今回は、8代将軍の徳川吉宗が行った享保の改革について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
享保の改革とは
享保の改革とは、8代将軍の徳川吉宗(在職1916〜45年)が断行した幕政の大改革のことを言います。
初代〜7代目までの時代も、その時々の社会問題に対応するためにさまざまな改革が行われましたが、吉宗の改革は特に規模が大きかったので、「享保の改革」とネーミングされるようになり、江戸時代の3大改革(享保・寛政・天保)の1つとなったのです。
享保の改革はなぜ行われた?
吉宗が行った改革(享保の改革)は、なぜそれまでの将軍のものより大規模な改革になったの?
改革が大規模となった背景には、吉宗が将軍になった経緯が深く関係しているよ!
前代の7代将軍家継は、わずか8歳(満6歳)で後継者を残さないまま亡くなってしまいました。
当時は、「将軍家が断絶した時は、尾張徳川家か紀伊徳川家から将軍を選ぶこと」というルールが存在していました。
こうした流れで紀伊家から将軍に就任したのが8代将軍の徳川吉宗でした。
つまり、吉宗は悪く言えば吉宗は幕府の部外者、良く言えば幕府としがらみのない人物だったわけです。
だからこそ、前例にとらわれることなく、幕政の抜本的な改革を行うことが可能だったのです。
実際、徳川吉宗は将軍に就任すると、これまで幕政の実権を握っていた間部詮房・新井白石をクビにして正徳の政治を終わらせ、新たに有能な人物を次々と登用していきます。
享保の改革の内容
吉宗が将軍に就任した当時、幕府が直面していた問題は大きく2つあります。
前代(正徳の政治)から続いていた幕府の財政難を克服すること
分家(紀伊家)から将軍になったことを舐められないよう、将軍の権力・権威を高めること
こうした問題に対処するため、次のような政策が打ち出されました。
財政難対策(増税と経費削減)
政策①:上米の制の導入
政策②:定免法の導入、増税、新田開発
政策③:相対済し令の制定
将軍の権力・権威アップ
政策④:公事方御定書の制定
政策⑤:町火消の設置
政策⑥:目安箱、小石川養生所の設置
享保の改革の内容は多岐にわたるので、1つ1つ丁寧に説明してくね!
政策①:上米の制
上米の制は、各地の大名たちに対して実施した臨時増税のことです。
大名の石高に応じて、石高1万石当たり100石を幕府に納める仕組みのことを上米の制と言います。1722年からスタートしました。
要するに、「幕府の財政負担を大名たちにも負わせよう!」と考えたのが、上米の制です。
上米の制は、大名たちからの強い反対が想定されたため、吉宗は上米の制が導入される代わりとして参勤交代における江戸での滞在期間が半減させることにしました。
参勤交代は大変すぎるから、その負担が減るなら上米の制ぐらい全然オッケー!
参勤交代の負担軽減は多くの大名から好意的に受け止められ、上米の制は抵抗を受けることなく導入されることとなりました。
・・・ただ、上米の制は、幕府のメンツを傷付ける制度でもありました。
というのも、幕府と大名は主従関係にあって、幕府の方が上の立場でなければなりません。
それにもかかわらず、その主従関係を象徴する参勤交代の負担が軽減され、さらには幕府が収入の一部を大名に依存するようになってしまったため、幕府の面子は丸潰れとなってしまったのです。
実際、上米によって得られた幕府の収入は、幕府全体の年貢収入の約1割に相当するほどでした。
そのため上米の制はあくまで臨時的なもので、財政立て直しの道筋がつくと、1730年に上米の制を廃止し、参勤交代の負担を元に戻しました。
天下の将軍が大名に頼らないとお金が足りないとは、何たる恥辱!
財政再建の見通しも立ったし、上米の制なんてとっとと廃止だ!
