浮世絵と言えば「喜多川歌麿」の名を知らない人はいないでしょう。江戸時代を代表する浮世絵師として、国内外で高い評価を得ている歌麿ですが、その生涯は幕府との戦いの連続でした。
この記事では、喜多川歌麿の波乱に満ちた人生と、彼が残した数々の傑作について詳しくご紹介していくね
謎多き生い立ちと修行時代
実は喜多川歌麿のその生い立ちは、多くの謎に包まれていて、わかっていることがほとんどありません・・・。著名な絵師でありながら、生涯に関する確実な文献や史料が驚くほど少ないためです。
一応、生まれは1753年(宝暦3年)で出身は江戸だったのでは?と言われいます。
幼名は市太郎で、のちに勇助(または勇記)と改め、姓はもともと北川でしたが後に喜多川を名乗るようになります。
ちなみに、歌麿っていうのは画名(ペンネーム)みたいなもので本当の名前ではないんだよ。
若き日の歌麿は、妖怪画で知られる鳥山石燕の下で、絵画の修行に励んでいました。幼少期から石燕と交流があったことは確かで、親子関係を指摘する研究者もいます。
1770年、「ちよのはる」という本に使われた挿絵が歌麿のデビュー作となりました。
本格的な浮世絵デビューは1775年で、「四十八手 恋所訳」の表紙絵でした。
喜多川歌麿は、最初から天才だったわけではなくて、地道な修行を続けていたんだね。
蔦屋重三郎との出会い
歌麿の人生を大きく変えたのは、蔦屋重三郎という人物との出会いです。
蔦屋重三郎は江戸時代を代表する有名な出版プロデューサーでした。
遊郭・新吉原に生まれ、20代半ばから吉原のガイドブック「吉原細見」の取り次ぎで利益を上げ、次々と書物や錦絵を企画・刊行して成功を収めた人物です。
1781年、歌麿は蔦屋が出版した黄表紙「身貌大通神略縁起」の挿絵を描きます。これが蔦屋との初めての仕事であり、また「歌麿」の号を初めて使用した作品となりました。
この仕事の後、まもなく歌麿は蔦屋の家に身を寄せることになります。歌麿作品に遊女が多く登場し、女性の繊細なしぐさや表情を捉えた作風が育まれたのも、吉原に精通した蔦屋のもとで過ごしたことが大きな理由でした。
狂歌ブームと画風の確立
喜多川歌麿が活躍した時代は、政治的にも江戸の文化・芸術が花開いた時代でした。
というのも、当時、幕府の政治を取り仕切っていたのがちょうど田沼意次だったからです。
田沼は、幕府財政を立て直すために商業の活性化を目指していて、この政策のおかげで江戸では大衆娯楽の文化が大きく発展したのです。
※田沼意次が政治を取り仕切っていた時代のことを田沼時代と言います。
当時、江戸で大流行していたのは「狂歌」と呼ばれる社会への風刺や皮肉を込めた短歌(五・七・五・七・七)でした。
狂歌は、武士や町人たちの間で大流行し、妓楼や茶屋では狂歌サロンが開かれるほどで、蔦屋重三郎はこの流行に注目。
人気狂歌師だった大田南畝のサロンに歌麿を送り込みます。
このサロンで歌麿は「筆の綾丸」という狂歌名で活動を始め、狂歌絵本の挿絵によってその才覚を開花させ始めます。
苦難の時代と美人画への転換
しかし1786年に田沼意次が失脚し、新たに松平定信が老中になると寛政の改革が始まり、風向きは大きく変わります。
寛政の改革は悪化していた江戸の治安を回復させようとした改革で、福祉政策や規制強化を強く推し進めたものでした。
田沼意次の商業重視の政策や、1782年から起きた天明の大飢饉によって、江戸の風紀は乱れ、打ちこわしが多発するようになっていたんだ。
寛政の改革の魔の手は、出版業界を襲いました。松平定信は、出版統制令という法令を出して、いわゆるエロ本や社会を風刺するような本の出版を禁じたのです。
社会を風刺する狂歌も規制の対象となり、狂歌サロンのメンバーの中にも処罰を受ける者が現れました。大田南畝も幕府の不興を買い、狂歌サロンから身を引くことになります。
1788年、喜多川歌麿の狂歌絵本の代表作「画本虫撰」が刊行されます。
狂歌会でさえ虫の品定めを主題とせざるを得ない状況でしたが、歌麿はその制約を逆手にとり、虫や草花を繊細な描線と色使いで写実的に表現。艶っぽい狂歌に添える絵としても絶妙な作品に仕上げ、高い評価を得ました。
「潮干のつと」も、この時期の傑作として知られています。大田南畝の狂歌に幻想的な海辺の景色や色とりどりの貝を添えた作品で、その繊細な描写は現代でも高く評価されています。
もはや狂歌絵本での活動は難しくなったな…
新しい絵画の道を探りましょう!
歌麿と蔦屋は新たな活路を求めて、美人画の制作に力を入れ始めます。
喜多川歌麿はこの美人画の分野で、その才能を完全に開花させます。
歌麿の作品で特に画期的だったのは、美人大首絵の登場でした。
それまでの美人画は全身像が一般的でしたが、歌麿は女性の表情やしぐさを細部まで描くため、上半身のみを描くバストアップの構図を採用したのです。
1790年代前半に発表された「婦人相学十躰」「婦女人相十品」は、歌麿最盛期の傑作と評されています。背景を排し、雲母摺りによる独特の光沢で女性の肌の質感を表現した斬新な作品でした。
江戸のアイドルをプロデュース!
