異国船打払令を簡単にわかりやすく解説【制定から廃止までの流れをバッチリ抑える】

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もぐたろう
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今回は、1825年に江戸幕府が制定した異国船打払令いこくせんうちはらいらい無二念打払令むにねんうちはらいれいについて、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 異国船打払令(無二念打払令)ってなに?
  • 異国船打払令(無二念打払令)はなぜつくられたの?
  • 異国船打払令(無二念打払令)はどんな内容だったの?
  • 異国船打払令(無二念打払令)はその後の日本にどんな影響を与えたの?
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異国船打払令(無二念打払令)とは

異国船打払令とは、江戸幕府が公式に「幕府の許可を得ずに入港する外国船は問答無用で撃退する!」ということを決めた法令です。1825年(文政8年)に制定されました。

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異国船打払令(無二念打払令)が制定された時代背景

当時、日本はまだ鎖国中の時代でした。

日本が入港を許していたのはオランダ・中国・朝鮮・琉球王国・アイヌのみでした。

・・・ところが、1800年頃から西洋列強国が新たな植民地を求めて東アジアへ本格進出すると、日本が入港を認めていないロシアやイギリスなどの船が次々と来航するようになり、日本はその対応に迫られました。

無許可で入港する外国船に対してどう対応すべきか・・・、江戸幕府は明確な答えを持ち合わせていませんでした。

その時々の情勢や現場の判断によって時には外国船を追い払い、時には平和的に外国船の要求に応じるという、よく言えば臨機応変、悪く言えば場当たり的な対応に終始していました。

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フェートン号事件

ところが、1808年に起きたフェートン号事件によって、江戸幕府の考え方は大きく変わります。

江戸幕府はイギリス軍艦のフェートン号が長崎に無断入港した際、何も抵抗することができず、ただフェートン号の言いなりになって食糧と薪を渡すことしかできませんでした。

このイギリスとの接触によって、江戸幕府は、イギリスの文明の高さと軍事力の高さ、そして侵略性を予見し、西洋の国々に強い警戒感を持つようになったのです。

日本
日本

イギリスには、これまで会ったことのない底の見えない不気味さを感じる。

こちらが弱みを見せれば、あっという間に日本を飲み込んでしまうに違いない・・・。

弱みを悟られぬよう、外国船に対しては断固とした厳しい対応が必要である!

おまけにフェートン号事件以降も、イギリスやアメリカの船が次々とやってきて、無断入港しようとする船が後を絶ちません。

日本
日本

このまま放っておくと日本が滅茶苦茶になってしまう。なんとか対策を講じなければ・・・!

ついに江戸幕府もいよいよ本腰を上げて、外国船への対応方針を決めることにしました。

こうして1825年に制定されたのが異国船打払令です。

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異国船打払令(無二念打払令)の内容

異国船打払令の内容はとてもシンプル。

無許可で来航した外国船は、問答無用で打ち払う

というものです。

異国船打払令は、無二念むにねん打払令とも呼ぶこともあります。

もぐたろう
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『無二念』っていうのは、『何も考えずに』って意味です。

つまり、『何も考えず、外国船を見つけたらすべて打ち払え』という意味で無二念打払と呼ばれることがあるんだ。

ここで勘違いしやすいのは、異国船打払令の対象が「すべての外国船」ではなく、あくまで「無許可で来航したすベての外国船」という点です。

もともと日本が入港を認めていた中国・朝鮮・琉球・オランダの船は異国船打払令の対象とはならず、日本への入港が認められました。

※ただし、オランダ船は長崎以外への入港が認めれておらず、長崎以外の港に入港しようとした場合は打ち払いの対象とされました。

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異国船打払令(無二念打払令)の影響

異国船打払令は、内容がシンプルすぎるがゆえに複雑な事情に対応できず、日本に大きく2つの問題をもたらす結果となりました。

モリソン号事件

モリソン号事件

1つは、悪意のない外国船であっても、日本に接近しただけで攻撃対象となってしまう点です。

1837年、アメリカ商船のモリソン号が、日本との貿易を求めて、途中で救出した日本人漂流民7人を乗せて日本に接近しました。

・・・が、江戸幕府は異国船打払令に従って、モリソン号を攻撃。

モリソン号はすぐに撤退し、救出された漂流民は日本に戻る術を失ってしまいます。(モリソン号事件

日本人を見殺しにして、しかもアメリカを不用意に刺激するやり方に、江戸幕府への批判が殺到。

1838年には幕府の対応を批判するため、渡辺崋山が『慎機論』、高野長英が『戊戌夢物語』を書きました・・・が、1839年、江戸幕府に逆らった罰として処刑されてしまいます・・・。(蛮社の獄)

西洋諸国が強すぎる件

アヘン戦争

もう一つの問題は、西洋列強国が強すぎて、そもそも日本に勝ち目がない・・・という問題です。

1840年、イギリスと清の間で戦争(アヘン戦争)が始まると、1842年、清はイギリスに敗北します。

日本
日本

えっ、ちょっと待って。清ってアジアで最強の国なんだけど、イギリス強すぎじゃね?

もしイギリス船が日本にやってきても打ち払えるわけがないだろ・・・。っていうか、下手にイギリスを挑発すれば、日本も清国の二の舞になりかねない・・・。

アヘン戦争が終わった1842年、異国船打払令があまりに無謀な政策だったことに気づいた江戸幕府は法令を廃止。

江戸幕府は鎖国政策を緩和して、翌年(1843年)には、遭難して日本にやってきた外国船に限っては食糧や薪を渡すことを認めた「天保の薪水給与令」を制定しました。

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異国船打払令まとめ

  • 異国船打払令は、年々増加していた日本に来航する外国船を阻止するための法令。
  • 異国船打払令には、長年続けていた鎖国政策をより一層強化する狙いがあった。
  • ところが、日本の漂流民が乗ったモリソン号が攻撃されたり、アヘン戦争でイギリスの強さを見せつけられると、異国船打払令が実現困難であることが判明
  • 異国船打払令はアヘン戦争が終わった1842年に廃止。
  • 江戸幕府は鎖国政策を緩め、1843年には天保の薪水給与令を制定する。
もぐたろう
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江戸幕府は鎖国政策に限界を感じるようになりますが、1853年にペリーが来航すると、ついに鎖国をあきらめ、開国を認めることになるんだ。

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確認問題

正解:C.フェートン号事件

正解:A. 無許可の外国船を打ち払う

「全ての外国船」ではなく「無許可の外国船」であることに注意!

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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