政策②定免法の導入、増税、新田開発
吉宗は、幕府の領地(幕領)の農民たちに課している年貢の税制にも大きなメスを入れました。
定免法の導入
享保の改革以前まで、年貢はその年の収穫高に合わせて年貢を徴収する検見法という手法が用いられていました。
秋の収穫時期になると、役人たちが現地にやってきて収穫高のチェックを行い、その収穫高に税率が掛けられていたのです。
検見法には、凶作時に年貢が急減してしまうという大きな問題がありました。
うーん、検見法だと毎年の年貢高が大きく変わっちゃうから、幕府の予算を組みにくいなぁ・・・。
もう検見法なんてやめちゃって、過去数年間の平均的な収穫高を基準にして、年貢高を決めよう。
そうすれば、凶作時でも安定した収入が見込めるぜ!
検見法には他にも問題があって、収穫高をチェックする役人たちが賄賂を受け取り、その年の収穫高を少なく見積もる不正行為が多発していたんだ。
この吉宗が言う「過去数年間の平均的な収穫高を基準にして年貢高を決める方法」のことを定免法と言います。
検見法を定免法に改めることで、幕府は凶作時にも安定した年貢収入を得ることができたし、役人が賄賂を受け取って収穫高を不正することも難しくなりました。
増税
吉宗は幕府の財政を立て直すため、年貢の増税を断行します。
これまで収穫高の40%が目安とされていた税率を50%まで引き上げました。(四公六民から五公五民へ)
新田開発
吉宗は税率を引き上げるだけではなく、新しい田んぼを増やすことで、税収UPに繋げようとも目論みました。
・・・しかしながら、幕府にはお金がありません。荒地を田んぼに変えるには、大規模な土木工事が必要であり、幕府の財力だけでは実現不可能でした。
そこで吉宗は、金持ち町人たちの力を借りることを考えます。
幕府には金がないから、町人たちに新田開発の費用を出資してもらおう!
いろんな見返りを用意してあるし、町人たちも協力してくれるはず!
吉宗は江戸のど真ん中である日本橋に、「金持ちはどんどん新田開発に出資してくれよな!」っていう高札を出して、出資者を募って新田開発を進めました。
政策③:相対済し令
上米の制や年貢の増税などで収入UPを目指すだけでなく、支出の削減にも努めました。
まずは武士たちに質素倹約を求める倹約令を出し、さらに幕政のスリム化を図りました。
何をスリム化したのかというと、裁判の仕事の一部を廃止したのです。
江戸時代に入ると貨幣が広く流通するようになり、お金をめぐるトラブル(金公事)が増加。
幕府には金公事をめぐる訴えが大量に舞い込むようになり、幕府の裁判機能はパンク。仕事がさばけなくなっていました。
例えば1718年に江戸の街で受け付けた訴訟の数は約3万6000件でしたが、このうち約90%が金公事だったよ。
財政難なのに、これ以上裁判の仕事に人員を割くことはもうできない。
これからはお金のトラブルに関する裁判は原則受け付けないから、自分たちで解決すること!
1719年、吉宗は相対済し令という法令を出して、幕府で金公事を扱うことをやめて、金銭トラブルは当事者たちで解決するよう求めました。
もともと、幕府が処理する裁判は今で言う刑事事件がメインであり、金銭トラブルのような民事事件は、必ずしも幕府がしなきゃいけない仕事ではない・・・と考えられていました。
そのため、経費削減のメスが真っ先に入ったのも金公事をめぐる裁判だったのです。
政策④:公事方御定書の制定
政策①〜③までは主に財政難の話。ここから先は幕府の権威・権力アップに関する政策です。
吉宗は、相対済し令で金公事の裁判業務を廃止しただけでなく、幕府がメインで処理すべき刑事事件の裁判機能アップを図りました。
何をしたかと言うと、裁判に関する多くの法令や訴訟事例をまとめた公事方御定書という本を作成したのです。
公事方御定書があることで、役人のスキルや感情に左右されず公正・公平な裁判を行えるようになり、幕府に対する信頼アップにつながりました。
町火消の設置
江戸の住宅はそのほとんどが木造で密集して建てられていたため、一度火の手が上がるとあっという間に大火災に発展してしまい、大きな社会問題となっていました。
火事は、火の消し忘れ・・・的なものだけではなく、火事場泥棒を狙った放火もかなり多くて、「火事と喧嘩は江戸の花」なんて言葉があるほど、火事は江戸にとって日常茶飯事なことだったんだ。
そのため江戸に住む人々は、日々、火事の恐怖に怯えながら暮らしていました。
もともと江戸には、今でいう消防署的な機能もありましたが、江戸城など重要な場所を守るのがメインの仕事。江戸の街全体の火災に対応することはできませんでした。
さらに人員を増やそうにも、幕府は財政難のため、簡単に人手を増やすこともできません。
幕府で対応しきれないなら、町の人々に手伝ってもらえばいいんじゃね?