美人大首絵による成功を収めた歌麿は、当時の水茶屋(今でいうカフェ)ブームに乗って、新しい一手を打ちました。
水茶屋で働く若い女性を題材にした美人大首絵を出版したところ、これが大ヒット!
題材となった女性は、「この美人はどこの店で働いてるんだ!?」と一躍有名人となり、その女性が働くお店は大繁盛したと言われています。
とくに有名なのが「当時(寛政)三美人」という作品で、
・浅草随身門脇の水茶屋の娘「難波屋おきた」
・江戸両国薬研堀の煎餅屋の娘「高島おひさ」
・吉原玉村屋抱えの芸者「富本豊雛」
の3人を描き、江戸中の話題となりました。
歌麿の題材となった女性は一躍大人気になったことから、今でいうアイドルのプロデュースに近いことをしていたんだ。
特におひさとおきたは、歌麿のお気に入りのモデルだったようで、複数の作品に登場します。「高島おひさ」「難波屋おきた」という対作品では、2人の個性的な美しさを対比的に描き分けました。理知的で大人びた表情のおひさと、あどけなさの残るおきたの対照的な魅力が、見る者を惹きつけます。
歌麿と幕府の攻防
ところが幕府は、美人画に芸者や茶屋娘の名前を入れることを禁止する新たな規制を打ち出します。
これに対して歌麿は「判じ絵」という手法で応戦しました。背景に図案を描き込み、「沖」と「田」で「おきた」を表すといった具合に、絵で女性の名前を暗示したのです。
「高名美人六家撰」などの判じ絵シリーズは大好評を博しましたが、1796年には判じ絵自体が禁止されてしまいます。
歌麿は方向を転換し、「婦人手業操鏡」「鮑取り」「女織蚕手業草」など、働く女性を題材とした作品を手がけるようになりました。
中でも「鮑取り」は、海女たちの肉感的な身体と、水に濡れた髪のしなやかさをリアルに描写した傑作として知られています。
たとえ題材を変えても、女性の本質に迫ろうとする歌麿の眼差しは変わることがありませんでした。
最後の抵抗と晩年
1804年、歌麿は豊臣秀吉による醍醐の花見を題材にした大判三枚続の浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」を発表します。しかし、これが幕府の逆鱗に触れることになりました。
作品には、北政所や淀殿ら側室に囲まれて花見酒を楽しむ秀吉の姿が描かれていましたが、幕府はこれを11代将軍・徳川家斉を揶揄するものと解釈。歌麿は手鎖50日の処罰を受けることになります。
この処罰は歌麿に大きな打撃を与えました。心身ともに衰弱し、以前のような反骨精神も影を潜めます。描く題材も古典的人物や年中行事に限られるようになりました。
版元たちは、歌麿の病が重いことを知ると、むしろ競って最後の仕事を依頼したといいます。歌麿は最期まで絵筆を手放すことはありませんでしたが、1806年(文化3年)、54歳でその生涯を閉じました。
海外での評価と影響
喜多川歌麿の作品は、現代では葛飾北斎や歌川広重と並び、海外で最も高い評価を得ている浮世絵の一つです。
しかし、江戸時代には浮世絵はかけそば1杯ほどの値段で買える庶民の娯楽品に過ぎず、木版画が芸術品として評価されることはありませんでした。
明治時代になると、多くの浮世絵が海外に流出します。19世紀後半のパリでは「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームが起こっており、浮世絵は特に人気を集めていました。
歌麿の国際的評価を決定付けたのは、フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールでした。日本美術収集家でもあった彼は、歌麿の作品を高く評価し、「OUTAMARO」(ウタマロ)」という評論を出版。優雅で官能的な遊女を描く繊細な描線や、着物の美しさ、淡い色彩の妙を絶賛しました。春画についても「宗教的にすら見える」と評し、歌麿の名は瞬く間に海外に広まっていきました。
実は現在、歌麿の作品の多くは海外の美術館にあり、特にボストン美術館の『スポルディング・コレクション』には貴重な作品が多く所蔵されています。
スポルディング・コレクションは、約90年もの間、光を遮断した低湿度の環境で完全に管理されていたため、世界最高品質の浮世絵コレクションとして知られています。2006年からデジタル化が進められ、ようやく一般公開されることになりました。
歌麿芸術の本質
歌麿の作品の真髄は、単なる美人画の枠を超えた、女性の内面描写にあります。遊女や江戸の娘たちの表情やしぐさを通じて、その心情や人となりまでも表現しようとした彼の眼差しは、時代や国境を超えて人々の心を捉え続けています。
幕府の規制との戦いの中で、様々な工夫を重ねながら自身の芸術を追求し続けた歌麿。その精神は、現代の芸術家たちにも大きな影響を与えています。
芸術は時として権力と対立することもある。でも、それを乗り越えてこそ、真の表現が生まれるんだね
時代に抗いながらも、決して妥協することなく自らの芸術を追求し続けた喜多川歌麿。その生涯は、芸術家としての矜持と情熱を私たちに伝えているのです。
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