄300石の人が就いた場合、在職中だけ差の700石が足される、というイメージです。家禄300石に役高1,000石を丸ごと上乗せするのではありません。役職を離れれば足高は止まり、原則として家禄そのものは増えません。
これとは別に、役職に伴って支給される役料・役金などの手当もありました。役高という基準と、実際に支給される足高や手当は区別しておきましょう。
それでも、家の禄が少なくても有能な人材を重い役職に登用しやすくなったことは、幕府にとって大きな意味がありました。

家禄は「家に付いて受け継ぐ禄」、役高は「その役職を務めるための基準」、足高は「基準に足りない分を在職中だけ補うもの」だよ。
「家禄に役高を足す」と考えると間違えやすいから、そこは気をつけてね! 次の章で、小栗忠順と勝海舟の例にあてはめてみよう。
小栗忠順と勝海舟に見る旗本の実像
ここまでの3つの軸(身分・収入・仕事)を、幕末に活躍した2人の人物にあてはめてみましょう。小栗忠順と勝海舟は、どちらも旗本の家を継いだ人物です。同じ旗本でも、家の禄や任される仕事には違いがあったことを見ていきます。
それぞれの詳しい生涯は個別の解説記事に譲り、ここでは3つの軸に関わる部分だけを取り上げます。
小栗忠順〜家禄の大きい旗本の家から、役職で出世
小栗忠順は1827年、江戸の旗本・小栗家に生まれました。小栗家は2,500石の知行を持つ、旗本のなかでも禄の大きな家でした。この2,500石も、領地の石高を示す数字で、小栗本人が自由に使える年収の額ではありません。
家督を継いだのち、小栗は目付・外国奉行・勘定奉行などの役職を歴任していきます。1860年には目付として遣米使節に加わり、アメリカへ渡りました。家を継いで禄を受け継ぐことと、目付などの役目を命じられることは、別の出来事なのです。
遣米使節の記事では、目付として渡米した小栗の仕事を、勘定奉行の記事では、幕府全体のお金や領地を扱う仕事を見ていきます。小栗家の家計と、役職として扱う幕府の財政も、分けて考えると混乱しにくくなります。
勝海舟〜家禄の少ない家から、役職で出世
勝海舟は1823年、江戸の本所で生まれました。父・勝小吉が婿養子に入った勝家は、家禄の少ない旗本の家でした。「貧しいから御家人」というわけではありません。
海舟は家を継いだ当初、役職のない旗本・御家人が属する小普請組に入っていたとされます。つまり出発点は、禄も少なく役職もない「無役」の立場でした。
その後、蘭学の知識を買われて幕府の海軍に関わる役職に就き、軍艦奉行などを務めるようになります。無役だったころとは、任される仕事も、それに伴う待遇も変わっていきました。1868年には、新政府軍との交渉を通じて江戸城無血開城に大きな役割を果たしました。
家から受け継いだ禄は、小栗が大きく、勝は少ない。それでも、2人とも幕府の重要な役職を担うようになりました。同じ旗本でも、家の財源と本人が任された仕事は同じではなかったのです。家禄だけで、役職や在職中の収入まで判断することはできません。

小栗忠順と勝海舟って、どっちも旗本なの? 同じ旗本なのに、どうしてそんなに違うのかしら?

そう、どちらも旗本の家を継いだ人だよ。ここでは「小栗が旗本、勝が御家人」と比べているんじゃなくて、同じ旗本のなかにも違いがあったことを見ているんだ。
家禄は家から受け継ぐもの。一方、役職には家格や家禄も関係するけど、本人の能力や経歴、時代の事情も関わるんだ。家を継いだときの立場と、後に任された仕事を分けてみると、2人の違いがつかみやすいね。

家禄が大きいだけでは、幕府の仕事は動かせない。目付や奉行という役目に就いてこそ、思い切り腕を振るえたんだ。

おれの家は禄が少なくて、はじめは役もなかった。それでも、後には幕府の海軍の仕事を任されるようになった。家の禄だけで人の一生が決まるわけじゃないってことさ。
勝家を「御家人」と記す解説もありますが、大田区立勝海舟記念館は、収蔵資料の調査に基づき、江戸時代中期から後期の勝家を「旗本勝家」と説明しています。この記事も、海舟が継いだ家を旗本の家として扱っています。
父の小吉は男谷家から勝家に婿養子に入り、その勝家を海舟が継ぎました。生まれた家と、養子に入って継ぐ家が違う場合もあるので、「誰が、どの家を継いだか」を確かめることが大切です。
少ない家禄でも旗本であり、家督を継いでもすぐに役職が付くわけではない。勝の出発点は、身分・家禄・役職の違いを考えるうえで分かりやすい例なのです。
苦しくなる旗本・御家人の暮らし〜札差・内職・棄捐令
ここからは、旗本・御家人の暮らし向きを見ていきます。江戸時代の中ごろから、家計に苦しむ旗本・御家人が増えていったとされます。ただし事情は家禄や役職の有無で大きく違い、全員が貧しかったわけではありません。
理由の一つは、禄が米をもとに決められていたことです。商業が発達し、何を買うにもお金が必要な世の中になっても、家禄は原則として増えませんでした。
18世紀後半の田沼意次の時代には、商業がいっそう盛んになります。米の値段に比べてほかの物の値段が高くなれば、米で収入を得る武士の家計はそれだけ苦しくなるのです。
そこで頼ったのが札差です。札差は江戸の蔵前で、旗本・御家人に代わって蔵米を受け取り、お金に換えた商人です。やがて次に支給される蔵米をあてにお金を貸すようにもなり、借金を重ねる家が増えたとされます。
傘張りや植木の栽培などの内職で、収入を補う家もあったと伝えられています。