吉宗から火災対策を任された町奉行の大岡忠相は、江戸の各町に町火消という組織を結成させ、
さらに数ある町火消を47組(後に48組)にまとめ、組ごとに担当エリアを決めて消防活動を任せることにしました。
この時編成された47組のことを、いろは47組(48組)と呼びます。
いろは47組(48組)は町人によって組織されたため、幕府は財政難の中でもお金をかけることなく火災対策を講じることができました。
町火消は、現在の消防団の前身とも言われているよ。
政策⑥目安箱、小石川養生所の設置
吉宗は将軍のお膝元である江戸の民衆の心を掴むため、火災対策だけでなく福祉政策にも力を入れました。
目安箱を設置して庶民が直接幕府に物申せる体制を整え、さらに貧民を対象に医療を施す小石川養生所を設立します。
享保の改革が幕政に与えた影響
享保の改革は大規模な改革だったため、多方面から幕政に大きな影響を与えることになります。
その中でも特に重要なのが、政策②の年貢の増税に関する政策です。
税率の4公6民から5民5民への引き上げは、農民たちの生活を追い詰めることとなりました。
その結果、享保の改革以降、百姓一揆が頻繁に起こるようになり、幕府は新たな社会問題を抱え込むことになりました。
享保の改革以降、日本の人口も減り始めました。
これは、農民たちが生活に必要な食料を減らすため子どもを産まなくなったためだと言われています。(現代の少子化問題に通ずるところがあるかもしれませんね。)
特に飢饉が起きた時の様子は悲惨なもので、1732年に享保の大飢饉が起こると、百姓一揆が激増。
さらに米不足によって米価格が高騰し、都会(江戸や大阪)に住む人々も、お金のない人たちは米を買うことができなくなりました。
米の問屋は俺たちの足元を見て、高値で米を売り付けているに違いない。儲かってるんだったら、貧しい人たちに手を差し伸べろよな!
こうなったら、心の汚い問屋たちに天誅を下し、力ずくで米を奪ってやんよ!
不満を爆発させた民衆たちは、米問屋を襲撃する打ちこわしを起こしました。
※享保の改革以降、飢饉などが起こると定期的に打ちこわしが起こるようなります。
吉宗は、年貢の増収・仕事のスリム化・福祉政策・火災対策など、多方面の政策を打ち出しました。
・・・しかし、米価格の調整だけはうまくいかず、吉宗を悩ませ続けました。
吉宗は、幕府の権力を使って強引に米価格を抑えつけようとしましたが、もともと商品価格というのは経済の仕組み(需要と供給)によって決まるため、いくら幕府といえども、米価格を幕府の都合の良い価格に無理やり調整することは不可能だったのです。
米価格の安定のためには、米価格だけを見るのではなく金貨・銀貨の流通量やほかの商品の価格など、もっと大きい視点での政策が必要でした。
そして、米だけでなく経済全体をコントロールしようとする動きは、後に行われる田沼意次の政治(1767年〜1786年)によって試みられることになるよ。
享保の改革の年表まとめ
最後に、享保の改革について年表でまとめておきます。
- 1716年徳川吉宗、8代将軍に就任
- 1719年相対済し令
- 1720年いろは47組(48組)設置
- 1721年目安箱の設置
- 1722年足高の制の導入
上米の制の導入
定免法の導入
新田開発の本格化(日本橋に新田開発の高札を掲げる)
小石川養生所の設置 - 1742年公事方御定書の制定
- 1745年吉宗、将軍を辞める(吉宗の息子の徳川家重が9代将軍へ)
コメント