旗本や御家人って、傘張りの内職をしてたってほんと? 将軍の家臣なのに?

役職のない家は、増えない家禄だけで暮らすしかなかったんだ。だから内職で家計を支える家もあった、とされているよ。
役職に就き、足高や役料などで収入を補える場合もあったよ。ただ、役目に伴う出費も増えるから、役職があれば必ず豊か、とは言い切れないんだ。家の禄と支出、それに役職の有無をあわせて見る必要があるね。
こうした状況に対して、幕府が打ち出した対策が棄捐令です。1789年、老中の松平定信が進めた寛政の改革のなかで出されました。
内容は、札差からの古い借金(1784年以前のもの)を帳消しにし、それより新しい借金は利子を下げて年賦(分割)で返させるものだったとされます。ただ、損をした札差が貸ししぶるようになり、かえってお金を借りにくくなったともいわれています。
その後の天保の改革でも、同じような借金の整理が行われたとされます。とはいえ禄が増えない仕組みは変わらず、根本的な解決にはなりませんでした。
江戸時代の後期には、お金を払って御家人の家を継ぐ権利を手に入れる例があったとされ、これを「御家人株」の売買と呼びます。形のうえでは、買い手が養子として家に入り、家を継ぎました。
これは、養子として家を継ぐ仕組みを利用したものです。ただし、養子相続がすべて株の売買だったわけではありません。「養子に入った」というだけで、お金で身分を買ったと判断しないようにしましょう。
ところで、「御家人」という言葉は鎌倉時代にも登場します。次の章で、2つの違いを整理しておきましょう。
鎌倉時代の御家人とは別物?同じ名前の違いを整理する
「御家人」と聞いて、鎌倉時代を思い浮かべた人もいるかもしれません。教科書では、鎌倉時代と江戸時代の両方に「御家人」が出てきます。ただし、名前は同じでも、指している中身は違います。
鎌倉時代の御家人は、鎌倉幕府の将軍である鎌倉殿と主従関係を結んだ武士のことです。鎌倉殿は領地を保障したり新しい領地を与えたりし(御恩)、御家人は戦いや警備で仕えました(奉公)。この御恩と奉公の関係で結ばれた武士が、有力な武士も含めて御家人と呼ばれたのです。
一方、江戸時代の御家人は、将軍に直接仕える直参のうち、御目見以下の身分を指します。旗本と対になる呼び名で、将軍直属の家臣のなかの「下の層」を表す言葉です。鎌倉時代には、江戸時代のような旗本と御家人の区別はありませんでした。

鎌倉と江戸では、「御家人」の意味が違うの?

鎌倉の御家人は「将軍の家来になった武士全体」、江戸の御家人は「将軍の家来のなかで、将軍に会えない層」。こう言い分けると混ざりにくいよ!
幕末から明治へ〜旗本・御家人はどうなったか
最後に、江戸幕府が終わったあとの旗本・御家人の行方を追ってみましょう。1867年、15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷に返しました。翌1868年には戊辰戦争が始まり、江戸城も新政府軍に明け渡されます。将軍に仕えてきた旗本・御家人の立場は、ここで大きく揺らぎます。
その後の道は、人によってさまざまでした。徳川家が静岡藩(1868年に駿府藩として成立し、翌1869年に改称)の藩主として存続すると、家臣としてそれに従い、静岡へ移った人たちがいたとされます。一方で、新政府に仕える道を選んだ人や、武士をやめて農業や商売を始めた人もいました。
榎本武揚のように、旧幕府の軍艦を率いて箱館まで戦い続けた人もいます。また勝海舟は、徳川家とともに駿府(静岡)へ移ったのち、明治政府にも仕えたとされます。
武士としての収入も、段階を追ってなくなっていきます。1869年の版籍奉還ののち、旧幕臣を含む武士は士族などに編入されたとされます。1871年の廃藩置県で藩がなくなり、1876年の秩禄処分で家禄の支給が打ち切られました。
ここで注意したいのは、秩禄処分で失われたのは「禄の支給」だという点です。士族という呼び名はその後も残りましたが、先祖代々の家禄で暮らす武士の生活は、ここで終わりを迎えたのです。

1603年に開かれた江戸幕府は、1867年の大政奉還まで約260年続いた。そのあいだ将軍を支えてきた旗本・御家人も、明治の改革で禄を失って、家臣団としての役目を終えたんだ。
旗本・御家人の理解を深めるおすすめ本

旗本の暮らしをもっと細かく知りたい人に、おすすめの本を1冊紹介するよ!
『江戸の旗本事典』は、旗本とは何だったのかを、御家人との違い、江戸城での作法、家督相続、昇進と給与、家計といった面から解説した文庫サイズの事典です。
著者の小川恭一さんは、三田村鳶魚の最後の弟子とされています。目次には「旗本八万騎」の実像や「旗本の経済学」といった章が並んでおり、この記事で触れた禄高や役職、暮らしのやりくりを、さらに具体的に確かめられます。
この記事で旗本の禄高や出世の仕組みに興味がわき、家督相続や家計まで詳しく知りたい人。時代小説や時代劇の背景を調べたい大人の読者にも向いています。
432ページの事典形式なので、旗本と御家人の違いだけをさっと確認したい人には重めです。
よくある質問(FAQ)
どちらも将軍に直接仕える1万石未満の家臣(直参)です。将軍に拝謁できる御目見以上が旗本、拝謁できない御目見以下が御家人です。禄高は両者で重なり合っていたため、禄高では区別できません。
格式のうえでは、御目見以上の旗本が上とされます。ただし暮らしは、家禄の規模、役職に伴う足高や手当、家を維持する出費によって違います。旗本が必ず豊かだったわけではありません。
将軍に直接仕える家臣のうち、石高が1万石以上なら大名、1万石未満なら旗本・御家人です。大名は領地(藩)を治めて参勤交代を行い、旗本・御家人は原則として江戸に屋敷を構えて仕えました。
実数ではなく、徳川家の家臣団を指す俗称とされます。18世紀ごろの人数は、旗本がおよそ5,200人、御家人がおよそ17,000人とされ、合わせても8万には届きません。
苦しい家が多かったとされますが、役職の有無で差が大きく、全員が貧しかったわけではありません。幕府は1789年の棄捐令で、札差からの借金の整理を図りました。
幕府が倒れると、徳川家に従って静岡藩(はじめは駿府藩)へ移った人や、新政府に仕えた人などに分かれました。1876年の秩禄処分で家禄の支給が打ち切られ、武士としての収入を失いました。
同じではありません。鎌倉時代の御家人は、鎌倉殿と御恩と奉公の関係で結ばれた武士です。江戸時代の御家人は、直参のうち御目見以下の身分を指します。
まとめ
旗本と御家人の違いは、将軍に拝謁できる御目見以上か以下か、という身分の違いでした。家禄は家に付いて受け継ぐ禄、役職は任命されて担う仕事です。身分・家禄・役職には関わりがありますが、禄高だけで旗本と御家人を区別することはできません。
小栗忠順と勝海舟は、同じ旗本の家を継いだ2人でも、家禄の規模や役職に就くまでの道のりが違いました。また、役高は役職に設定された基準で、家禄にそのまま上乗せする額ではありません。暮らしが苦しくなった旗本・御家人は棄捐令などで救済を受けましたが、明治の秩禄処分で家禄の支給は打ち切られることになります。
-
1603年徳川家康が江戸幕府を開く
-
1723年享保の改革で足高の制が定められる
-
1789年寛政の改革で棄捐令が出される
-
1867年徳川慶喜が大政奉還を行う
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1868年江戸城無血開城
-
1876年秩禄処分で家禄の支給が打ち切られる

以上、旗本と御家人の違いのまとめでした。下の記事で小栗忠順や勝海舟、江戸城無血開城、御恩と奉公もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年10月 / 参照:コトバンク(山川 日本史小辞典・日本大百科全書・世界大百科事典ほか)、Wikipedia日本語版
コトバンク「旗本」「御家人」「足高の制」「棄捐令」「札差」「勝海舟」「小栗忠順」(山川 日本史小辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・百科事典マイペディアほか)(2026年10月確認)
Wikipedia日本語版「旗本」「勝海舟」「小栗忠順」(2026年10月確認)
Historist「石高制」(山川 日本史小辞典)(2026年10月確認)
国立公文書館デジタル展示「旗本御家人」資料一覧・「布衣以上大概順」・「官府御沙汰略記」(2026年10月確認)
大田区立勝海舟記念館企画展「勝家昔日譚」案内・『海舟だより』第3号/大田区「おおた区報」2018年8月1日号特集(2026年10月確認)
港区『港区史 通史編 近世(上)』「旗本・御家人の家禄」(2026年10月確認)
国立国会図書館レファレンス協同データベース「江戸時代の知行取りについて詳しく知りたい」(2026年10月確認)
コトバンク「家督」「足高」(2026年10月確認)
国立国会図書館リサーチ・ナビ「小栗上野介関係文書」(2026年10月確認)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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